第3巻にたどり着いた。いよいよハンニバル戦争の巻である。

 

 1〜5. 略

 6. ハンニバル戦争の原因として、ザカンタ(サグントゥム)の攻囲(前219年)やイベル(エブロ)川を渡ったことを挙げる人がいる[位置は下の地図で確認]が、それは戦争の始まりであって原因ではない。原因は決心および決定に先行する意図、心の状態である。マケドニアのペルシア侵冦を例として挙げる。

 7. シリアに対するローマの戦争の原因はアイトリア人の憤怒にある。

 8. ローマの歴史家ファビウスは、ハンニバル戦争の原因は、ハスドルバルのカルタゴの権勢欲と支配欲であり、ハンニバルがそれを引き継いだ(前221年)とする。

 9. ファビウスの説に言及したのは、事実を見るように注意を喚起したいからである。最初の原因は、ハンニバルの父ハミルカル・バルカの怒りであった。

 10. ローマがサルデーニャへの遠征を企て、カルタゴに戦争を通告した時、カルタゴ側に正義があるとして交渉しようとしたが、ローマはそれを拒んだので、カルタゴは状況に屈服せざるを得なかった。賠償も払わねばならなかった。これが2番目の原因である。そしてローマに対する戦争の物資を使ってイベリアの征服を行ったのが3番目の原因である。

 11. 後に、ハンニバルがローマに敗れて、シリアの王アンティオコス3世のもとで過ごした時、9歳だった自分に父ハミルカル・バルカは祭壇の前で、ローマ人には決して好意を抱かないと誓わせたと王に述べ、さらに、王がローマに対して敵対的である限り、私の中に最も誠実な支持者を持っていると考え、安心して自分を信用するように、逆に王がローマと友好関係を結ぶなら、私を信用せず、警戒せよ、と述べた。

 12. これをハミルカルの敵意および全目標の明らかな証拠とすべきである。ゆえに政治家は和解しようとする相手が、状況からやむを得ずそうするのか、誠実な気持ちでそうするのかを見極めねばならない。

 13. カルタゴは、シケリアをめぐる戦争での敗北に加え、サルデーニャを奪われたこと、課された貢税の重さにより怒りをさらに強めていた。ハスドルバルの死後、指揮権を受けたハンニバルは、まずオルカデス族を制圧した。

 14. (前220年) 夏になるとウァッカエイ族を制圧し、ヘルマンティケ(現サラマンカ)を占領した。退却中に危険な目に陥ったが、象隊と騎兵隊をうまく使い、勝利した。

 15. ローマと同盟関係にあるザカンタ(サグントゥム、現サグント)は、不安になりローマへ使者を送る。カルタゴ・ノヴァに戻っていたハンニバルはローマの使者と会い、ザカンタに近づかないように、イベル川を渡らぬようにと言われたが、無分別と怒りに満ちていた彼は根拠のない口実を並べ、ローマの使節たちはイベリアにおける戦争が不可避であることを悟る。

 16. イリュリアで反ローマ的な動きがあったので、ローマはそちらの安寧を急いだが、これに先んじてハンニバルがザカンタを攻囲する。

 17. 肥沃なザカンタを陥落させることは潤沢な軍資金の確保でもあった。勢力的に攻めて8ヶ月後に征服した。

 18. 一方、ローマはイリュリアへ、執政官ルキウス・アエミリウス・パウルス麾下の軍隊を派遣していたが、攻囲開始後7日間で陥落させると、すべての都市が無条件降伏を伝えてきたので、デメトゥリオスの拠すファロスを騙し打ち作戦[夜半に軍隊の大半を上陸させ、わずか20隻を航行させ、敢えて侮らせる]で攻撃する。

 19. 激しい戦闘の末、無思慮なデメトゥリオスの軍は敗走し、本人はマケドニアに亡命して余生を過ごすことになる。アエミリウス・パウルスはローマに凱旋した。

 20. ザカンタ陥落の報を受けたローマは、カルタゴへ使節を送り、ハンニバルと幕僚をローマ側に引き渡すか、戦争するか、という選択を迫った。

 21. カルタゴ側は、イベル川を渡らないというハスドルバルとの協定は、本国の了承を得ずに締結されたものだから本国とは関係なく無視できると弁明した。シケリア戦争の講和にはイベリア半島でのことは言及されていないし、ザカンタはローマの同盟者ではなかった、と弁明した。ローマとカルタゴの間に締結された条約を概観することが役立つだろう。

