<第11巻>

 ポリュビオスは序文は有用であると考え、導入的要約を用いるとする。

 1. ハスドルバル[ハンニバルの弟]は(スキピオに敗れた後)、ガリアで冬営し、早春にアルプスを越え、ハンニバルよりも容易かつ迅速にイタリアへ入り、プランケティアからアエミリア街道を進んで行った。ローマ[前207年の執政官は、マルクス・リウィウス・サリナトルガイウス・クラウディウス・ネロ]は不安に駆られつつも、リウィウス麾下の2個師団に追跡させ、ハスドルバルが兄に送った密使を捕らえたネロの軍団は、ハンニバルとの合流を妨げるべく、迎撃するために北上する。ハスドルバルはイベリア人とガリア人を配置して戦うことを余儀なくされた。彼はメタウロ川[ウルビーノ南方をアドリア海へ注ぐ]を戦場とし、象による前線の中央に身を置いた。槍を受けた象隊は混乱し、次第にローマ軍が圧倒した。

 2. この白兵戦でハスドルバルは落命した。なす術がないことを悟った時、捕虜になって生きながらえるのを潔しとせず、敵陣に突っ込んで殺されたのである。ポリュビオスはこの死に様を褒め称えている。

 3. ローマ軍は多くのガリア人を殺し、残りを捕虜として売り、300タラント以上を国庫に入れた。10.000以上のガリア人とカルタゴ人が死に、2.000のローマ人が戦死した。この報せはローマを喜びで満たし、希望と勇気を与えた。

 

 4.[前207年、ギリシアに現れたローマ軍に驚いた国々の使節が、対マケドニアという盟約をローマと結んだアイトリアに対して会議で演説した: ]一度森に火をつければ火事を支配することはできず、風に煽られて燃え広がっていく。戦争もこれと同じである。アイトリア人よ、我々は諸君が戦争をやめ、平和を選ぶことを願っている。

 5. アイトリアはマケドニアに対してギリシアのために戦うのだと主張するが、実際はギリシアの奴隷化と破滅を招こうとしているのだ。それは諸君とローマとの条約が示している。フィリッポス王は口実に過ぎない。諸君は自分以外のすべてのギリシア人を異民族に手渡す条約を締結したのだ。それはオレオスとアイギナの出来事で明らかになった。これは全ギリシア人にとって禍の始まりではなかろうか、と。

 6. つまりローマは、イタリアでの戦争から脱したら、マケドニアに対してアイトリアを援助することを口実として全軍をギリシアに向けるだろう。云々。フィリッポス王の使節は、アイトリアが和平を受諾するならばそれに応じるが、さもなければ、以後に生じることの責任はアイトリアにあると伝えてきた。

 7. マケドニアは、ペルガモンのアッタロス1世を捕らえそびれて不運を嘆いた。そして、アイトリアに侵入し、その聖地テルモスのアポロン神殿に不敬を働いた。

 

 8. 将軍たるもの、歴史を研究して教訓を得ること、経験者の方法論を伝え聞くこと、実践において訓練と経験を重ねること、を心せねばならないが、アカイアでは武具に気を使わず、贅沢な衣装とおしゃれに気をつかっていた。

 9. [前208年秋にアカイア同盟の将軍に選ばれた]フィロポイメンの演説: 武器と武具の輝きは敵を脅えさせる。ならば、衣服にではなく、武器と武具に配慮すべきである。祖国を守ることを決意する者にはそれがふさわしい。

 10. フィロポイメン自身は衣食について質素であり、非難の余地がなく、それゆえに彼の言葉には説得力があり、各都市の代表は、彼が指導者であることに確信を覚えた。会議の後は8ヶ月後の戦争のために、軍隊を組織し、訓練した。

 11. [前207年、スパルタの僭主に対する戦争が起こる]スパルタの僭主マカニダスは、アカイア同盟軍がマンティネイアに集結していることを知ると、ラケダイモン人をテゲアに集めて進軍した。フィロポイメンの布陣について。

 12. フィロポイメンは兵士に激励の言葉をかけたが、彼に対する喝采のために聞き取れなかった。彼は輝かしい自由のために戦うのだと言おうとしたのであるが。まず互いにタラス人の傭兵隊がぶつかった。

