このII冊目には、シュラクーサイ[ここではシラクーサの古名を記すことにした]の攻囲、ファラリスの牡牛の話、ザマの戦いなど、興味深い事項が含まれている。7〜9巻ではシュラクーサイの攻防と陥落が語られている。読書の秋を楽しもう。

 

<第7巻>

 1. (ハンニバルに鞍替えした)カプアの豪奢はクロトンやシュバリスをも凌いだ。ペテリア[クロトンの北の都市]は陥落するまで勇敢に(9ヶ月の攻囲に耐え)ハンニバルに抵抗した。

 

 2. シュラクーサイでは[ヒエロン2世の没後、息子のゲロンが早世していたので、215年に孫のヒエロニュモスが15歳で王に即位していた]、ヒエロニュモス殺害の陰謀があり、親ローマ派が斥けられると、親ハンニバル派の後見人たちはハンニバルのもとに使節を送るよう王に説き、シュラクーサイはハンニバルに与することとなる。

 3. 当時リリュバイオンにあった執政官は、シュラクーサイとローマの盟約更新のための使節を送ったが、少年王の答えは「Ma, o Romani, lasciate dunque che anch'io difenda il mio potere, ricorrendo all'appoggio dei Cartaginesi.」であり、彼が親カルタゴ、ローマの敵となったことが明らかになった。

 4. シュラクーサイはハンニバルと条約を結ぶ。その条件は、ローマをシケリアから追い出し、双方の境界はヒメラ川とすることで交渉を開始したが、少年王はシチリア全島を要求し、そのお返しにイタリアにおけるハンニバルを支援することとしたが、カルタゴ側はすべての点に彼に同意し、軍隊をシケリアに上陸させることにする。

 5. これに気づいたローマ側は既存の盟約に違反しないようにと申し立てる。シュラクーサイで召集された会議にて、シケリア支配を獲得できるチャンスをのがさぬようにと、ローマに対する戦争が決定された。ローマ側の使節には、ローマ側がヒエロンから受け取った黄金と穀物と他の贈り物すべてを返還し、ヒメラ川以東をシュラクーサイの領域とするのであれば盟約を守ろうと返事した。

 6. レオンティノイの地形について。

 7. ヒエロニュモスについて、既存の歴史記述は鵜呑みにできないと述べている。

 8. 彼の祖父ヒエロンは自力で王位に就き、祖国の平和を守りつつ、それを54年間維持したことは注目すべきである。彼は何度も政権から退こうとしたが、市民は一致してそれを阻止した。90歳以上も頭脳明晰なままで寿命を保ち、息子ゲロンは両親に対する忠愛を貫き、50歳以上生きた。

 

 9. マケドニアがハンニバルに全権使節を送り、それに対し、ハンニバルは八百萬の神々にかけて次のような誓いを立てた: 相互の友好と同盟。対ローマ戦争に際しては相互に援助すること[こうしてマケドニアもローマの敵となったのだ]。

 10. マケドニアのフィリッポス王によるメッセニアへの干渉について。メッセニアのゴルゴスというもとアスリートの政治家についての説明。

 11. フィリッポス王の性格の悪化は、メッセニアへの攻撃以降に始まった。

 12. フィリッポス王は、メッセニアのアクロポリス占拠の前に内臓占いをして、ファロスのデメトリオスとアラートスにどうすべきか問うた。前者は守備隊を置くべきだとし、後者は、信義を残すのならば、守備隊を置くべきではないと答えた。

 13. フィリッポス王が対ローマ戦を決意したのを見たアラートスは、なんとかそれを思いとどまらせた。アイトリア戦争に際しての非道な僭主のような行ないは、王に随伴していたファロスのデメトリオスの性格に一致する。

 14. フィリッポス王は、メッセニアのアクロポリスではアラートスの忠告に従い、アイトリアにてはデメトリオスの言いなりになり、ギリシア人の信頼を失った。若い王にとって不幸へ向かうか否かは随伴する友の選択次第なのである。

 

 [前213年、シュラクーサイのヒエロニュモスはわずか13ヶ月の在位で殺害された。レオンティノイで、おそらくローマ側の陰謀であろうが、親ローマ派に待ち伏せされて刺殺されたのである。]

 

 15〜18. リュディアの首都サルデイス/サルディスをめぐって絶えざる戦いが行なわれていた。シリア王アンティオコス3世は既に2年前から攻囲に及んでいたが、最後はクレタ人(エジプトからの脱走兵)による闇夜に梯子で城壁をよじ登り市内に潜入した兵士が城門を内側から開けるという作戦を行ない、サルデイスを陥落させることができた。城壁をよじ登るところは市内のアクロポリスからは死角となって見えなかったのである。

