先日、アリオストの『狂乱のオルランド』を読んだ時、脇功先生が、この難解な作品を訳しておられることを知って読むことにした。この小説(原題: Uno, nessuno e centomila)は読んでいても頭痛がしてくる。私はかつて1ページ目で匙を投げた。脇先生はさすがだ!! よく訳し終えたものだと感心してしまう。

 ピランデッロ自身が、異常に嫉妬心の強い妻を持ち、精神的に参っていたことを考えると、このような狂人についての異常な小説を書いたのも理解できなくはない。主人公モスカルダは28歳という設定であるが、読みながらどうしても40〜50歳くらいの憂鬱そうなピランデッロを想像してしまった。自分のことに置き換えて考えてみると、主人公の言うことはもっともだとも思える。例えば、私がある失敗を、消しゴムがあったら完全消去してしまいたいような失敗をした場にいた人たちが思い描く私の人格は、仕事をうまくやり遂げた私に感謝してくれた人たちにとっての私とは全くの別人である。また、家にいて化粧もせず、のんべんだらりと駄菓子を食べる私と、推しのコンサートに行ってペンライトを振る私と、きちんとした身なりでイタリア関係の仕事をこなす私を見ている人たちにとっての私とは大違いである。普通の人は、まあ、多様な自分を自覚したところで、狂気に陥ったりはしない。失敗した事実はトラウマとなってしばしば脳裏によみがえり、自己嫌悪に陥らせたりはするが・・・。けれど、ピランデッロはそういう状況の狂気を敷衍する。調べてみると、解離性障害という人格障害があるではないか。心的ストレスが高じると、自分の中の別人格を抹消するべく、記憶を失ったり失踪する人もいるという。そのような障害者のパニック状態まで描写したのがピランデッロなのだ。

 

 第一章: 主人公は妻に些細な肉体的欠陥を指摘されたことをきっかけに、精神的に病み始める。自分の知らなかった別の自分がいる。鏡の中に自分を見つめながら、それも一人だけではなく、十万人が、ひとつの肉体の中にいることに気づく。

 第二章: 自意識は厄介だ。ある行動をする1分前に自分は別人だったのであり、それもひとりではなく、百人、いや十万人の別人だったというのが真実である。ほかの人たちはめいめい、私の中に私ならざるひとりの人格を見ているので、人々の数だけ私の人格があり、それらは自分自身にとっての本人よりもはるかに現実的な存在なのだ。

 第三章: 主人公は自分の歴史を、父親のことを考える。その職業は銀行家であり、高利の悪評が恥辱として息子の上にのしかかる。まず、この恥ずべき高利貸しという人格を破壊することを試みようと考える。

 第四章: 主人公は、少年に対する破廉恥な事件をきっかけに落ちぶれたマルコ・ディ・ディオから高利貸し呼ばわりされたことがあり、父の死後、自分の持ち家のひとつのぼろ家に彼をただで住まわせていたが、今自分が住んでいる家を彼に譲るべく公証人を訪ねる。そのため、自分の銀行に行き、家の登記書を「盗もう」とする。(「人はそれぞれ自分のもつ世界を他人に押しつけようとする」という横暴について考える。これは真実だ。) 大雨の日、マルコ・ディ・ディオはぼろ家から追い出され、主人公は「高利貸し」という罵りを浴びる。だが、彼は自分の家を彼に譲渡したのであった。

 第五章: 彼の銀行の経営を担う取締役たちは、主人公の狂気に気付き始めていた。だが主人公は彼らに「銀行を閉める」つまり廃業すると宣言する。

 第六章: 主人公は妻を揺すぶり、ソファーの上に押し倒す程度の暴力をふるい、それから彼女は実家に帰ってしまう。主人公は、彼に会いに来た舅に「身辺整理をして慈善事業のようなものを始める」と告げると、舅は怒って席を蹴って出ていく。

 第七章: (誰からの勧めかは不明であるが)主人公は妻の友人のアンナ・ローザ(25歳)に会いに行くように勧められる。訪れた修道院で、彼女がハンドバッグに入れていたピストルが暴発して彼女は足を負傷する。主人公は隣にある彼女の家に彼女を運ぶ。主人公は、高利貸しとみなされるのはもうごめんだというのが自分の「内なる神」だと思い至り、司教に会いに行く。主人公は負傷したアンナ・ローザに付き添い、彼女はあれやこれや主人公を誘惑しようとする。そして、手を差し伸べ、主人公を引き寄せた時、枕の下に隠してあったピストルで主人公を撃った。

 第八章: もちろんその事件は裁判沙汰になった。アンナ・ローザは、主人公による暴行から自衛するために発砲したと語っていた。哀れな主人公は、公証人の言うがままに、彼女を釈放すべく、異議を唱えず、身に覚えのない「罪を認める」こととなり、銀行を閉鎖し、あらゆる財産を教会に寄贈し、救貧院を設立するということで決着する。主人公はその救貧院で、他の収容者と同じ衣食住に甘んじることになる。そこに暮らしながら、主人公は、夜明けに外に出て、一瞬ごとの再生に思いをめぐらす。

 

 『故マッティーア・パスカル』も奇想天外な話であるが、この主人公も尋常ではない。おそらく気が弱くて、くよくよするたちで、何も仕事をしていないことによるストレスから解離性障害に陥ったのであろう。父の事業が破産したことで、突如貧乏のどん底に陥り、そのために妻も精神に異常を来たす。急に働かねばならなくなり、経済的にも精神的にもストレスの極みにあったであろうピランデッロならではの小説のひとつのように思われる。