先月読んだ多和田葉子氏の本のボルドーの所にちらりと出て来たこの本がちょっと気になっていたので読んでみた。ぜんぶ読むのはしんどそうなので、東大の宮下志朗先生による抄を選んだ。モンテーニュは、人に読ませるためではなく、自分のために書いた、とある。それにしてもあらゆる古典についての碩学である。宮下先生の訳のおかげで読了した。覚えておきたいことをメモる。

 

 悲しみについて: イタリア語の「悲しみ tristezza」には、「悪意」という意味もあり、形容詞は triste のほかに tristo/a (邪な、哀れな、不吉な)もある。子だくさんを自慢したニオベは七人の息子と七人の娘を失い、悲しみのあまり石と化した。それは、自分の力の及ばない出来事におしつぶされて身が凍って身動きできなくなってしまうことを意味する。[私の母がパーキンソン症となったのも、息子=私の弟を失った悲しみによる石化だったのかもしれない。]情熱も然り。予期せぬ喜びも然り。感極まって絶命してしまうことがある。

 われわれの幸福は、死後でなければ判断してはならない: まず、前六世紀のリュディア王クロイソスの話を挙げて、こう戒め、この箴言がソロンのものだとしている。死にざまが全生涯の評判の良し悪しを左右する[「晩節を汚す」という言葉があるものね]。静かに、こっそりと死んでいくことに関心があると言っている。

 一方の得が、他方の損になる: 人の心の奥底を探ってみるならば、心のなかで願っていることの大部分が、他人を犠牲にすることで生まれ、育まれている。自然哲学者によれば、各事物の生誕、発育、増加は、他の事物の変質や腐敗にほかならない。

 みずからの名声は人に分配しないこと: 愚かさの極みは、名声や栄光への関心であり、自分の名誉を分けたり、他人に授けることはめったにみられない。だが、スキピオに従ったラエリウスは、常にスキピオの栄誉を支え、補佐に徹していた。

 匂いについて: アレクサンドロス大王の汗はかぐわしかったとプルタルコスが伝えているようだが、もっともいい状態は無臭である、と。ソクラテスはアテナイで流行っていた疫病に感染しなかった、とも。匂いが精神に働きかけ、浄化瞑想にふさわしい状態にする、とも。宿の臭いに気をつけたというが、我々も、タバコ臭い部屋はまっぴらである[日本のホテルはなぜ全室禁煙にしないのだろう]。

 年齢について: 賢者たちは、一般的に通用する寿命よりも、これをずっと短くみているのではないか。いくら長生きを期待しても、災難により不意にとぎれてしまうものだ。老衰で死ぬのは滅多にない異常で不自然なものである。二十歳くらいになっても、能力のほどの明らかな証拠を見せないような人間は、その後も実際に能力を発揮することはまずない。ルクレティウスいわく、肉体が、年齢という荒波にもまれ、手足の力が奪われていくと、知性は足をひきずり、舌も思考力も、道をはずれて徘徊する。ときには、肉体よりも頭脳が先におとろえる人もずいぶんいる[痛い指摘!!]。

 さまざまの書物について: モンテーニュは自分は記憶力が弱いと言う。無知を自覚することこそ、判断力のもっとも美しく、確実なる証拠なのである、とも。「新しい本には、あまり気が向かない。古典のほうがずっと充実していて、力強いものに思えるからだ」。楽しみに読む本としては、ボッカッチョの『デカメロン』、ラブレーを挙げている。詩においては、ウェルギリウス(特に『農耕詩』)、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスがだんぜん第一級だと思っている。テレンティウスも、心の動きや、人間の性格などを、ありのままに、じつにみごとに描きだしていると思う。後世の詩人たちには精神の力が足りない。

 一方、役立つ書物はプルタルコス(『モラリア』)とセネカ(『書簡集』)にとどめをさす。知識が断片として扱われ、一篇ずつが゛特立しているので。彼らはローマ皇帝の教育係をつとめ、彼らの教えは哲学のエッセンスであり、簡潔にして適切に提示されている。プルタルコスはわれわれを導き、セネカはわれわれを駆り立てる。

 キケロの著作も役立つが、前置きにうんざりして、退屈に感じられる。プラトンの対話篇さえ、まのびしている。キケロの精神の中にはすぐれたものはそれほどなかったという通説に賛成したい。

 歴史家では楽しくてすらすら読めるプルタルコスがいちばんだと言っている。カエサルは、カエサル本人を知るために学ぶ価値があり、完璧で卓越性を備えている。グイッチャルディーニからは同時代のさまざまな事件の真相を、なににもまして正確にしることができるが、人間の精神といとなみについて、道徳や宗教心や良心と関連づけることがいっさいない: グイッチャルディーニの感覚そのものがやや悪徳にそまっていたのではないか、と思ってしまうのである。

