私はかつてローマやシチリア、ナポリの勉強をしながらこの本を読んだ。だが、自分の勉強に関わりのないローマ以前の部分は流し読みしていたので、この際、改めて読み直すことにしたのである。メモる。

 

 ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe (フランクフルト生まれ、1749-1832年) は、ドイツ北東部ザクセンのワイマール公カール・アウグストに招聘されて大臣となり、北緯50度の悪天候から逃れたくて、イタリアへ思いを馳せた。ゲーテに無期限の休暇を許したワイマール公は太っ腹だ。旅をしながら『イフィゲーニエ』を完成させ、『タッソー』を書き進めとのことだが、そのうちに読んでみよう。

 このイタリア紀行では詩人というよりも古美術研究者という印象であるが、改めて読んでみると、鉱物学、植物学、何もかも研究する博物学者のようだ。そして関心はかなり偏っており、物言いは独断的である。

 

 カールスバートからブレンナーまで(1786年9月4日〜): カールスバートは今はチェコのライプツィヒである。ゲーテはこっそりとここを抜け出し、南下する。バイエルンではヴァルトザッセンの修道院に目をとめ、それが粘板岩(スレート)の山地にあると言う。まるでタモリみたいだ。ティルシェンロイトから南方への街道は花崗岩の砂でできていて路面は三和土のようだ、って[R公園のコートもたぶん花崗岩の砂みたいだ]。郵便馬車のスピードは速く、翌朝、レーゲンスブルクに到着する。ドナウ河の流れる町だ。イエズス会士の理智と技能を褒めている[1773年に弾圧されたのだが]。建築の石材を観察; 角礫岩、斑岩・・・。ゲーテは鉱物愛好家なのだ。ミュンヒエンにて美術品を鑑賞してからミッテンワルトへ。そしてインスブルックへ。ここはオーストリア領なのだ。景色のすばらしさを讃えている。ブレンナー峠を登る。人間観察。この山地では鳥の羽が珍重されるということにも言及。

 

 ブレンナーからヴェローナまで(1786年9月11日〜): ブレンナー峠を猛スピードで越え、ボーツェンへ。ボルツァーノのドイツ語の地名だ。山麓は、ぶどうとかとうもろこしの畑である。桃や梨が売られている。肥沃な谷間に日は暑く照りつけている。トレントの町を歩き回り、イエズス会の没落を嘆く男を観察する。ロヴェレド(伊名はロヴェレート)ではもうドイツ語が話されていない、とある。そこからガルダ湖に寄り道をするべくトルボレTorboleという港町に行く。そこの宿屋にはトイレがなく、中庭で用を足せと言われる。鱒も美味だが、無花果と梨が珍味、とある。未明にトルボレを発ち、北風を帆に受けていたが、途中、逆風にあい、マルチェジーナ Malcésine(マルチェージネ)に上陸する。そこの城砦をスケッチしていたら、奉行まで出てきて問題視された。オーストリア側のスパイだと思われたようだ。ゲーテがフランクフルトの出身だとわかり、ようやく放免された。以後はすてきな船旅をしてバルドリーノに上陸し、そこから騾馬にまたがり、9月14日ヴェローナに入る。チロル人がポレンタ(とうもろこし粥)を食べていて、栄養不良のような顔色をしていたとある。

 

 ヴェローナからヴェネツィアまで(1786年9月16日〜): [この訳者はヴェロナと書いているが、アクセントはVeにはない。Rovereto、Torbole、Malcésine、いずれもアクセント位置が間違っている。]ここでは円形劇場、ポルタ・パリオなどについて書いている。劇場の玄関に、詩人で考古学者のシピオーネ・マッフェイ侯の像があると書いてある[ここのMaffeiというレストランで食べたことがあるが関係あるのかしら?]。ブラ広場で見かけるZendaleという女性用黒衣、思わず検索してしまった。木乃伊に見えるとあったので。ゲラルディーニ画廊でオルベットの傑作「サムソンとデリラ」を見たとあり、これも検索してみた。Palazzo CanossaPalazzo Bevilacqua のことは知らなかった。Paolo Veroneseのことも絶賛している。

 ゲーテは自分たちのことをキンメリア人みたいな、永遠に暗い雲霧に包まれている、と言う。時間の数え方が、こちらでは正午が17時、19時と言う、とあるが、わけがわからない。

 9月19日にヴィチェンツァへ、豊穣な景観の中を進む。パラディオの建築をいろいろ見てまわる。スカモッツィの家も訪れる。郊外のロトンダも。イタリア人観察も笑える。黒髪の美人がいる、とも。

 9月26日、道中の景観を愛つつ、夜パドヴァに着く。パラディオの作品集(銅版の複写)を手に入れる。サンタントニオ聖堂にはピエトロ・ベンボの胸像がある、とのこと。パドヴァ大学の解剖劇場をけなしている。Prato della Valleについても[私は記憶にない]。エレミターニ教会にあるマンテーニャの絵を絶賛している。サローネとは Palazzo della Ragione の2階の広間ことであろう。仕切られた無限だ、と。サンタ・ジュスティーナ教会も去り難いとある。

