ポリュビオスの『歴史 Storie』はローマやシチリアの歴史を勉強する人には必読書だ。でも日本には訳本がなかった。仕方がないのでイタリア語訳を拾い読みしていた。だが、2004年に2種類の訳本が出版されていたようだ。両方とも値段が高いのだが、タイトルを『世界史』としている竹島俊之訳の方が世田谷区の図書館にあったので借りてみた。値段が高い(税抜き15,000円)から有難い。註は巻末にまとめてではなく、各頁ごとにあるので読み易い。字も大きめだ。ここに記すメモはイタリア語の訳文も参照するので、日本語の訳文どおりではない。訳者はしばしば長母音を無視しているからである(マメルティニはマーメルティーニであるべきだし、イタリア語の辞書ではマメルティーニとなっている)。他に、シュラクーサイはシラクーサ、カルターゴーはカルタゴ、シケリアーはシケリア、リュビエーはアフリカとする。ポリュビオスはヌミディアをノマディアと書いているが、私はヌミディアとしてメモる。

 

 p.1〜「解題」

 1. 著者の生涯について: 前3世紀末〜前120年頃のギリシア人。メガロポリス生まれ。第三次マケドニア戦争後、イタリアに勾留され、前150年頃に解放された。スキピオ・アエミリアヌスの教師となり、親友となる。第三次ポエニ戦争を目撃する。ローマの世界支配を記述した著作『Storia』(40巻のうち1/3が保存されている)で知られる。4. 方法論: 真理を旨とする。伝記とは一線を画す。Tyche(運命)によりローマ人は世界支配を追求したと見ている。5. 著述の信頼性は高く評価されている。

 

 〈第1巻〉

 1. どのようにしてどんな種類の政体によっていわばほとんど全世界が53年も経たないうちにローマ人に征服されてその唯一支配下に入ったか、これは歴史上前例を見ない出来事なのだが、それを知ろうと思わないほど、誰が無関心でいられるだろうか〜と、序にある。

 2. テーマに選んだ出来事は大規模なものである。ローマ人は個々の部分ではなく、ほとんどいわば全世界を自分に従わせたのである。

 3. この歴史は前220〜前216年(第140オリュンピア期)から始まる。イタリアとアフリカでは、俗にハンニバル戦争と呼ばれるローマ人とカルタゴ人の運命的戦いが始まった。・・・この時点から歴史はまるで関連した全体像のようになり、すべてはただひとつの目標に向かう。それゆえにこれを歴史の出発点として選んだのである。この導入の巻により読者はローマ人が当然の動機を以て世界制覇という挙に出て、それを成し遂げたことを知るだろう。

 4. 「運命」が世界のほとんどすべての事件をただひとつの方向に導いたことを読者に感得させねばならない。

 5. 第129オリュンピア期(前264〜前260年)に、ローマが行ったイタリアの外における最初の遠征から語り始めよう。

 6. 前387/6年、シラクーサのディオニュシオスはレギオンを攻囲して陥落させた。そしてガリア人がローマを急襲したが、ローマ人は勇敢さと運命により全ラティウムを征服すると、エトルリア、ケルト、サムニウム人と戦争を行なった。次に、ターラントを制圧し、そしてレギオンを攻囲した。

 7. メッセーネとレギオンは似た運命を辿る。事件の少し前、アガトクレスの雇用したカンパニアの傭兵(マメルティーニ=軍神マルスの子と自称)が、メッセーネを占拠し、住民を殺したり、追い出したりした。

 8. マメルティーニは近隣の領域に対して狼藉を働く。シラクーサではアルテミドロスとヒエロン(前275年に王となる)が指揮官に選ばれ、支配権を握っていた。

 9. ヒエロンは、人望のあるレプティネースの娘との結婚で彼の縁戚になり、シラクーサの支配を確実にすると、出陣した。このへんのやり方を詳述してある。先陣とされた傭兵は負けたが、ヒエロン麾下の市民兵は勝ち、凱旋してから王と宣言されることとなった。

