戦国時代の石垣をつくった穴太衆(あのうしゅう)のことを取材して書かれた小説である。ガイドとして、各地のお城を訪れることは多いが、石垣を積んだ穴太衆に興味があり、読んでみた。第166回直木賞を受けている。

 結果、穴太衆のみならず、鉄砲鍛冶の国友衆、甲賀衆の活躍を知ることができて面白かった。立花宗茂、京極高次ら、戦国武将たちのことも生き生きと描かれている。終わり方など、民放の二時間ドラマのようにも思われた。

 

 序: 越前、一乗谷に織田軍が攻め寄せてきた時(1573年8月17〜18日)の描写。主人公は父や妹とはぐれ、母に手を引かれ、朝倉家の館に避難しようとするが阻まれる。城下は織田軍の放った火によって炎上している。家族と生き別れ、飛田源斎という男に救われる。この男は城に盾をつくるはずだった者とのこと。主人公の童子は匡介(きょうすけ)という。象嵌職人の息子であった。

 

 第1章: 石工の都: 叡山東側の岩壁で、匡介は岩に石頭を振るっている。彼は、石垣造りの技能集団、穴太衆の飛田屋に属している。その頭は源斎、匡介は副頭で、養子縁組により後継と目されている。穴太衆には三つの技がある: 石を切り出す山方、それを運ぶ荷方で、小組頭の玲次は源斎の甥である。そして積方。匡介はその小組頭である。

 その頃、天下は豊臣秀吉によって統べられ、穴太衆の仕事は激減していた。地震で伏見城の天守が壊れ、その移築が決まった。匡介は仕事をしたかったが、山方と荷方で三ヶ月ずつ修行するよう命じられていた。天下泰平になれば、荷方が重要になるだろうと、山方小組頭の段蔵が言う。

 匡介、流営(石の差配所)に着き、玲次と話す。太閤殿下が、今の世には二人の天下無双がいると言ったという: 本田忠勝立花宗茂である。

 穴太衆は、石の結界を張る道祖神「塞の神」を崇めていた。早死にして親不孝をした子供が石を積み続けさせられる賽の河原の守り神、地蔵菩薩とも目されていた。

 摂津の有岡城の石垣をつくっていた時、匡介が、妹を思いつつ、河原で石を積んでいると源斎が現われたことがあった。穴太衆は城の縄張りを任せられることもあり、機密保守のため、口伝で、紙に記録を残さない。その采配を振るうのが「塞王」であった。匡介は「塞王になる」と口に出して自分に誓ったものであった。

 玲次の統べる荷方は百を超え、その大部分は飛田屋の職人であった。石を運ぶ船には二種類あり、うち一つは潜船という筏を丸太でつなぎ合わせ、その間に縄でくくった石を沈めて運ぶものである。船に乗らないぶんは陸を走らせて運ぶ。匡介もそれに加わった。頭も跡を継ぐ前、山方と荷方に回されたことがあったと聞かされた。

 野面積みで石垣を積むには、まず栗石を敷き詰め、それに飼石を噛ませ、巨石と交互に積み上げる。この栗石敷きだけでも覚えるのに十五年を要する。

 荷方が到着し、飯と水を配られる。匡介の肩はすりむけて腫れ、脚は強張っていた。吐き気だけで食欲がない。八割の荷方が三割の石を走って届けたのだ。

 穴太衆は、先ず三年誰もが積方を習い、甲乙丙に分けられ、甲は積方、乙は山方、丙は荷方となる。ゆえに穴太衆は誰でも石の積み方を知っていた。

 

