このナポリとシチリアの紀行は、何度読んだかわからない。本もボロボロで、たくさん付箋や傍線もある。だがメモを残していないので、再々読する。

 

 ナポリ(1787年2月22日〜): ローマを発つ[未整備の現国道7号線を通ったようだ]。ヴェッレトリでは、ボルジャ・コレクションを見た。ポンティーナ沼沢地を貫いて復旧されたアッピア街道を通り[私も走った]、テッラチーナからフォンディに入った。宿屋は粗末。フォルミアに着き、遠くにガエタ城を見る。海岸では、古代建築の遺物とおぼしき石材を見て弄ぶ。宿にはガラス窓がなく寒かった。

 2月25日、ナポリ入り。「ナポリの人たちは、自分たちのところは天国だと信じこみ、北の国々は実に惨めなものだと思っている。"Sempre neve, casa di legno, granignoranza, ma danari assai."」そして見るからに朗らかで自由で潑刺としている。無数の人が縦横に駆けまわる。王は狩場に、そうして王妃は御吉兆、と。

 2月27日、ポジッリポの洞窟[今は考古学公園として整備されている]へ。「ナポレオンにくると、みんなが気がふれるというのも、無理ならぬ話であると思った。・・・幽霊に出会った人は、二度と楽しまなくなるということであるが、これと逆に父はしょっちゅうナポリのことを思いこがれていたために、全く不幸になり切るということが不可能であったということができる。」

 2月28日、宮廷画家のフィリップ・ハッケルトを訪ねる[彼の作品はカセルタ宮などでたくさん見られる]。

 3月1日、ワルデック卿に招待されて、ポッツォーリに出かける。ソルファターラの火口跡にも行くが、円形闘技場についての言及はない。

 3月2日、ヴェスヴィオ山に登る。騾馬と徒歩で。"Vedi Napoli e poi muori!"

 3月3日、「ここにいると、ローマのことなど全く思いかえして見る気にもなれぬ。当地の快濶な四囲にに比べると、テヴェレ河の低地にある世界の首府は、僻地の古寺みたいに感じられる。」とはよく言ったものだ。パレルモ行きの船を見送ってどんなに憧憬を感じたことだろう、とも言っている。

 3月5日、ジローラミニ教会のファサード裏の「神殿からの商人追放」(早描きのルカ・ジョルダーノ)と、ジェズ・ヌオヴォ教会のファサード裏の「ヘリオドロスの神殿追放」(F.ソリメーナ)[ソロモンの神殿を冒涜しようとしたシリア王の大臣ヘリオドロスが馬に乗って天使を二人従えた神の使いに追放される]などを見た。そして、満月の夜のキアイアと渚を散歩して絶景を楽しむ。また、好ましい青年法律学者ガエターノ・フィランジェーリと知り合いになり、革命的な歴史哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコを紹介され、その著書を卒読した。

 3月6日にはまたしてもティッシュバインとヴェスヴィオ山に登った。逞しい強力に引っ張ってもらい、杖をついて。眼前の危険というものは、どうも心を引き易い、のだそうで、どうしても噴火口まで行きたくて、降り注ぐ灰の中を下りて、ティッシュバインに叱られた。様々な溶岩を観察し、ナポリの下層民の洞窟のような住宅 basso に眼を止めた。

 3月7日、コロンブラノ宮にある青銅の馬の頭を見に行く[今は考古学博物館にあり、ヴァザーリの説に従い、ドナテッロの作だと考えられている]。

 3月9日、ワルデック卿とカポディモンテ宮に行った[ファルネーゼ・コレクションはまだ展示されていない]。

 3月11日、ティッシュバインとポンペイを訪れる。せせこましく、小さい、とあるのはまだ発掘が進んでいなかったからだろう。壁画が色鮮やかというのはわかる。差当りの必要品の豊富な土地は勢いまた、呑気で、苦労知らずの、幸福な性格の人間を作り出す、とある。風変わりな公女(フィランジェーリの妹)いわく「(ナポリでは)誰もかも、ずいぶんと昔から暢気に愉快に暮らしておりますの。たまに首吊りの刑罰が行われるだけで、そのほかは何もかも、上々の景気ですわ」。

 また、ポルティチの博物館が楽しみ、ともある。出土品はまだここに集められているのである[考古学博物館の開設は、ファルネーゼ・コレクションのローマ彫刻などがナポリに着いてから1816年に布告される]。

 3月14日、カセルタへ行く。王宮のために水道が引かれていることも書いている。カセルタ宮のpalazzo Vecchio[Reggiaとは別棟で、ゲーテらはここに泊まった]ではハッケルトが仕事をしている。16日にはここからカプアの遺跡などを見に行き、植物の成長、田畑の耕作について(豊穣ということを)はじめて理解したとのこと。[カセルタ辺りは Terra di Lavoro と言われたのだから]

 「ローマにいると勉強をしたくなるが、ここではただ楽しく暮らしたくなる」と言い、ハミルトン卿と彼の見出した20歳くらいの乙女[エマ]のことを書いている。この人たちの家はポジッリポの絶景の場所にあった。