 10. 負けたマメルティーニはカルタゴ人のもとに逃れたり、ローマに救援を求めたりする。ローマとしては、マメルティーニへの支援は不合理であるが、カルタゴがシラクーサを滅ぼし、シケリア全てがカルタゴのものとなり、地中海がカルタゴに支配されることを恐れ、協議する。

 11. ローマは、執政官アッピウス・クラウディウス[有名なアッピア街道や水道の建設者カエクスの弟]をメッセーネに派遣する。メッセーネから駆逐されたカルタゴはファーロ岬に軍隊を派遣する。ヒエロンもシラクーサ軍を動かし、これとローマ軍が対峙する。ヒエロンは追い込まれて退陣する。

 12. アッピウスはカルタゴ人を撃退し、シラクーサの攻囲を企てた。ポリュビオスは、これをローマ人が海外に出陣した出発点とし、冒頭に置いたとある。

 13. 今後の記述内容を概観予告する。出来事の詳細は語らないこととするが、ローマ人とカルタゴ人の緒戦のみは注意深く取り扱う。軍事力、道徳、運、ともに双方互角であり、比較すべきだからである。

 14. さらに、アクラガス人フィリノスの記述はカルタゴ寄りであり[ディオドロスが史料としている]、この戦争の同時代人であるローマ人史家ファビウス・ピクトルの記録は、ローマ寄りだからである。歴史は真実を語らねばならない。

 15. フィリノスの記述を引用し、嘘で満ちていると批判する。

 16. 前263年、ローマはアッピウスの成功を知ると、2人の執政官(マニウス・オタキリウスマニウス・ウァレリウス)と全軍団(歩兵4,000と騎兵300よりなる軍団4つ)をシチリアに送る。それを目にしたヒエロンは、ローマ側に使節を送り、同盟をもちかけ、ローマ側は補給のことを考えてそれに同意する

 17. これを知ったローマは派遣するのは2軍団だけにすることを決議した。カルタゴは、リグリア人とガリア人とイベリア人の傭兵を雇い、シケリアに派遣し、アクラガスを基地として補給品と兵を集める。執政官が交代(ルキウス・ポストゥミウスクィントゥス・マミリウス)してシケリアに入り、全軍でアクラガスを襲撃する。攻囲しながら穀物を収穫するローマ軍はカルタゴ軍に襲われたが、反撃した。

 18. アクラガス攻囲は5ヶ月に及び、司令官ハンニバル(・ギスコ)は息子ハンノに救援を求め、カルタゴは兵と象と軍需物資をヘラクレイアに送り込んだ。

 19. カルタゴ軍は進軍したものの、小競り合いが2ヶ月続いた。だがアクラガスでは飢えが限界に達していたため、激突することとなり、ローマが勝利し、司令官ハンニバルは夜半に逃亡した。

 20. ローマはアクラガス戦の勝利に沸き、前261年、シケリアからカルタゴを駆逐すべく、次の執政官(ルキウス・ウァレリウスとティトゥス・オタキリウス)を派遣したが、海域と沿岸部の都市はカルタゴに支配されていたので、海に乗り出すこととした。つまり、五段櫂船100隻と三段櫂船20隻を造船したのである。それは未経験のことにつき苦労した。メッセーネ戦の当初はギリシア都市から船を借りたのであるが、一隻のカルタゴ戦を手に入れるとそれを手本として建造したのである。

 21. 乗組員は漕ぎ方の特訓を受けた。グナエウス・コルネリウス・スキピオは海軍の指揮権を委ねられた(前260〜前259年)。だがリパリ島に投錨したところを襲われて敵の捕虜となってしまう。だが、ハンニバルはイタリア沿岸を南下してくるローマ艦隊と衝突し、思いがけず痛手を負った。

