先日読んだ五十嵐太郎の本の中で薦められていたので読んでみた。メモる。
1. 原始住居の復元: 切妻屋根を地上に伏せた形のもの=天地根元宮造。これに対する関野克の説: 四本柱で屋根を支えており、構造は「高殿(たたら)」に似ており、登呂遺跡[弥生時代後期]にも認められる。土器、銅鐸、鏡な描かれた家屋の図があるが、それらは一般家屋ではなかったであろう。竪穴住居は、中世まで行われ、古墳時代までは広く各地で行われていた。
神社建築のうち、神明造や大社造は古墳時代にまで遡るものと考えられる。
土間と高床の問題: 江戸時代には土間の家が一般的であったが、近畿などの先進地帯の貴族住宅に板敷の家が現われた。神社建築は、農業生産物のための高床の倉が重視されて社殿(神の住まい)となったものと考えられる。
どこの国でも住居の始まりは土間で、椅子と寝台ができた。日本にそれが普及しなかったのは、既に床のある貴族の家が存在していたからであろう。
屋根の形には、切妻の真屋と、寄棟の東屋があった。仏教建築では、金堂など重要な建築物には寄棟や入母屋が用いられている。だが当初は、真屋が優位であった。
小屋組は、神明造では棟持柱で棟木が支えられる。合掌/サス造は、斜材のみで棟木を支えるもので、民家にはよく見られる。日本の農家の屋根がサス構造なのはアイヌの場合と同じで、竪穴住居以来の伝統を伝えている可能性がある。そのサスは、四本柱で支えた梁の上に立て掛けられていたものと推測される。
2. 日本建築様式の成立: 椅子と寝台は地面からの湿気を防ぐためであった。ならば、日本に椅子と寝台の生活様式が根付かなかったのはなぜか? 高い床があり、そこに座る習慣があったから。それは稲作とともに南方から伝わった文化ではないか? 日本の住居は、庶民住宅としての竪穴式と、貴族住宅としての高床式の二系統があった。神社建築については、仏教伝来後も、形の精神を伝えるという式年造替により、古い様式が温存された。仏教建築は時代の好尚が入り、古い形が残らなくなった。
両者の違いは、板敷床の有無である。神社では、屋根の形は切妻で、素材は瓦を用いない。神社の形式は、仏教建築伝来以前に成立していたものと思われる。真屋は都の家、東屋は田舎の家。切妻造のマヤの周囲にヒサシがついて、入母屋造の寝殿へと発展した。
伊勢神宮の場合、周囲の森林のボリュームがすごい。神が降臨する環境がみごと。古くは、山、木、岩などの自然が神の憑代とされた。神社は自然そのものであり、その建築素材も、自然のままであった。日本建築は左右対称を重んじない。
仏教建築の塔は釈迦の墓標として中心をなしていたが、その配置構成は早々に破られる。
3. 平安京: 794年に遷都。南北5,3km、東西4,5kmの矩形。北に宮城、中央に朱雀大路(幅85mあり、広場的)、南北九条、東西各四坊の町割。唐の長安に倣ったもの。各坊の広さは一定。(平城京の場合、大路に接する坊は狭くなる。)
平城京には立派な仏教寺院が多々あったが、平安京には東西二寺のみであった。この計画は桓武天皇と和気清麻呂によるもので、寺院を排除し、天皇の権威を高める意図があった。中国の都城は高い城壁で囲まれているが、平安京は高さ4m足らずの塀のようなものであった。各坊も閉じられた空間とはいい難かった。なお、右京(西)は低湿地で都市というより村落であり、朱雀大路は9世紀には田畝に代わった。一方、左京は、鴨川を越えて発展した。
宮城は、南の朱雀門を入ると、儀式場としての正殿、朝堂院[現平安神宮に縮小再現されている]があった。その後ろ、東北側に天皇の住まい、内裏があった。平安京では、朝儀は、大極殿の朝堂院から、内裏の紫宸殿へと移った。1227年の内裏火災後、里内裏に移り、鎌倉時代以降は現在の地に定まった。