 第2章: 懸(かかり): 話は14年前に遡る。織田信長が本能寺で明智光秀に襲われた後のこと。明智は全国の大名に味方につくようにという文を出した。だが日野の蒲生氏郷はそれを突っぱねた。その蒲生家から源斎に仕事の依頼がくる。総動員で命を張って突貫工事を行なうことを「懸」と言った。その夜、積方十、山方四十、荷方百十の飛田屋一同が日野に向かって駆ける。甲賀衆が攻めてくる可能性があったから。源斎と匡介は、蒲生父子に会い、死力を尽くすと誓う。守りの薄い北西部分を強化すべく、石垣を梯子状に構築する。作業半ばで甲賀衆が攻めてくる。砲弾と矢の飛び交う中、穴太衆は戦いに巻き込まれることを余儀なくされる。石垣を内側から火薬の爆破によって崩し、和議の交渉に持ち込んだ。

 その後、明智は、中国から取って返してきた羽柴秀吉に山崎で敗れた。匡介は、戦のない泰平の世のために石垣を積みたいと考える。

 

 第3章: 矛楯の業: 伏見城の移築に話は戻る。木幡山全体を要塞化する計画であり、その築城奉行には片桐且元が任命されていた。源斎に全てを任せるためである。

 木幡山に着いた匡介に源斎からの文が手渡される。大津城の修復という新しい仕事を任せる、という指示である。その城主は蛍大名と言われる京極高次であった。

 大津の湊で匡介は、性能の優れた鉄砲鍛冶集団、国友衆を統べる彦九郎(げんくろう)と出会う。匡介と彦九郎は、肥後国で起きた梅北一揆以来の因縁の仲であった。百姓らが占拠した佐敷城の石垣を補修したのが匡介、それを攻撃した島津軍が使ったのが、彦九郎の開発した中筒であった。穴太衆の頭は「塞王」、国友衆の頭は「砲仙」と呼ばれていた。楯と矛である。だが、ともに乱世を終わらせたいと考えていた。自分達の技を一家に託して。

 大津城は、敗れた光秀の坂本城の石垣や建材を用いて造られた。縄張りは源斎が引いた水城であり、伊予丸と奥二の丸という独立できる曲輪をもつ。これをさらに強化せよというのが課題であった。匡介、京極高次に呼ばれて会う。高次は妻の初の快活さと賢さを、さすが総見院様の姪だと自慢する。そして、これまで、できるだけ戦争を避けてきたと話す。改修について、匡介は外堀をすり鉢状にし、暗渠を使って下から上へと水を入れる、と答えた。

 

 第4章: 湖上の城: 大津城の作業現場。百姓の徳三郎。お方様のお初が現場に現われ、昼食を運んできてもらうようになる。お初の侍女、夏帆との対話。木枠による暗渠を埋めていく作業。現場には、城主もしばしば訪れ、士気が上がる。匡介には、石の今、昔、先、三つの顔を見る天分の才があった。水を堰き止める石垣をつくる。それを一気に壊して水を暗渠に導くのである。1598年、その工事は竣工した。

 

 第5章: その年(1598年)、穴太衆は、南山城の土豪、野殿家の石垣、越前の寺の石垣、二つを請け負っていた。そこに太閤死去の報せが入る。秀吉は、源斎に伏見城をより堅くするよう言い遺していた、と。事態に備えて、石を切り出しておく。野面積み、打込み接、切込み接という石の加工法、乱積み、布積みという積み方、鈍角となる鎬隅の説明。匡介は、1598年の正月を美濃大垣の現場で過ごした。秀吉の死後、家臣団は真っ二つに割れて対立している。両派に睨みを利かせていた前田利家が三月三日に没す。太平の世となれば、仕事が減ると見て、穴太衆のうち後藤屋木工兵衛が加賀前田家のお抱えとなる。

 1599年3月、石田三成が七将によって襲撃される事件が起き、仲裁した徳川家康の権力が強まる。その家康暗殺の計画が露見し、前田利長は首謀者と目される。利長は無実だと弁明し、江戸に生母を人質として送ることになる。

 塞王、源斎は伏見城に入り、懸を請け負うことを決意する。

 国友彦九郎が新型火縄銃を開発している。彦九郎の生い立ちと父について。石田三成は国友衆に、内府側に鉄砲を売ることを禁じてくる。そして伏見城攻めの話が国友衆に入る。伏見城には徳川の残した兵二千が籠っており、そこに甲賀衆が加わった。懸として、飛田源斎が入城するという情報もある。

