一気見、金田一
思いの外、工藤遥がよかった。
吹き替え無しで、マジでボルタリングしてますよね?
マッカートニーⅡ
かってアベノマスクは8300万枚余っていたそうだ。数百億をかけてほとんど誰も使わないマスクを配った。
俺も頂いた。使ってない(笑)
この余剰分、1人が毎日1枚使い捨てると22万年かかるそうでしたが、まだ余っているんでしょうか?
余ってたら四、五枚記念に欲しいわけで。
コロナで死にかかった身としては(笑)。
伊是名夏子さん事案
こういう問題が起こるたびに障碍者と健常者との意識のズレというか、齟齬感が気になります。
埋められないですね、この差異は。
歩み寄ることも難しい、そういう印象。
どちらかいっぽの主張を、完全に受け入れるまで、この論争は果てしなく続きそうで、暗澹たる気持ちになる。
こういう時にウエマツサトシやヒトラー待望論とかが出てくるのもまた、えげつなく恐ろしいけど。
同志社国際高校の抗議船事故の件。
抗議船に無理くり乗せられて見学させられたという話は地元では有名なネタです。まぁ、一部ですけどね。
漏れるどころかだだっもれでした、ずっと昔から。
なんで、あ、やっぱり起きたかという感じ。
イデオロギーへの先導、特定思想による洗脳って怖いよね。
いやいや、この方たちはどう責任を取るのでしょうか?
学校側も、団体側も、あなた方の思想が正しいか否かなんてこの際どうでもいいでしょう。
先ず、事故を起こして人を殺したことを反省しましょう。
事故原因を明らかにして、説明しましょう。
責任の押し付け合いはやめましょう、見苦しいので。
この平和学習って何なんでしょうか。
いや、すべてあり得ないというか。
左翼のクソっぷりがまた一つ見える化しましたね(笑)。
廃仏毀釈
明治2(1869)年は、鹿児島の寺院にとっては受難の年となりました。
廃仏毀釈と呼ばれる出来事で、藩内にある1066寺を全て廃寺にするという動きがあったためです。
こうした動きは、すでに島津斉彬が藩政を担っていた時期からも徐々に始まっていましたが、島津家ゆかりの寺院にまで及んだのは明治2年のことでした。
明治新政府によって、明治元年に「神仏分離令」が発布されたことがひとつの転機となり、動きは加速されることになりました。
また、明治2年に島津忠義の夫人の葬儀が仏式ではなく神式で実施されることになったことも影響が大きかったとされています。
こうして、島津忠良の菩提寺であった日新寺や島津貴久の菩提寺であった南林寺も、例外なく廃寺となります。
明治維新の影で、このように、鹿児島では、貴重な仏教文化や美術が失われるという、大変不幸な出来事があったのです。
鹿児島県は、昭和初期に編纂された4巻と、 昭和の時代をまとめた2巻のみ、史料そのものが少ない上、」
「廃仏毀釈」の運動は、明治新政府の「神仏分離」政策を契機に突然勃発し、日本国中 を巻き込んで寺院や仏像を破却して、わずか数年で終わってしまいました。
廃仏毀釈の機運が完全に終息するのは1876(明治9)年頃のことです。
江戸時代には 寺院数が9万ヶ寺もありましたが、廃仏毀釈によって半分の4万5000ヶ寺ほどになったといいます。
特に南九州では徹底的に寺院が破却されました。
鹿児島県では江戸末期までには県内に 寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いたとの記録があります。
ところが、1874(明 治7)年までに寺院・僧侶ともにゼロになってしまいました。
「破却率」はなんと100% です。
徹底的とはこのこと。
薩摩藩の全ての寺院が無くなったわけ ですから、主君・島津家の菩提寺(日新寺、南林寺)も無くなったということになります。
一般庶民や武士の菩提寺 も無くなり、主君の菩提寺までもが無くなってしまったのです。いや、無くしてしまった のです。
こうやって、薩摩藩における廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全に消滅。
