これは、イタリア語のペーパーバックを買って拾い読みしたが、通読していないので、2007年に岩波文庫から発刊された訳本を読んでみようと思った。塩野七生の本とかを読んでいたとしてもやはり第一次資料は別格です。メモるにあたり、訳者がconsoliを執政委員としているが一般的な訳語に準じ、執政官とする。独裁委員も独裁官とする。訳者による長母音の表記はそのままにしておく。

 

 第1巻: 建国から王政期

 1. トロイア戦争後、アンテーノールはアドリア海内奥に入り、パドヴァを建設し、民はウェネティー人と呼ばれた。アエネーアースは、マケドニア、シキリアを経てLaurentoに至り、ラティーヌス王とAborigĭnesに出会う。ここから伝説は2つに分かれる。アエネーアースは王と友好関係を結び、王の娘を娶り、町を建設して妻の名にちなみ、ラーウィーニウムと名づけた。ここで生まれた男子はアスカニウスと名づけられた。2. その後、彼らはルトゥリー人から戦争を仕掛けられ、ラティーヌス王が落命する。アエネーアースは、アボリーギネース人とトロイア人を統合してラティウム人 Latini と名づけた[ウェルギリウスのアエネイスとは少し異なる]。

 3. アエネーアースの没後、年少のアスカニウスが、母の摂政のもと王位に就いたが、リウィウスは、このアスカニウスが、トロイアで生まれた方か、イタリアで生まれたかは問わない、とする。ラーウィーニウム建設から30年後、その子がアルバ・ロンガを建設する。エトルリア人とラティウム人は友好関係を保ち、アルブラ Albula 川(後にTevereとなる)を境界とした。

 アルバの王たちは、アスカニウスの後、シルウィウス(以下全員シルウィウスの添え名をもつ)、アエネーアース、ラティーヌス、アルバ、アテュス、カピュス、カペトゥス、ティベリーヌス(アルブラ川で溺れたので川の名となる)、アグリッパ、ロームルス、アウェンティーヌス(現ローマのaventinoに葬られる)、プロカと続き、その子ヌミトルは、弟アムーリウスに王権を逐われ、息子を殺され、娘レア・シルウィアはウェスタの巫女とされる。4. 彼女がマルス神によって身ごもり、産んだ双子は川に流されることになるが、洪水のため本流に近付けず、Ruminalisのいちじくの木の下の浅瀬に捨て置かれ、牝狼[lupaは尻軽女のことをも指す]に授乳されているところを見つけた牧人ファウストゥルスとその妻Larenziaに育てられる。

 5. ルペルカーリア祭りについての記述。その際、双子がヌミトルの遺児であることが明らかになり、彼らは王位簒奪者の大叔父を討ち取る。6. 孫たちは祖父を王と呼び、民衆はそれに賛同する。7. 双子は自分たちもurbs(都市)を建てたいと思う。鳥占いから言い争い、取っ組み合いとなり、レムスは倒れる。単独支配権を手にいれたロームルスはそのurbsをローマと名づけ、パラーティウム丘の守りを固める。

 ここでヘルクレースがゲーリュオーンの牛の群を連れてこの地に至り、その牛を盗んだカークスを退治し、この地の支配者エウアンデル[アルカディアからの亡命者]によって祭壇が奉献されたという伝説が語られる。