 22. ローマとカルタゴの最初の条約は前508/7年であり、両者間に友好関係が成立した。ローマ側は「美しい岬」(ヘルマエウム岬)の向こう側を航行してはならないし、カルタゴ側はローマに従属するラティウム都市に危害を加えてはならない。

 23. 嵐など、やむを得ぬ場合も、修理に必要なもの以外を持ち去ることは許されず、五日以内に退去せねばならない。商売上の目的での来航は許されるが、取引の場には伝令あるいは書記が同席せねばならない。

 24. 第二の条約(おそらく前348年)は、美しい岬のほかに、マスティアとタメセイオンより先にローマ人は来航してはならない、商売も不可とした。・・・サルデーニャトアフリカではローマ人は商売は不可。シケリアのカルタゴ領での商売は可、など。

 25. 第三の条約は、(前280年)ピュッロスがタレントゥムに加勢してイタリアへ侵攻した時に、ローマとカルタゴの相互援助について締結されたもの。

 26. これらの条約はカピトリウムの国庫[たぶんタブラリウムのこと]の中に青銅板に刻まれて保管されている。フィリノス[アグリジェントのギリシア人史家]の記述は重要な史料であるが、彼もローマ人もカルタゴ人もこのような以前の条約について知らなかったことは驚くにあたらない。だが、何を根拠にフィリノスは、ローマはシケリアに接近してはいけないという条約を破ったと言うのであろうか。

 27. シケリア戦争後には別の条約がつくられた。カルタゴ側のシケリアからの全面撤退、賠償金の規定(10年以内に2200タレント、追加として即座に1000タレント)、捕虜の釈放。アフリカ戦争後には、サルデーニャからのカルタゴの撤退、1200タレントの賠償金支払い。さらにハスドルバルとのイベル川渡河不可の約定など。

 28. ローマのシケリア進出が条約違反ではなかったことを確認したが、サルデーニャに関してローマ側から布告された条約は、カルタゴにとって正当とは認識されないものであった。これらを確証した上で、ハンニバル戦争の原因を考察せねばならない。

 29. ローマ側は、ハスドルバルとの協定は無視されるべきではないとする。

 30. ザカンタが既にローマの保護下にあったことは明らかであった。ザカンタの侵攻を戦争の原因とみなすならばカルタゴは不正であったことになり、ローマによるサルデーニャの併合およびカルタゴに対して増額された賠償金が戦争の原因とするならば、カルタゴ側に充分な言い分がある。

 31. 過去の歴史を知ることにより、誰が自分たちに同調し、援助協力してくれるかを知ることができる。

 32. この著作の量が多いのは、すべての世界での出来事を辿っているからである。アンティオコス戦争フィリッポス戦争に発し、フィリッポス戦争はハンニバル戦争(第二次ポエニ戦争)に、ハンニバル戦争の出発点はシケリア戦争(第一次ポエニ戦争)にあると見る。

 33. カルタゴにて、スフェス(王)は戦争か平和の選択を使節に任せ、ローマの使節は宣戦布告する。カルタゴ・ノウァにあったハンニバルは準備にあたり、兵士をアフリカからイベリアへ、イベリアからアフリカに置き換え、相互の忠誠心を固くさせた。弟のハスドルバルにイベリア統治を任せた。ハンニバルの軍隊の配備と数については、クロトンのヘラ・ラキニア神殿で見つかった青銅の奉納板(前205年)に刻まれたハンニバルの記録の碑文に準じて記している。

 34. ハンニバルは、自分の企てにガリア人の協力が得られるかと思い(ガリア人がローマ人に敵対していると考えたので)、ガリアの族長たちに使者を送り続けた。

 35. ハンニバルは歩兵90.000、騎兵約12.000を率いて進軍し、ピュレナイア(ピレネー)まで勝ち進んだ。征服地に兵を割り当て、優秀な歩兵50.000、騎兵9.000を率いてピュレナイア山脈を越え、ローヌ川[アルプスの西側を流れる]まで移動する。

 36. ハンニバルの辿ったルートを地理的に説明せねばならない。

 37. 地上全体はアシア、アフリカ、エウローペーより成り、ガリア人の住む地域、イベリア、を説明している。

 38. アフリカの南側のように、まだ知られていない地域もある。

 39. この頃カルタゴはアフリカの地中海側沿岸部をすべて支配していたが、ピュレナイア山脈以南のイベリアをも征服してしまった。そしてロダヌス(ローヌ)川とアルプスを越え、イタリアのパドス(ポー)川流域の平野部を目指していた。