 22. グナエウス・コルネリウス・スキピオの災難を知ったローマ人は海戦に取り掛かったが、装備の劣りをカラスという敵船の甲板に乗り移る装置(長さ約10,8mの鉤付き手摺付きの旋回可能なタラップ)で補うことにした。

 23. 艦隊司令官の災難を知った陸軍司令官ガイウス・ドゥイリウスは艦隊に移り、ミュライ(現ミラッツォ)に向かい、130隻からなるカルタゴ艦隊もそちらに向かった。カルタゴ側はローマ船の船首にそびえる装置を見て少し驚いたが、接近戦によって稼働した装置により30隻を失う。さらに50隻を失って退却した。

 24. 意気の揚がったローマ軍は上陸してセジェスタを解放したが、ハンニバルによって約4,000の兵が殺された(前260/259年)。だが敵将ハンニバルはほどなくサルデーニャでローマ軍により多くの船を失い、磔刑に処された。新しい司令官たちが、カルタゴ軍の越冬していたパレルモに向かい、さらに内陸部の都市(Ippana, Mittistrato, Camarina, Ennaなど)をいくつか陥落させ、リパリの攻囲に着手した。

 25. 前257年、ティンダリに投錨していた執政官ガイウス・アティリウスは、カルタゴ艦隊を襲い、10隻を奪い、8隻を沈めた。そして330隻の軍艦をシケリアに向かわせ、陸軍のいた島の南岸エクノモス向かう。カルタゴ艦隊はエラクレア・ミノアに投錨した。

 26. ローマ人はアフリカのカルタゴ本土を攻撃すべく、総部隊14万人が船に乗り(執政官はマルクス・アティリウス・レグルスルキウス・マンリウス)、頑丈で機動力のある楔形の艦隊を配置した(前256/5年)。カルタゴ側は上陸を阻み、海戦で決着をつけるべく、15万を超える兵を向かわせた。

 27. ハンノとハミルカルの率いる艦隊は動きが迅速であった。だがローマ側も二人の執政官に率いられていることで気勢が上がっていた。

 28. ハンノはローマの第三艦隊 triariiを攻め、苦境に追い込んだ。だが結局ハミルカルの船は敗走した。マルクスが第三艦隊救援に駆けつけ、ルキウスも救援に急ぐ。ローマ側は24隻を破壊されたが、64隻のカルタゴ船を奪い、30隻を破壊した。

 29. ローマは糧秣を整えてからアフリカへ向かい、ヘラクレイア(ボン岬)に上陸し、アスピスを攻囲した。マルクスの軍は40隻の船、騎兵15,000、騎兵500とともにアフリカに留まり、ルキウスはローマに帰還した。

 30. カルタゴはシケリアからハミルカルを呼び戻し、彼は騎兵500と歩兵5,000を率いて立ち戻り、ハンノの息子ハスドゥルバルとボスタルに合流する。マルクスの軍はアデュスを攻囲し、指揮に不手際のあったカルタゴの援軍を破ると、テュニスまで進軍し、そこに陣を張って基地とした。

 31. カルタゴはローマに敗れたのみならず、ヌミディア人の反乱にも苦しめられ、カルタゴには付近から難民が押し寄せ、飢饉が生じた。任期切れの迫っていたマルクスはカルタゴ側に和解交渉をもちかけるが、使節は立腹して帰ってしまう。

 32. ギリシアで募集した傭兵たちがカルタゴに到着する。その中にいたスパルタのクサンティッポスがカルタゴの指揮の欠陥を指摘する。カルタゴが彼に軍の指揮を委ねると、軍の士気が上がり、数日後に歩兵12,000、騎兵4,000、象100頭で出陣する(前255年) 。

 33. 平地を進軍するカルタゴ軍を見てローマ軍は驚愕する。カルタゴ軍には勢いがあり、戦闘を委ねられたクサンティッポスは象を前線に並べ、軍を配した。それに向かってローマ軍は進んでいったが、騎兵隊に対して見込み違いをした。

