ルネッサンス期フィレンツェのメディチ家の重臣のひとりであり、マキャヴェッリの友人であったフランチェスコ・グイッチャルディーニによる本書は、政界を退いてから執筆した全20巻のうちの2巻である。先日読んだモンテーニュが、グイッチャルディーニからは確かなことを知ることができるとあったので、興味をもった。イタリア史という表題は後世の人がつけたものであり、15世紀末以降、彼の同時代史である。

 

<第1巻>

 第1章: 1494年のフランス軍のイタリア侵入以前、1490年頃のイタリアでの勢力関係について。フィレンツェ共和国のロレンツォ・ディ・メディチは、ナポリのアラゴン家と、ミラノ公国と、教皇庁と渡り合って均衡を保とうとしていた。それは野心的に領土拡張を目すヴェネツィア共和国を牽制するためであった。

 第2章: 1492年、ロレンツォ・ディ・メディチが他界。さらに有害極まる悪徳の権化、ボルジア家の教皇アレクサンデル六世が即位する。ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)は同盟国すべての大使は一同揃ってローマに入城すべきと提案するが、ナポリ王により、ピエロ・ディ・メディチがそれに反対したことが明るみにでる。

 第3章: 各同盟国は腹の探ぐりあいを始める。ルドヴィーコ・スフォルツァはナポリ王の動き方[フィレンツェと同盟を結ぶのではないか?]に不安を抱いた。そして、ミラノ公国の住民が自分を憎悪している[つまりアラゴン家のイザベッラを妻とするミラノ公ジャン・ガレアッツォを支持している]ことも知ると、教皇とヴェネツィア共和国との同盟を提案する。双方ともそれについては乗り気ではなかったが、ルドヴィーコの熱意により三者の同盟が成立する。さらにルドヴィーコは、保身のために、フランス王にはナポリ王位継承権があるとして、シャルル八世を焚きつけてナポリ王国へ侵攻させようとする。

 第4章: ナポリ王国について: 13世紀半ば、ローマ教皇がアンジュー家のシャルル[フランス王聖ルイの弟でプロヴァンス伯]に与えた封土[シチリア島を含む]の一部であった。シャルルは2年後にシチリア王として即位し、シャルル二世、ロベール、その姪ジャンヌと引き継がれる。彼女はアンジュー公ルイを養子とするが、王位はドゥラッツォ公シャルルに渡り、その息子ラディズラオが王位を継ぐが梅毒で他界し、姪のジャンヌ二世が女王となる。彼女はアンジュー家に対抗すべく、アラゴン家のアルフォンソを養子とすることに決めたが取り消してプロヴァンス伯ルネを養子とするなど、アラゴン家を怒らせて侵略を受け(1442年)、王権はアラゴン家に渡った。アルフォンソ寛大王の没後、庶子フェルディナンド一世が王位を継いだ。

 シャルル王の宮廷において、ルドヴィーコ・スフォルツァによるフランスのナポリ侵攻を促す演説と、彼に対するフランス貴族たちの不信感と反対論。だが買収された賛成論者もいた。結局、フランス王の南下について、ミラノ公との協定が成立する。

 第5章: フランスのイタリア侵攻が噂となると、ナポリ王は高を括った物言いをしつつ、内心では恐れており、フランスに大使を派遣して王を宥めようと試みる。ミラノ公国をも宥めようとする。ルドヴィーコ・スフォルツァは、神聖ローマ皇帝マクシミリアンに姪を嫁がせ、持参金を約し、ミラノ公として叙任されるよう根回しをする。一方、フランス国王は、教皇、ヴェネツィア、フィレンツェに、ナポリ侵攻の決意を伝え、協力を仰ぐように要請すべく使節を送り込む。教皇とナポリ王の関係が揺らぎ始める。