 

 ヴェネツィア(1786年9月28日〜): ブレンタ河を乗合船で下り、海狸(ビーバー)共和国の潟に乗り入れる。近寄ってきたゴンドラを見て、ゲーテは父の玩具を思い浮かべた。「イギリス女王」という宿に泊まる。船の中にいたドイツ人巡礼のことを書いている。「イタリア人は人に物を施すのを好まぬ」とあるが、一概に決めつけるのもいかがなものかと思う。リアルト橋やサン・マルコ広場を訪れたり、地図を買って、鐘楼に登ったり、観光客しながら、この町の不潔に苦言を呈している。パッラーディオを尊敬するゲーテは、カリタ修道院を訪れ、詳述している。これは今はアカデミア美術館になっている。イル・レデントーレ、San Francesco della Vigna [島の東側にある。今度行ってみたい]へも。メンディカンティ教会では、音楽学校の練習を見学した。オペラや仮面劇、悲劇を鑑賞したり、ドージェの館で訴訟事件を傍聴したりもしている。海軍工廠も訪れた。ドージェの豪華ガレー船、ブチントーロにも言及している。ゴンドラに乗って、タッソーやアリオストを船乗りが歌うのを聴くという経験もした。パオロ・ヴェロネーゼの名画「アレクサンドロス大王の足下に跪くダレイオス王の女家族」(今はロンドンナショナルギャラリー蔵)を見るためにピサーニ・モレッタ宮に行った。

 海軍工廠の門前にあるという一対のライオン像を褒めていたので検索してみた。そんなに古いものを野ざらしにしておいてよいのだろうか。アグリッパの彫像は、グリマルディ宮の中庭にあったが、今は考古学博物館にあるようだ。

 リドで貝拾い、魚市場では海の棲息者を吟味する、と。キオッジャ(キオッツァと書いてある)へ行ったり、聖マルコの塔に再び昇って潮の満干を観察したりする。キオッジャで見たゴルドーニの喜劇に感嘆する。この南国の地を好きなのは気候のせいだけだと断言する。仕事のない所に住もうとは思わない、とは確かに言えている。パッラディオに心酔したため、ウィトルウィウスの本も買ったようだが、頭脳に負担で、行李の重荷になってしまったようだ。よくあることだ。[土産をたくさん買い込むのはまだ若いということだ。]

 

 フェッラーラからローマまで(1786年10月16日〜): ゲーテはヴェネツィアからフェッラーラまで船でポー川を遡行したようだ。この町ではたいしたことを書いていない。Guercinoの生地チェントに行き、この画家のことを少し書いており、「復活したキリストと聖母」を褒めている。この画家の作品リストはこちら。

 ボローニャではラファエッロのチェチリアを見ている。そして塔に昇って景色を眺めている。カラッチ、ドメニキーノ、グイド・レーニなども見ているが、絵の題材が馬鹿げているとか言っている。グェルチーノの「キリストの割礼」と、ラファエッロの聖女アガタをほめているが後者は検索しても見つからなかった。また、鉱物好きのため、ボローニャ重晶石を見に行っている。

 フィレンツェにも寄ったが、大急ぎで駆け回り、ドームや洗礼堂などを見たものの、大慌てで町を去ってしまった、とある。トスカーナの田園と農作物の豊かさは書いている。アレッツォの町もほとんど素通りである。ペルージャも然り。

 アッシージでは、ミネルヴァ神殿にだけ興味があって、聖フランチェスコ聖堂はパス。四人の巡査に取り囲まれたりしている。テルニは震災の傷跡があるとのこと。このへんは旅路を急ぐあまり、服を着たまま眠り、夜明け前に起床して馬車に乗り込むという状況である。

 チヴィタ・カステッラーナでは、火山質の凝灰岩の上に建てられているとか、見える山が石灰岩であるとか、やはり鉱物オタクらしいことを記している。

 

 ローマ(1786年11月1日): ゲーテはポポロ門から入った。ここ数年間ローマに行きたい病にかかっていたとある。それでフィレンツェにもたった3時間しか滞在しなかったし、他の町々も飛ぶように旅してきたのである。急いでいた理由のひとつが万聖節を見たかったからだというが、クィリナーレ宮が一般公開されていたくらいでたいした催しはなかったようだ。ゲータが見たというティツィアーノの「聖母子と諸聖人」は今はヴァティカン博物館の絵画館にある。グェルチーノの「聖女ペトロニッラの埋葬」はカピトリーニ博物館にある。ゲーテはこれは埋葬ではなく、墓穴からあげられて復活する、と解釈している。かもしれない。

 ゲーテは画家のティッシュバインに案内されてローマを観光している。これ以上の指導者がどこに見出せよう、と喜んでいる。ローマはわれわれが圧倒されるほど意味の深いものに充満している・・・実に鑑賞と驚嘆の連続で、夜になるとわれわれはすっかり疲れ切ってしまう、と。