 34. ローマ軍は四方から攻め立てられてほぼ殲滅し、執政官マルクスと、逃亡できた500人は生け捕られて捕虜となった。傭兵隊を追跡して本戦を外れていた2,000人は命拾いし、アスピスへと逃げ帰った。

 35. マルクスの不幸により、ローマ人は運命が当てにならないことを知った。すべての人は、自分自身の不幸により、あるいは他人の不幸により、良い方向に修正することができるが、前者はリスクが大きいから、後者が望ましい。よって、歴史の出来事から汲み出した経験は最良の学校である。

 36. カルタゴ人は神に感謝を奉じた。クサンティッポスは賢明にもスパルタへ退去した。ローマは生存者の救出にとりかかり、カルタゴはアスピスを攻囲したが失敗する。前255年、ローマは350隻の艦隊をカルタゴに向かわせる。カルタゴは海上でそれを待ち構えたが、敗れて戦艦140隻を奪われる。ローマは生存者を救出し、シケリアに向かった。

 37. だがローマ艦隊はカマリーナの近くで嵐に襲われる。364隻のうち、助かったのはわずか80隻のみであった。船長たちの意見を無視した執政官の落ち度であり、海と空に対して無謀な衝動は失敗を招くという教訓を得る。

 38. ローマ艦隊の遭難を知ったカルタゴは、ハスドゥルバルに140頭の象を与えて送り出す。これはリリュバイオン(現マルサーラ)に上陸する。一方、ローマは前254年、3ヶ月のうちに新たに220隻の戦艦を建造し、パノルモスに入り、攻囲に取り掛かり、陥落させると守備隊を残し、執政官たちはローマに帰還する。

 39. 前253年、新しい執政官が全艦隊を率いてアフリカに向かう。メニンクス島の海域で座礁し、なんとか切り抜け、パノルモスに投錨した後、そこからまっすぐの海路をとり、激しい嵐にあって150隻以上の船を失った。以後は艦隊の建造を見合わせ、陸軍のみに希望を託すべきだとする。とはいえ、ローマ人の間では象に対する恐怖心が増大し、平地での合戦を控えるようになっていたので、前250年、やはり50隻の戦艦を建造し、艦隊を編成する。

 40. ローマ軍の臆病に気付いたカルタゴのハスドゥルバルはリリュバイオンを発ち、パノルモスに陣を張る。前251年、そこに駐屯していたローマ軍のカエキリウスは、敢えて出撃せず、カルタゴ軍が前進してくるのを待ち構える。ローマ側は接近してくる象に大量の槍を投げ、矢を射る。混乱に陥った象は自軍の方へ踵を返し、自軍の兵士を踏み殺す。ローマ軍は10頭の象と象使いを生け捕り、士気を取り戻した。

 41. 新しい執政官が200隻を従えてシケリアへと出航する[前250/249年?]。そしてリリュバイオンに投錨し、攻囲攻撃に着手した。

 42. シケリアの地理についての記述とリリュバイオンの守りと攻囲について。

 43. カルタゴの傭兵隊の中にローマ側に寝返ろうとする者がいたが、カルタゴに忠実なアカイア人傭兵アレクソンのおかげで破滅を免れる。

 44. カルタゴはⅠ万の兵とともにハンニバルをリリュバイオンに送り出し、この艦隊はアイグーサ[ファヴィニャーナ]島に投錨する。ローマ軍はカルタゴからの援軍を見て唖然として動かず、ハンニバルは妨害を受けずに上陸した。

 45. リリュバイオンの司令官ヒミルコはローマ側の攻城機器に火をかける作戦を立てたが、激戦となり、ローマ側は攻城機器を守ることができた。

 46. ハンニバルはドレパナ[トラーパニ]へと航行する。このハンニバルは「ロドス人」と呼ばれた人で、大胆にも船を速く漕がせて、目を瞠るローマ人の目の前を走り抜けた。その後も同じようなことを何度か行ない、ローマ人を驚かせた。