 第6章: フランス国王、ナポリ王国の大使を追放する。1494年1月末、フェルディナンド一世が他界し[風邪と心労と高齢]、アルフォンソ二世が王位を継ぐ。アルフォンソ二世は教皇を味方にしようと手を尽くす。ルドヴィーコ・スフォルツァに対しても交渉を続ける。フランス王はフィレンツェに、同時に教皇に、協力の意思を明確にするよう迫る。教皇は、ナポリ王権については法的な手続きによる必要があると返答してはぐらかす。フィレンツェには親フランス感情があったが、ピエロ・ディ・メディチはアラゴン家との友情を重視していた。それはフランス王を激怒させ、フィレンツェ大使、銀行員らはフランスから追放される。ヴェネツィアは、トルコの脅威が迫っているので戦争に加わることはできないという立場を明らかにする。

 第7章: 各国は戦争準備を行なう。ナポリ王アルフォンソ二世はルドヴィーコを宥めることを諦め、公然たる敵意を示す。そして、フランス軍がロンバルディアで冬を迎えることを期待しつつ、オスマン・トルコにも使節を送って協力を求める。その間、教皇はナポリの支援を受けてオスティアを占領する。ナポリは、ジェノヴァからの亡命者とも陰謀をめぐらして、ロマーニャに侵攻してアラゴン家の姻戚であるジャン・ガレアッツォを担ぎ、ルドヴィーコを失脚させようと考える。だがコロンナ家は内密にフランス国王と傭兵契約を結んでいた(!)。

 第8章: カラブリア公[ナポリ王の弟]フェデリーコ、ナポリ艦隊を率いてジェノヴァに向かう。だが敵に先手を打たれ、已む無くリヴォルノに入る。ロマーニャへの進軍も緩慢であった。ピエロ・ディ・メディチはアラゴン側への協力態度を鮮明にする。教皇は、フランス王に侵入せぬよう書簡を送り、破門すらも仄めかす。教皇はまた、資金不足で援助できないというスペインへは、十字軍のための資金をこれに使うように言う。ルドヴィーコ・スフォルツァは、フィレンツェをナポリ陣営から離脱させるべく努力する。

 第9章: フランス軍の侵攻について、イタリアには恐怖が渦巻く。フランス王の軍資金は十分ではなかったが、進軍の決意は固かった。宮廷では大胆な反対の動きが起きるが、決行すべきだという意見に王は動かされ、九月、アスティに至る。シャルル八世は肉体的に虚弱で容姿も優れず、無能で、美徳とかけ離れていたとのこと。

 第10章: ナポリ艦隊は兵を上陸させ、ラパッロを占領するも、オルレアン公の軍に敗退した[ナポリ軍の出鼻を挫いた]という報がフランス王のもとに届く。

 第11章: ルドヴィーコ・スフォルツァがアスティに赴き、軍資金を与える。フランス王は天然痘に罹る。フランス軍は、射石砲よりも運搬と設置が容易な鉄の弾丸を飛ばすカノン砲を備えており、それがイタリアを脅かすこととなる。フランス軍の騎兵は王の家臣であり、忠実で優れていたが、イタリア側の兵力は貪欲で身代わりの早い傭兵によって率いられており、秩序だった陣形をとらない。

 第12章: コロンナ家はフランス側についたことを公言すると、教皇はこの一族の館を攻撃させる。ロマーニャでは徐々に戦況が変わり、アラゴン側が劣勢となる。

 第13章: フランス王は快復すると進軍する。パヴィアでは、ルドヴィーコの甥であるミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが[おそらく毒物により]死の床にあった。その死後、ミラノ公の公位はルドヴィーコに与えられる(諮問機関の決定以前に、ローマ皇帝から約束されていた)。フランス王は遠征の続行を躊躇するも続ける。

 第14章: ロレンツォとジョヴァンニ・デ・メディチはフランス王を訪ね、フィレンツェ入りを促す。ピエロ・ディ・メディチがフランス王に敵対したことはフィレンツェ市民から支持されていなかった。八方塞がりとなったピエロはフランス王のもとに赴き、その要求を呑み、ピサ、リヴォルノを含む領内のいくつかの要塞を王に手渡す。ロマーニャにおけるアラゴン軍は弱体化し、陸軍も海軍も撤退する。

