ポリュビオスの本に比重が傾き、こちらは外出した時にしか読み進めなかったので、こちらのメモをupするのは遅くなってしまった。

 

 <第二次ローマ滞在(1787年6月〜1788年4月)>

 6月8日の書簡にて、ゲーテは、ヴェスヴィオ山の溶岩を見のこしたためにナポリを去りがたかったと述べている。

 6月16日の書簡で、ティヴォリにいた、ハッケルト氏といっしょに出かけたとある。ダニエレ・ダ・ヴォルテッラの絵について書いているが、この画家はミケランジェロの最後の審判に腰布を加筆した人であろう。

 6月20日: ファルネーゼのヘラクレス像がローマを発ったとある。その脚部はグリエルモ・デッラ・ポルタによって補修されていたのだが、オリジナルがボルゲーゼ家より提供され、差し替えられたと上巻にあった。新博物館建造計画がハッケルト氏の唱導により計画されている、ともある。

 6月末: 「私はあまりに大きな学校に入学してしまったために、なかなか急に卒業がゆるされないといった観がある」。

 7月10日、ナポリにいるティシュバインからの手紙: ローマからナポリへの道中について。真夜中すぎに到着したナポリは昼以上の賑わいであったとある。「食料品を買い入れることだけのために、これほどの人出や喧騒があるのを私は生まれてはじめて見た。また、こんなにたくさんの食料品がひと所にあるのも、二度とふたたび見られはしまい。トレドの大通りもあらゆる種類の食物で一杯であった。四季を通じて日々農産物の生育するような土地に住んでいる民衆とはいかなるものであるかを、人はこの地に来てはじめて知ることができる。今日などは五十万の人間が、ナポリ風に盛んに飲食したことを思っていただきたい。昨日も今日も食卓に連なっていると、人々が盛んに食べることは驚きべきほどで、その充溢さは罪深くすら感じられた。(ぜんぶ転写したいがきりがない!!)昨日売られた分は、今日はもはや全部食べ尽くされており、それでいて明日になれば昨日同様街路はまた食物で一ぱいにになるのだという。トレドは豊富さを見せつけるための劇場のようなものだ。・・・」

 「この地で囚われの身となっているトルコ人たちの写生をお送りする」とあるが、この時代にもなお、オスマントルコとイタリアでは人攫いが横行しており、カセルタ宮殿の建設にもそのような囚人が使役されたようだ。

 法王の毛氈: ラファエッロの下絵により、フランドルで織られたタペストリーのことである。ゲーテは使徒行伝にあるアナニアの死」の構図に感嘆し、詳述している。

 7月5日の通信: ゲーテは、ナポリへと発ったティシュバインの家にいる。

 7月17日: ゲーテ、ファルネジーナ荘へ行き、ラファエッロの壁画を見る。ゲーテはほめているが、私の知っている西山神父はなぐり描きだと言っていたが。私は、ラファエッロはルネッサンスの3画人のうちでは一番デッサン力がないと思う。

 7月20日:「私は短時間に非常に多くのことを考えかつ結合し得る天与の幸を享受しているために、一歩一歩事を進めるということは、私にとって退屈で堪らないのである。だが今や自らを匡正すべき時がきたのではないかと私は考えている」ですって。ゲーテって面白いですね。

 7月22日: バルベリーニ宮へ行き、レオナルド・ダ・ヴィンチの優秀な絵と、ラファエッロが描いた愛人の絵を見たというが、あそこにレオナルドの絵なんてあったかしら? 注釈には「虚構と謙譲」とある。

 7月23日: トラヤヌス帝の記念柱に登った、とある。検索したら、現代にも登った人がいることがわかった。クィリナーレ(モンテ・カヴァッロ)広場もすばらしいとある。

 7月24日: アントニーノ(マルクス・アウレリウス帝の)記念柱やキジ宮が月光に照らされているのを見た、とある。本当にローマの夜歩きはすばらしい。

 7月29日: ロンダニーニ宮のメドゥーザを再び褒めている。

 8月1日: 戯曲『エグモント』を書いている。

 8月18日: レオナルド・ダ・ヴィンチの優れた絵「ファリサイの徒に混じれるキリスト」は確認できなかった。ロンドンにあるというが・・・。

 8月23日: 「シクストゥス礼拝堂を見ないでは、一人の人間が何をなし得るかを眼のあたりに見てとることは不可能である」。

 8月28日: トリッペルがゲーテの胸像をつくっているとあるので探してみた。今、どこにあるのだろう? 複製がワイマールのゲーテハウスにあることはわかった。

Alexander Trippel, “busto di Johann Wolfgang Goethe”

 

 8月: ゲーテは、こんどの冬もローマで過ごそうという計画が熟してきたとある。

 涼しいシクストゥス礼拝堂で過ごしながら、ミケランジェロは彩色の点でも凌駕され得ないものがある、と述べている。まださほど煤けていなかったのかしら?