これほど広域に、寺院が完全消滅した地域は他にないといいます。
徹底的に徹底的なんですね。
それは、薩英戦争をきっかけにして薩摩藩が富国強兵策に舵を切り、西洋化を急ぐ余り、寺院という歴史的な価値が軽んじられた結果、時代の幕開けにあたり、薩摩藩は仏教を「生贄(いけにえ)」にしたということでもあるのです。
また、寺院は焼き払われてそこから金属が取られ、一部は偽造通貨の精算に充てられた ともいいます。
薩摩藩の廃仏毀釈は、薩摩が国学に傾倒したこともあるのですが、第一の目的は寺院が保有する金属の徴収にあり、 つまりは集めた金属で大砲などの武器を造るということでした。
そして、これらの結果、幕末に薩摩が「大活躍」する軍事的基盤の1つになったのでし た。
ところで、鹿児島県では「廃仏毀釈はなかったこと」のように扱われているといいます。
廃仏毀釈による史料の少なさが、公的調査の妨げになっているだけではなく、鹿児島で は寺院の過去帳が失われているため、個人のルーツを辿れるよすがが存在しないといいます。
このようにして鹿児島県民のアイデンティティをも失わせたのが薩摩藩における廃仏毀釈だったといえます。
現在においても、廃仏毀釈に関する県民の関心、認識 も低いし、行政も県民も歴史を大切にしていないと批判されることも多いそうです。
さて、寺院が無くなったので、鹿児島県には、仏教由来の国宝、国の重要文化財がひとつも存在しないそうです。
文化財の数が極めて少ないので、県の文化財関連予算規模は少ない結果、廃仏毀釈に関する調査・寺院の復元などが進まないという悪循環に陥っているそうです。
今でも鹿児島県では「古寺巡礼」など という言葉が聞かれることはまずない、と言いますね。
廃仏毀釈がおさまり、浄土真宗が特に熱心に開教(新たに寺院をつくること)活動を実 施したことで、487ヶ寺まで戻していますが、鹿児島県は47都道府県の中では、現在においても6番目に 少ない寺院数になっています。
でも、なぜ鹿児島の人々は、廃仏毀釈に抗わず、徹底的に寺院を破壊したのでしょうか? そこには薩摩藩独特の権力構造があったからではないかと指摘されています。
鹿児島は伝統的に中世から武士が多かった。
明治初期の鹿児島における武士率は26.4 %であり、全国平均の5.7%を大きく上回っている。
そこで戦国時代、島津家は「外城制 度」という支配構造を構築していく。
「外城(とじょう)制度」とは、島津家の居城である「内城」に対して、武士を効率よ く配置するため、領内を区分し、その拠点として外城を数多く設けるというもの。
18世紀半ばには、113の外城が完成していたそうです。
これはほぼ「一村一城」の構造で、かつ武士は「半農半兵」の状態で地域に溶け込み、監視の目を光らせたそうです。
そのため、鹿児島ではいわゆる檀家制度がほとんど機能せず、村ごとに寺があるにはあっただが、地域に入り込んだ武士の権限が大きく、寺檀関係は極めて脆弱であったようです。
言い換えれば、鹿児島における寺院は、「おらが村の寺」ではなかったわけなんですね。
廃仏毀釈時、檀家や民衆が寺を守る意思がみられず、無批判に寺院を廃止に追い込んだ背景に、この外城制度は無視できません。
さらに、薩摩独自の「郷中教育」が廃仏毀釈に拍車をかけたとの見方もあるようです。 「郷中教育」って何でしょう?
それは、地域ごとに先輩が後輩を指導する武家教育のシステムのことです。
厳格な上下関係のもとで武芸や道徳などの教育が行われ、西郷隆盛 や大久保利通は郷中教育で鍛え上げられたおかげで大成したとの評価もあります。
このように薩摩では郷中教育が普及していたことから、大衆向けの寺子屋や私塾の数が 他の地方に比べて極めて少なかったのです。
明治初期までに寺子屋は全国で15000箇所ほどありました。
例えば、幕末、薩摩藩と 並んで近代国家を推し進めた長州藩では1304の寺子屋と106の私塾が存在していたといいます。
これは、熊本、長野とともに全国トップ3に入ります。
では、薩摩藩の場合、寺子屋はどのくらいあったのでしょうか?