 第15章: ピエロが市に無断でフランス王に要塞や港湾を引き渡したことが知れるとフィレンツェ人は激怒し、政庁舎に入ろうとするピエロは阻止される: 彼は反逆者とみなされたのである。ピエロはフィレンツェから遁走する。

 ピサでは、市民がフランス王のところに押しかけ、フィレンツェによる不当な支配を訴える。王は彼らの自由回復に同意する。だがそれに熱狂するのは軽率であった。

 第16章: フランス王、自分に敵対した憎いフィレンツェに接近し、ピエロに対する反乱が収まるのを待ち、ヴェネツィアに匿われているピエロに復帰を促す書簡を送る。そして全軍を率いて征服者として華麗に市内に入城し、支配権を要求するが、交渉は膠着状態を呈す。四人の代表が王と会い、ピエロ・カッポーニの勇気ある態度により、王は要求を撤回し、両者は同盟国となり、協定が結ばれ、大聖堂内で公表された。十日間の滞在後、王は、ナポリ王に与していたシエナに向かう。

 第17章: フランス王は数日間シエナに滞在した後、守備隊を置いて去り、傲慢な態度でローマに向かう。イタリア全体が、フランス王の目的はナポリに限ったものではないのではないかと思い始める。カラブリア公はヴィテルボにてフランス軍がこれ以上南下するのを食い止めようとするが状況が許さず、ローマに入る。シャルルのローマ接近に怯える教皇はフランス王に耳を貸しそうになっている。フランス軍は王のローマ入城の許可を求め、教皇はそれに同意し、カラブリア公の軍隊を去らせ、自らはサンタンジェロ城に籠る。その周囲に大砲が据えられ、交渉が行なわれ、教皇はフランス王の要求を呑み、シャルルにナポリ王国を封土として与える。協定が成立すると教皇はヴァティカンに戻り、シャルルをサン・ピエトロ聖堂に迎える。

 第18章: シャルルはローマに一ヶ月ほど滞在し、その間ナポリは混乱に陥いる。ナポリ人はフランス軍の到来を歓迎する。それを見て恐怖に取り憑かれたアルフォンソ二世は退位し、王位を息子のフェルディナンド二世に譲り、シチリアのマザーラの僧院に籠る。フランス王、アルフォンソの逃亡を知る。

 第19章: 父王アルフォンソの逃亡後、フェルディナンド二世はナポリに入り、サン・ジェルマーノにてフランス軍を迎え撃つべく布陣するも、恐怖に駆られ、カプアに撤退する。だが王妃からの知らせにより、ナポリの混乱を収拾しようと留守にした間にカプアが反乱を起こす。他の都市も彼を受け入れないので、ナポリに戻り、カステル・ヌオヴォで演説する: その内容は立派であり、貴族や重鎮たちを感動させた。そして船に家族を乗せ、イスキア島へ逃れる。

 ナポリ市は征服者に降伏し、フランス王はナポリに入り、歓声で迎えられ、カプアーノ城を宿舎とした。

 

<第Ⅱ巻>

 第1章: その間、ピサでの出来事: ナポリ征服までフランス王はピサを保有するが、税収と司法権はフィレンツェに属すという約束を怠ったため、ピサ人はフィレンツェ人を駆逐し、シエナ、ルッカ、ミラノに支援を求める。フィレンツェはそれに抵抗するゆとりがない。フィレンツェのピサ支配についての告発と、フランチェスコ・ソデリーニによる弁明。フランス王は、フィレンツェから金を受け取っておきながら、ピサの問題を解決する手立てを講じない。

 第2章: フィレンツェではフランス王の出発後、市民集会が開かれ、政権の政体について意見が交わされる。その中には、外国軍の侵攻を予言していたサヴォナローラもいた。[この修道士は市の政治顧問となり、発言力を増していく。]

