先日、サンデー毎日に掲載されたなかにし礼のエッセイに感銘を受けた。→くりあのスレッドはこちらhttps://ameblo.jp/dionisia/entry-12545502097.html

 同誌には、なかにし礼がジェジュンに、直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」の韓国語版をプレゼントしたとあった。それで私も読んでみようと思ったのである。

 

 この小説は、取材をもとにした、実在の人物によるドキュメンタリーでもある。主役は長崎の芸妓で歌のうまい愛八と、彼女が惚れた長崎学者、古賀十二郎。読み進むうちに、各所に、筆者の音楽観が綴られている。これは銘記すべきだと思ったので、ここにいくつかメモることにした。(頁数は、新潮文庫に準ずる)

 

p.128 「歌は人間の一念が巻き起こす稲妻たい。・・・歌には多くの人の夢と祈りがあり、そこには歴史が刻まれているとだから」

p.141 「歌は言葉と音楽という二つの翼にのって空を翔ぶ。片一方の翼だけでは墜落するとたい。おいが言葉でおうちが音楽、二人で一人、比翼連理で行こうじゃなかね」

  ※比翼連理は、天にありては比翼の鳥に、地にありては連理の枝となりましょう、と歌う楊貴妃の言葉として、白居易の叙事詩「長恨歌」にある。

p.161 「そいは、人は泣きたい時に歌ば歌うということですたい。声をあげて泣くかわりに歌ば歌う。歌うたあとはすっきりして、また生きてみようかと思うとたい。歌は人をあられものうさすっとよね。身も世ものうさする。歌は人間の正気ば失わせるもんね。」

p.162 「・・・芸とはそもそも霊鎮めじゃけんね。歌は川の向こうから聞こえてきた。川の向こうとは、この世ならぬもう一つのこの世のことやろうね。まだ見ぬあの世に似たものと言うてもよか。歌に誘われて、人は橋ば渡り、あの世の景色に似たもんば眺めにいくとたい。川の向こうで人は歌に魂ばあずけて一時天国に遊び、やがて夢さめて、橋ば渡ってこの世に帰り、味けなか日常の生活に戻るったい」

  ◇LIVEが終わり、帰宅する我々の心境はまさしくこれだ!!

p.187 「人間の声は化粧もできんし、衣裳も着せられん。しかし歌う時とか芝居をする時、または嘘をつく時、人の声は化粧もすれば変装もする。この時に品性が出るもんたい。おうちの歌は位が高かった。欲も得もすぱっと捨てたような潔さがあった。生きながらすでに死んでいるような軽やかさだ。それでいて投げやりでなく、冷たくなく、血の通った温かさと真面目さ、それに洒落っ気があった。   

 品とはそういうもんたい。・・・」

p.212   ・・・道端に転がっているようななんでもない言葉が、拾いあげられ、順序よく並べられ、節というものをつけられると、途端に豊かな彩りをもちはじめる。そしてそれが人の声によって歌われると霊気が立ちのぼる。

p.224 「歌の不思議たい。歌は英語でエアー、フランス語でエール、イタリア語でアリア、ドイツ語でアーリア、ポルトガル語てせアリア。つまり空気のことたい。歌は目に見えない精霊のごたるもんたい。大気をさまようていた長崎ぶらぶら節が今、うったちの胸の中に飛び込んできた。これをこんどうったちが吐きだせば、また誰かの胸の中に入り込む。その誰かが吐きだせば、また誰かの胸に忍び込む。そうやって歌は永遠に空中に漂い続ける。これが歌の不思議でなくてなんであろう」

  ◇この一文は Love Covers への献辞のように思えた。

 

実在の芸妓、愛八の吹きこんだ歌▼

 

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