 8. ロームルスは法を定め、リクトル12名を採択し(要人警護官のようなもので、エトルリアの伝統を導入したと考えられる)、元老院議員100名を任じた。9. ローマには女性が不足していた。コーンスアーリア Consualia 祭を催し、近隣の人々を招待する。それに乗じて女性たちを拉致し、ロームルスは近隣の民に彼らの結婚を説得してまわる。10. 憤慨した近隣の人々はサビーニー王ティトゥス・タティウスのもとに集まるが、王の煮え切らない態度に業を煮やし、ceninesiのみでローマに攻め入り、ローマに敗北する。この時の戦利品はカピトーリウムのユッピテル神域に奉納される。これがローマで初めての聖域の起源である。11. ほかの近隣人もローマに侵入しては敗北する。12. 最後にサビーニー人が動いた。ローマの砦 Arx を守っていたタルペイウスの娘を籠絡して殺して砦に侵入する。ローマ人とサビーニー人の戦い。13. その時、拉致されていた女たちが仲裁に入り、講和が成立する。双方の王が王権を共有し、双方の人民を統合し、サビーニーへの譲歩の証として、人民名をクィリーテースとすることとなる。サビーニー軍を率いた将がはまった沼をクルティウス沼と命名。14. タティウス王の親族がラウレーンス人の使節に暴力をふるい、それが恨みとなって王は殺害された。また、近隣のフェーデーナェ市との戦争を行なう。15. ウェイイー人とも戦争になり、ローマは領土の一部を得る。ロームルス王はケレレース(意味は速攻隊)という親衛隊300名をいつも従えた。16. ロームルス王は、カンプス・マルティウスのカプラ沼の辺りで閲兵中に雷鳴と黒雲の中で姿を消した。集会で、プロクルス・ユーリウスは「天なる神々は、わがローマが世界の首長たることを望み給う。されば、ローマ人は軍事に励み、これに通暁せよ」と言ったと告げる。後継者について、平民は元老院が決定すべしとする。

 18. 神の法、人の法のすべてに通じているヌマ・ポンピリウスが指名され、鳥占いでそれが浄正とされる。19. こうして王権を得たヌマは、ヤーヌス神殿の扉の開閉を戦争と平和の指標とするとした。月の運行にあわせて暦を定めた。20. 様々な祭司職を定めた: マルス神のための祭司Salii12名、Pontifexなど。21. ヌマは43年間王位にあり、平和を保った。

 22. ヌマの死後、トゥッルス・ホスティーリウスが王となった。好戦的であった。23. アルバとの確執につき、戦争になるが、双方できるだけ穏便に済ませたいと思い、一案をうむ。24. ホラーティウス三兄弟とクーリアーティウス三兄弟による決闘で片をつけるということとなる[どちらがローマ側かアルバ側かは判然としないが、いちおう前者をローマ側としている]。25. ローマ側は2人が倒れ、1人は無傷。アルバ側は3人とも傷を負う。残った1人のローマ側は、3人を分断させるべく走り、個別に倒して凱旋する。彼らの墓。26. 倒されたアルバ側の1人と婚約していた勝者の妹が悲嘆の声をあげると、ホラーティウスは敵を悼むその妹を刺殺する。そして、妹殺害の廉で訴訟となるが、武勇のゆえに放免された。27. だがアルバとの平和は長続きせず、フェーデーナェ人とウェイイー人を引き入れてローマとの戦争を始める。アルバ軍はローマ側のふりをしたがその作戦は見抜かれており、戦勝祝賀会の宴で裏切り者の将を断罪して車裂きの刑に処し、アルバの住民をすべて立ち退かせてローマへ移住させた。29. アルバの町は、神殿など以外はすべて取り壊された。30. ローマの市街地は拡張し、カエリウス山(チェリオの丘)にも王宮がつくられ市街地となった。アルバ人もパトレース(上流階級のメンバー)に選ばれ、その中にはユーリウス氏もいた。王はサビーニー人に戦争を仕掛ける。31. サビーニー人に勝ち、王権は栄誉を得る。アルバ山に石が降ったことで、神々の祭儀を公的に行なうことにする。疫病が流行り、王も患い、祭儀を行なうも甲斐なく、ユッピテル神の雷に撃たれ、家ごと焼け死んだ。

 32. 次は、ヌマ王の孫、アンクス・マルキウスが王に選ばれた。中庸の人で、祭祀を重んじ、宣戦布告の掟を定めた。33. ラティウム人と戦を行ない、負けたラティウム人を市民団に受け入れた。ヤーニクルム丘(ジャニコロ)も併合し、ティベリス河に橋を架け、中央広場の上の方牢獄(Carcer o Tullianum)をつくった。ウェイイー人との戦いで海まで領土が延びたのでオスティア市を建設し、塩田をつくった。