 第3章: その間、フランス軍はナポリのカステル・ヌオヴォと卵城を占領する。ガエタの砦も然り。フランス王に呼ばれたドン・フェデリーコ[フェルディナンド二世の叔父]は、フェルディナンド二世がフランス王の臣下としてカラブリアを保持するよう求めるが同意されない。フェルディナンド二世はシチリアへ逃れる。また、トルコ皇帝の弟ジェムが教皇からフランス王のもとに渡り、死亡する(毒殺か?)。

 第4章: ルドヴィーコ・スフォルツァによってイタリア半島に引き込まれたフランス軍が容易にナポリを征服すると、ルドヴィーコもヴェネツィアも危険を感じ始めた。フランス王はその動きを既に感じている。そこに、教皇、スペイン(フェルディナンドとイザベッラ)、神聖ローマ皇帝が加わり、対フランス網を張り巡らし、フィレンツェにも働きかける。一方、ナポリ王国内ではフランスの威信が低下し、憎悪が嵩じていき、アラゴン家の復興を望むようになっていく。

 第5章: シャルル王はナポリ王国の征服を完成させてはいなかったが、早々にフランスに戻る気になっていた。自分に対する同盟が結成されたという情報にも動転した。シャルルは残すべき守備隊と撤退に必要な護衛隊を十分には擁していなかった。シャルルがナポリを発つ時、フェルディナンド二世がスペイン軍とともにカラブリアに上陸する。教皇は同盟国側からローマを去るように言われ、オルヴィエート、ペルージャへとフランス王を避ける。

 第6章: ロンバルディアでは、ミラノ公がシャルルに対して安全策を講じ、ヴェネツィアもそれに協力する。アスティにいるオルレアン公をミラノ公は脅迫するが、通用しない。フランスから増援部隊がやってくるもオルレアン公の動きはままならない。

 第7章: シャルルの軍はフィレンツェ市を右手に見ながらピサに向かう。サヴォナローラはポッジポンシにてフランス王と会い、フィレンツェに領土を返還するよう求める。王はピサに着いたら、と答えるが、ピサではピサ人の嘆願にあい、ピサをフィレンツェには渡さないと約束する(二枚舌である)。

 第8章: ヴェネツィアによってギリシアとアルバニアの傭兵による軍隊が編成され、導入される。このヴェネツィア軍は、傭兵隊長のマントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガに率いられている。これとフランス軍はパルマ領のフォルノーヴォで相対する。少数ながらも勇敢に大胆に進軍してくるフランス軍に同盟軍はたじろぐ。そして帰国したいのならば阻止すべきではないと考える。一方、スペイン王の軍は、これはフランス軍を破る絶好の機会だとみなす。フランス王は敵の大軍を目にして躊躇し、交渉にもっていこうと考えるも、交渉の結果を待たない。

 第9章: 両軍の陣営はわずか3マイルを隔てて対峙していた。同盟軍の軽装騎兵がフランスの陣営を襲う。そして雷鳴と稲妻と豪雨。夜明けとともにフランス軍はターロ川を渡る。同時に王は交渉人を送り込むが、話し合いの余地はなく、戦闘が開始される。当初はマントヴァ侯の戦闘精神で同盟軍が勢いづき、フランス王をいっとき危険に晒すも、マントヴァ侯の叔父が落馬し、落命すると、次第にフランス軍が勢いづき、イタリア軍は撤退し始め、フランス軍も撤退を決める。一時間も続かなかった血まみれの戦いにより、イタリア軍は三千以上の兵を失ったが、双方、自分たちの勝利を主張した。そして話し合いが行なわれ、フランス軍は自由通行を求め、翌日そっと出発し、全速力で行軍した。ミラノ軍はノヴァラに大半を割かれ、フォルノーヴォには十分な軍を送ることができなかった。フランス海軍はというとラ・スペツィア、ラパッロを占領するも、艦隊が襲撃されて失い、占領地の守備兵も遁走する。