 40. カルタゴとの戦争開始の報を受けたローマは、(前218年の執政官)プブリウス・コルネリウス・スキピオをイベリアに、ティベリウス・センプロニウス・ロングスをシケリアプブリウスはからアフリカに送ることにすると、ガリアにおける植民市の建設を急いだ。プラケンティア(現ピアチェンツァ)とクレモナに入植が行われるや否や、パドス川流域に定住していたボイイ族がローマから離反した。ボイイ族はインスブレス族を誘い、ローマをムティナ(現モデナ)に追い込み、攻囲を始める。ローマは法務官の指揮のもとに援軍を送る。

 41. 両執政官は8月に出陣した。センプロニウスは先ずシケリアのリリュバイオン(現マルサーラ)に向かい、ブブリウスは60隻の艦隊で沿岸部を進み、マッシリア(マルセーユ)を経てロダヌス川の河口から上陸した。だがハンニバルの行軍は速く、突然ロダヌス川の渡し場に現れた。

 42. ハンニバル、丸木舟と渡し舟によりロダヌス川を渡るも、それを阻止する現地人がたくさん集まったので、3日目の夜、軍隊の一部を上流に移動させ、筏を作って渡らせた。残された軍も同様に渡ったが、37頭の象を渡すのは最も困難であった。

 43. 馬は泳がせて渡らせた。対岸にガリア人が現われたが、別同隊が背後から彼らの陣営に放火し、ガリア人を驚かせつつ襲撃した。

 44. その夜は川岸で陣を張り、河口部にローマ軍が投錨していることを聞くと偵察隊を放った。パドス川流域から来たガリア人が同盟者としてカルタゴ軍に合流し、カルタゴ軍を鼓舞する。ハンニバルの演説に兵士たちは拍手喝采する。

 45. 先に放っていた偵察隊は、ローマ側の偵察隊と出会い、大半が殺され、生き残った者は逃げ帰ってきた。ローマ軍は上流へ、カルタゴ軍は下流へと動く。

 46. 象の渡河は、たくさんの筏をつくり、結びつけて仮設の橋のようにして、その上に盛り土をして、乗ったところで筏を繋いでいた綱を断ち切って退路を断ち、じっとさせて渡しきった。若干が川に飛び込んだが、助けられた。

 47. ハンニバルは、象の渡河を終えると東の内陸部に向かい行軍した。そしてアルプス越えについては、これまでは嘘と矛盾が書かれてきた。

 48. そのような虚偽の記述についての説明。だがしかしハンニバルは、非常に思慮深く事に取り掛かったのである、と断言する。また、ポリュビオス自身もアルプス越えの体験旅行(前151年)をした。

 49. 執政官プブリウスは、カルタゴの出発より3日後に渡河地点に達し、既に先に進んだことを知って驚いた。そして海路、できるだけ早くイタリアへ戻ろうとした。一方、ハンニバルは、島と呼ばれる豊穣な国に達し、兄弟の王位争いに、兄の方に請われて加勢した。その報酬として進軍に役に立つ様々な援助を受けた上に、行軍の後衛をも引き受けてもらうことになった。

 50. ハンニバルは10日間川に沿って行軍してからアルプスを登り始めた。すると、アッロプロゲス族がハンニバル軍に打撃を与えたが、偵察により、彼らが夜は狭い山道から立ち去ることを知ると、夜、陣営に篝火を燃やさせつつ、先鋭部隊を先行させてその狭い山道を押さえさせた。

 51. アッロプロゲス族はこの事態に気づくと計画を断念したものの、追尾して足場の悪い断崖上の隘路で襲撃し、馬と駄獣に大損害を与えたが、反撃を加えて敗走させた。その後、敵の出てきた部落を襲い、行軍のための備蓄と馬や駄獣を補充した。

 52. 途中の住民がカルタゴ軍を騙そうと迎え出た。かなり用心して甘言に乗らぬようにしたが、ある困難な山間でその異民族は後ろからカルタゴ軍に攻撃を加え始めた。

 53. ハンニバルは危惧の念を抱いていたので、輜重隊と騎兵を先に行かせ、重装歩兵を後衛にしていたことで被害はより少なくて済んだ。異民族は石を落としたりもしたので、被害は少なくはなかったが。アルプスの最も高い山道では、組織的な襲撃はなかったものの、小さな襲撃はあった。頂上では2日休み、遅れた部隊と合流した。