 34. タルクィニー市に移民した裕福なコリントゥス人がいた。二人の息子、ルクモーとアッルーンスがおり、ルクモーが全財産を相続した。彼の妻は上流階級の野心家の女で、立身出世のためにはローマに移住すべきだと説いた。ローマのヤーニクルムに至った時、鷲が吉兆を示す。ローマでは、ルーキウス・タルクィニウス・プリースクスと名乗り、王家とも昵懇となる。35. アンクス王の没後、タルクィニウスは弁論を以て王位を得る。ラティウム人との戦争の後、大競技場を設え、戦車競技と格闘技からなる豪奢な競技会を開く。36. サビーニー人とも戦争をした。鳥占いを重視し、軍隊を強化し、百人隊三つの騎兵を1800名とした。37. この騎兵の働きはめざましかった。38. 古ラティウム人とも戦い、ラティウム種族全体を征圧した。これらの戦役後は、戦争中よりも忙しいほど、インフラ整備の事業を断行した。石造の市壁建設を準備し、排水溝を開削して低湿地帯を干拓し、カピトーリウムの神殿の基礎工事を行った。

 39. 王宮で育てられていた少年セルウィウス・トゥッリウスは睡眠中にその頭から炎が立ち昇るという現象が起こる。それ以降、その少年は実子のように教育され、王の娘婿となる。40. 先のアンクス王の遺児は、タルクィニウス王殺害の陰謀をめぐらせ、斧を王の頭に投げつける。41. 王妃の計らいで、しばらく王の死が伏せられたまま、セルウィウスが王の代行を務め、そして人民の決議を経ずに王位に就いた。アンクスの息子たちは亡命する。42. セルウィウスはウェイイー人や他のエトルーリア人との戦争を遂行しつつ威信を身につけた。43. 市民登録制度を定め、財産額に準じた階級に基づく軍制を定めた。市域を4つに分けてトリブスと呼び、財産額に準じて公職を課した。44. 市域をクィリーナーリス丘、ウィーミナーリス丘、エスクィリア丘に拡張し、土塁と溝と市壁で市域を囲む(mura serviane)。45. [アウェンティーノ丘に]ディアーナ神殿を奉献した。46. 先の王プリースクスの子あるいは孫のルーキウス・タルクィニウスとその弟は、それぞれ王の娘婿となっていたが、気性の荒い者どうしが情を通じて、互いの配偶者を葬り、結ばれる。47. タルクィニウスは元老院議事堂の玉座に座り、義父を非難し始める。48. セルウィウス王はそこに駆けつけるが、婿に投げ倒され、家に引き返そうとするも、追手によって殺害され、中央広場に二輪馬車で乗り入れた娘は、夫に王よと呼びかけ、帰宅する時に父王の遺体を見つけると轢いて通った。セルウィウス王は44年間王位にあった。

