<第9巻>

 1〜2. ポリュビオスは読者を惹きつけ楽しませるためではなく、事実を記すこと、出来事の歴史を書くことに徹していると改めて述べている。

 

 3. 前211年、ハンニバルは春になるとカンパニアへ進軍し、アッピウス・クラウディウス・プルケルの陣地を包囲する。ローマ軍は合戦に応じず、ハンニバルを困惑させる。カルタゴの勝因は騎兵組織にあると両者は観ていた。

 4. カプアをめぐって、ローマ軍はカルタゴの騎兵を恐れて出撃する勇気を持てず、カルタゴ軍は馬の飼料不足のためにそこに長期間留まることはできなかった。さらに新しい執政官(グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス・マクシムスプブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス)がやって来て攻囲が困難になると考え、計画を変更する。すなわちローマへの進軍である。

 5. そしてあるアフリカ人に、ローマへ進軍するので勇敢にローマに抵抗するようにというカプアへの手紙を託した。一方、ローマではカプアへの援軍に関心が集まった。その間、ハンニバルは強行軍によりローマに接近する。

 6. ハンニバル接近の報はローマを混乱と恐怖に陥れた。だが、ハンニバルが翌日にローマへの攻撃を仕掛けようとした時、幸運が起きる。二人の新しい執政官がローマに兵を集めていたのである。彼らは自信満々に出陣し、ハンニバルの進撃を食い止めた。攻撃を断念したカルタゴ軍は付近を荒らして略奪した。

 7. ローマ軍はアニオ川の橋を壊し、渡河中のカルタゴ軍を襲った。ハンニバルはなるべく早くカプアに戻ろうと行軍を急いだが、5日後に、アッピウスがカプアの攻囲を続けていることを知ると、夜間に待ち伏せてローマの陣営を襲い、多くの兵を殺害した。そして翌日は、ローマ軍を尻目に行軍を南下させ、ダウニア(プーリアの北部)とブルッティア(ルカニア=バジリカータのこと)を経て、意外なことに、レギオンに現われ、多くの市民を捕虜にした。

 8. ポリュビオスは、スパルタを破ったテバイの将軍エパメイノンダスを引き合いに出して、ローマとカルタゴの勇気を褒めている。

 9. ハンニバルがカプアにてローマの攻囲を解かせようとしたが、それに失敗するとローマの首都に向かい、それを断念せざるを得なかった時、退却しながら敵を粉砕し、ローマ側の都市レギオンを襲ったことなど、賛嘆に値するとしている。そして、ローマは自分たちの首都を守り抜き、カプアの攻囲を続けたことも褒めている。

 一方、ローマがタラスを攻囲している時、カルタゴ艦隊がやって来たが、持参した糧食を食べ尽くしてしまって役に立てず、タラスより出航するよう請われた[司令官のボミルカルは、シケリアでも役に立たず、いつも間抜けですね]。

 10. ローマ人はシュラクーサイからあらゆるものを運び去り、その芸術品で自分たちの家や公共の建物や市民広場を飾った。

 11. カルタゴ軍司令官(ハスドルバル・ギスコ、ハンニバルの弟たち、ハスドルバル・バルカマゴ・バルカ)はイベリアにおいてローマに勝ったが、互いに党派争いを始めた。

 ローマは戦争による荒廃のために穀物不足に陥り、エジプトに穀物供給を求める使節を送った。

 12. 軍事行動においては細心の注意を払って熟慮せねばならない。失敗の大部分は指揮官の無知と無分別に責任がある。ひとつの間違いが全体の計画を失敗させるのだから、成功のためには絶対に間違いを犯してはならない。

 13. 指揮官はどんな些細なこともなおざりにしてはならない。まず肝要なのは、計画についての沈黙であり、人に計画を悟らせてはならない。時間の算定、天文的知識、地形も考慮せねばならない。作戦に関わる人選も大切である。