 9月1日: エグモントの曲をカイザーに依頼、とある?(結局はベートーベンに?)

 9月3日: ゲーテがカールスバートを遁走してからちょうど一年が過ぎた。この日、エジプトのオベリスクを見に行った、とある。それは1789〜1792年、ピウス6世によって修復され、モンテチトリオ宮の前に立てられることになるのだ。

 9月14日: ここ二、三日、フラスカーティに行っていた、とある。エトナが大噴火したとも。「ローマは今や全く馴染み深いものになり、そこには私を緊張させすぎるようなものはもうほとんどない」と。[私も同感だが、やはりローマは一番好きだ。]

 聖フランチェスコの血液が記念祭に担ぎ廻られる、とあるが、ナポリの聖ジェンナーロの血液みたいに融解するのかと思ったら、そういう記事を見つけた。

 10月: フラスカーティ、アルバーノ、カステル・ガンドルフォなど、カステッリ・ロマーニによく出かけて、写生したり、ヘルダーの書を読んだりしている[ゲーテは影響を受けたようだが、私は哲学に疎いのでこのあたりは面白くない]。

 また、ゲーテは、ローマ言葉で早口にしゃべるローマ女性と、やはり美しいミラノ女性に知り合った。二人を比較している。ミラノの女性にゲーテは英語を教えたりしたが、彼女がもうすぐ花嫁になる身だと知り、面食らう[ウェルテル的な道ならぬ電撃失恋!?]。きのこ事件にも戸惑う。社交会での付き合いは面倒だ。

 11月: 友人の作曲家クリストフ・カイザーがローマ入りする。ゲーテは戯曲の完成のために、造形美術をまったく等閑に付さねばならないと言う。『クラウディーネ』も書いている。イタリアの秋の風景は多彩だ、とある。

 報告: 戯曲のことを書いているが、私はあまり興味がない。ペルゴレージの『奥様女中』にも言及している。それに触発されてできたのが『戯れと悪口と復讐』とのことだが、モーツァルトの『後宮からの誘拐』によって一切水泡に帰した、とある[二度と再び人の口の端にかからなくなったとあるが、タワレコで売っている]。だがカイザーの古代音楽研究のおかげで、ゲーテたちは古い銅版画によって、セプティゾニウムなど、ローマの遺跡や建築物の往年の姿を知ることができた。

 ゲーテは、ヴァティカンとカピトリーノの博物館を松明の灯で鑑賞しようという催しを企てた。「美術上の素晴らしい遺物の間を興趣深くこうして巡回してゆくことは、それは大抵は、ちょうど人を恍惚とさせたあげく、次第にかき消えてゆく夢のように、魂のまえに仄かに漂っているにすぎないのであるが、しかしそれは知識と識見とに対して有益な影響を与え、この点において永続的な意義をも保有するものである」。また、「松明による照明の利益」について色々述べている[彫刻にとって照明がいかに重要であるかは既にベルニーニが実証していた]。ゲーテらが鑑賞したのはラオコーンの群像アンティノウス・ヘルメスメレアグロスナイルディオニュソスの頭部ピュッロス[軍神マルス]、裸形のウェヌスなど、いちいち書き写していられない。

 12月: 通信: スイス人の美術史家ハインリヒ・マイヤーとの出会いと親交はゲーテに良い影響を与えたようだ。謙遜で物静か、明晰で善良な人物で、この人との会話はぜんぶ記録しておきたいくらいに明確にして適正、浄福だとのこと。

 報告: ゲーテは三泉院(Abbazia delle Tre Fontane)と、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂を訪れた。アッピア街道沿いのマクセンティウスの競技場の遺跡、カイウス・ケスティウスのピラミデ、カラカッラ浴場の遺跡、サン・ピエトロ・イン・モントリオ、アクア・パオラなども訪れたとある。サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会については、フォルクマンの案内書の説明が拙劣だとしており、ラファエッロの巫女たちを褒めている[私はミケランジェロの影響を感じる; ラファエッロは影響を受けやすい人で、模倣の天才なのだ。構成力はあるが、デッサン力に乏しいとも思う。成熟する前に早世してしまったのが惜しい]。