 ロトンダ(パンテオン)の内外の偉大さに心を打たれ、ベルヴェデーレのアポロに感動し、パラティーノの丘に登り、岸壁のようにそそり立つあの王宮の廃墟に立った[でも、アウグストゥスの家はまだ発掘されていない]。11月11日にはアッピア街道辺りを、水道橋までも見て回った。

 11月15日にはフラスカーティに出かけた。見晴らしのすばらしさを褒めている。17にはローマに戻り、Sant'Andrea Valle にあるドメニキーノのフレスコ画[祭壇画はMattia Preti]、ファルネーゼ宮のカラッチのフレスコ画、翌日にはファルネジーナ荘でプシケの物語、San Pietro in Montorio にてラファエッロの「変容」[今はヴァティカン博物館の絵画館にある]を見た。どれも昔馴染みの友に会うようだ、と。

 ネロの宮殿の廃墟[ドムス・アウレア]では石材の破片を拾い集めた、とある。

 11月22日には、ティッシュバインとサン・ピエトロ聖堂へ出かけ、シクストゥス礼拝堂にてミケランジェロの作品に驚嘆する。その男性的な力、偉大さはとうてい筆舌の尽くすところではない、と。円蓋にも昇り、海や山並までも見渡した。その後、昼食をとり、トラステーヴェレのサンタ・チェチーリアまで歩いた。

 11月24日、ローマではよく殺人事件が起きる、とある。ナポリではヴェスヴィオ山が噴火したので、ガラガラ蛇に惹きつけられるごとく、人々はローマ見物を中止してナポリへ靡く、とのこと。だがゲーテは我慢している。

 11月末の天気は良いとのこと。28日には再びシクストゥス礼拝堂を訪れる。ミケランジェロに心を奪われたのだ。その後で見たラファエッロの画廊は見るべきではなかった、と酷評している[大いに賛成]。その後、villa pamphiliに遊ぶ。

 ローマの古代遺物にも興味を覚えるようになった。「世界の歴史は全部この地に結びついており」、自分には「真の再生」が始まった、とある。

 だが、ローマに通暁するのには、まず数年を要する。だから通りいっぺんの観光客が羨ましいくらいだ、とも[同感、しかし一生かかっても通暁は不可能だ]。

 12月25日、傑出した品々を二度目に観察し始める。ロンダニーニのメデューザに言及しているが、ミュンヘンに買い取られてしまったようだ。ティッシュバインが描いているゲーテの肖像[164×206cm、フランクフルト、シュテーデル美術館]についての言及もしばしばある。

 1月6日、ジュノー(ユノ)の巨大な頭部[Era Ludovisi、オリジナルはアルテンプス宮に、高さ5m半以上の神像であったものに属した?]を部屋に据えた。

イフィゲーニエ』の原稿のことにしばしば言及している。いつか読もうかしら。

 クリスマスや顕現節のような宗教祭事も見てまわったが、荘厳な眺めではあっても、「新教徒的なディオゲネス主義」に毒されているゲーテを感動させることはなかった。自分は戯曲を書いているくせに、芝居のことを思うと恐ろしい、とは!!

 ジュスティニアーニ宮のミネルウァ[ヴァティカン博物館、Braccio Nuovoにある]に「敬服おく能わざる」とある。私の目には止まらなかった。今度行ったら見てみよう。

 伝道教会[ベルニーニとボッロミーニのファサードをもつPalazzo di propaganda Fide]で、講演を聴いて、詩の朗読を聴いたが聴衆が笑いこけていた、ですって!

 1月16日、ファルネーゼのヘラクレスがナポリへ移送されつつある、とのこと。失われていた脚部を持っていたボルゲーゼ家が持っていたが、ナポリ王に贈呈された、(1787年)ともある。

 1月17日がSant'Antonio Abateの祭日だったとある。訳註に、パドヴァの聖者とあるが、エジプト生まれである。パドヴァの方は祝日が6月13日だし。1月19日には、それまでないがしろにしてきたカピトルの一部を見学したとある[カピトリーノの丘からフォロを眺め下すのは最初にすべきことかと思うが…]。

 広大なサント・スピリト病院は、今度私も訪れてみたいと思った。

 「海ははいって行けば行くほど深くなるが、この市の見物もまったくそれと同じ」とある。まさに同感。

 2月2日には「」満月の光を浴びてローマを彷徨う美しさは、見ないで想像のつくものではない」とも[今でもやはり夜のローマを徘徊するのはすばらしい]。

 シクストゥス礼拝堂の聖燭祭に出かけ、蝋燭の煙が三百年来このすぐれた絵画をくすぶらせてきた、とある。80年代に日本テレビの資金(420万ドル≒4.5億円)で修復されてよかった。2月の天気は良い、ともある。

 ゲーテはもはやティッシュバインとのナポリ旅行に胸を弾ませている。

  

 △岩波文庫17頁の地図

ティッシュバインの絵