 49. ルーキウス・タルクィニウスには傲慢(スペルブス)の添え名がついた。舅の葬儀も行わなかったし、元老院の承認も得ずに王位に就いた。50. アリキーア市のトゥルヌスは集会でこのタルクィニウスを非難した。51. 王はこのトゥルヌス殺害を企み、釈明の機会も与えられずに水没させられて処刑された。52. ラティウム諸人民の首長たちは王の側に立っていた。53. タルクィニウスは軍事の技量に優れ、敵から得た金はユッピテル神殿造営のために取り分けた。ガビイー市との戦争には手を焼いたので謀略を企て、息子をガビイー市に送り、父と敵対しているような話をさせる。54. 息子はうまく立ち回り、戦争の指揮官に選ばれる。息子はガビイー市の領袖たちを告発したりして殺害、あるいは亡命させ、財産を没収し、戦わずしてローマに併合された。55. 次いで、アェクィー人との平和を打ち立て、エトルリア人との盟約を更新すると、タルペイウス山(カピトリヌス丘)のユッピテル神殿の建設を進めた。基礎を掘るうちに人間の無傷の頭蓋骨が現われた。エトルリアの予言者たちも、この地が諸邦の首座(カプト)たることを示すとした。56. 王は神殿建築のためにエトルリアじゅうから職人を招聘した。キルクス(競技場)に座席を設け、大下水道の暗渠化も行なった。木の柱から蛇が滑り出るという異常現象があり、デルフォイに神託を伺いに息子を行かせた。彼らに随行したルーキウス・ユーニウス・ブルートゥス[共和政ローマの初代執政官となる]は、母に最初に口づけした者が最高権力を握るとの神託を聞き、転んだふりをして大地に口づけた。57. 一行がローマに戻ると、戦利品目当てでルトゥリー人に対する戦が行われた。攻囲しながらタルクィニウスの息子セクストゥスは酒宴を張り、妻自慢に話が及び、コッラーティーヌスが妻の貞淑自慢をすると、ローマまで見に行こうということになる。ほかの妻たちは宴会を楽しみ、コッラーティーヌスの妻だけが家事をしていた。58. その数日後、セクストゥスはコッラーティーヌスの家へ行き、妻のルクレーティアを剣で脅して凌辱する。彼女は夫と父親に使いを送って帰宅を促し、暴漢に対する仇打ちを夫に訴え、自刃する。59. 男たちはルクレーティアの亡骸を中央広場に運び、出来事を訴えると、ブルートゥスとともにローマを目指した。フォロにてブルートゥスは弁舌をふるい、タルクィニウスを妻子もろとも追放することが決議された。60. この報に、取って返したタルクィニウスに対し、ローマの市門は閉ざされたので、王はカエレに亡命した。セクストゥスはガビイーに逃れたが、怨みを買っていたので殺された。傲慢王は25年間王位にあった。ケントゥリア民会で、2名の執政官 consoli [訳者は執政委員としている]が選ばれた。ルーキウス・ユーニウス・ブルートゥスと、ルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌスである(前509年)。

 

 第2巻: 共和政期(前509年〜) [ずっと近隣との戦争ばかり、そして延々と続く階級闘争、いまいち面白くないのではしょってメモる。]