 54. 山頂付近には雪があった(9月の3週目頃)。ハンニバルは兵士たちを激励するためにパドス川の流れる平野とローマの場所を指し示した。だが下りの断崖上の隘路は雪のためにより危険であった。難所を迂回することはできなかった。

 55. 荒天の状況は異常であり、根雪の上に積もった新雪は厄介であった。ハンニバルは、雪を掃き除けて野営し、道を作らせねばならなかった。雪道には草木がなく、象は飢えて悲惨であった。

 56. その絶壁から3日目に軍は平地に到達した。15日間かかったアルプスの行軍による損失は多大であった。カルタゴ・ノーウァを出てから5ヶ月経ち、(ラキニウムの碑文によれば)生き残った軍勢はアフリカ人歩兵12.000、イベリア歩兵8.000、騎兵は6.000以下であった。一方、プブリウスは、弟にイベリアにてハスドルバルと戦うように命じ、自分はピサエ(現ピサ)に入港してから北上し、パドス川平野に至った。

 57. ポリュビオスの記述の方法論について: ヘラクレスの柱について、イギリスの錫について、イベリアの金鉱山と銀鉱山について述べないのは、読者の興味を歴史本来の対象からそらしたくないからである。

 58. 歴史記述について: 何よりも真実が大切だということ。

 59. 歴史や地誌の記述の誤りを指摘することはかつては不可能であったが、今は戦争や公的活動のためにより真実な知識が必要とされる。

 60. ハンニバルはイタリアへの侵入後、兵士を休ませた。欠乏と苦労の連続で、道徳的にも悲惨な状況にあったからである。兵士の数は半減していた。その後、山麓に住んでいたタウリーニ族[現トリノの地名の語源]が同盟を拒否したので、攻囲して降伏させた。カルタゴの残酷なやり方に恐れをなした近隣の住民は次々に降伏してきた。

 61. ハンニバルは、プブリウスが既にパドス川を渡って進軍していることを知ると、にわかには信じられず、その行動力に驚いた。プブリウスの方も、ハンニバルの軍が無事であり、イタリアの都市を攻囲していると聞き、同様に驚嘆した。ローマの人々も同様に驚き、リリュバイオンに行っていた執政官ティベリウスに本国に戻るよう要請した。すべての軍はアリミヌム(現リミニ)に集結すべしとされた。この出来事はあまりにも思いがけなく、先行きに対する不安は大きかった。

 62. ハンニバルもプブリウスもともに自軍の兵士を鼓舞しようとした。ハンニバルは、若い捕虜をくじ引きで選び、一対一の死闘を行わせた。

 63. そして、勝つために、それが不可能ならば、死ぬために戦わねばならない、と演説して戦闘意欲を高めた。

 64. プブリウスは、さらにティキヌスへの進軍を決意し、演説により軍隊を鼓舞した。

 65. 翌日、両軍はパドス川の北側に沿って行軍し、接近すると陣を張った。その翌日、会戦のための布陣をする。激しい衝突となり、互角であったが、ヌミディア兵が背後から攻撃を仕掛けるに及び、ローマ側は劣勢となる。

 66. プブリウスは陣を撤収し、川の向こう岸に軍隊を渡すことを急いだ。執政官本人も負傷していた。ハンニバルは追撃し、橋を守っていた兵600人を捕虜とする。そして舟で浮橋を作らせ、渡河する。近隣のガリア人と友好関係を結んで糧食を確保し、戦うために下流へと急いだ。一方、プブリウスはプラケンティア(現ピアチェンツァ)に陣を張ったが、ハンニバルは2日目に追いつき、3日目に布陣したが、誰も撃って出てこなかったので9km離れた所に陣を張った。

 67. ローマ側に付いていたガリア人はカルタゴ側の方が見込みがあるとして、早朝、ローマ人を襲撃する。カルタゴ側に寝返ったガリア兵は歩兵2.000、騎兵200ほどであった。ハンニバルは彼らを歓迎した。ボイイ族もそれに倣った。一方、プブリウスはこの裏切りを重く見て、予防措置を講じ、翌日の夜、陣を撤収して、パドス川右岸の支流トレッビア川へと向かった。

 68. プブリウスは川に近い丘の上に陣を張り、ティベリウス[リリュバイオン→ローマ→アリミヌム→トレッビアとものすごい40日間の行軍だ!!]の軍を待った。ティベリウスは到着すると近くに陣を張り、プブリウスと話し合った。