貴族の邸宅は方一町(約4500坪)で、9世紀末まで、南に池のある庭を配した左右対称の寝殿造であったが、早々に対称は崩れた。
平安京の羅城門は早々に盗賊と妖怪の住処となり、11世紀末には宮城も荒廃した。
4. 藤原貴族の住生活: 藤原氏歴代の邸宅は東三条殿であったが、12世紀に里内裏となった[現烏丸御池の辺り]。大きさは南北約二町あった。
5. 入母屋造本殿の成立: 中世以前の神社建築はほぼ切妻造であったが、平安時代になると、仏教建築の影響からか、入母屋造の本殿形式が現れる(母家の四辺に庇がついた、滋賀県の御上(みかみ)神社本殿など)。日吉神社の日吉(ひえ)造、両流造の厳島神社や松尾大社なども。これらは、拝殿が本殿化したものと考えられる。
厳島神社の本殿には扉がない。奈良の石上(いそのかみ)神宮は、拝殿のみで本殿がなかった(大正時代につくられたが)。御神体を安置する本殿はもともと祭りに際して仮設されたものであり、それが常設されるようになったから。
6. 鎌倉時代の建築と工匠: 1180年、平重衡の軍が南都に放った火により、東大寺や興福寺が焼失した。そして、東大寺は重源の勧進により特異な天竺様/大仏様(簡素豪快)で、興福寺は和様で、翌年から再建が行われた。工匠は京都の官僚建築家たちが任命されたが、興福寺再建の寺工は奈良建築界の重鎮であり、東大寺は重源の意向により、無名の匠が登用され、新しい様式が取り入れられた。後援者である新興勢力の源頼朝は旧様式に拘らなかったであろう。
7. 和様と宋様: 重源のもたらした宋様を伝える浄土寺: 重源の建てた念仏道場: 型破りの仏堂: 快慶による5,30mの巨像、本尊の阿弥陀三尊立像をおさめる阿弥陀堂。堂の背面は開け放つことができ、阿弥陀像は自然を背景とすることができる。天井を張らない必然から生じた意匠は質実剛健で、東大寺南大門に通じるものがあり、重源のオリジナル性がある。
宋様式による禅宗建築にも、日本的造形が導入された。
母家は仏のための空間で、庇も仏のためだで、儀式は前庭で行われたが、後に庇の下は人間のための空間となった。後に、正堂(仏の座: 金堂)と礼堂(人間の座)を一つ屋根の下におさめ、内陣と外陣に分けられた奥行きのある密教本堂形式が成立した。さらに、庇部分から柱を取り去り、広い空間とした。13世紀末からは、これに宋様の構造美を加えた面白い折衷様が現われ、14世紀に盛んになった。
天井は、奈良時代の仏堂は組入天井が多かったが、上の梁から吊り下げられた格天井が現われた。
8. 金閣と銀閣: 中世の楼閣建築。室町時代には、苔寺の西方寺の舎利殿など、ほかにもあった。足利将軍邸にも観音殿があった。奈良時代からあった塔などの建物は、常時登ることを想定していなかった。日本の楼閣建築の発達は中国における禅宗建築の影響であろう。禅宗の三門の上層は立派な部屋で仏像などが安置され、眺望も楽しめた。金閣も銀閣も最上階は禅宗仏殿風につくられている。→近世の天守閣へ。
金閣寺のある鹿苑寺は、別荘の北山殿を、義満没後に寺としたもの。庭はおそらく西園寺公経公の別荘時代のものであろう。天龍寺の方丈裏の庭園も亀山殿の庭がもとになっている。
その1世紀後、足利義政は東山殿を営んだ。1480年に建立を決め、翌年着工した。義政の死後は慈照寺となった。両者の庭園および構成には大きな差がみられる。北山殿は、王朝文化の名残りをとどめた立派な寝殿造の御殿であった。一方、東山殿は、常御所(日常の居住空間)と会所(表向きの建物)を中心とし、寝殿が建てられず、書院造への発展過程が見られる。義政の書斎、同仁斎には、付書院(硯や筆などの文房具を置いた出文机)と違棚(壺や茶筅、あるいは書物などを置いた)がある。