 1. ここからは自由なローマ人民のことがらが述べられる。執政官の命令権は一年限りとされた。選ばれた両名のうち、ブルートゥス(のリクトル)が先に束桿を持った。元老院議員の数を300とし、騎士階級から選んでconscriptiとした。2. コッラーティーヌスのタルクィニウスという氏族名は、自由にとって好ましくないということで、説得されて辞職し、市民団を去った。代わりの執政官に、プーブリウス・ウァレリウスが選ばれた。3. 追放されたタルクィニウスの使節が王の財産返還を求め、王の復位について名門の青年たちの心を探る。4. 元老院は財産返還に応じるとしたが、王の復位の陰謀が明るみにでて、共謀した青年たちは投獄される。5. 王家の財産は平民の奪うに任せることとなる。タルクィニウス一族の土地はマルス神のために聖別され、後にマルス原 Campus Martius となった。そこの麦畑を刈り、ティベリス河に捨てたところ、それに泥が堆積して島ができたという。反逆者たちは処刑され、通報した奴隷は自由の身となった。6. タルクィニウスは対ローマ戦を起こそうとエトルリア都市を説得し、ローマに進撃する。王の息子とブルートゥスは刺し違えてともに絶命する。互角の戦いとなる。7. エトルーリア人は撤退した。それには、シルウァーヌス神がローマ側の勝だという声を轟かせたという言い伝えがある。それなのに、生き残った執政官は人望を失い、人民の威信は執政官のものより大きいと表明し、自宅をウェリア丘から平地に移すとまでした。8. こうしてウァレリウスは再び人気を得、同僚執政官を補充したが、老衰で他界したのでホラーティウスが補欠選任された。籤引きにより、この人が喪中にかかわらずユッピテル神殿の奉献を行なった。9. 翌前508年、クルーシウムの王ポルセンナがタルクィニウス一族のためにローマに進撃し、ローマを愕然とさせた。平民がポルセンナ王に屈しないよう、元老院は平民の機嫌取りをして、食糧配給を行なう。10. 橋の哨兵ホラーティウス・コクレスはひとりでポルセンナ軍の攻撃を引き受けるから全力で橋を落とせと兵士に命じ、橋が壊れると泳いでローマ側に戻った。この勇敢な行ないに感動した市民団は民会場に彼の立像を立てた。11. ポルセンナはヤーニクルム丘に陣を張り、攻囲に及ぶ。ローマへの穀物搬入を遮断し、兵士を潜入させて略奪を働かせた。12. 名門の若者ムーキウス・カスェウォラは、敵陣営に潜入し、玉座への接近に成功したが、王の顔を知らなかったので、書記の方を殺してしまう。逮捕されるが、いさぎよく炉に右手突っ込んで、放免される。13. ポルセンナの使節が講和条件を提示してきて、撤退した。人質にとられた処女クロェリアは、少女たちを率いて槍が降る中、ティベリス河を渡った。これに王は怒り、捕虜返還を要求し、戻されたが、後に王はその勇気を賞賛した。14. ポルセンナは陣営に食糧などを置き去りにした。ローマ市はこれを売却する。王は出陣が徒労に終わらぬようアリーキア市を攻めたが、ラティウムからもクーマェからも援軍が到着し、敗れたエトルリア人はローマに連行されて住み着いた(トゥスクス区に)。15. またしてもポルセンナ王からタルクィニウス復位の打診があったが、ローマは自由を選んだので、王はきっぱりと諦め、タルクィニウス一族をトゥースクルム市に送った。16. 前505年、ローマはサビーニー人と戦い、凱旋した。サビーニー人の間では平和派と戦争派が争い、多くの人がローマへ亡命した。その中に、アッピウス・クラウディウスがいた。同年、離反したアウルンキー人との戦争があった。17. アウルンキーのポーメーティア市を陥落させ、厳重過酷に報復し、凱旋を祝った。18. サビーニーの若者たちが娼婦を拐って戦争が起きそうになったことがきっかけで、ローマで独裁官が任じられた時、ローマ人もサビーニー人も恐怖に怯えた。19. 前499年、レーギッルス湖畔にて、ラティウム人との戦争が行われた。敵陣に中にタルクィニウスらがいるとわかると、凄まじい戦役となる。20. 独裁官ポストゥミウスが亡命者勢を討ち取る。独裁官はその場でカストル神のために神殿を誓願した。21. その後3年間は平和でもなく、戦争もなく、前497年、サートゥルヌス神殿が奉献された。前495年にはタルクィニウスの死亡が報じられ、ローマじゅうが歓喜した。メルクリウス神殿が奉献された。22. ウォルスキー人が密かに対ローマ戦の準備をする。