 「この地の人々は・・・終日楽園の中を、別段あたりを眺めもせずに、彼らは走りまわっているのである。そしてすぐ隣の地獄の口が荒れはじめると、人々は聖ヤヌアリウスの血に縋ってその場を逃れる。・・・」

 3月18日、ヘルクラネウム[Ercolano、まだ地下道状態であった]とポルティチの博物館を見に行く。博物館ではスケッチ禁止と言われたようだ。ティッシュバインは自分の都合上、ゲーテの旅の新しい伴侶としてクニープを紹介してくれる。

 3月20日、3度目のヴェスヴィオ登山を敢行。溶岩の噴出するのを見る。

 3月23日、クニープとパエストゥムへ行く。▽クニープの絵。クニープは、ゲーテとのシチリア旅行の前に、ナポリに将来を誓った恋人がいると打ち明ける。「伴侶」というからいろいろと想像してしまった。

wikipediaより

 3月29日、いよいよナポリを発つ。よい天気でお誂向きの北風が吹いている。

 

 シチリア(1787年3月29日〜): 風が南西風に変わる。ゲーテは船酔いする。ウスティカ島とガッロ岬の辺りを行ったりきたりして、4月2日の午後3時にようやくパレルモ港に着く。モンテ・ペッレグリーノの景色は確かに素晴らしい。港に面した Porta Felice はアーチはなくとも立派な市門である。確かにシチリアでは宗教祭列の通過のためにそうなっているのだと理解する。ゲーテの宿はブテーラ宮の一翼だったようだ。それならばすばらしいはずである。夕方の馬車の行列について書いている。パレルモに住む貴族たちが波止場まで来て散歩するのである。ゲーテはこの島を「島々の中の女王」と呼んでいる。新緑したたるVilla Giuliaには感動したようだ。まさにすばらしい季節にシチリアを訪れたものだ。景観を愛でている時にガイドに歴史の話をされるのは興醒め、というのには同感である。ゲーテはタモリ的に岩石を観察して、貝殻石灰などを見つけ、この島が海底から隆起したことを確認している。

 4月5日、パレルモ市街の建築物や噴泉には芸術精神が欠けていると断じている。また、道路の塵埃は、夕方に集まる貴族の馬車のためだとある[ほんとかしらね]。聖女ロザリアに興味をもったようで、聖所を訪れている。

 4月7日、ゲーテは『オデュッセイア』を買う。この島でホメロスの詩の世界に浸るつもりのようだ。4月9日、バゲリーアのパラゴニア荘を訪れる[今ではずいぶん敷地が狭くなってしまったようだ。鏡の間の天井の鏡も腐食していてよく映らない]。

 4月10日、モンレアーレに登る。ドゥオモを訪れなかったのだろうか? 聖マルティーノ修道院には行ってお昼も食べたようだが。

 4月11日、ノルマン王宮を訪れる。ここに、青銅の牡羊はまだ二匹あったのだ[今は考古学博物館にあり、複製がもとあったシラクーサのマニアケス城にある]。その後で訪れた地下墓地というのは、モーパッサンの訪れたカプチン修道会の地下墓所とは違う。今度訪れてみたい。

 4月12日、トッレムッツァ公の博物館を訪れる。

 4月13日、「シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ L'Italia senza la Sicilia non lascia immagine nello spirito: soltanto qui è la chiave di tutto.」とシチリアを褒めちぎっている。飲食物も美味だが、調理法がいまいちだとはお気の毒なことです。カリオストロに興味をもち、詐欺事件の調書を読み、日記に記し、イギリス人になりすましてその母と妹に会いに行ってしまい、同情してお金を渡しそうになってしまう。4月15日、祭礼について記しているが、7月15日の聖女ロザリアの祭りの様子を商人に尋ねたようだ。祭りの前に雨が降って街路を浄めるとのこと。

 4月18日、パレルモを発ち、アルカモに投宿する。「豊穣な田畑は緑をなして静かに連なり、その広い道には野生の叢林や灌木が、狂っているように花をつけて輝いている。」毛氈を敷きつめたような草花は、この季節のシチリアの遺跡につきものである。「蘆薈」という訳語は何かしらと思ったらアロエとのこと。しかし、セジェスタで私の目についたのは竜舌蘭 Agave であった。モーパッサンも然りである。ま、両方あったと思うが。るりぢさは Borago なのね。砂糖漬けにして食べられると新潟のイタリアンシェフ(ラ・バルカローラの加藤康昭氏)が言っていたのを思い出す。

 4月20日、セジェスタの遺跡を訪れる。石材のほぞが断ち落としてないとか、この未完の神殿をよく観察している。ドーリス式神殿の柱には台座はないのだ。劇場の廃墟は見映えがしない、とはまだ発掘が進んでいなかったのでしようね。

 4月21日〜22日、カステル・ヴェトラーノからシャッカへ移動しているが、後の方にセリヌンテのことを書いている。立ち寄らなかったのかしら? 