 14. さらに、注意深く偵察し、誰も信用してはならない。そして、昼と夜の長さを認識せねばならない。目的地に早く着きすぎるのは遅れるよりも過ちが大きい。

 15. 戦争を支配するのは時間である。ゆえに、司令官は夏至、冬至、春分、秋分を熟知していなければならない。つまり、天文学により時間を判断せねばならない。

 16. ホメロスは、星により、航海も陸地での行軍も判断できるオデュッセウスを登場させていることで、称賛に値する[そんなこと、考えてもみなかった]。予測し得る天候を軽視してはならない。

 17. アカイア人アラートスの作戦の失敗の原因は、二重の合図ではなく、単一の合図を用いたことにあった。戦争の成功不成功は些細なことにかかっているのだ。

 18. スパルタ王クレオメネスは昼夜の長さの変化を念頭に入れなかったために計画に失敗し、多くの兵を失なった。また、前217年、マケドニア王フィリッポス5世は、メリタイアを襲撃するにあたり(第5巻-97)、用意した梯子が短すぎたことと、早く着きすぎたために、大恥をかいて、多くの兵士を失い、襲撃に失敗した。戦争は慎重にしないとだめですね。

 19. 前413年、アテナイがシケリアに遠征した時、月蝕が起きたためにニキアスは陣の撤退を遅らせて、軍隊はシュラクーサイの手に落ちた。市壁の高さと梯子の長さについての記述: 市壁を10とすれば、梯子は12であるべき。

 20. よって戦略には幾何学をも要する。比例と相似学も学ぶべきだ。

 21. ローマとカルタゴは、運命の正反対の両極端を交互に体験した。

 22. ハンニバルは生まれつきの天分により、自ら企てたものを人間の力の及ぶ限り実現するのに適切な能力をもつ男であり、偉大で驚嘆すべきものである。概して、あるときは友人の勧めにより、あるときは事柄の複雑さにより、自分の信条とは異なる言動をとる場合がある。

 23. シケリアの僭主アガトクレスは、最も残忍だと思われていたが、後には、最も上品で最も温和な人だと思われたと歴史に書かれている。スパルタのクレオメネスも然り。状況に強いられて自分本性に反する気質を示すことがある。同じことは友人の影響によっても起こる。フィリッポス王も、デメトリオスと協力していた時は非道であったが、アラートスを側近としていた時は最も穏健であった。

 24. ハンニバルは、非常に性格の異なる側近をもっていたので、イタリアにおける彼の行動から本性を知ることは困難である。ハンニバルが非難されるイタリアでの残酷な行為は、軍隊を人肉を食うことに慣れさせるべきだと意見したモノマコス[剣闘士]と呼ばれた側近の残虐性によるものであろう。

 25. ハンニバルは金銭欲が強かった。

 26. ハンニバルの性格には状況が強く影響した。

 27. アクラガスについて: 自然の美しさ、要塞堅固さ、海の近さ、建築物の壮麗さ、地味の肥沃さにおいて優れている。[前210年、執政官マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスはアクラガスを襲って全住民を奴隷とした。その後多くの都市を襲い、全島がローマに服すこととなった。この執政官はメッセーネ、パノルモス、リリュバエオンを結ぶ道路を舗装した。]

 28〜40. スパルタにて、アイトリア人とアカルナニア人の使節が演説する: 前者はマケドニア支配はギリシア人の隷従を意味していた、よってマケドニアを敵とみなして憎まねばならぬ、と説いた。マケドニアの盟友であった後者はマケドニアがギリシアに恩恵をもたらし、ギリシアの安全のために戦い続けた、なのにマケドニアに敵対するために、全ギリシアを脅かす禍[ローマ]を西から引き寄せているのだ、と説いた。