平安時代の寝殿は、母屋と庇による空間構成であり、それぞれの空間に座す人の身分も違っていた。鎌倉時代にはこの構成が崩れたものが現れ、蔀戸から引違戸へ発展し、角柱が現われる。九間は御鬢所と呼ばれた居間で、間取りがかなり自由になっていく。床の間は押板と呼ばれ、掛軸をかけ、三足具(みつぐそく: 香炉、花瓶、燭台などの工芸品)を置いた板敷空間であった。
床は上段を意味し、畳が敷き詰めになった時、畳の縁で身分差を表せなくなり、畳の高さで身分差を現そうという工夫がうまれた。狭い茶室では、貴人は床に上がった。こうして奥行きの狭かった押板は一畳ぶんの奥行きのある床の間となった。
9. 城と書院: 墨俣一夜城について: 工事は迅速が要求される、規格を統一した組立建築であった。戦国時代、戦乱の永続と拡大により、城郭建築は変化した。その転機となったのが、信長の安土城(外観五層、内部七階の天守と二百坪の御殿よりなる)であった。城は軍事上の要塞というのみならず、居城ともなり、記念建造物となった。ルイス・フロイスは1569年に岐阜城、1579年に安土城に案内され、精巧美麗清浄と讃えている。この絢爛豪華は、秀吉の聚楽第、大阪城、伏見城に受け継がれた。
大阪城は八重の天守。本拠にして、記念建造物であった。だが1598年に秀吉が没すると、城は再び要害施設となる。慶長年間につくられたそのような城の代表は姫路城: 複雑で難攻不落な縄張りをもち、火災に備えた漆喰総塗籠の耐火構造。
今日、城の居住施設はほとんど失われてしまい、二条城二の丸書院くらいしか残っていない。桃山時代の書院造りでは、東南の最良部分を来客用に充てていた。平安時代には、身分が下の者の家に行くことはなかったが、室町時代にはあり、そのための施設として会所が発達した。それが書院造の広間となり、上段の間には床、付け書院、違棚があった。帳台構は納戸構であり、寝所への入口であった。
障壁画: 襖絵: 金の上に強い色彩が描かれた。
欄間: 華やかな彫刻。
襖の引手、長押の飾り金具も豪華になっていった。
江戸期にはしかし、質素倹約が奨励され、茶室建築の流行もあり、飾りは減った。
10. 桂離宮: 江戸時代初期、桂離宮と華美を極めた日光廟、かくも趣きの異なる建築が同時に現われたかについて、和辻哲郎いわく、日光廟のような様式を否定し、その否定を様式としてつくりだそうとする人(八条宮)がいたという印象がある。
日本では、装飾の少ない、簡素な、自然的な風趣のものも古くから好まれてきた。
茶道が盛んになり、草庵風茶室がひろまってから、障壁画を用いない、より自然の美しさが尊重されるようになった。
利休は、にじり口、下地窓、土壁、露地庭など、民家の様式をもつ草庵風茶室を創始し、完成させた。利休のわびは、隠遁者のわびではなく、積極的なものであった。堺の裕福な商人たちは審美眼に優れ、成り上がりの武将たちには屈したくないという気構えがあった。公家衆も政治権力の外にあり、経済的にも裕福ではなかったが、高い教養と洗練された美的感覚をもち、古来の自然愛好の伝統を継承していた。
数寄屋造の成立: 茶室の意匠をとりいれた別邸のための様式。公家たち、商人たちにとって、利休の茶室建築は、洗練された美と映ったはずである。