 
<第8巻>
 1. ローマとカルタゴはイタリアの所有とイベリア半島の所有をめぐって戦争を開始し、さらにサルデーニャおよびシケリアの所有をめぐって争い、希望、軍需品、装備のすべてを手に入れたことは驚嘆に値する。ローマ側では、陸軍はグナエウス・コルネリウス・スキピオにより、海軍はプブリウス・コルネリウス・スキピオによって指揮されていた。ギリシアの海岸に対しては、まずマルクス・ウァレリウスの、次にプブリウス・スルピキウスの艦隊が碇泊し、シケリアでは、アッピウス・クラウディウス・プルケルが海軍を、マルクス・クラウディウスが陸軍を率いていた。
 2. 個々のエピソードをとりあげた書物からは、歴史全体像の展望は得られな。すなわちローマがいかにして世界制覇に到達したかという壮大な企てを把握することはできない。一つの国家により多様な企てが同時に遂行され、自国内では自分たちの存在をめぐる戦争を遂行せねばならず、その大きな危険にさらされたことをはっきり理解したとき初めてこの出来事は真の光に照らし出され、驚嘆すべきものとなるのだ。
 
 3. シュラクーサイでは、ヒエロニュモスが殺害された後、前214年よりエピキュデスヒッポクラテス兄弟[アガトクレスによりカルタゴに追放されてハンニバルの軍隊にいた]が僭主となっていた。ヒエロニュモス殺害を知ったローマはアッピウス・クラウディウスを前執政官として留任させ、さらに前214年の執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスに海軍を委ね、シュラクーサイの攻囲に取り掛からせた。多くの攻城機器を搬入したが、アルキメデスの才能を計算に入れていなかったし、ディオニュシオスの城壁の造りは堅固であった。
 4. マルケッルスは60隻の五段櫂船でアクラディーナを攻撃させた。ローマ軍が用いたサンブーカ(ギリシア語ではサンビューケ: そういう楽器に似ている装置)という機械についてポリュビオスは詳述している: 2艘の船の真ん中に滑車による可動式の梯子があり、それを市壁に掛けて市壁に乗り移るのである。
 5. ローマ軍はこれによって櫓に接近しようとしたが、アルキメデスはあらゆる射程を見越した飛び道具、バリスタやカタプルタを準備しており、ローマの意気を挫いた。狭間からは矢が飛び出し、接近するサンブーカに対しては城壁内から梁が突然に突き出してきて、サンブーカに石を落下させた。
 6. 城壁の狭間からはは石が連射され、接近を阻んだ。鎖でつながれた鉤状の錨が船首を吊り上げて船を転覆させたり、浸水させたりした。マルケッルスは「アルキメデスはまるでグラスのように我々の船で海水を汲み上げ、サンブーカは平手打ちをくらい、みっともなく宴席から追い出されてしまった」と自嘲した
 7. 陸軍の状況も同様であり、退却を余儀なくされ、攻囲によるシュラクーサイの攻撃を断念せざるを得なかった。攻囲は8ヶ月に及び、必需品の欠乏に望みを賭け、物資の補給を絶つことしかできなかった。アッピウスは軍の2/3を用いて攻囲を続け、マルケッルスは島内のカルタゴに与する都市に進撃した。
 
 8. マケドニア王フィリッポスはメッセニアに着くと荒らし回った。この出来事について言及しない歴史家もいるし、称賛すらしている者もいる。王については、事実に反して侮辱しても称賛してもいけないが、それを実行するのは難しい。
 9. ギリシア人史家テオポンポスによるマケドニア王フィリッポス2世の記述を批判する。女性に関して自制心がなく、友人関係では最も不正で悪辣、多くの都市国家を姦計によって滅ぼし、昼から強度の飲酒に耽っていた、等々。
 10. この歴史家の虚言と偽りは醜く非難されるべきである。また、彼を称賛しようとする人は、適切に言い表すことはできないであろう。
 11. テンポンポスの歴史記述についての批判の続き。
 12. フィリッポス王は、メッセニアを荒らし回ったにもかかわらず、大きな被害を与えることはできなかった。そして、その行為に不満を示した友人の老アラートスを毒殺した。時間をかけての毒殺であったので召使い以外にはわからなかった。その死後、アカイア同盟の中ではふさわしい栄誉を受けた。
 13〜14. フィリッポス王はかねてよりイリュリア地方のリッソスの支配を望んでおり、出陣した。防禦が優れているのを見て取ると、都市部の占領に望みをかけた。作戦によりアクロリッソスを戦わずに占拠し、翌日にはリッソスを落とした。結果、イリュリア都市の大半が降伏した。
 