23. パトレース(元老院議員たち)と平民との間に憎悪感情が燃え上がった。フォルムに現れた哀れな男が、従軍している間に借財で身を滅ぼしたと訴えた。これが引き金となり、暴動が起きる。24. その間、ウォルスキー人が攻めてくる。平民は、パトレースたちが武器をとればよいと叫び、兵士が陣営にある限り、その財産を取得したり売却してはいけないという布告が出される[一種のローマ市民のストライキですね]。すると、借財による被拘束者が従軍のために続々と集まった。25. ウォルスキー勢は、ローマ内部の抗争をあてにしていたが、たちまち撃退された。26. サビーニー人の掠奪軍がローマに迫る。これを征圧すると、アウルンキー軍が迫ってきたが、これも敗退させた。27. これらの戦勝にもかかわらず、執政官アッピウスは借財訴訟を裁き、多くの兵士の身柄が拘禁される。執政官はパトレースと平民の板挟みとなる。サビーニー人との戦争が迫っているのに誰も徴兵に応じない。28. パトレースと平民の凄まじい闘争!! 29. アッピウス・クラウディウスは、人民提訴の効かない独裁官を任じよう、さすればこの狂乱は直ちに止むだろうと言う。30. この意見は過酷であり、アッピウスその人が独裁官になりそうであった。だが、元老院は温厚な人マーニウス・ウァレリウスを独裁官に選ぶ。こうしてウォルスキー軍には勝利した。31. サビーニー人との戦争にも勝ち、独裁官は凱旋する。被拘束者の件で、独裁官は職を辞した。32. 伝えによれば、兵士たちはモンテ・サクロへ退去して陣を張り、ローマは大恐慌を来たした。元老院は雄弁な平民出身のメネーニウス・アグリッパを平民らに遣わし、ローマ全体を人体に例えて説得させた。33. 交渉の結果、トリブーヌス・プレービス(護民官)2名が任命された(前494年)。ウォルスキー人との戦争に勝利。34. 前492年。平民が市外退去していたため、食糧不足となり、様々な所にシキリアにまで穀物の買いつけを手配せねばならなかった。マルキウス・コリオラーヌスの平民に対する強硬論は平民を激昂させる。35. コリオラヌスは護民官によって告発され、亡命させられ、ウォルスキー人に迎えられた。36. ローマで大競技祭が行われた時、早朝に会場である家父が奴隷を笞で打った。平民ラティーヌスの夢にユッピテルが現われ、それが気に入らなかったので競技を盛大にやりなおすよう両執政官に告げよと言われ、怠っていたら息子が死に、自分の体も不自由になってしまった。お告げに従ったところ、体は治ったという。37. 競技会を見に多くのウォルスキー人が来ていたが、ローマ人の敵アッティウス・トゥッリウスの謀の言葉を間に受けて、ローマの元老院はウォルスキー人のローマ退去を決議した。38. トゥッリウスはこの侮辱を忘れてなるものかと演説し、 ウォルスキー人の反ローマ感情を昂らせた。39. ウォルスキー人は、このアッティウス。トゥッリウスと、亡命者マルキウス・コリオラーヌスに率いられて対ローマ戦を開始する。ローマでは平民が戦意を失ったので、和平の口上役を遣わしたが、講和の申し出は却下された。40. コリオラーヌスの母と妻のもとに女たちが集まり、彼女らを説得してコリオラーヌスのいる敵陣営へと乗り込む。高齢の母の訴えに、彼はローマ域から陣を引き揚げた。この事件はシェークスピアやベートーヴェンの作品に着想を与えた。彼がウォルスキー人に殺されたか長生きしたかは諸説あり。彼以外はローマ域に戻るが、戦いは互角のまま撤収した。41. 前486年。ヘルニキー人との同盟条約によりその領地の2/3を得たので、その配分に際して、執政官スプリウス・カッシウスにより史上初めて土地法案が公示された。ラテン権を得た被征服者にも土地を分配するとした気前のよい案はパトレースたちに不評であり、彼は公職を辞すと有罪判決を受けて殺された。42. カッシウスの土地法案は彼が没したあとも平民にとっては魅力を保ち、平民はますます敵対的になったが、外戦があり、協力して戦わねばならなかった。この前484年、カストル神殿が奉献された。天の変異があり、神々の威嚇が明示され、人々は恐れた。43. 前482年、市民抗争と外戦が激しかった。護民官は土地法案の可決を狙って、徴兵忌避を煽る。44. ウェイイー人との戦争には、ローマが内紛で瓦解するかもしれないとの期待から、エトルーリア人も参戦した。45. 内部抗争は見せかけのようでありながら、内部の敵への憎悪が心中にせめぎ合っていた。46. 前480年、ウェイイー人との戦い。