 41〜42. マケドニアのフィリッポス王は、テッサリアのエキノスを攻めるべく、攻囲のための工事を行なう。ローマ軍とアイトリア軍が駆けつけたが、撃退され、絶望したエキノスはマケドニアに降伏した(前211年)。前210年、アイギナ島がローマに奪われた。捕虜はアイトリア人によってシリアに売られた。

 43. エウフラテス川について: 夏の盛りに雪解けにより水量が増大するが、冬は水量が乏しく、流れが弱いので軍隊の輸送は捗らなかった。44と45は不詳な断片。

 

<第10巻>

 1. レギオンからタラスまでは約360km。タラスの港はシケリア海[現イオニア海]に面して唯一であり、その沿岸部には多くのギリシア都市がある。よって、ブルンディシウムが建設されるまで、タラスはその立地により莫大な富を得た。

 2. プブリウス・コルネリウス・スキピオは、前211年に殺された二人の執政官[彼の父と伯父]の後、イベリアの総督に選ばれ、前210年にイベリア入りした。この男の意図と性格を知らねばならない。彼の大胆さと天才性についての説明。称賛に値することは賢明さと洞察力に基づいている。ポリュビオスには、彼の性格はスパルタの立法者リュクルゴスに似ているように思われる。彼は、自分の決断を受け入れやすくするために、神的霊感によるように印象づける術を知っていた。

 3. 彼は優しく寛大、巧妙にして用意周到、そして集中力に優れていた。ガイウス・ラエリウス[前190年の執政官]は、スキピオの忠実な同伴者であり、その行ないの証人である。17歳の初陣で勇敢な働きをして父を救出したエピソードなど。

 4. スキピオが、兄とともに造営官に立候補することになった経緯。

 5. 大衆の好意を集めている彼が立候補したことにより、兄もいっしょに造営官に選ばれた。

 6. 前209年、スキピオは、イベル川を渡る前に兵士を集めて演説し、鼓舞した。先の敗戦は、ケルティベリア人の裏切りによるものであり、勇敢さの不足によるものではない。また、先の司令官らは同盟軍を傲慢に扱って敵にまわし、互いに内部で争い、結束を欠いていたのだと説明した。カルタゴ・ノウァを攻撃するという目的を伏せたまま渡河し、冷静な計算のうえで、敵も味方も思いつかない道をとった。

 7. 彼はローマにいた時から、父の敗因を入念に調査し、その結果、カルタゴを恐れてはいなかった。イベリア入りすると、敵が三部隊に分かれていることを知った。数で勝っており、一隊とのみ戦うと他の部隊が救援に駆けつけて取り囲まれることもわかった。

 8. そして、カルタゴ・ノウァについて細部まで聞き調べた。そこには港があり、アフリカとの航海に都合よく、多額の軍資金と物資が集められており、攻められることなど念頭にないため、わずか1.000人の兵が城砦を守っていることを知った。また、それを取り巻く潟は浅瀬で、干潮の夕方には歩いて渡れることもわかった。

 9. (前209年当時、スキピオは若干27歳)カルタゴ・ノウァを攻める計画はラエリウス以外には秘密にしていた。スキピオはラエリウスにカルタゴ・ノウァへ艦隊を航行させ、自らは歩兵25.000と騎兵2.500の陸軍を率いてそこへ向かい、7日目、その都市の北側[▽Wikipedia図では東側]に陣を張った。

 10. カルタゴ・ノウァは、イベリア半島の海岸の中央にあり、湾は南西に向いている。港口は約1,8km。湾の奥には半島のような山が突き出ていて、そこに都市が築かれており、西(実際は北)は潟に囲まれている。都市の中央部は低く、丘と山に囲まれており、西(北西)の山にハスドルバルの宮殿(要塞)が、反対側(南側)に神殿がそびえている。潟は運河により海とつながっており、そこには橋がかけられている。