 13. 次第にスパルタ側の傭兵軍が優勢になっていったが、これはありがちなことであった。専制君主は傭兵頼みであり、彼らは保身のために戦うのであるから。

 14. だが、その折、指揮官の経験の有無が成功不成功にかかわることが証明される。マカニダスは潰走したアカイア軍を子供のように追いかけ、攻撃すべき正面を疎かにしたからである。

 15. 一方、フィロポイメンは空白となった敵の場所を占拠して追跡する敵の戻りを遮断し、合図があるまで控えるよう指示を出す。逃亡軍を追跡したスパルタ軍はサリッサ(長槍)を捨て、水のない濠へと下っていった。

 16. フィロポイメンの合図とともに、アカイア軍は鬨の声をあげ、濠に下りていたスパルタ軍を敗走させた。これは指導者の機転によって生じた結果であった。

 17. あとはマカニダスの逃亡を阻止することであった。橋がアカイア軍によって守られているのを見たマカニダスは濠に沿って馬を走らせる。

 18. フィロポイメンはマカニダスに直面しようとし、槍で突いて負傷させてから白兵戦で討ち取った。マカニダスの武具は剥がれ、首級は掲げられて、アカイア軍はテゲアまで攻め上り、4.000弱のスパルタ人を殺し、多くの捕虜と戦利品を手にした。

 19a. 勝因と敗因を明らかにしなかったら、戦争の記述は何の役に立つか。

 

 19. 誰がハンニバルの指揮の手腕について称賛しないことがあろうか。16年間にわたり、同族でも単一種族でもない多様な種族からなる軍隊を束ねて、運の良い時も悪い時も、ローマと戦い続けたのである。この指揮官の能力には驚嘆せざるを得ない。

 

 20.[前206年、イベリア半島での状況]ハスドルバル(・ギスコ)は、諸都市から兵を集め、歩兵70.000、騎兵4.000、象32頭でイリパに陣を張った。一方、スキピオの兵力は、歩兵3.000、騎兵500であったが、イベリア兵を加えて、歩兵45.000、騎兵3.000となった。

 21. マゴ(ハンニバルの弟)は、ヌミディアの王マシニッサとともに、スキピオの陣に向かったが、それを予測していたスキピオが隠していた伏兵に攻撃され、結局は退却させられる。その後数日は睨み合いと小競り合いが続いた。

 22. いよいよ決戦の日、スキピオは意外な作戦を立てた。つまり、カルタゴ軍が中央にアフリカ兵を、左右両翼の前に象隊を置いたのを見て、ローマ側はいつもとは逆に、中央にイベリア兵を、両翼にローマ兵を配した。そして夜明けとともに出動したので、敵軍は空腹のままであった。ローマ軍は敵から700m余りのところで、両翼を旋回させてカルタゴ軍の側面を包囲する形となるよう命じられた。

 23. 果たしてそのように、ローマ軍はカルタゴ軍の両側面に回り込んだ。

 24. カルタゴ軍の象隊は混乱に陥り、自軍に被害を与えた。カルタゴ軍がじりじりと後退し始めたとき、雷雨が襲ってきてローマ軍は引いた。

 (リウィウス第28巻: イリパの戦いの後、父と伯父が敗れた前211年の戦いの後、逃げたローマ人を大虐殺したイルルゲイアを攻撃して滅ぼした。)

 24a. カルタゴ軍をイベリアから駆逐した後、皆がスキピオに休息を勧めると、これからはいかにしてカルタゴに戦争を仕掛けるかを考えると答えた。

 スキピオはアフリカに渡り、ソファクス王の晩餐会で話し合いを行ったとき、ハスドルバル・ギスコは、スキピオは戦いよりも会談の時の方が侮り難いと言った。

 25. ローマ軍内部で反乱が起き、スキピオは当惑させられた。外からの陰謀と戦争に対しては備えと救済策があるものの、内から生じた対立や騒動に対して救済は困難である。長期にわたる閑暇や無為は最小限にとどめるべきである。スキピオは軍団司令官を集めると、未払いの給料の支給する保障が必要であり、各都市へは特別税を公然とかつ厳しく取り立てねばならない、と言った。

 26. 軍団司令官は金の調達に専念し、スキピオは35人の首謀者を罰するために出頭させた。内乱の首謀者たちが和解と給料の受け取りに現われた時、スキピオは、彼らを自分の陣地に、晩餐に招くよう命じた。

