第三次マケドニア戦争の名高いピュドナの戦いアエミリウス・パウルス[プルタルコスが伝記(英雄伝4)を書いている]についての記述はほとんど残っていないが、まあローマ史の重要場面ではある。

 

<第25巻>

 1. ストラボンによる断片: ポリュビオスは、ティベリウス・グラックスの活躍と業績を過度に評価している、と批判している[私としては、あの有名なグラックス兄弟の生みの親というだけでも評価されるべきだと思う]。

 2. ポントスの王ファルナケス1世は、カッパドキアアリアラテス4世、シリア王エウメネス2世との戦争が激化したので講和交渉に入り、[前179年]講和が成立し、ポントスはガラティアとパフラゴニアからの撤退を余儀なくされ、捕虜の返還、賠償の支払いなど、多くの譲歩を強いられた。

 3. マケドニア王ペルセウスは、ローマとの友好関係を更新し、多くのギリシア人の期待を集めるような寛容策をとり、生活態度も容姿も好ましいものであった。

 4〜5. ローマが征服した リュキア[小アジア南西部]からの使節は、ロドスからの重圧を訴え、元老院の同情をかい、調停のための使節を送った。ロドスは、シリアの王女ラディオケがマケドニア王ペルセウスに嫁ぐ際、艦隊による護送を行ない、それが反ローマ的だとみなされていた。リュキアはロドスの同盟国にすぎないというローマの使節の主張にロドスは激怒し、ローマはリュキアに騙されていると思い、ローマに使節を送ることにした。ローマには、ダルダニアおよびテッサリアの使節も入り、[ゲルマン系]バスタルナイ人がマケドニアと同盟していることの恐怖を訴えたので、元老院は調査委員を送ることにした。

 

<第26巻>

 1.[前176〜前175年、]ポリュビオスは、シリア王アンティオコス4世を、市井の者と気安く交わることから、エピマネス(気狂い)と呼んでいる。この王は公衆浴場で庶民とともに入浴したと思うと、諸都市で豪華な生贄や供物を捧げたりした。

 

<第27巻>

 1〜2.[前172〜前171年、]ローマに、ボイオティアからの使節が、ボイオティアのすべての都市をローマの裁量に委ねようとやって来た。テバイでは、親ローマ派と親マケドニア派が抗争していたのであるが、親ローマ派が優勢となったのである。マケドニア寄りのボイオティア同盟を粉砕したかったローマの望み通りとなった。

 3. 同じ頃、アシアに送られていたローマの使節団はロドスに滞在し、ロドス人はローマの対マケドニア戦にいつでも協力できるよう40隻の艦隊を手当した。

 4〜5. マケドニア王ペルセウスはギリシアの各都市に書簡を送り、ロドスには使節をも送り、もしもローマがマケドニアを攻撃したら仲介するよう頼んだ。ボイオティアの好意的な都市にも使節を送り、成り行きを傍観するように求めた。

 6.[前171年、]このような状況を知ったローマの元老院は、マケドニアの使節を呼び出して弁明を聞いたが、とっくに戦争遂行を決定していた。

 7. ロドスでは、決然と戦争に参加すべく艦隊を準備していたが、この成り行きに不満な反ローマ派は参戦に反対するよう世論を煽った。

 8〜10. マケドニア王は[テッサリアの]カッリニキノスでの騎兵戦でローマ軍に勝利した後の会議で幕友に助言され、有利に事を運ぶためにローマ側に講和を提示することとした。だが受け取ったのは、ローマに対する無地要件降伏という返事であった。王の幕友らはローマの傲慢さに立腹したが、王は粘り強く交渉を続け、幕友の非難を受けた。一方、カッリニキノスの騎兵戦勝利の報にギリシアではマケドニア王に対する愛着が燃え上がった[判官贔屓のような感情]が、マケドニア王家がギリシアにもたらした難儀を思い出したならばすぐに後悔するだろうとポリュビオスは言う。

 11. ケストロスという新兵器について。

 12. オドリュサイ王国の王子コテュスは冷静で紳士的であった。

 13. キュプロスの総督プトレマイオスの賢明さをポリュビオスが評価。

 14. ロドスは、マケドニア人捕虜を身代金を受けて釈放した。

 15. エペイロスは状況下、マケドニアに味方することを余儀なくされた。

 16. ローマの執政官ホスティリウス・マンキヌスは、エペイロスの奸計により、あやうく敵につかまるところであった。

 17. ポントス王ファルナケスはいかなる王よりも法を侮っていた。

 18. ペルガモンの王弟アッタロスは、兄のエウメネス王のために、アカイアに手紙を送り、兄王の彫像と碑文により王の名誉を取り戻そうとした。

 19. エジプトがコイレー・シリアに対する軍備を整えているのを見たシリア王は、ローマに使節を送って訴えさせた。

 20. ポリュビオスの意見: 多くの人が正しいことを望んでいるが、それに着手する勇気を持つ人は少ない。その結果を遂行する人はさらに稀である。

 