 ゲーテが危うく惚れそうになったミラノの女性が婚約解消となり、病気になったと知らされたが、やがて快復したことを知ったとある。

 また、聖フィリッポ・ネーリのことを伝記ふうに書いている。狐の尻尾とか、謙虚さに乏しい尼僧とか、ナポリの部分と重なるエピソードも書いてある。「楽園のような明朗と艶美との背後には必ず何らか魔性の醜悪な企みが潜んでいる」という言葉は正鵠を得ている。フィリッポ・ネーリから教皇クレメンス8世への上申書に、教皇が多少の虚栄心を蔵せる、と言い切っているのは痛快。

 1788年1月: 通信: 歌劇はゲーテを楽しめないと言いつつ、「エルヴィンとエルミーレ」(この中の挿入詩すみれにモーツァルトが曲をつけている)や「クラウディーネ」などを書き送っている。/ アルカディア・アカデミー[1690年設立、アルテンプス宮]なるものに激しく勧誘されて入会した、とある。その会員証書を掲載。

 ローマの謝肉祭: ゲーテはこれについて詳述している。コルソ通りを馬車で行ったり来たりする人あれば、男装女装、様々な仮装をして劇をする者もあり、砂糖菓子ではなく石膏でつくった「コンフェッティ」を投げつけあったりもする。路床には滑り止めにポゾランが撒かれており、クライマックスには、オベリスクのそびえるポポロ広場からヴェネツィア広場まで、競馬が行われる。観覧席も設けられ、雑踏でてんやわんやの様子。[wikipediaによれば、1874年に事故で死傷者が出たため廃止された]。この騒ぎが捌けると、公衆の大半は劇場へ流れ、喜劇、悲劇、下等な見せ物を楽しむ。アリベルティ劇場における凝った仮装舞踏会にも言及しているが、本人は参加していないから又聞きかしら。夜には掃き清められ、これが8日間繰り広げられるのだ。最終日、火曜の夜には「モッコリ」が行われる。人々は仮面をつけ、短い蝋燭を持ち、「モッコロを持っていない人は死ね!」と騒ぐのだ[ゲーテのイタリア紀行下巻の白眉はこの謝肉祭の描写かも]。

 2月: 通信: ゲーテは造形美術に手を染めることについてはもう諦めている。そしてローマを去る腹を決めている。

 3月: 通信: シクストゥス礼拝堂でミサに参列し、グレゴリオ・アレグリの音楽に感激したり、ボルゲーゼ画廊を訪れたりしているが、そういえば、ゲーテはベルニーニについて何も言及していないのでは? サン・ルーカ・アカデミーにあるラファエッロの頭蓋骨について述べているが、色々検索しても真正かどうかはわからなかった。/ パイプオルガンの音を煩わしいと述べている。/ クニープから、シチリア旅行で描いた絵を贈られた。復活祭の爆竹や花火の音が聞こえる、とも。

 3月: 報告: 復活祭に際して、フィリッポ・ネーリと七大本山について記す。[友人のカール・フィリップ・モーリッツによる『美の造形的模倣について』の文には私は頭痛がした。美は感性によって捉えるもので、多弁を弄するものではないと思う。]

 4月: 通信: ゲーテの心はもうローマを離れており、何の関心ももたなくなっている。滞在中に蒐集した彫刻の模刻など、様々なものを人に譲っている。ゲーテが滞在した家(Via del Corso 18)は今博物館(写真100枚以上あり)となって公開されている。お気に入りであったルドヴィシのユノの頭部をアンジェリカに贈るつもりだ、とある。アンジェリカの家にお手植えした松の木が、彼女の死後になくなってしまった、ともある。/ サン・セバスティアーノのカタコンベでは気分がわるくなって見学できなかったようだ。クロアカ・マクシマへ潜ってみたかどうかは不明である。

 最後にオウィディウスの詩(Tristia 第1巻第3の哀歌)が繰り返し心に蘇ったようで、それが自身の詩作を妨げたので、そのままラテン語でも転載している。

 

          ローマを去りなんとする最後の夜の
      悲しき街の姿を心に辿り、
      懐かしきものへの数多を捨てざりしかの世を思えば、
      はふり落つる涙の珠。
      かの夜、人声も犬の遠吠もしずまりて、
      月姫(ルナ)のみ、空たかく夜の車を馭しいたりき。
      われはそを仰ぎ、またカピトルの殿堂を眺めしが、
      ま近にわれらが守護神の宿り給いしも今は徒なりしよ。

 

[もう二度と来られないかも、となったら私も涙かも。] 

 

 ▽これはとても有用なサイト。ゲーテが交友した人物のリストである。

 16世紀の教会音楽家パレストリーナの作品集