 27. その35人は食事の直後に逮捕され、鎖でつながれて見張られた。スキピオは彼らの前に姿を現わし、うろたえさせた。

 28. スキピオは演説を始めた。どのような理由で反乱を起こしたのか、どのような不満があったのか、と。

 29. 今よりも事が順調に運んだことがいつあっただろうか? 絶望した場合ならば、敵の側に希望が見えるとも言える。この敵はアンドバレスとマンドニオス兄弟なのか? 彼らはカルタゴを裏切って我々に与し、今再び我々に敵意を示したということを諸君は知らないのか? そのような人々を信じて祖国を裏切るとは結構なことだ。我々に対して犯した過ちに相当する罰を与えることとなる、と。

 30. 裸の首謀者たちは、中央へ引きずり出されて辱められた後、命を奪われた。残りの者たちは、軍団司令官の前でローマに敵対しないと誓った。こうしてスキピオは軍隊に再び規律と秩序を取り戻した。

 31. スキピオは、カルタゴ・ノウァに軍隊を集め、アンドバレスの裏切りについて述べ、カルタゴを追い出したのはローマ人であり、今度の戦争に対する闘争意欲をかき立てた。

 32. 翌日前進し、10日目にイベール川を渡り、4日目に谷を挟んで敵と相対した。イベリア人と軽装兵の小競り合いに続き、騎兵を投入する。スキピオはイベリア人が考えなしに谷へ下りてくるのを見ていた。

 33. 谷に下りている敵には陣地から4部隊を引き出し、一方、ラエリウスは騎兵隊を率いてイベリア騎兵を背後から襲う。谷にいた者たちの大半は倒され、アンドバレスは堅固な要塞へと逃げ込んだ。スキピオは勝利の後、タラッコンに赴き、ローマでの執政官選挙に遅れないよう出航した。

 

 34. シリア王アンティオコス3世について: グレコ・バクトリア王国の王エウテュデモスは、自分がバクトリアの支配権を得た件についてシリア王の使節に弁明し、アンティオコスに自分の地位を認めるよう要請した。シリア王は和解に耳を傾け、娘の一人を彼に与えることとし、同盟を締結した。そして、コーカサスの彼方、インディケーの王との友好条約を更新した。彼の軍隊の象は150頭となる。アンティオコスは、上部太守領、小アシア沿岸部の諸都市、タウロス山脈の手前の国々を服従させた。

 

<第12巻> [はっきり言ってつまらない。他の歴史家の批判ばかり。]

 1. 北アフリカの諸都市と地理についての言及。

 2. ロートスの説明: 形、食べ方、味、酒や酢をつくることなど。

 3. アフリカの肥沃さについて、ティマイオスの無知を批判。家畜のみでなく、エウローパにいない動物、象、ライオン、ヒョウ、カモシカ、ダチョウなどについて。

 コルシカ島について: ティマイオスの言うような野生動物はいない。

 4. コルシカ島の動物は野生のように見えるにすぎない。ティマイオスの調査は不注意でいいかげんである。角笛を用いて飼育しているのだ。

 4a-d. その他、ティマイオスの記述についてのあら探し。シュラクーサイのアレトゥーサの泉の源流はペロポンネソスのアルフェイオス川であり、地下を通って現れるとしているのも無知であり、真理からはずれている。

 5. ロクリスの建設については、アリストテレスの叙述の方がティマイオスのものより信憑性があり、住民もそれに同意している。つまり、先祖の貴族はすべて女性であり、移民団が送り出される前に選ばれた百家の子孫が今でも貴族なのである。

 6. ギリシアのロクリス人との契約はなかったが、シケリア人とは友好関係を結び、この地方の共有を同意しあったが、後にシケリア人を追放した。

 7〜16. ティマイオス批判。歴史は真実であらねばならない。嘘には二つある; 無知に基づくものと、故意のものであり、後者には許しが与えられない。この点で、ティマイオスは第一位の罪人である。ロクリスに関する叙述のほか、例として、ティマイオスによるデモカレス批判、アガトクレスに対する誹謗など。