 69. その頃、ハンニバルは、クラスティディウム(現カステッジョ)を手に入れた。この都市の行政官がローマに叛いたのである。ローマ側とカルタゴ側を二股にかけていたガリア人を見たハンニバルは彼らの土地を襲わせた。これらのガリア人はローマ側に助けを求めたのでティベリウスは兵を出す。勝ったり負けたりした挙句、ハンニバルは敢えて自軍を撤退させる。

 70. ティベリウスは勝利したものと喜び、すぐにも会戦をしたいと思ったが、プブリウスは冬の間は動かないように求めた。だがティベリウスは功名心に焦り、ハンニバルも時も無駄にしたいとは思っておらず、それに備えていた。

 71. (ハンニバルは)会戦の地の利を活かそうと考えていた。ローマ人は平らで木の無い所では待ち伏せできないと思っているだろうから、その裏をかくことができるとしたのである。ハンニバルは弟のマゴに騎兵100と歩兵100を与え、自分の配下から最強の者10人を加えて所定の場に送り出し、さらに夜間、騎兵1.000、歩兵1.000を待ち伏せに送り出した。自分は明け方、まだ朝食を摂っていない敵の陣地に近づき、小競り合いをしつつ敵をおびき出すようにした。

 72. 案の定、ティベリウスはすぐに軍隊を動かした。それは寒い冬至の日(前218年)で、ローマ軍は次第に寒さと空腹に苦しみ始めた。ローマ側の布陣は、ローマ人16.000、同盟軍20.000の総力であり、両翼に騎兵4.000を配して前進していった。

 73. 前衛部隊の軽装歩兵が戦い始めたが、夜明けからの小競り合いで、投げ槍を投げ尽くしていたからである。一方、カルタゴ側は溌剌とした英気を保っていた。

 74. そして、ヌミディア兵が待ち伏せ場所から現れてローマ軍に背後から襲いかかり、混乱を引き起こした。前方は象隊によって圧迫された。カルタゴの戦線を突破した部隊は、もはや自軍の陣営に戻ることは諦め、密集してプラケンティアへと撤退した(約10.000以下)。カルタゴ側では多くのガリア人が雨と雪によって衰弱して死亡し、象も一頭意外は倒れたが、イベリア兵とカルタゴ兵の死者は少なかった。

 75. ティベリウスは、勝利を嵐が奪った、という報をローマに送った。しかし間もなく事実が知れ渡った。ガリア人はすべてカルタゴ側についたことも知れた。予想外の事態に、ローマは軍備を強化し、アリミヌムとエトルリアを兵站基地として軍需品を送った。シラクーサのヒエロンにも支援を要請し、兵を派遣させた。

 76. その頃、プブリウスの兄グナエウス・コルネリウス・スキピオは全艦隊を率いてイベリアに上陸し、かなりの同盟軍を結集していた。ハンノと会戦して勝利し、ハンノらを捕虜とし、多くの戦利品を手に入れた。ハスドルバルが救援に駆けつけ、艦隊に残されていた乗組員を多く殺した。その後、両者は冬営に入った。

 77. 春になると、執政官ガイウス・フラミニウスは出陣し、アレティウム(現アレッツォ)の前に陣を張り、もう一人の執政官グナエウス・セルウィリウスはアリミヌムへ動いた。ハンニバルは同盟者たちに、彼らの自由を取り戻すために来たのだと言い、ローマから離反させ、自分になびくようにさせた。

 78. だがハンニバルは、ガリア人のあてにならないことに用心し、かつらと衣装をたえず付け替えて扮装するなど、フェニキア的策略を弄した。困難だが早くエトルリアへと通づる沼地の道を進軍することにした。その噂に怖気付く者もいた。

 79. ハンニバルはその沼地の土台が固いことを確認してから出発した。四日三晩、沼地の進軍は続き、兵たちはひどい目にあった。ハンニバルは生き残った一頭の象に乗り、重い眼病に苦しみつつ進み、片目を失うこととなった。

 80. ハンニバルはフラミニウスがアレティウムの近くにいること、彼が民衆におもねる煽動政治家で、勝利を渇望して逸るタイプであることを知る。

 81. 敵の指揮官の精神の隙を知ることは肝要である。ハンニバルは抜け目なくそれを行なった。

 82. フラミニウスは自分が敵に見くびられていると激怒し、もう一人の執政官の合流を待たずに性急に出陣した。その間、ハンニバルはローマを目指し、トラシュメネ湖を右手にしながら進軍していた。フラミニウスの接近を知ると、その地方に放火して敵を刺激し、会戦の準備に取り掛かった。