 第10章: 一方、ナポリ王国内では、アラゴン軍がスペインの援軍を得て半島部に攻め入り、ナポリ市民の熱狂の中、フェルディナンド二世は市内への入城を果たす。他の都市も占領軍に対する反乱を起こし、アドリア海側の港をヴェネツィアが占領する。カステル・ヌオヴォの守備隊は降伏し、卵城も返還され、フランス艦隊は北上し、追撃される。コロンナ家は、傭兵隊の雇い主をフランスからアラゴンに入れ替える(!?)。その間、アラゴン家のアルフォンソ二世がメッシーナで他界する。

 第11章: ミラノは、オルレアン公の拠るノヴァラ包囲に大軍を投入していた。ヴェネツィアも大軍を派遣していた。シャルル八世はノヴァラ救出のため、トリノに移動し、新たに一万の勇猛なスイス人傭兵を徴募する。ルドヴィーコ・スフォルツは教皇を以て、フランス王に高位聖職者を送り、十日以内にイタリアを去るよう通告する[イタリアへの侵攻を頼んだのは先頃のことだったのに・・・]。シャルル八世はトリノでフィレンツェと協定を結び、すべての要塞と領土を返還し、軍資金を受け取る。

 第12章: ノヴァラでは糧秣が底を尽き、窮状を呈す。フランス王とミラノ公は相互に不信感を抱きつつ秘密裡に和平交渉を進めるが、なかなか合意に至らない。ノヴァラにいた兵の大半が餓死する。ノヴァラの放棄について、フランスの王室会議では意見がまとまらない。そうすれば、すべてが水泡に帰すという意見あり、季節が冬に向かっており、軍資金が不足しており、戦争を続行することは向こう見ずな軽率の極みだという意見あり。しかし誰もがフランスへの帰還を望んでいたので、講和が成立した。1495年10月末、シャルル王はまるで敗残者のように帰国する。

 第13章: この時期、フランス人がナポリ病と呼び、イタリア人がフランス病と呼んだ梅毒が出現し、流行した。後々、スペイン人がナポリにもたらしたものであることが明らかになる。コロンブスの航海によってもたらされた病気で、熱帯のユソウボクの樹液によって治癒するという誤った話が広まった。

 

『リコルディ(回想録)』: 人間の事柄には la fortuna (運勢)が影響を与える。/ 受けた恩義の記憶ほどはかないものはない。/ 未来の出来事は多くの偶然に左右される。/ いかに賢い人間でも過ちを犯すものである。/ 野心は非難されるべきものではなく、偉業をなすのは野心的な人々である。だが、権力を求める野心は嫌悪すべきである。/ イタリアの破滅をもたらしたルドヴィーコ・スフォルツァの子孫がミラノ公国を治めることは正義(神)が許さないと信じる。/ 占星術は幻想であるのに、一つの真実を予言すれば信頼を集める。/ 賢人で勇敢な人は少なく、勇敢でないのは賢人の欠陥である。少数の賢人のみが勇敢であり、その他の人は軽率か向こう見ずである。/ 予想外の出来事は、想定内のものよりはるかに我々の心を動かす。/ 名誉を重んずることほど大きなvirtù (徳)はない。/ 「人間の真価は国家の要職に就けば現われる Magistratus virtum ostendit.」という格言は適切である。/ 1494年はルドヴィーコ公の野心と軽率さのためにイタリアを破滅に導いた年であるが、それ以前には戦争の方法は今日とは大いに異なっていた。/ ローマ人を引き合いに出すのは、ロバが競馬のレースに加わろうとするようなものだろう。/ 「糸は最も弱いところで切れる il filo si rompe dal lato più debole.」/ 自由というものを力説する連中を信用するな。人は支配するのを求めてやまないのだから。/ フィレンツェが、自由の満ち溢れた地方で、狭小な領土を確保することは困難であった。/ ほかにもいろいろ。 