 

 第6章: 太平揺る: 伏見城には家康の忠臣、鳥居元忠が籠城していた。それに対する寄せ手は四万という話もある。銃声が響き渡る。源斎は、板塀の下の石組をより高く組み替え、石垣に狭間をつくったと思われる。撤退する者のうち鉄砲傷を負った者が多いことがそれを物語っていた。源斎は当初からそれを狙って、打込み接を用い、扇の勾配(別名武者返し)をつくり、寄せ手が撃った弾を弾き返させているのだ。だが十日目、甲賀衆(鵜飼藤助)が寝返り、城内に火を放ち、敵を招じ入れた。飛田屋の職人たちは撤退を始めたが、源斎はしかし、雨の中でも撃ってくる鉄砲の正体を見定めるべく居残る。それは火打ち石と回転摩擦を利用した新しい銃であった。源斎はそれによって脛の骨を打ち砕かれたという。伏見城は十三日間の攻撃に耐え、八月一日に陥落した。

 寝返った鵜飼藤助は、日野城の攻防で父を亡くし、塞王に恨みをもっていたようである。つまり、匡介には、国友と甲賀、両方を敵にせねばならないのだ。

 大津城の京極高次は、家康から大津城に残るように言われるが、十万の西軍を敵にして耐えられないのは明白。よって西軍に付くこととした。そして東軍に付いている加賀軍を牽制すべく出陣したという矢先、軍勢を引き返し、大津城に籠城することに変更する。三成が大津での決戦を望んでいると知り、そうなると大津一帯が数十万の大軍に蹂躙されるので、西軍から離反することに決めた。よって、飛田屋に加勢を求めたいと言ってきたのである。

 飛田屋匡介は大津城で懸を請け負うこととなった。すぐに穴太から石材が運び込まれる。兵は早くも押し寄せる。(1600年9月初旬)大津城に籠るのは三千足らず、それに対する寄せ手は四万、しかも、西国無双の立花宗茂が加わっている。

 

 第7章: 蛍と無双: 西軍は降伏を促す使者が来るが、高次はそれをぬらりくらりと躱す。飛田屋の護衛は、もと蒲生家の家臣であった横山久内がすることとなる。匡介とは日野城以来の知己であった。一方、寄せ手の大将、毛利元康は国友衆を軽く見てか、使わない。それを立花宗茂は自分に預けてほしいと申し出る。こうして彦九郎らは宗茂の陣に入る。元康は宗茂に後詰めを申し付けたので、当初は出る幕がない。毛利軍に甲賀衆が加勢し、三の丸になだれ込む。寄せ手はそこに石積み櫓を見る。さながら『三国志演義』の石兵八陣のようにそれが銃火を放つ。

 翌日も西の尾花川口から京極軍が撃って出る。それを押し返すように毛利軍が三の丸へ。だがこの度は石積み櫓からの射撃はなく、そこに仕掛けられた焙烙玉が爆発する。それにより、最初に斬り込んだ甲賀衆がほぼ全滅する。鵜飼藤助も。

 毛利元康は立花宗茂に前衛を託す。宗茂は大津城を丸裸にすると言う。そして徹夜で車竹束をつくらせ、それに黒鍬者を乗せて浜町口へ送り込み、地面を掘って、外堀の水を抜くべく、樋を壊しにかかる。昼過ぎ、地中の木枠が壊され、外堀の水が減っていく。玲次は湖側から、穴太にある石材を供給すると言う。

 翌日は雨もようであるが、立花軍は、国友の新兵器、鋼輪式銃を使い、騎馬隊を送り込む。匡介はそれを見越して、石積みで障子堀を拵える。騎馬は一旦は怯んだが、立花軍の足軽はそれらの石を崩して持ち出していき、夕刻までに石はなくなった。