 47. このハンニバルの強みは浅瀬における水路を知り抜いていたことにもあった。ローマ人はなんとか浅瀬に堰堤を築くことができ、それによって敵の四段櫂船を捕獲すると、ロドス人が来るのを見張り、彼とその船を手に入れることができた。

 48. リリュバイオン攻囲の最中に嵐が起き、それをカルタゴ側はローマの攻城機器に放火する好機と見た。大火災となり、ローマは甚大な被害を受けた。

 49. このことを知ったローマ本国は、Ⅰ万の兵をシケリアに送る。前249年、執政官プブリウス・クラウディウスは、全艦隊をドゥレパナへ向かわせた。そこの司令官アドヘルバルは、ローマ軍による封鎖を避けるべく、自ら先頭に立ち、傭兵軍を海戦へと出撃させる(前249年)。

 50. プブリウスは、敵が海戦に取り掛かるのを見て、自軍に再び沖へ出るように命じたが、入ってくる船と衝突して混乱が起こり、ローマは陸側で戦うこととなる。

 51. しかもカルタゴは造船と航海において優れていた。陸側にあったローマ側は後退することもできず、浅瀬で座礁し、執政官は左翼から外洋へと脱出した。93隻がカルタゴ側の手に落ち、脱出できたのはわずか30隻であった。

 52. アドヘルバルは評価され、プブリウスは裁判にかけられるも死刑は免れることができた。ローマはリリュバイオンを攻囲する軍に軍需物資を届けねばならず、120隻の軍艦と800隻の兵站船を送り出した。執政官はシラクーサに留まった。

 53. アドヘルバルは同僚のカルタロンに計100隻を与え、リリュバイオンを攻囲しているローマを撃つよう命じた。市内のヒミルコも傭兵軍をローマに向かわせる。ローマ軍は混乱に陥った。カルタゴ艦隊は、西に向かうローマ艦隊を阻止すべくヘラクレイアへと向かう。カルタゴ艦隊の接近を知ったローマ艦隊は岬に取り巻かれた小さい都市に投錨し、待機する。

 54. シラクーサに残っていた執政官ルキウス・ユニウスは何も知らずにリリュバイオンに向かい、カルタゴ艦隊を目にすると危険な地点[カマリーナ沖]に停泊した。そのうちに嵐が起こり、カルタゴ艦隊は嵐を避けるべくパキーノ岬を曲がったが、ローマ艦隊は完全に難破した(前249年)。

 55. 執政官ルキウス・ユニウスは、茫然自失したものの、ドレパナに近いエリュクスを奇襲してアフロディテ神殿とその都市を占拠し、守備隊を置いた。

 56. その後、カルタゴはハミルカル・バルカを司令官に任じ(前247年)、彼はパノルモスに入り、ヘイルクタイ(ペッレグリーノ山)を占拠すると、ここの陣地からイタリア半島のキュメ(クーマ)までを荒らし、3年間にわたりローマを苦しめた。

 57. このハミルカル・バルカとユニウスの戦いは絶え間なく続いた。

 58. ハミルカルはエリュクス山の麓のドレパナを占領したので、交戦は市内で展開したが、消耗と労苦のために引き分けた。

 59. 既に5年間海上での戦いから離れていたローマ軍は、海軍で運を試そうという気になった。国庫には財源がなかったので、指導者たちは国に資金を貸して五段櫂船200隻を用意し、前242年、執政官ガイウス・ルタティウスとともに送り出した。彼らは忽然としてシケリア沖に現われ、ドレパナとリリュバイオンの港を占拠する。彼らはこの海戦に賭け、乗組員を訓練していた。

 60. これを知ったカルタゴは、ハンノを司令官に任じて艦隊を送り出し、艦隊はヒエラ・ネソスつまり聖なる島(現マレッティモ)島に到着する。ハンノの到着を知ったルタティウスは、精鋭を連れてアイグーサ(現ファヴィニャーナ)島に向かう。海戦の始まる日の早朝、ローマにとっては逆風であったが、敢えて出航する。