 11. この都市の周囲は(ポリュビオスの視察によれば)3,6km以上はなかった。スキピオは兵を勇気づけるために、計画を説明し、褒賞を約すなど、演説を行なった。

 12. 翌日、ラエリウスに全権を与え、海から攻撃させた。カルタゴ側の駐留軍は1.000人の軍を半分ずつに分け、西の砦と東の丘に配し、住民に城門を守らせた。戦いはしばらく互角であったが、次第にローマ軍が優位に立つ。

 13. スキピオは、大盾をもつ3人の兵士に守られて高みから戦いを見守り、同時に兵士たちに勇気を与えた。兵士が疲労困憊すると、司令官は退却命令のラッパで呼び戻した。

 14. 護る側は安堵したが、干潮の時を待って潟の側から市壁に梯子を掛け、よじ登らせ、恐怖と混乱を生じさせた。干潮は神慮とすら思われた。

 15. ローマ軍は城壁を制圧し、驚愕を与えるために住民も犬も殺戮した。スキピオが1.000の兵を率いて砦に向かうと、駐留軍指揮官マゴは降伏した。そして合図とともに略奪が開始され、戦利品を集めたアゴラで軍団ごとの就寝が命じられた。

 16. 翌日、戦利品の分配が軍団司令官 tribuni により略奪を行なったものにも待機していた者にも公平に行なわれた。これはローマ軍のしきたりである。

 17. 軍団司令官が戦利品の分配をしている間に、司令官は捕虜全員を集め、市民、職人を分けてから、ローマ人の恩を覚えておくようにと求めて帰宅させた。約2.000人の職人たちには国家の奴隷であるが熱意を示した者には、カルタゴとの戦争が終われば自由人となることを約束し、財務官に登録させた。奪った船18隻には屈強な捕虜を乗組員として乗り込ませ、戦後の自由を約した。この機会にローマの艦隊は1倍半に強化された。

 18. その後、マゴと元老院議員をラエリウスに任せた。そして人質300人を呼び寄せ、子供たちを一人ずつ抱いて勇気づけ、贈り物を与え、血縁者に手紙を書かせた。女性捕虜の訴えに、彼女らを信頼できる男たちの保護下に置くとした。

 19. 獲得したカルタゴの国有財産をすべて(600タラント以上)財務官に渡した。ローマから持ってきた400タラントに加えると、1.000タラント以上の軍資金をもつこととなった。ある若者たちがひじょうに美しい少女をスキピオのところへ連れて行き、贈ると言ったとき、司令官である自分には最も歓迎されないものだと答え、少女の父に彼女を委ね、同国人と結婚させるようにと言い、自制と温和を示した。そして、事態をローマ本国に報告させるべく、ラエリウスを送り出した。

 20. スキピオ自身はしばらくカルタゴ・ノーウァに留まり、海軍と陸軍を訓練させ、武器を手入れさせた。そして、守備隊を配置すると、人質も連れて軍隊とともに、イベール川の彼方のタッラコーン(タッラゴーナ)へと進んだ。

 

 21. アカイア同盟の将軍フィロポイメンについて: ポリュビオスはこの人について既に3巻本で伝記を書いているので青年時代の詳細は省き、人生の最盛期の行為についてここにその詳細を述べるとのこと。

 22. フィロポイメンはアルカディアの貴族の家系に属しており、父の死後、父の友人であったマンティネイアの優れた人物クレアンドロスによって教育された。青年期には、シュキオンやキュレネの僭主を倒した人たちの仲間に加わり、民主制を奉じる活動をしたが、狩と戦争で頭角を現わした。簡素な衣服をまとい、几帳面な生活をしていた。そしてアカイアの騎兵隊指揮官に任命されると、堕落していた兵士たちの精神を鍛え、強い軍隊に仕上げた。

 23. 使える騎兵隊となるようにする訓練について: 無秩序な騎兵隊の攻撃ほど効果がなく、自軍にとっては危険である。また、個々の将校の能力ほど重要なものはない。

 24. 彼は騎兵を集めて、機動演習を自ら指揮した。一人一人、一つ一つの部隊が入念に教育されるならば、軍隊は全体として強いものとなる。

 