<第28巻>

 1.[前170〜前169年、]エジプト(プトレマイオス6世)とシリア(アンティオコス4世)の間にコイレー・シリアをめぐる第六次シリア戦争が始まる際、双方からの使節がローマにやって来た。シリア側は、エジプト側が正義に反して先に武力に訴えたと主張し、エジプトの使節はローマとの友好のため、マケドニア戦争の和解、シリア側の動向を観察するために来たのであった。

 2. ロドスからの使節がローマに来て、島内に親ローマ派と親マケドニア派があることを釈明し、シケリアから穀物を輸出してもらう許可を得るためであった。

 3〜6. ホスティリウス・マンキヌスは前執政官としてテッサリアで越冬していた時、ローマに対する忠誠を促すよう、ギリシア各地に使節を送った。アカイアでは彼らは反ローマの立場にあるが静観していることを知り、アイトリアには人質を出すよう求めたが、敵意のあることを悟った。アカルナニアでは、ローマ軍の駐屯が歓迎されないことを知った。

 7. [ペルガモンの王弟]アッタロスが、兄王エウメネスの名誉回復のため、アカイアに接近したが、それに反対する人も多かったのであるが、ポリュビオスは、アカイアが名誉撤回を決議したのは、その要求が過大であったからだと演説し、適切なものであれば回復することが決まった[第27巻18参照]。

 8〜9. イリュリアの王ゲンティオスに対して、マケドニア王は友好関係を呼びかける使節を送ったが、物資と資金不足のためにローマと戦争ができないという返事を受けると、再び使節を送ったが、資金の融資をしなかった。

 10. ペルセウス王はローマに対する敗北について幕友ヒッピアス[もとアテナイの僭主であったが追放されていた]を非難した。

 11. [テルモ湾に面した]ヘラクレイオンがローマ軍に占拠された。ローマ軍は3つの歩兵中隊の一つに盾でテストゥド(甲状掩蓋)を作らせた。

 12〜13. マケドニア軍がテッサリアに南下していた時、アカイアの将軍アルコンは全軍でテッサリアに進軍してローマに協力すべきだと議会に提案し、それをローマの執政官クィントゥス・マルキウス・フィリップスに伝える使節としてポリュビオスを任命した。一方、ペルガモンへもエウメネス王の名誉回復を伝える使節を送ることにした。エジプト王プトレマイオス6世にも成人の祝を述べる使節の派遣を決めた。ポリュビオスらは、ローマ軍がヘラクレイオンに下りた時に会見し、アカイア軍参戦の決議を伝えたが、ローマは受け入れつつも、目下その必要はないと伝えたが、ポリュビオスはそこに残り参戦した。そして、エペイロスでアッピウス・クラウディウス・ケントンが援軍を要しているとの報が入ったが、執政官は正当な理由がないと言った。しかし、アカイアに戻ると、すでにその出陣は決議されていたが、元老院令を用いてアカイア同盟を戦争の出費から免れさせた。

 14〜15. クレタでは、キュドニア[現ハニア]人が、瀆神的行為を行ない、アポッロニアを侵略して領有し、イダ山のゼウス神殿を冒涜破壊した。また、キュドニアはゴルティンを恐れていたので、ペルガモンに救援を請い、到着した300人の軍に市門の鍵を委ねた。

 16〜17. ロドス内では政治的対立が激化していたが、反論もある中、ローマとの友好関係を更新しようと、マケドニアのヘラクレイオンにいたクィントゥス・マルキウスに使節を送った。クィントゥスは、コイレー・シリア戦争に関わるシリアを気遣ったからか、ロドスがなぜ和平を仲介しないのかと言った。使節は帰国後、ローマの腹を探りかねたが、シリアとの戦争を調停すべく、エジプトに使節を送った。