 61. 両艦隊は激突した。ローマ側は重荷を積まず、訓練を受けた精鋭たちが乗っていた。一方、ローマを侮っていたカルタゴ側はその逆であり、すぐに50隻が撃沈され、60隻が拿捕された。ローマ側は一万弱の捕虜を手に入れた。

 62. 敗北を知ったカルタゴは為す術を知らなかったが、ハミルカル・バルカに全権を与え、彼は和平交渉のための使節をローマ側に送った。ルタティウスはこれに同意した。講和条件は、カルタゴがシケリア全土から撤退し、ヒエロンに対しても戦争をしないこと、身代金なしでローマ人捕虜を解放すること、2,200オイボイア・タレントの賠償金を20年期限で払うこと、など。

 63. ローマの民衆はこの講和を承認せず、賠償額を増やして支払い期限を半分にし、イタリアとシケリアの間にある島々から手を引くことを要求した。こうして24年間続いた戦争は終わった。史上最大規模の海戦であり、それは運や偶然ではなく、まったくの当然の結果であったことを確証する出来事であった。

 64. ローマ人がその後より大きな艦隊で海に乗り出すことをしなかったかについては、ローマ人の政体を扱う段になったときに理解できるであろう。この戦争において、野心と勇気はローマ人が優っていたが、司令官としてはハミルカル・バルカが賞賛に値する。彼はのちにローマと戦ったハンニバルの父である。

 65. この講和の後、両国には内戦が待ち受けていた。ローマはファリスキ族と、カルタゴはヌミディアとそれにそれに同調したアフリカ諸族と、である。また、傭兵軍を用いる際の注意を知ることも重要である。

 66. カルタゴは十分な戦費を持っておらず、傭兵たちは多大な期待をしていた。

 67. カルタゴが傭兵に対する支払いを値切ろうとすると、傭兵たちは激怒し、暴徒と化し、二万人がテュニスに陣を張った。

 68. カルタゴが傭兵を一カ所に集めていたこと、彼らの妻子を手放したことは間違いであった。傭兵たちはシケリアでの司令官ゲスコンに決定を委ねた。

 69. ゲスコンは傭兵への支払いを行った。そこへローマから脱走した奴隷スペンディオスとアフリカ人のマトースが傭兵たちを扇動し、彼らの将軍となる。

 70. アフリカ人たちはゲスコンらを捕えて投獄し、カルタゴに対する戦争を始めた(傭兵戦争)。マトースはアフリカ諸都市に使節を送り、参戦を要請した。

 71. カルタゴ人は落胆した。戦争の財源もなかった。

 72. 先の戦争では、アフリカ人に収穫の半分を納めさせ、二倍の税を課していた。女性たちも軍資金のために装飾品を躊躇せずに差し出していた。

 73. カルタゴはこの苦境の中でハンノを司令官として傭兵と市民兵を集め、戦艦を修理した。アフリカ人七万がマトースらの軍に加わった。

 74. ハンノは軍才を欠いており、動きが鈍重であり、戦いのチャンスを逃した。

 75. そのためカルタゴは再びハミルカル・バルカを司令官に任じた。

 76. ハミルカルの作戦により、反乱軍六千が落命し、二千人が生け捕られた。

 77. マトースはヌミディア人とアフリカ人に援軍を要請し、ハミルカルを苦境に陥れた。

 78. ヌミディア人の中にいた、ハミルカルに尊敬の念を抱くナラウァスは百人の兵とともにカルタゴの陣営に赴き、バルカスと戦友になることを望み、受け入れられた。こうして勝利し、傭兵軍は一万人が殺され、約四千が捕虜とされた。

 79. 同じ頃、サルデーニャにいたカルタゴの傭兵軍がカルタゴ人を攻撃した。カルタゴはハンノを派遣したが、彼は暴徒に捕まり、磔にされ、他のカルタゴ人も拷問を受けて殺された。こうしてカルタゴはサルデーニャを失った。