 25. マケドニアに対するアイトリアとローマの戦争における、フィリッポス王の(おそらくアイギナで行われた)演説の断片。 

 26. フィリッポス王の醜悪な行ないと性格の悪化について: 庶民的な王の身なりをしつつ、未亡人や人妻を口説いて姦通するなど、放縦と無軌道な振る舞いをした。この王は年齢を重ねつつ欠点を増していった。

 

 27. 前210年、シリアのパルティアに対する戦争についての断片: メディア王国はアシアの中でも最重要な国のひとつである。そして全アシアに馬を供給し、エクバタナの王宮の外周は1,26kmあり、柱廊の柱は銀箔か金箔で覆われ、屋根瓦は銀であったが、アレクサンドロス(大王)のマケドニア軍によって剥がされてしまった。

 28. パルティア王国のアルサケス2世は、シリアのアンティオコス3世がここまで進撃するかもしれないとは考えていたが、大軍が砂漠を越えてくるとは思っていなかった。イランの砂漠には水は見えないが、たくさんの地下水路と、知られざる貯水槽があったのである。アルサケス王は、シリアの進軍を知ると、貯水槽を埋めて使えなくすることに着手した。シリア軍はパルティアの都ヘカトンピュロスへやって来た。

 29. アルサケス王が退却したことは何かの企みあってのことと推察し、アンティオコス王はヒュルカニアへ軍を進める。困難な行程が予想されたので、軍隊を分けて進軍させた。

 30. 進軍してみると、道は想像以上に悪く、狭く、峡谷は増水しており、異民族による妨害を受けた。だが軽装兵は岩山をよじ登ることは不可能ではなかったので、敵より高い所から敵を敗走させて、輜重隊などの進路を整えた。

 31. こうしてシリア軍は着々と進軍し、8日目に到着したラボス山の道で戦闘が始まった。王は敵を追撃する兵を呼び戻し、隊列を組んでヒュルカニアに降りていこうとした。そしてサリの近くに陣を張り、シュリンクスの攻囲を始めた。三重の濠を埋め、市壁の下に坑道を掘って陥落させた。

 

 △サイト「世界史の窓」よりの地図

 

 32. マルケッルス[シラクーサを陥落させた執政官]は、前208年、3度目の執政官として、同僚の執政官とともにウェヌシア近くで偵察を行なっていた時、潜伏していたヌミディア兵によって斬殺されるという死に方をした。陣地に残っていた兵はあまりに突然なことで救出することができなかった。ポリュビオスは、司令官という重責にあるものが、このような無鉄砲な行ないで落命したことは愚かだと断言している。

 33. この点でポリュビオスはハンニバルを優れた指揮官だと見なしている。指揮官は用心深く、自分の安全に意を用いねばならないのだ。

 

 34. イベリアでは、スキピオがタラッコーンで越冬していた(前209〜前208年)。すべての人質を渡すことで、現地の好意と信頼を得る。エデタニ族の支配者エデコーンは自発的にローマの保護下に入り、人質となった妻子の返還を求めた。

 35. スキピオはそれに応じて、エデコーンと友好関係を結ぶ。この話はすぐに至る所に広まり、イベール川以北のイベリア人はローマの味方となった。海上に敵がいなくなったので海軍を解体し、陸軍を強化した。ほかのイベリアの有力支配者(アンドバレスとマンドニウス兄弟)もハスドルバルから離れていった。もとよりカルタゴ人の傲岸不遜に不服だったのである。

 36. カルタゴは、ローマの二人の司令官を倒した後、イベリア人を傲岸不遜に扱い、彼らを敵に回すことになったのである。

 37. ハスドルバル(ハンニバルの弟)はこのような状況に苦しみつつも、戦いで雌雄を決しなければならないと考え、軍備を整え、もしも負けたらできるだけ多くの異民族を従えてイタリアに救援に参じようという結論に達した。