 4月23日にはジルジェンティ[アグリジェントという地名に戻したのはムッソリーニだから]に着いている。岩石観察に熱が入っている。この町の本山[訳者はドゥオモのことをこう訳している]で、ヒュッポリトスとファイドラーの話が浮き彫られた石棺を見たとあるが、訳者は継母を乳母と誤訳しており、神話の説明も間違っている[この石棺を私は、サン・ニコラ教会で見たが、2021年の春にドゥオモに戻されたようだ]。やはりそこで見たというアッティカ壺がどれかは調べてもわからなかった。たぶん今は考古学博物館にあるのだろう。ゼウス神殿の石材は、エンペードクレ港の建設に使われる前なので、たくさんあったようだ。遺跡にメロンが元気よく成長していた、とある。馭者が美味しそうに食べる朝鮮アザミ carciofi の旨さはゲーテには理解できなかったようだ。萼に棘のあるシチリアのは特別に美味しいのに。イナゴマメはラグーサ県下にはもっと多いがゲーテは行かなかった。もっとひどいことは、穀倉を見たいがために、シラクーサ行きをやめて、エンナに行ったことである。ゲーテの時代にはカストロ・ジョヴァンニという地名であった。私が行った時もこの町は無愛想であり、古いモッツァレッラでお腹をこわして三日間ほとんど歩けなかったことを思い出す。ゲーテも食糧が尽きてみじめだったとある。ゲーテがシラクーサをはしょったのは大きな間違いであった。

 5月1日、カターニアの手前で一泊し、Leon d'Oro という宿にだけは泊まるまいと決心するが、Leon d'Oro は良い宿だったようだ。Paternò では溶岩と石灰岩の観察。ウチワサボテンにも注目している。モッタは巨大な岩山だとある。

 5月3日、カターニアにて、ビスカリ公の宮殿を訪れる[私も中を見せてもらったことがある]。ベネディクトゥス派修道院も訪れたようだ。サン・ニコロ教会は私も訪れたが、Donato Del Pianoパイプオルガンのことは知らなかった。エトナ山にも登りたかったようだ[私は9月に登ったがまだ雪があり、地上ではTシャツなのにあちらでは厚手のヤッケが必要であった]。アーチの岩礁には激しく惹きつけられたとある。カターニアの古代遺跡も見たようだが、さほど興味をもたなかったようだ。

 5月6日、タオルミーナへ。ゲーテの時代は劇場の客席部分が十分に発掘されていなかったようだが、大きな感銘を受けている。日没まで町の中を逍遥していたようだ。海岸に下りて、「超古典的な土地では詩的な気分に囚われていた」とあるので、オデュッセイアの気分を満喫したのであろう。

 5月11日以前にメッシーナに移動している。パレルモからの馭者と別れた。そして、4年前(1783年2月と3月)の地震によって被災した町の様子に胸を痛め、不快だとまで言っている。そこの総督が短気を起こしているのを目撃し、その「キュプロクス」に招待された食事を失念して遅刻した。

 5月14日、フランスの商船に乗り、メッシーナを離れる。またしてもひどい船酔いにかかる。赤ぶどう酒と白パンで癒したようだ。海豚に銛を打ち込むのを見学したようだが、感想はない。カプリ島とソレント半島の間で動きが止まってしまったので、ナポリ着は遅くなった。ゲーテの宿は、カステル・ヌオヴォ前の広場に面したモリコーネというらしい。

 1787年5月17日、「シチリアの旅は簡単に手取り早く片付けた」ですって!!「私は昨日パエストゥムから帰ってきた」とある。シチリアから戻ったばかりでは、と思ったのでイタリア語の文にあたったが、やはりパエストゥムに遠出したようだ。元気ですね!!

 5月26日の日記に、フィリッポ・ネーリについての記述がある。ゲーテによるこの聖人の諧謔のエピソードはとても面白い。ベルニーニを勉強していてこの聖人について知ったのが、こんなに痛快な人だったとは。

 5月27日には、Presepe(プレセピオ)について書いている。12月のサン・グレゴリオ・アルメーノ街を見ていたらもっとびっくりしたことだろう。

 5月28日には、ナポリの下層民の生態を観察している。真の無為の徒を発見することはできなかったとか、大量に消費される食物のこととか、実に面白い。「大ギリシャ」という呼称についてゲーテは誤解している。本土のギリシア人ではなく、南イタリアに入植したギリシア人が自画自賛したのである。

 5月31日、ゲーテの心はローマにおけるキリストの生体の祝祭に飛んでいた。しかも、前日のヴェスヴィオ山の噴火と流れる溶岩に心が奪われ、人付き合いの暇乞いなどに気が入らなかったのであるが、カポディモンテの王宮の最上階に住む Giovane 侯爵夫人の所で、噴火するヴェスヴィオ山の夜景という光景を見て陶然とする。

 6月3日、ナポリを発ち、郊外の警備線で、エスプレッソコーヒーを捧げ持って現れたクニープに大感動し、言葉を失う。クニープはまさにもう完全なイタリア人である!!

 

 いやはや何度読んでも面白い。でも次はこの本の下巻ではなく、ポリュビオスを読むのだ。1618頁もある。