 18〜20. シリア王アンティオコス4世は、ペルシアでの戦争を除けば、王の名にふさわしい人[添え名はエピファネス=現人神]であった。[前170〜前169年、]エジプトに進軍したアンティオコス王のもとに、エジプト王の顧問会議は講和を仲介するための使節がギリシアから送り込むこととする。彼らが到着し、シリア王によって友好的に迎え入れられた。使節たちは、宦官エウライオスと、さらには王の親族に責めをなすりつけようとした。これは聞き入れられ、シリア王は自分の立場を主張した。そしてペルシオンからアレクサンドリアへと進む。

 21. 宦官エウライオスはエジプト王プトレマイオス6世に、敵に王国を金で譲り、サモトラケに退くよう諭した。

 22. シリア軍はアレクサンドリアの攻囲を諦めて退き、150タラントを持たせてローマに使節を送った。同日、ロドスから講和のための使節団がアレクサンドリアに入り、アンティオコス王と会う。王は、エジプトの王国は、プトレマイオス6世フィロメトルのものであり、彼がアレクサンドリアに呼び戻されるのを妨げたりはしないと述べた[シリア王の進撃は、シリアの傀儡としたプトレマイオス6世の権利擁護を口実としたものであった]。

 

<第29巻>

 1.[前169〜前168年、]アエミリウス・パウルス[スキピオ・アフリカヌスの外孫にあたる]は、マケドニア戦争の成り行きについて、ローマに居ながらにして批判していることは、国にとっての害になると嘆く。

 2. 元老院はシリア王のエジプト進出はローマにとっての利害にも関わるとして、終戦と調査のために使節団を任命した。

 3〜4. マケドニア王ペルセウスは、イリュリア王ゲンティオス[第28巻8〜9]に戦争資金300タラントを送り、人質を交換して同盟条約を結ぶ。さらにロドスとも同盟条約の締結を交渉するよう命じたので、ゲンティオスは使節を送り出す。ゲンティオスはマケドニアの指示に従い、対ローマ戦の準備をする。ペルセウス王は、[オリュンポス山北側の]ディオンでゲンティオスの使節団と会い、人質の交換などをした。金の授受はペッラで行なうこととし、ロドスへも使節を送る。ペルガモンとシリアにも使節を送り、和平の仲介、それができぬなら援助を求めさせることにした。

 5. ポリュビオスは途方に暮れた: 王たちの間で秘密裡に使節の交換があったことについて詳述することは危険で非難にさらされるであろうと思われたからである。それでも、この戦争について多くの説明困難な経過を説明するにあたり、沈黙することは無為で臆病なことなので要約して述べることに決めた。

 6. ペルガモン王エウメネスの使節とマケドニア王ペルセウスの使節はアンフィポリスで会っている。また、ペルセウスの使節は二度もエウメネスのもとへ行き、ローマ人に疑念を抱かせたので、ローマはエウメネスのローマ入りを阻止し、イタリアから立ち去らせるなど、拒絶的な態度をとったのであった。

 7. エウメネスがペルセウスの勝利を望まず、嫉妬や反感を持っていたが、両者は互いに秘密裡に出し抜こうと陰謀をめぐらせていた。エウメネスは、ローマとマケドニアの講和の可能性があるとすれば、その仲裁をするには自分が最適だと思っていた。

 8. 最も賢い王と最も欲深い王の戦い: 前者は多くの餌を提示するが、後者は自分からの供出を考えるとそれに喰らいつけない。そこで、エウメネスは、自分がローマ側に立って参戦しなかったことについて500タラントを要求し、講和の仲介料として1.500タラントを要求した。ペルセウスは、500タラント以上は出せない、1.500タラントはマケドニア領のサモトラケで仲裁をと言い、結局この話はご破産となった。

 9. ポリュビオスいわく、貪欲は人を愚かにする、と。つまり、エウメネスはこのような取引がローマにバレれば、自分はローマの敵となり、自分の国さえも失いかねないところだったのである。彼は何もせずに、そのような策を弄しただけで、危険を身に招くことになったし、ペルセウスはこの餌を出し惜しみしなければ、エウメネスをローマの敵にすることができ、戦争をせずに済んだのであるが。

 10〜11. ロドスでは討議の上で、マケドニアとローマの講和を仲裁する使節を送ることが決まった。クレタしも使節を送り、友好関係を更新した。/ イリュリアの使節がロドスに入って会議に連なると騒然となったが、結局は和解の仲裁をすることが決まった。

 12. 歴史記述において、小さなことを大袈裟に取り扱ったりして名声を得ようとする場合がある。我々が事件の説明を省いたり簡略化するのを批判するのではなく、適切だとみなしてほしい。