 

 訳した末吉先生のあとがきより: グイッチャルディーニはメディチ家の傘下にあったが、政争に巻き込まれることはなく、ピエロ・ディ・メディチが追放されても、サヴォナローラが処刑されても、安泰であった。1494年、シャルル八世が南下した年、グイッチャルディーニは11歳であった。1499年、ルイ十二世がミラノ公国に侵攻した時は16歳であった。イタリアが大国に侵攻された事件はグイッチャルディーニの精神に多大な影響を与えたはずである。

 フィレンツェでは、チェーザレ・ボルジアの脅威の前に1502年、ソデリーニ政権が成立し、そのもとでマキャヴェッリが活躍する。グイッチャルディーニは政治的野心をもつ共和主義者であったが、メディチ家が再び勢力を持つようになるとメディチ家に敵対することはしない。そして、イタリアはカール五世とフランソワ一世の政争に巻き込まれ、ロンバルディアもナポリもカール五世の支配下に入る。その間、メディチ家の教皇クレメンス七世はグイッチャルディーニをロマーニャの総督に任じ、さらにローマに呼んで教皇の補佐官とする。彼は、対カール五世の同盟づくりに奔走し、教皇の総代理人 luogotenete generale となり、ロンバルディアの戦場へと向かう。そして1527年、痛恨の「ローマ劫掠」が起こり、その後、グイッチャルディーニはフィレンツェに引退するが、肩身の狭い思いをしたうえ、反逆罪で裁判にかけられ、ローマに亡命する。カール五世はメディチ家をフィレンツェに返り咲かせるべく、この都市を攻囲し、七ヶ月後に陥落させる。そしてグイッチャルディーニもフィレンツェに戻る(この時、十人委員会の保管してきた文書類をすべて押収して自宅に持ち帰ったと書記が証言している→後の執筆の膨大な史料となるべきものであるが、後にコジモ一世が回収させた)。そして1533年、シニョリーア(共和政権)が廃止され、フィレンツェは公国となり、教皇の息子アレッサンドロ・メディチが公となる[もちろん政治の実験はグイッチャルディーニが握る]。1537年に公が暗殺されると、メディチ傍系のコジモ一世が[おそらくグイッチャルディーニの肝煎りで]公位を継ぐ[さらにカール五世のもとでシエナを併合し、1569年にはトスカーナ大公となる]。

 このように、グイッチャルディーニは共和政フィレンツェ終焉の同時代人、というか関係者であり、1537年から1540年に他界するまでの短期間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの死から、教皇クレメンス七世の死までの激動の時代の歴史、イタリア語で2000頁に及ぶ大作を物したのである。そこには、小国に分断されたイタリアの混迷と災厄、それに関わるフランス、スペイン、オスマントルコの動きが綴られている。

 

 当時の勢力図

 

 

 巻末に『イタリア史』全20巻の総目次が付いているが、グイッチャルディーニの書物の範囲は私の範疇ではないので、このシリーズを読むのはひとまず中止とする。新たな疫病でも流行ったら思い出すとしよう。

 

 フランス王シャルル八世のイタリア侵攻についての事情がよくわかった。スフォルツァ家の人々、アラゴン家の人々、メディチ家の人々、コロンナ家など、傭兵団を動かすイタリアの有力貴族について仔細に知ることができた。誰もがあっちについたり、こっちについたり、利用したり、されたり、この時代、ろくな人物がいなかったのだなと改めて思う。ロレンツォ・ディ・メディチやアルフォンソ・ダラゴーナのような人物がいないと政局は安定しないということも実感できた。グイッチャルディーニの視線は常に醒めて客観的であり、かなり面白かった。いくつかアクセントの位置が違うなど、カタカナ表記が気になった(カラヴリア→カラブリア、ヴィジェヴァーノ→ヴィジェーヴァノなど)が、たいへんな労作である翻訳に感謝する。