前田家の怪
加賀100万石----------。
現在でも固有名詞として生き続けるこの藩を統治した前田家に一つの怪がある。
加賀藩3代藩主、前田利常の子孫が厠(トイレ)で必ず見るという怨霊で、「かわ姥(うば)」と呼ばれた。はたしてこの「かわ姥」とは誰なのだろうか。
その話は、藩祖・前田利家の4男で3代藩主となった利常に嫁いだ姫君、珠姫にさかのぼる。
珠姫は徳川秀忠の次女で、政略結婚のためにわずか2歳で江戸から金沢の前田家に嫁してきた女性である。だが政略結婚とはいえ、利常と珠姫の夫婦仲は非常に良かったという。
珠姫が前田家に嫁いできたとき、徳川家からはお守役の要員が数多く随員してきた。
そのうちの一人、珠姫の乳母がいた。 名前は残されていない。
この乳母は気位の高い性格であり、彼女には徳川家という「主家」に請われて、「家臣」である前田家に来てやっているという見方があった。 そのため、珠姫の夫である利常に対しては慇懃無礼な態度を取っていた。そのため利常とこの乳母の間は険悪になってゆく。
時として、嫉妬のあまりか珠姫と利常の間を裂こうと策謀したこともあったらしい。とにかくこの乳母は利常に恨まれるようになる。
元和8年、最愛の妻であった珠姫が24歳の若さで世を去る。 16歳から立て続けに8人もの子を産んだ挙句の出来事だった。 そして利常は珠姫が早世した責任がこの乳母にあるとし、彼女を処刑しようと企てた。
利常はよほど彼女が憎かったのであろう、最も残虐な処刑である「蛇責め」の刑とした。
蛇責めの刑は、古代中国の殷の紂王(ちゅうおう) が考案した残忍な刑の一つ、蟇盆(たいぼん)の刑に由来し、樽の中に罪人とともに集めた蛇を入れて蓋をするという刑だ。この樽に酒を入れると、蛇はさらに暴れるという。 秀吉が千利休の妻子に対してこの刑を行っている。
この報せを受けた乳母は脱走を図る。だがあっさり見つかってしまい、残虐な刑を受けるよりはと、自刃して果ててしまった。
怒った利常は乳母を自刃したその姿のまま樽に入れて蛇と酒を注ぎ、固く蓋をして山中に埋めてしまった。身の毛もよだつ話だ。
それからまもなくして利常の8人の子達はトイレに行くたびにこの怨霊を見るようになった。
彼らはこの怨霊(=母の乳母)が誰であるかを判っていた。それだけに、この乳母を恨んでいた利常に彼女を供養してもらうようにお願いすることはできなかった。
しかし、その利常も万治元年10月に亡くなる。 藩主の座は既に利常の孫、綱紀の代になっていた。綱紀もこの「かわ姥」の怨霊をしばしば見ていた一人だった。 そのため、叔父や叔母の悩みに対する理解も早く、利常が亡くなると直ちに「かわ姥」の供養をしようと、墓所を探し始める。 だが、罪人として埋められた彼女の墓所は公にされておらず、捜索に難航する。
ようやく生き残りの老人の証言を得て場所を特定し、発掘してみると、まもなく樽棺が見つかった。
蓋を開けてみると、まるで最近亡くなったかのごとく、腐敗のない遺骸が姿を現したという。
珠姫が死去したのは元和8年(1622)、刑がこの直後に行われたとして、捜索を開始した利常の死、万治元年(1658)年を考えると、単純に考えて死後36年経っている。 恐ろしい話である。
この事実に藩主綱紀は大いに震え上がり、関係者に手紙で連絡を取った。関係者とは、「かわ姥」を見たことがある利常の子供たちである。
広島藩主浅野家に嫁いだ満姫は、利常の次女であったが、綱紀はこの叔母に対しても手紙を書いている。中でも満姫は最も「かわ姥」の怨霊を見た人物だという。満姫は綱紀に写経を送り、懇ろな供養を頼んでいる。自分自身もその写しを手元に置き、死に際しても自ら棺に持って入ったというから、相当怖かったのだろう。
満姫の姉で、利常の長女亀鶴姫は津山藩主森家に嫁いだが、まもなくして亡くなっている。
亀鶴姫は珠姫が16歳のときに生んだ第一子で、前田家はもとより、珠姫の実家である徳川家からも注目された子供だった。「かわ姥」こと、珠姫の乳母が最も認知している子供であるはずだ。
そして、前田家の伝説によれば、利常の子孫は皆この「かわ姥」を見るという。
森家に嫁した亀鶴姫は子供を産むことなく18歳で死去したので森家の子孫に「かわ姥」を見る者は居なかったようだが、亀鶴姫の夫・森忠広は亀鶴姫の死から2年後に怪死している。 忠広は江戸藩邸で軟禁中に病死したとある、しかしこれは公の記録であり、実際は謎のままである。ここまで「かわ姥」の責任にするつもりはないが、何とも不可思議な話である。