 13. イリュリア王ゲンティオスは昼も夜も泥酔しており、不遜なことをした。

 14. [アエミリウス・パウルスのマケドニア遠征とピュドナの戦いについては断片しかなく、プルタルコスの『英雄伝』を読むしかないので、そうした。アエミリウスが聡明な人格者だと誉められている。娘の飼い犬ペルセウスが死んだことを吉兆と見たエピソードもある。ペルセウスの吝嗇についての件が印象的であった。]将校たちの中で、スキピオ・ナシカ・コルクルム[スキピオ・アフリカヌスの娘婿]が包囲する部隊の指揮官となった。二番目の指揮官はファビウス・マクシムス[執政官の長男だがファビウス家の養子となった]であった。[リウィウスによれば、ピュドナの戦いは前168年6月28日の月食の翌日に行われた。]

 15. [有利な地を占めるマケドニア軍の陣を前に]アエミリウスは動かないでいたところ、クレタ人の脱走兵が、ローマ軍はスキピオ・ナシカの軍が沿岸地帯から回り込み、囲い込む戦術を企てていることをマケドニア側に知らせる。それにより、マケドニア軍はナシカ隊に兵を差し向けて負け、ピュドナに退くこととなる。[それは密集陣形ファランクスに適した平地であった。]

 16. 月食が起きた時、マケドニア軍はそれを王の消滅とみなして士気を失ったが、ローマ軍は、高級幕僚の前法務官スルピキウス・ガッルスの理路整然とした説明によって怯えることなく落ち着いて、月を呼び戻す儀式を行なうことができた。

 17. 執政官アエミリウスはこの戦いで初めて、長槍を立てたマケドニアの方陣ファランクスを目にした。後にこれほど恐ろしく物凄いものを見たことはないと告白している。だが、ペルセウスにはもう戦う勇気が残っていなかった。

 18. マケドニア王は臆病神にとりつかれ、早々に馬で町へと逃げ去った。

 19. マケドニアが敗れると、ローマの元老院は、この戦争の講和のために来ていたロドスの使節を召喚した。使節らはお祝いの言葉を述べると退出した。元老院側の応えは、ロドス人が使節を送ったのはギリシアのためではなくペルセウスを苦境から救うためであったことは明らかだ、というものであった。

 20. アエミリウス・パウルスは、ローマ人に対して、戦勝に有頂天にならないこと、反対の運命に思いを馳せ、敗者に過度な要求をしないこと、と教唆した[さすがはスキピオ・アフリカヌスの孫!! 人間ができているわ]。

 21.[断片]ポリュビオスは、ファレーロンのデメトリオスの言葉が未来を予言していたことを想起させる: 運命の変わりやすさを教えようと、ペルシア帝国を倒したアレクサンドロスのことは、マケドニア人をペルシア人の豊かさの中に植民させていたにすぎないと言ったことは、マケドニア王国の崩壊を予言していたのである、と。

 22. マケドニア戦争が終わり、ペルガモン王エウメネスは自国の安泰を思った途端に、アシアのガラティア人が一斉に蜂起した。

 23〜25.[前169〜前168年の冬、]エジプト王兄弟プトレマイオス6世と、プトレマイオス8世エウエルゲテス2世の使節がペルポネソスにやって来て、[シリアの侵攻に対する]援軍を求めたところ、喧々諤々の議論が行われた。ギリシアがエジプトから受けた好意は多大なものであったが、シリアからはわずかであった。王たちを和解させるという案を唱える者もおり、エジプトへの援助は水泡に帰すこととなった。

 26. シリア王アンティオコスは、対エジプト戦の準備に取り掛かっていた。

 27. [前169〜前168年、]シリア王アンティオコスがペルシウムに進軍した時、エレウシスにローマ軍の司令官ポピリウス・ラエナスが現われ、挨拶しようとする王に元老院決議の書を手渡して読ませ、木の枝で王の周りに円を描いて、その中で回答するようにと告げた。王はポピリウスの不遜な態度に驚いたが、結局、元老院の要求をすべて呑んだ。こうして、シリアはエジプトから手を引くこととなった。ローマはこうして絶望的な状況にあったエジプトを救ったのである。ローマがマケドニアに勝っていなければ、こうしたことは起こらなかったであろうとポリュビオスは言っている。

 

 断片的な文が多いが、マケドニア戦争と東方の様子がよくわかった。

 

 ▽studiarapido.itよりの地図: 前215〜前148年のマケドニア戦争

 

 

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。

 

 ▽プルタルコス英雄伝〈上中下〉 (ちくま学芸文庫) 文庫もあり。岩波のは読みにくいかもしれない。