2019年4月25日「広島平和記念資料館 本館」が、耐震構造も兼ねて、「記憶の博物館」として12年ぶりにリニューアルオープンした(建築は公園全体の設計ともども丹下健三による案: 原爆ドーム、慰霊碑、資料館など、モニュメントを一直線上に配置する ー がコンペで選ばれた。オープンは1955年)。東館は2014年にリニューアルオープンしていた。このたびガイド向けの研修会があったのでメモる。
東館の長いエスカレーターを上がって行くと、まず原爆投下前の、1930年代半ばの広島の写真が並べられている。
次は、被爆2ヵ月後、1945年10月の広島市のパノラマ写真に囲まれている。コンクリートや鉄、石でできたもの以外は跡形もない。その部屋の床には、原爆投下時の広島市を俯瞰するCGがフロアに投影されている。米軍によって空撮されたデルタ地帯に発達した広島の様子に着色されている(半径2.5km)。それが原爆投下により閃光に包まれ、爆風によって破壊される。10秒かからずに市街地が壊滅したことがわかる。このCGは以前の展示に比べるとよりリアルで説得力がある。
渡り廊下の突き当たりには、右手を負傷した少女の写真。そして本館に入って先ず見るのは、8月6日11時当時の写真2枚。この日に撮影されたのはこの2枚のみ。爆心地から2,3kmの様子。黒焦げの赤ん坊を抱く女性など。3000〜4000度により皮膚が焼け落ちた様子。続いてキノコ雲の写真。地上から撮影されたもの(以前は飛行機からの撮影写真であった)。
次は8月6日の惨状について: 市中で 建物疎開の作業をしていた10代前半の生徒たちの衣服が中心に置かれている。写真と、被爆者が描いた絵(NHK広島支局が市民に呼びかけ、5000枚収集したものより)。遺品と家族の手記。銀行の建物の一部である「人影の石」など(花崗岩の石英 quarzo が熱線により人影以外は白色化している)。
黒い雨についての展示。三日間燻っていた市街地の写真。
救護活動の様子。医薬品の展示。原爆投下の三日後、赤十字によりマルセル・ジュノー博士と15tの高価な医薬品が広島にやって来たことについて(広島の恩人ジュノー博士)人々はもっと知るべきだ。
東館に戻る。3階には、核の現実についての展示。マンハッタン計画についてなど。原爆による熱線(3,5kmほど)、爆風、放射線(14万人が年内に他界)について。
核分裂が起きた段階で半径500m以内にいた人は爆発以前に他界した。
2階は広島の復興の歩みについて。1894年、広島には大本営が置かれており、明治天皇も滞在し、国会、行政府など、一時的に首都機能が移されていた。
1階は企画展など、無料で見学できる部分である。
東館地下には被曝資料が保管されている。
なお、今回のリニューアルによって展示から外されたものがある。原爆を受けた人の人形、そして原子爆弾リトルボーイの原寸大模型である。爆心地にいた被ばく者は、リトルボーイを見てはいなかったから。『リトルボーイ』の原寸大模型は収蔵庫保管となり、展示は、縮尺8分の1の模型のみとなった。初代館長、長岡省吾氏の話。
なお、2016年5月23日、オバマ氏が訪れた時、滞在時間は10分ほど、東館ホールのみ。出迎えた小学生二人に英語で挨拶をされて彼らをほめ、自分の折り鶴を彼らに手渡した。特に、禎子さんの折り鶴をじっくりご覧になり、安倍首相とともに署名をなさり、そこにも二羽置かれた。禎子さんの物語については、イタリア人は皆知っていて、公園内の彼女のモニュメントでは皆神妙に祈っている。
研修とは関係ないが、このような動画も知った: アグニュー博士が資料館を訪問。その後でも「私は謝らない。真珠湾がすべてだ」と言い切った。北朝鮮は何をするかわからない、とも。
つまり、広島と原爆のことを知る前に、▽もっと広い視野で全体的な状況を知らねばならない。アメリカは是が非でも原爆の実験をしたかったし、日本の軍部(阿南陸軍大臣麾下)が無謀だったので、それを許してしまったのだ。政府と天皇は降伏を決意していたのに...。ヒロシマがなかったら、日本に北海道はなかったかもしれない。
1.13〜くらいから「花は咲く」の演奏始まります。