 83. 道は高い山に挟まれた谷へと通じ、前方には険しい丘が、後方には湖があった。湖畔から谷へと続く道を移動し、夜のうちに向かいの険しい丘に陣を張り、左右の丘の背後にも伏兵を配置し、谷を待ち伏せ部隊で取り囲ませた。フラミニウスは、翌朝の夜明けとともにその谷の中へ前衛を率いて進んで行った。

 84. その日はとくに霧が深く、ローマ軍は突然に襲撃を受け、混乱に陥り、15.000のローマ人が逃げる術もなく惨めに落命した。フラミニウスも戦死した。カルタゴ軍はエトルリアの村に退却し、その村を降伏させた。

 85. 敗北の知らせを受けたローマの指導者たちがそれを民衆に伝えると、その驚きは大きかった。民衆は動揺し、元老院は対策について熟考した。

 86. 一方、執政官グナエウスはアリミヌムにあり、ハンニバルに抗するべく、騎兵4.000を先に派遣した。ハンニバルは騎兵隊長マハルバルを送り出して、その半分を滅し、翌日に残り全員を捕虜とした。ローマは途方に暮れ、悲しみに覆われた。ハンニバルはローマに接近せず、その地方を進軍し、殺戮と略奪をくり広げていった。彼の中にローマ人に対する憎しみが深く根ざしていたからである。

 87. ハンニバルはアドリア海に近い豊かな地方に陣を張り、兵士と馬の回復に努めた。海路、カルタゴへ状況報告の使者を送り出し、カルタゴ人を喜ばせた。一方、ローマは独裁官(執政官の倍にあたる24人のリクトルが付き、護民官を除いて、先生的な絶対権力をもつ)としてクイントゥス・ファビウスを選んだ。同時に、独裁官に従属するが、その代理権をもつ騎兵隊の指揮官としてマルクス・ミヌキウスを選んだ。

 88. ハンニバルは古いぶどう酒で馬を洗わせ、疥癬などの病気を治させた。ヤピギアについての説明: ダウニイ、ペウケティイ、メッサピイの3種の種族が住む地方に分かれている。ハンニバルは、ローマの植民市ルケリア(現ルチェーラ)をはじめとして、ダウニアを荒らした。ファビウスはナルニア(現ナルニ)で、アリミヌムからの部隊と合流し、グナエウスの軍務を解いた。独裁官自身はアエカエ(現トロイア)で陣を張った。

 89. ファビウスの接近を知ったハンニバルはローマ軍の近くに陣を張ったが、動きがないため、本陣に戻った。ファビウスは当初、ぐす、のろま、などと陰口をたたかれたりもしたが、やがて思慮深かったことが容認された。

 90. ローマ軍は無尽蔵の備蓄に守られていた。そして、動かないローマ軍を侮って糧秣略奪のために動く敵兵を捕らえて殺していった。このようなやり方はミヌキウスには気に入らなかった。カルタゴ軍はアペニン山脈を越え、豊かなサムニウムへと下り、ベネウェントゥムを荒らし、ウェヌシアを奪うと、カプア平野のファレルノ(現カセルタ県辺り)へと軍を進めた。諸都市はローマからの離反を決定する。

 91. ハンニバルは、カプア周辺[つまりカンパニア地方]の肥沃さと美しさに目をつけたのであった。

 92. ハンニバルは大胆にこの地に入ると、平野全体を荒らした。ファビウスは敵の騎兵が優勢なのを見て、会戦を避けようとしていたが、ハンニバルが同じ道を通って帰還しようとしていることに気づくと、その山間の隘路を制圧すべく丘に陣取った。

 93. ハンニバルは、そのようなローマ側の目論見を察し、2000頭の牛のツノに松明を結びつけ、未明にその牛を山の背に追い立たさせると、軍を出発させた。

 94. ファビウスは何が起きたのか判断できず、何かの罠であろうから静観すべきと見て夜明けを待った。ハンニバルはその間に軍と戦利品を通過させた。ファビウスはまた評判を落とし、犠牲式のためにローマへ戻る。残ったミヌキウスは、独裁官の諫言に服する気はなく、会戦の計画に夢中になっていた。