 80. 傭兵たちは、ガリア人のアウタリトスの演説により、カルタゴに対する信頼をすべて放棄する。そして、捕えたゲスコーンをはじめとするカルタゴ人を生きたまま四肢を切り落として、塹壕に放り込んだ。

 81. ハミルカルとハンノは暴徒に対して犠牲者の遺体返還を求めたが、無駄なことであった。野獣化した暴徒は、動物以上に不敬で残酷になる。起因は若い時からの習慣と教育に帰せられねばならない。

 82. ハミルカルはハンノは合流して傭兵軍と戦ったが、二人の間に不和が生じ、それまで敵対していなかったヒッパクリタイ人とウティカ人が離反を始めた。ハンノの更迭に代わり、ハンニバルが司令官とされた。

 83. シラクーサの王ヒエロンは、カルタゴを救うことが自分にとってもローマにとっても利益になると確信していた。また、サルデーニャで傭兵軍がローマに島を占領するようにと招いた時、ローマは正義を守り、介入しなかった。

 84. ハミルカルは、カルタゴを攻囲していた傭兵軍の補給路を断ち、苦境に追い込んだ。そして経験と戦術により、優位に立つことができた。ポリュビオスは神罰だとしている。

 85. 飢えた傭兵軍は、捕虜を、さらには奴隷を殺して食べた末、ハミルカルと和平交渉することを決心する。使者に対して、ハミルカルは10人の反乱者を選ばせ、アウタリトス、スペンディオスらの指導者らを手に入れた。反乱軍の降伏を知らなかったマトースらの軍が武器をとると、象と全軍でそれらを取り囲み、プリオン(鋸)山[テュニスの近くだが不詳]にて、40,000人以上の反徒を殺戮した。[このあたりの訳文はイタリア語の訳文と異なっている。イタリア語の方を信じる。]

 86. 反乱軍の目の前でスペンディオスらは磔にされた。しかし、マトースはハンニバルの陣営を襲撃してハンニバルを捕まえると拷問を加え、スペンディオスの遺体を下ろした杭に彼を架け、スペンディオスの死体の周りで30人のカルタゴ人を虐殺した。

 87. カルタゴの長老会はハンノを司令官としてハミルカルのもとへ送り、反目をやめて協力するように命じた。マトースの軍との会戦となり、カルタゴが勝利し、反乱軍の大半を殺した。マトースも捕えられた。

 88. アフリカの他の地域はただちに降伏した。こうして傭兵戦争は終わった。凱旋行列の後、マトースらにはあらゆる拷問が加えられ、復讐とした。3年4ヶ月に及ぶ(前241年秋〜前238年末)、残虐で極悪非道な戦いであった。一方、ローマはサルデーニャへ遠征した。カルタゴはサルデーニャは自分たちの領域だと主張したが、カルタゴが反乱軍に送った軍を口実にして宣戦布告と見なした。カルタゴにはこれに抗う余力はなかったので、サルデーニャをあきらめ、さらにローマ人に1200タレントの賠償を払った。

 

 今更ながら、初めて海戦に挑んだローマにとって、たいへんな戦争であったと思い知った。象を使った戦争にローマ人がびびっていたこともわかった。敗れたとはいえ、スキピオ・アフリカヌス以前にアフリカに乗り込んだ執政官がいたとは(シラクーサのアガトクレスが乗り込んだことがあるのは知っていた)。それにしても傭兵の反乱がこれほど残虐な戦いであったとは知らなかった。軍資金がないのに傭兵を雇うのはまずいでしょう!! 

 

 

▽2004年にポリュビオスの「歴史」の訳本が2種類出版された。その一方。

 

▽私が所有し、参考資料にしてきたのはこれではなく、Oscar Mondadori の Polibio "Storie" (分かり易いイタリア語訳)ですが、いちおう念のために貼ります。