 われわれはなにも純粋には味わわない: 「幸福といえども、度をすぎると苦痛になる(セネカ『書簡集』)」「神々は、われわれに純粋で完全な幸福などくれない。なにがしかの不幸と引き替えに買うしかない」「泣くことにはある種の快感がある(オウィディウス『悲しみの歌』)」「真実を求めて、あらゆる状況や結果までかかえこむ人は、選ぶことができなくなる」「もっとも口先たくみな人間が、たいていの場合、なにひとつろくなことができないではないですか」

 なにごとにも季節がある: 「われわれのなかに認める最悪の悪徳とは、われわれの欲望が、たえず若返るということなのだ」「きみは、自分の葬儀が迫っているくせに、大理石を切らせ、墓石のことなど忘れて、家を建てている(ホラティウス『抒情詩集』)」[いい年していまだに何をやっているのかしらという人はけっこういるものだ] モンテーニュは言う、「毎日、自分の持っているものを処分していく」と。老人の学校通いはいけない[とはいえ、老人の慰みのために生涯教育というものがあるのだ。]勉強するのは「よりよく、また、より安んじて、あの世に旅立つためだ」。

 後悔について: 世界では、すべてのものが絶えず揺れ動いている。・・・わたしとしては、存在を描くのではなく、推移を描くのだ。「学識も技術もないくせに、書物をこしらえようなどするのは、たとえば、石もないのに城壁を築こうとするようなことに等しいのではないのか?」[耳が痛い]「邪悪な心というものは、自らの毒のほとんどを吸い込んで、自家中毒におちいる(ストア派のアッタロスの言葉でセネカ『書簡集』にある)」「自分だけにしか見えない私生活をおくる人間は、内面にしっかりした規範をつくっておいて、われわれの行動の試金石としなければならないし・・・」「悔悟の気持ちは、罪のすぐあとをついてくる」「後悔とは、われわれの意志の否認にほかならず、」「名誉に達する捷径とは、名誉のためにすることを、良心によって行なうことかもしれない。」「生来の性質なるもの、それを根絶やしにすることはむずかしく、覆い隠すのがせいぜいである。」[ああ、しんどい。読むのを投げ出したくなる。老いと色欲の減退と能力の低下についてぐだぐだと。]「老いは、顔よりも、精神にたくさんのしわをつけるにちがいない。」「老いは強力な病であり、ごく自然に、気がつかないうちに進行していく[耳が痛い]。」ソクラテスが死刑判決を受け入れたのはすでに古希を迎えていたからだ、という見解である。

 経験について: (我々は)知識を得るのに、理性で足りなければ経験を用いる。最も望ましい法律とは、なるべく数が少なくて、単純で、普遍的なものにほかならない[なら、モンテーニュは知らないはずだけれど、聖徳太子の憲法十七条ですね]。[法律と訴訟についての部分はあまり脳みそのしわに引っかからないわ。]

 アポロンはデルフォイの神殿の玄関に「汝自らを知れ」という言葉を掲げていた。

 ティベリウス帝は「誰でも二十歳を過ぎたならば、健康にいいのか、悪いのかを、自分できちんと確かめて、医者なしで身を処していかねばならない」と言った。健康についての部分は、ほとんど自分の結石について語っている。「いくら医学があるといっても、人間は、老いて、衰弱して、病気になるようにできているのである。」[そして、誰でも必ず死ぬのだ。私はイタリアのヴィエトリ・スル・マーレのホテルマンに言われた: 確かなものは死だけさ、と。]「エピクロスの言にもあるが、何を食べるかよりも、誰と食べるかに気を配らねばならない。」「のんびりしていて、気さくであることは、強く、寛大な心の持ち主にとっては、きわめて名誉でもあるし、よりふさわしいことであるように思われる: 海辺でスキピオが、子供のように無邪気に貝拾いをした?」「楽しみの度合いなるものは、それに対する熱心さ次第でもある。」「人生の持ち分が短くなれば、それに応じて、生を深く、充実したものにしなくてはいけない。」

 モンテーニュの『エセー』第三巻をしめくくる詩: 「ラトナの息子、アポロンよ、私が手にしている幸福を、健康のうちに享受できますように。そしてまた、見苦しく、琴を弾くこともできないような老年を過ごすことがないように、心からお願いいたします。(ホラティウス『頌歌 ode』)」

 

 ミシェル・ド・モンテーニュは1533年、豪商の御曹司としてボルドー近郊のモンテーニュに生まれ、徹底した英才教育を受け、裁判官となり、同僚の知識人エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーと友情を育むが、友は早逝してしまい、メランコリーを募らせる。父の没後、法曹界を離れ、読書三昧に明け暮れた末、『エセー』(随筆)を綴る。さらに大旅行を敢行し、温泉巡りをするが、ボルドーの市長に選ばれて中断を余儀なくされる。だが二期つとめて退官し、人生の模索たる『エセー』の執筆に戻り、59歳で他界した。