 95. 同じ頃、イベリアでは、ハスドルバルがカルタゴ・ノウァから40隻の艦隊を出航させた。一方、グナエウスは35隻で、それに向かって行き、イベル(エブロ)川の河口付近に投錨し、カルタゴ側も河口に投錨しているのを知ると襲撃のために動いた。

 96. カルタゴ側はローマ軍の接近に気づく。しばらく戦った後、カルタゴ軍は後退する。ローマは敵船25隻をぶん捕った。この敗北を知ったカルタゴは70隻の艦隊を送り出し、それはサルデーニャからピサ方面に向かう。ローマ側がこれを120隻で追うと、サルデーニャを経てカルタゴへ帰還した。グナエウスは途中まで追って諦めた。

 97. ローマでは、20隻の艦隊と司令官プブリウス・スキピオを兄グナエウスのもとに送り出した。兄弟はイベル川を渡り、ザカンタの手前に陣を張る。

 98. あるイベリア人(アビュリクス)が、状況を見て、カルタゴ側を裏切り、ローマ人に人質を渡そうという計画を立て、カルタゴの司令官ボスタルに人質を解放して、イベリア人の好意を得ようと説得を始める。

 99. そのイベリア人は夜になるとローマの陣営に行き、人質をローマ側に渡そうと申し出る。そしてうまく人質をローマ側に手渡し、多くのイベリア人をローマ側へ靡くように誘った。

 100. ハンニバルは、穀物の豊かなルケリアの北西36kmにあるゲロニウムを冬営地とした。その住民がカルタゴに靡かなかったので攻囲して皆殺しにする。そして、軍隊の2/3を使って糧秣確保にあたらせ、膨大な量の穀物を集めた。

 101. このようなカルタゴ軍の動きを知ったミヌキウスは、会戦を心してカレナの丘に陣取った。ハンニバルは丘を隔てたある丘に陣を張り、しばらくの間、糧秣確保を優先させた。

 102. ミヌキウスは、糧秣確保に勤しむカルタゴ軍に対して部隊を放ち、多くを殺させた。ハンニバルはハスドルバルの援軍を待って持ち堪え、ゲロニウムの陣地を心配して退却し、以後は糧秣徴発により慎重になった。

 103. 誇張されたその報せにローマは喜び、ミヌキウスに期待して彼を独裁官に任命した。ミヌキウスの功名心に火がつく。戦地に戻ったファビウスは、軍隊を二分してそれぞれ2km強離れた所に陣を張った。

 104. ハンニバルはこのようなローマ側の状況を知ると、利用しようと作戦を立てる。夜の間に窪地のある丘の周辺に計5.000人の兵を待ち伏せさせ、夜明けに軽装歩兵を放ってその丘を占拠するふりをさせた。それを見たミヌキウスが動く。

 105. そして待ち伏せ兵に合図が出されると、ローマ軍は危機に陥る。ファビウスは救援のために軍を出動させ、ハンニバル軍を退却させた。ローマは再び合流して一つの陣を張るようになる。カルタゴ軍は陣営に濠を巡らせ、冬営の準備をする。

 106. ローマでは、ルキウス・アエミリウスガイウス・テレンティウスが次期執政官に選ばれ(前216年)、独裁官は去り、グナエウス・セルウィリウスとマルクス・レグルスが前執政官に任命され、戦場に留まった。ローマ人は慎重に、小競り合いと小規模な戦闘のみを行なっていた。

 107. 初夏になると、ハンニバルはゲロニウムから軍を出陣させ、会戦が自分に有利と見て、カンナエの砦を占拠した。そこにはカヌシウム(現カノーサ)の地域で集めたローマ軍の軍需物資が蓄えられていたからである。ローマ側は混乱に陥ったが、戦場にはなおも待機命令を出しつつ、[常に4軍団を用意し、通常1軍団は歩兵4.000と騎兵200の兵士よりなり、1人の執政官が2軍団と同盟軍を率いて戦っていたのだが]1軍団の歩兵を5.000に、騎兵を300に補強し、8軍団で会戦を行なうことを決議したのである。ローマはそれほど警戒していたのだ。

 108. アエミリウスは戦地に赴き、元老院の決定を伝え、戦士を激励し、訓練されていない兵が敵について無知なまま行なったトレッビアの戦いとトラシメヌスの戦いを振り返り、今回の状況は逆なので勝たない理由はないと述べたのである。