ローマ兵はこれまでになく戦意に燃えた。高貴なファビウス一族(Quinto Fabio e Marco Fabio)の働きは鮮やかな見ものとなる。47. 執政官らは精力的に討ち合いをくり広げ、兵らを叱咤激励する。だがエトルーリア側も無謀になり、執政官に致命傷を負わせる。最高司令官を欠いたまま凱旋式をすることは拒否し、二つの葬儀を挙行する。48. ファビウス一族の人気はますます高まり、前479年、カェソー・ファビウスが執政官に三選され、市民協調のため、土地法案を提案する。銘記すべき合戦はなかったが、状況は不穏であった。ファビウス一族は、ウェイイー人に対し、自費で常駐の守備隊を置くと言明し、大々的に感謝される。49. その噂が広まり、ファビウス一族は褒めそやされた。306名のこの氏族が進軍する。50. ウェイイー人との戦いに勝つうち、ファビウス一族は敵を侮るようになり、ある時待ち伏せ攻撃をしかけられ、306名がことごとく討ち取られてしまった(前477年)。未成年の一名のみが生き残った。51. 意気の上がったエトルーリア勢はヤーニクルム丘を占拠すると、ローマの至る所を攻め荒らした。だが結局は散々に討ち取られた。52. カンパーニア地方から穀物が届き、食糧事情が安定すると人心は再び放縦に流れ、護民官は前執政官ティトゥス・メネーニウスを軍事作戦の不手際で告訴するが、実際は土地法案の反対が告訴の理由であった。前執政官は罰金刑に処せられるも、屈辱のために憤死する。前475年に執政官となったプーブリウス・ウァレリウスは護民官の告訴に反論し、身の危険を却た。53. 執政官プーブリウス・ウァレリウスは、ウェイイー人とサビーニー人を相手に戦争を行ない、莫大な戦利品を得る。54. 前474年、ウェイイー人との間に40年間の休戦協定が成立する。そして土地法案をめぐる抗争が激化する。人民に告発された前執政官は、公職の任は避けるべきで、束桿もトガなども葬儀の装飾にすぎないと警告する。執政官は護民官の下僚さながらだ、とも。パトレースたちは密談し、過激な動きにでる。裁判当日、フォルムに集まった平民は、護民官が家の中で死んでいたことを知り、恐怖に陥る。55. 怯える護民官、平民は我々の自由はおしまいだ、昔に逆戻りだと話す。平民のウォレロー・プーブリリウスは、百人隊長を務めた自分が一兵卒として徴兵されるいわれはない、と述べ、リクトルを差し向けられたが、逆に暴行され、大騒動となる。56. このウォレローは次の民会comiziで護民官に選ばれると、平民の公職者は民会で選出すべしという法案Lex Pubuliliaを提出する。パトレースたちは大反対する。護民官に再選されたウォレローは、法案を再提出し、議論が再燃する。57. 平民に憎悪されているアッピウスは抵抗したが、法案は可決する(前471年)。58. 初めて平民会 tributis comitiisで護民官 trubuni が選ばれた。ウォルスキー人、アェクィー人はローマ領を荒らし、アッピウス・クラウディウスが陣を率いたが、その命に兵士らは反抗的であり、彼は兵を見限る。59. これを知ったウォルスキー人は圧を強める。執政官アッピウスは敗走した兵を処罰し、処刑した。60. 一方、アェクィー戦では、温和な執政官クィーンティウスは兵士とうまくやり、戦利品は悉く兵士らに与えられた。61. 前470年、身分抗争は激化し、平民に憎悪されるアッピウスは尊大不遜に審問に応じた。唖然とした護民官は審問日を延期したが、それ以前にアッピウスは病死する。葬儀での顕彰演説には誰もが傾聴した。62. 同年、執政官ウァレリウスがアェクィー人に進軍すると雷鳴が轟き、雹が降ったので中止となる。もう一人の執政官はサビーニーの領域を犯した。63. 前469年、ローマの市民抗争は続く。ウォルスキー人とアェクィー人に対する戦役の最中、サビーニー人がローマに迫るが、反撃する。64. 相変わらず階級闘争が続く。前468年、外戦があり、内部抗争は鎮静する。ヘルニキー人がローマに協力する。65. ウォルスキー人を撃退する。彼らが逃げ込んだアンティウムをローマは攻囲して数日のうちに陥落させる。

 

 ともあれ、共和政期の階級闘争がとてもよくわかる。岩波文庫にはぜひ中と下も出版してもらいたい。▽ローマ王政期から共和政期の近隣諸国との地図

 

 古代ローマ史の年表と、ラテン語の原文とイタリア語の対比が読めるペーパーバックと、岩波文庫を貼ります。