 一方、スキピオは、ローマから戻ったラエリウスと会い、冬営地を発ち、イベリア人たちと合流した。

 38. スキピオとイベリア人との話し合いが行われ、ローマの指揮に従うという条約が結ばれた。カルタゴの司令官はカスタロンに滞在しており、その地形がローマ軍にとって不利なのを見てとったスキピオは当惑したが、2日後、敵を試す決心をする。

 39. スキピオは軽装兵と歩兵を送り出す。カルタゴ側はローマ軍の勇敢さを見守っていたが、やがて出陣した。ハスドルバルは、立地の優位を頼みにしていたものの、自軍が後退を始めると、自分もビュレナイエの方へと退却した。スキピオは追撃せず、敵陣の略奪を許した。

 40. 翌日、捕虜(歩兵10.000、騎兵2.000以上)を集めて整理した。カルタゴの同盟者だったものがやって来て、スキピオを王と呼んだ。スキピオはそう呼ばれることを望まないといい、司令官と呼ぶように求めた。そして、イベリア人の捕虜を全員身代なしで釈放し、馬300頭をアンドバレスに選び、残りを馬を持たない人に分け与えた。カルタゴの陣地に自分のそれを移し、ピユレネー山脈の峠道にハスドルバルの見張りを派遣し、越冬するためにタラッコーンに退却した。

 

 41. ギリシアでは、アイトリア人が、ローマ軍とペルガモンの王アッタロス1世[前214年、ともに対マケドニアでアイトリアと同盟関係を結んでいた]がやって来ていることで、尊大な気分になって陸上で他のギリシア人を脅かし、海上ではアッタロスとプブリウス・スルピキウス[ローマの執政官]が攻め立てていた。

 ゆえにアカイア人はマケドニアに救援を求めた。アルゴスの国境を巡視するスパルタの僭主マカニダスを恐れたためでもあった。ボイオティアもエウボイアも、アカルナニアもマケドニアに救援を求めた。エペイロスの使節もマケドニア王のもとにやって来て、イリュリア[ローマの盟友]が軍隊を出動させたと伝えた。

 また、マケドニアと国境を接するトラキア、特にマイドス人は襲撃の機会を狙っていると伝えられた。アイトリア人も不穏な動きをしているとわかった。フィリッポス王はすべての使節を去らせると、戦争について思いをめぐらせた。

 42. その時、ペルガモン艦隊が出動し、ペパレトス島に上陸して一帯を占領したという報が入ったので、マケドニアは軍隊を派遣した。ボイオティア、カルキス、エウボイアにも派兵し、フィリッポス王自身は[テッサリア南部の]スコトゥーサへと進軍した。アッタロス王がビテュニアに入り、アイトリア人たちもヘラクレイアに集まっていることを知ったフィリッポス王はそれを邪魔しようと進軍するが間に合わなかったもののその地方を寇掠し、敵の動きを見張るために留まった。

 43〜47. 戦争における情報伝達手段として、のろしの有用性について: 合図は非常に単純なので、多様な出来事、思いがけない出来事の大部分には使えないが、多少の工夫や改良がなされているが操作は複雑である。それらの列挙と説明。

 48. アパシアカイ人について: カスピ海に注ぐオクソス川[現アムダリア川]下流域に住むスキタイ人であり、ヒュルカニア[カスピ海の南東沿岸部]まで徒歩で行くという。
 
 49. シリアのアンティオコス王は、国境地帯に侵攻していたバクトリア王エウテュデモス1世をはなばなしく戦って敗走させた(前208年)。

 

 ポリュビオスを読んで、この時代のヘレニズム君主の人となり、そしてハンニバルやスキピオのことが生き生きと理解できる。やはり読んでよかった。鈍器本だけれど頑張ろう。

 

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。