 109. 勝利のための条件は整い、あとは戦士の熱意のみだが、これ以上の励ましは不要であろう、と言った。

 110. 翌日、執政官たちは敵の野営地に向かい、約9km離れた所に陣を張った。二人の執政官は指揮について意見を異にしたまま、一日交代で指揮をとった。アエミリウスの反対を押し切ったテレンティウスの進軍は、ハンニバルの急襲を受けて混乱したが、白兵戦でローマはなんとか優位に立ち、夜になると互いに退却した。翌日、アエミリウスはアウフィドゥス(現オファント)川の岸辺に2/3を、1/3を対岸に宿営させ、敵を威嚇しようとした。

 111. ハンニバルは兵士を集めて鼓舞する。諸君は全イタリアのあるじとなるだろう、と。兵士たちが熱狂すると、ローマの主軍と同じ側に陣を張った。

 112. アエミリウスはしかし動かなかった。それを見たハンニバルは、軍を陣地に戻し、小さい軍から出た水汲み人に対してヌミディア人を送り出した。これがテレンティウスを刺激する。兵たちも待機することに不満を感じていた。ローマでも不安が昂じて、神々に対する請願、供儀、祈禱がそこかしこで行なわれた。

 113. 翌日、テレンティウスの総指揮のもと、各陣営から軍隊が出動させられた。同盟軍も含めて、歩兵80.000、騎兵6.000強であった。ハンニバルも軍を出陣させ、弓形に布陣しさせた。

 ▼こちらのサイトにある布陣の図がわかりやすい。

 ▼Sparadakosというイタリア語のサイトの図; 赤いカルタゴ軍が、青いローマに押されて凹むように動き、側面にまわったカルタゴの重装歩兵がローマ軍を横から攻め、カルタゴ側の騎兵が背後から襲う。ローマ軍は完全包囲され、全軍壊滅する。

 114. アフリカ兵は略奪品によりローマふうに武装していた。イベリア兵の剣は打つことも刺すことも切ることもできたが、ガリア人の剣は振り下ろして叩きつけるのみであった。カルタゴ軍の総数は騎兵10.000、歩兵はガリア人を含めて40.000弱であった。ローマの右翼はアエミリウスが、左翼はテレンティウス、中央は前執政官たちが受け持った。カルタゴ側は三日月形のように布陣していた。

 115. カルタゴ側の三日月形布陣はローマの歩兵部隊に押されて凹んでいく。アフリカ人の重装歩兵がローマ軍の両側面を攻める。

 116. 騎兵戦に加わっていたアエミリウスは中央で戦う歩兵部隊の方へ動き、白兵戦で戦う。ハンニバルも中央で戦っていたが、ハスドルバルの騎兵隊は、ヌミディア騎兵に追われて退却するローマ騎兵を見送り、歩兵の場へと戻り、背後からローマ軍を攻めた。アエミリウスはこの白兵戦で負傷し、落命した。ローマ兵は取り囲まれ、ミヌキウスもグナエウスも倒れた。ローマの騎兵(執政官テレンティウスを含む)は少数がウェヌシアへ逃れた。

 117.  ローマ側は70.000の兵が戦死した。ウェヌシアに逃れたのは70人であった。同盟軍の騎兵300がほかの都市に逃れた。カルタゴ軍の勝利に貢献したのは多数の騎兵であった。戦勝に寄与するのが騎兵であることが証明されたのである。ハンニバル側の死者は、4.000のガリア人、1.500人のイベリア人とアフリカ人、約200の騎兵であった。会戦に加わっていない10.000のローマ人は2.000人が殺され、残りは捕虜となった。また、逃亡した2.000の騎兵はヌミディア騎兵に降伏して捕虜となった。

 118. この会戦の結果、カルタゴは(プーリアの)沿岸部を制圧し、ターラント人を降伏させ、アルギュリッパ人[フォッジャの住民]とカンパニアの一部の住民がハンニバルの方に賭けた。他は既にハンニバルの方を目していたのである。カルタゴ人は、一撃でローマそのものを奪うという思いを抱き始めた。一方、ローマ人は不安に陥った。さらにその数日後、ガリアに送られた執政官ポストゥミウス・アルビヌスが軍隊もろともガリア人に滅ぼされた。だがローマは独自の政体と対抗措置でカルタゴに勝利することになる。

 

 

▽2004年にポリュビオスの「歴史」の訳本が2種類出版された。その一方。

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。