 16. ロクリスにおけるザレウコス法[最古の成文法]についての事例。

 17〜22. アレクサンドロス大王の戦い方について、彼の従軍歴史家カリステネスエフォロスの記述に対する批判。

 23. カリステネスはアレクサンドロスを神のように敬って書いたが、ティマイオスはティモレオンを崇め、最も有名な英雄たちと比肩しうると確信していた。

 24. ティマイオス批判のまとめ: 他人を批判するときだけは鋭さと豪胆さをもつ。

 25. アクラガスには僭主ファラリスが作らせた青銅の牡牛があった。中に罪人を入れて下から炙ると、絶叫が牛の咆哮のように聞こえるという処刑装置である。これはカルタゴがアクラガスを征服した時、カルタゴに運ばれたが、ティマイオスはそのような話は嘘だと言う。他人を批判することは容易だが、自分の考えを披瀝することは難しい。エフォロスによるレウクトラの戦いマンティネイアの戦いは想像的なものにすぎない。そのようなものは価値がない。机上の学問以外持ち合わせていない人には、事実の生気に溢れたものが欠けている。ホメロスにはそのような生き生きとした描写が数多く見出される。演説を捏造してはならないのだが、ティマイオスは故意に誤った叙述をしている。その例としてエウリュメドンの演説を挙げる。

 26. 戦争と平和について、ホメロスの、そしてエウリピデスの叙述。これらは多分、ティマイオスがヘルモクラテスに言わせている演説であろう。同じ本には、ティモレオンの演説も書かれている。ヒメラ戦争およびペルシア戦争の前にゲロンとコリントスの代表団とのやりとりについて。ティマイオスによって書かれた演説や引用句に心を向ける人は青二才的で、衒学的で、嘘つきである。

 27. ティマイオスの歴史の政治的部分は嘘の連続である。その原因は、尊敬すべき歴史家よりも知識が乏しく無思慮な点である。ティマイオスは、風聞によって学んだ。知の調査は多くの困難と出費を要するが、貴重であり、重要である。

 28. 行動の人が歴史を書くとき、うまくいく。ただひとつの場所にいて、外国人として人生を過ごし、戦争あるいは政治への参加もせず、旅行と観察によって得られる個人的な経験もしないのでは[うまくいかない]。歴史を書くには、事実に個人的に通じている人々に問い合わせ、情報提供してもらうことが重要である。経験のない人はその事実に居合わせた人々に質問する能力がなく、居合わせていたとしても何が起きたかを理解できないのである。[ティマイオスはけちょんけちょんにやられている!!]

 

<第13巻>

 1. アイトリアは相次ぐ戦争と奢侈のために重い負債を負うようになっており、国制を革新する気運が高まり、新しい法が制定されると、最も裕福なアレクサンドロスが、未来も考えるべきだとそれに異議を唱えた。

 2. アイトリアの将軍は、自分が将軍職に就けなかった時、希望をアレクサンドロスに託した。だが、この人の貪欲は飽くことを知らず、金に魂を引き渡した。

 

 3. マケドニア王フィリッポスは、王にふさわしからぬ奸計を企てた。昔の人々は、互いに宣戦布告し、軍隊を配置する場所を告知したものであった。今ではローマ人にのみこのやり方が残っている。

 4. タラスのヘラクレイデスがどういう経緯でフィリッポスの帝国破滅の主犯となるに至ったかについて: この人は最初ハンニバルのもとにいたが、反逆罪で告発されてローマ側に寝返るも怪しまれ追放され、前205年、マケドニアの宮廷に入り、ロドス人を欺いて彼らの兵器庫と艦隊を炎上させ、フィリッポス王の信任を得た。

 5. クレタ人はマケドニア王とヘラクレイデスに疑念を抱いていたが、ヘラクレイデスは自分がマケドニアに逃げた理由を弁明し、疑念をはらした。 

 6. スパルタの僭主となったナビス(前206年〜)は、王家の人々を根絶し、傑出した人々を追放し、彼のもとに集まってきたならず者を親衛隊として用いた。追放された人々の大部分は殺された。

 7. ナビスがつくり、やはり邪悪な妻の名前をつけたアペーガという殺人機械について。胸や腕に鉄釘が生えた立像で、金を出すのを拒んだ人を抱きしめて殺した。

 8. ナビスは、追い剥ぎ、殺人、窃盗など、ペロポンネソス全域に及ぶ悪事にかかわった。

 

 9. カッティニアの住民、ゲライアの住民(ゲライオイ)は、アンティオコス王に贈り物をして自由を認めてもらった。

 10. 地理学的情報の断片。

 

 次の巻は面白そうだ。

 

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。