 

 第8章: 雷の砲: 立花の陣では、飛田屋の石材を気に掛け、それを撃つ手筈を整える。玲次の船は夜半過ぎに戻り、それを彦九郎の新兵器が撃つ。だが、玲次の船にはぐるりと石垣が船縁に積まれている!! 立花軍がそれを阻み、玲次の三隻がそれを突っ切り、水門へ入ることに成功した。

 翌日、立花軍は東西の城門を同時に破る作戦を開始する。だが入ってみると、縄張りが変わっており、先に進めない。寄せ手は引き鉦を打つ。進退極まった寄せ手の合議で、彦九郎は大筒を使うことを提案する。西の長等山から。それは「雷破」という新兵器であった。このままでは決戦に間に合わぬと見た宗茂がその責を追う。

 大筒が設置される。全長約3メートル、弾は約3.9キログラム。砲身は、熱で膨張しにくいよう鍛造されたものである。それは天守の屋根に大穴を開け、瓦を舞い散らせた。砲弾と砲弾の間隔がかなり短かい。六発の間、城内に動揺が広がる。

 砲撃を阻止すべく、長等山へと出撃する一陣がいたが、すべて討ち死にする。城内の民は城門を開けようとしている。匡介はそうさせまいと城門の内側に石を積む。そこに夏帆が現われ、城門を開けさせようとする。

 彦九郎の大筒は、東側にある本丸唯一の城門を狙う。その弾がある親子に当たりそうになったとき、匡介は身を挺して、彼らを救おうとする。その時、衝撃で意識を失い、昏睡状態に陥り、賽の河原で石を積む妹の夢を見る。

 一方、彦九郎の大筒には破損が生じ、補修することになる。その後、大筒を尾花川口に据え、天守を狙うことになる。

 

 第9章: 塞王の楯: 匡介は意識を取り戻す。匡介を救おうとした横山久内が落命していた。亡骸を見にいく。城主に呼ばれる。開城することにしたので、城門に積んだ石垣を除いてくれるな、と言われるが、匡介は城を守り抜こうと答える。伊予丸に石垣をつくって、弾丸を止めるのだ、と。その決定を、高次は天守の高欄から民に説明する。民は納得し、石が船で伊予丸に運ばれる。夜半、高さ8.2メートルの石垣が積まれ始め、払暁に完成する。矛と楯が対峙し、西軍の総攻撃が始まる。野面積みの石垣は頑丈であるが、大筒の威力もすごい。夜になっても応酬は止まない。ある時点から、弾丸は篝火や松明を狙うようになる。暗がりでは作業ができない。城に籠っていた民たちが明かりを届けてくれてなんとか石垣を補修しつづける。弾丸が要石を当たらないようにと祈りつつ。だが、当たってしまい、要石が真っ二つに割れる。だがその時から砲撃が止まる。偶然にも、大筒に不具合が起きたのであった。

 

 終: 飛田屋の頭が棚田の石垣を積んでいる。大津城の攻防から一年後のことである。

 その戦いの結末について: 自死を覚悟していた京極高次に対して、攻城の将たちは全員一致で「京極宰相の戦いぶり、真に見事なり」と一命の赦しが出て、城主は家臣たちとともに高野山へ向かい、匡介たちはそれを見送った。同日、関ヶ原の決戦があり、西国無双らはそれに間に合わなかった。もし間に合わなかったら東軍の勝利は危なかったかもしれないと、家康は高次を評価し、若狭に加増転封となる。

 立花宗茂は、柳川に帰るが、黒田官兵衛や加藤清正に包囲され、改易となり、全国を流浪する[後に徳川に取り立てられて再び大名となり、大阪の陣では徳川方として活躍し、1620年には旧領の柳川藩主に返り咲いた]。

 

 大坂の陣に、穴太衆や国友衆がどう関わったかも知りたい気がした。 

 

 △大津城の縄張り: きむらよしのぶさんのブログより

 

 作家のインタヴュー▽