 15. 前214/213年、エジプトのプトレマイオス朝において、クレタ人[ポリュビオスはクレタ人を狡猾な人種だとみなしている]指揮官のボリスは、王の側近ソーシビオスの信頼を勝ち得ると、アカイオス救出を任じられる。
 16. ボリスはロドス島へ、そしてエフェソスに着くと、シリア軍の同郷人の指揮官のもとに配下を送り込み、落ち合って話し合い、ソーシビオスから与えられた10タラントを山分けし、救出計画をシリア側にもらし、アカイオスをシリア側に手渡すことにした。
 17. このような策謀を知らないアカイオスは計画に身を委ねることにした。
 18. ボリスはシリア王アンティオコス3世に会い、約束を保証された。
 19. 用心したアカイオスは先ず友人を脱出させ、うまくいったら自分も脱出するとボリスに言う。だがボリスはこれも見越していた。
 20. 暗闇のために、またアカイオスが簡素な服装であったが、急斜面を降りる時に敬意を払われていることから識別し、拘束して、シリア王のもとに連行した。王は感極まって泣き出し、口がきけなかった。
 21. アカイオスの刑罰は、手足と首の切断のうえ磔と決まり、彼が籠城していた城砦がシリア軍に明け渡された。そして、人を安易に信用してはいけない、成功裡にあっても慢心すべきではない、という教訓が残った。
 
 22. トラキア(ギリシア語はトゥラケー: 黒海北方、ほぼ現ブルガリア)におけるガリア人王カヴァロスは雅量の大きい人で、黒海を航行する商人のために多くの安全策を講じた。立派な人であったが、カルタゴ出身の従者によって滅ぼされた。
 23. 前212年頃、シリア王アンティオコスは、ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた都市国家アルモサタの包囲を企てたが、その支配者クセルクセスが協議を請うたので、それに応じ、雅量広く事を処した。
 
 24. [タラス=ターラントは、対ローマ戦に際して、エペイロスのピュッロス王を招いたが、ローマに敗れ、人質を取られていた。]親ハンニバル派にそそのかされて逃亡したタラスの人質が逮捕されて処刑されたという報が届くと、タラスの大衆は激怒した。そして、狩猟に出かけるふりをしたタラス人が、タラスから3日の地に野営していたハンニバルに接近する(前212年)。
 25. タラスにはローマ軍が駐留していたが、タラスとハンニバルは協定を結ぶと、ハンニバルの軍に対して夜半に市門を開くこととする。
 26. ハンニバルはローマの駐屯隊が怪しまぬよう、病気のふりをしていた。その時が来た時、ハンニバルは慎重に軍を動かし、真夜中に城壁に到着するようにした。
 27. ローマの駐留軍指揮官は、ヌミディア兵出没の報に騎兵を出撃させたが、自分たちは饗宴で酔っ払って帰宅したので、タラス人は計画の実行に取り掛かった。
 28. 火炎の合図とともに、タラスの若者は市壁内の墓地へ移動する。城門を守る兵が殺され、門が開けられると、ハンニバルがやって来た。
 29. カルタゴ軍は滞りなく市内に入場し、アゴラへと進む。2.000に満たない騎兵は市壁外に残しておいた。裏門では、犠牲獣を運ぶふりをしたタラス人が守衛を騙して殺し、カルタゴ兵を招き入れ、両方のカルタゴ軍が合流する。
 30. アゴラへと通ずる道路を封鎖し、タラス人には動かぬよう呼びかけ、ローマ人を殺す。指揮官は酩酊しており、なす術がなかったので、小舟で砦へと逃亡した。ローマ軍の喇叭が鳴らされ、出てきたローマ人は殺された。
 31. 残ったローマ人は砦に引きこもり、ハンニバルはタラス人をアゴラに集めて演説し、自分たちの家に「タラス人の家」と書くようにいい、それ以外の家を略奪させた。
 32. そして翌日、砦を遮断させたが、出てきたローマ軍と激しい戦いとなり、最後はローマ軍が敗走させられた。
 33. ハンニバルはローマ軍を封じ込め、防壁を築き、タラスから7.2km離れた地点に陣を張ると、砦を攻める準備に取り掛かった。
 34. メタポンティオンからローマ軍への救援隊がやって来ると、ローマ軍は夜の間に包囲装置を破壊した。ハンニバルは、海路を制することが必要だと指摘したが、タラス人は船を操ることもできず愕然としたが、ハンニバルが陸路船を外海に運び出すことを教えて作業を終えた。ハンニバルはもとの陣地に戻って越冬する。
 
 35〜36. ローマの執政官ティベリウス・センプロニウスは、伏兵の待ち伏せにあい、落命した。そういう事態に陥った人たちを列挙する。
 
 37. 前212年、ある脱走兵が、シュラクーサイでは3日間にわたりアルテミス祭を行っており、パンは乏しいがぶどう酒をふんだんに飲んでいるとローマ側に報じた。マルケッルスはこれを好機と考え、城壁に梯子を掛けさせた。市内では守備隊が持ち場を離れ、酔っ払っていた。ローマ兵は門を内側から開け放ち、市の西側エピポライの丘を占領することができた。
 
 38. イベリア半島および不確かな場所についての断片。
 

 シラクーサの陥落についての記述は第9巻にも含まれているが、ポリュビオスは9と10をひとくくりとしているようなので、ここで区切る。

 

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。