11. 江戸の防火: 平安朝には火災を恐れ、火色を嫌い、祈祷を以て防いだ。当時は、勢力争いによる放火が多かったと思われる。だが早々に人口百万の大都市となった江戸では、250年のうちに100回ちかくの大火があった。宵越しの金を持たぬ江戸っ子気質はここからきたとも言える。家屋はたいてい草葺か板葺きであったので火のまわりは早く、商家などは防火のために土蔵(倉)をつくり、明暦の大火後、幕府は火除け地や広小路をつくった。町火消しも組織化が図られ、いろは47組が成立し、塗屋造、土蔵造、瓦屋根など、防火建築が奨励された。桟瓦が発明されたのもこの頃である。
12. 平城宮跡の発見: 明治政府は、神仏分離、廃物毀釈の政策を打ち出し、仏教寺院は打撃を受けたが、1872年には古器物保存を布告し、その10年後、保存金を交付する一方、古美術の全国調査を行なった。その中心となったのは九鬼隆一と、アーネスト・フェノロサの教えを受けた岡倉天心であった。これは文化財保存の第一歩となる日本の美術界にとっての重要なできごとであった。
また、伊東忠太は天心による日本美術史体系を参考にして、日本建築史の体系を樹立しようとした。同氏は平安神宮の設計監理を委嘱された。1897年には古社寺保存法が公布され、それと前後して、東京、京都、奈良に博物館ができた。
関野貞は奈良の古社寺建築の実地調査を行ない、修理事業を推進した。そのような多忙の日々の中、奈良の西郊を散策した関野は、1899年1月、足下の「大黒の芝」と呼ばれている場所が「大極殿」の跡地ではないかと思い至る。これが平城宮の発見と調査の発端であり、研究は1905年に完成した。これは1900年1月の奈良新聞で公開され、その保存顕彰を訴え、それを知った植木商の棚田が一生をその遺跡保存に捧げた。1913年、奈良大極殿趾保存会が設立される。寄付金で購入された土地が国に寄付された。そして遺構が水田下に埋没していることが発見された。
13. 建築遺跡調査の発展: それは竪穴住居の発掘調査から始まった。
平城宮の趾地には遺構が埋没していることがわかったが、発掘調査の経験不足からくる危惧と経費的な困難から、発掘調査は実行されなかった。
その後、1928-9年に滋賀県の伝崇福寺、梵釈寺の調査が行われ、続いて1929-31年、大津紫香楽宮の調査が行われた。1930年には平泉毛越寺の発掘調査が行われた。瓶原(みかのはら)国分寺跡の調査も。難波四天王寺の調査も。
新段階といえるのは、1934年に法隆寺保存工事が始まってからである。東院の掘立柱の柱根が発見されたが、それは中門の柱だとわかった。
藤原宮の発掘も行われ、根固め栗石→根石[礎石の下地]が発見され、朝堂院の全貌が明らかになった。
法隆寺の大講堂の修理では、礎石がなくとも、土の肌分かれによって往時の礎石跡を見つけうることがわかった。東院の修理をしながら、掘立柱の立て方もわかった。そして、東院が、斑鳩宮の旧地に建てられたという言い伝えには一理あることが明らかにもなり、伝法堂下から掘立柱穴が発見され、遺跡は奈良時代以前のものであり、蘇我入鹿が斑鳩宮を焼いた(634年)という『日本書紀』の記載に符合することとなった。
戦後はというと、敗戦により、文献的記載や伝承を捨てて、考古学を重視する傾向が起きた。1954年には大阪で難波宮跡が発掘され、1961年、その大極殿の基壇が発見された。長岡宮の大極殿跡も発見された。
14. 平城宮跡の保存: 1968年には国による全域買い上げが行われ、発掘調査のすえ、全容が確認された(30万坪; 京都御所は20万坪)。出土した木簡により、新事実も明らかになった。史跡公園の設立、歴史博物館の創設、庭園の復元などによる平城京史跡公園をつくるのが保存方法の一つである。
決してかたい本ではなく、面白くスラスラ読めてためになった。