なんと寺子屋はわずか19しかありませんでした。
私塾 はたった1つだそうです。
とにかく鹿児島では、いざ廃仏毀釈になって武士が寺院の破壊を始めた時も、多くの人が抵抗するなんてことはなかったのです。
「上からの命令だから」ということで、権力に従順に従い、仏像や寺院の破壊に加担していったのです。
さらに言えば、寺子屋が少なかったことは廃仏毀釈だけでなく、その後の鹿児島の教育 の在り方にも大きな影を落としました。
1872(明治5)年、明治政府はフランス式の「学制」を定め、全国に小学校を整備し ていきました。
小学校の校舎は神仏分離政策によって寺院本堂や庫裏(くり)を転用していくケースが少なからずありました。
つまり、近代の「学制」は寺子屋の流れを踏襲していると言えます。
教育学者の梅原徹は、1874(明治7)年の『文部省第2年報』より、全国の就学率を弾き出しているそうです。
それによると、就学率の全国平均は32.3%。
東京では57.8% の就学率でした。
ところが鹿児島は7.1%と全国ワースト1だそうです。
そもそも寺子屋の少ない鹿児島では、近代学校教育でも全国的に遅れをとることになっ てしまいました。
ところで、『宗教年鑑 平成27年版』によれば、鹿児島県と面積がほぼ同じの山形県で1486ヵ寺、広島県で1724ヵ寺です。
鹿児島県は前出のように487ヵ寺(全国42位)だそうです。
隣の宮崎県 の場合は344ヵ寺。
ちなみに、日本全国で寺院数が一番多い都道府県は愛知県で、4589ヶ寺あるそうです。
京都や奈良ではないのですね。
そして、全国で一番寺院数が少ないのは、沖縄県で87ヶ寺です。
沖縄の場合は 「本土」と歴史が異なりますから単純な比較は無理ですが。
京都や奈良の寺院数を調べてみましたら、正式に登録されているもので京都市内の神社 がおよそ800、寺院がおよそ1700だそうです。
日本全国の寺院の数は7万7000にのぼ ります。
一方、日本全国の神社の数は約8万8000ですが、神社の数が一番多い都道府県は約5000の新潟県です。
ちなみに、全国のコンビニの総数は約5万5000、郵便局の総数は2万4000だそうで す。
南四国の高知県も激烈な廃仏毀釈に見舞われた地域です。
1870(明治3)年3月時点で613ヶ寺ありましたが、1877(明治10)年までに206ヶ寺にまで激減しました。
「破却率」は66%です。
高知県といえば、四国88カ所巡り(お遍路)の舞台です。
県内には16ヶ寺の霊場がありますが、内9ヶ寺が廃仏毀釈によって廃寺になっています。
現在、県内寺院数は365ヶ 寺まで戻ってますが、往時の約6割の水準でしかありません。
さらに、廃仏毀釈は島嶼部にも及びました。佐渡は江戸時代まで寺院数が多く539ヶ- 1 寺を数えましたが、わずか80ヶ寺になってしまいます。
「破却率」は85%です。
隠岐では、およそ106ヶ寺がゼロになりました。
ここも「破却率」は100%です。
島という閉鎖されたコミュニティの中で、ひとたび点火された廃仏毀釈の炎は一気に燃え上がったようですね。
ジロー農園から
イランは公開処刑なるものを平然と行う国らしいですな。
アメリカとイスラエルのイラン爆撃を一元的に「悪」とするオールドメディアの偏向報道がまかり通っています。
が、必ずしもそうとは言えないのかも。
というのも、報道されていませんが、実はイランでの死刑執行数が半端なくすごいらしいです。
世界一、かも。
しかもやり方がえぐく、公開処刑。
民衆の面前で。
犯行現場まで連行して絞首刑。
時にクレーンを使い、放置。
21世紀の今、このざま。
ファシズム、ですよね、これ。
正直、浜田聡氏の動画で、イランの闇、...このことを知ってからイランに対する印象は180度変わりました。
ちなみに「イラン 公開処刑」でググったら、とんでもない画像がこれでもかと出てきますよ。
それまではアメリカのトランプは気違いか?
何をするんだ、この野郎!と思っていましたし、なぜイラン国民は自国が攻撃されて、最高指導者が爆殺されて、そんな目に遭ってもなんであんなに喜んでるんだろう?
アメリカ万歳って、どういう意味なのか??
本当に理解不能でしたが、イランの国の内情を知ってから目からうろこが剥がれました。
そういえばなんですが、ビジャブ着用拒否のパレードでの弾圧というネットニュースもありました。
爆撃前にも国民のでも、それも大掛かりなものがあったというネット報道はありました。
が、その後どうなったのかの追加報道は全くない。
弾圧されて、公開処刑とかも行われたそうだという情報がちらちらと散見できます。
情報がない中でのトランプとイランとの会談、そしてこの爆撃。
狐につまれたよう。
しかし、トランプが、このイランのトップのファシズム丸出しな残虐的ふるまいに対して怒っているのであれば、ストンと腑に落ちることが多い。
トランプが、前任者の息のかかった指導者への権力継承に頑なにノーということも、内政干渉という面も確かにあるけれど、でも、民衆に寄り添った正義なふるまいなのかもしれないですよね。
...あくまでもなんですが。
かくして、実は、トランプは、かなり正義の味方なのかもしれないですね。
繰り返します。
かなり、あくまでも、...なんですが。
見方が、やはり変わりました。
ToW
ジョンが天に召してしまい、ポッカリと大切なものがなくなっちまい、困惑してました。
でも受験が目の前に迫っていて、日々あくせくするし。
で、年が明けて、なんとか志望校にも受かりホッとしたような燃え尽きたような。
クソみたいな義務教育にやっとおさらばできてせいせいしたというのが正直な気持ち。
特に中学3年の1年間はホントにクソみたいな1年だったし。
そうやって迎えて、そして過ごした81年、なんか色々な意味で人生の分岐点でした。
色々なことが1年間にギュッと詰め込まれていて、いまだに整理がうまくできてないんですよね。
やっと窮屈な場所を抜け出して、そして自由な場所へと行けるんだと期待していた。
でもその場所って、最初は大してそんなにいいところじゃなかった。
気持ちの持ち用の問題だったのかもしれません。
で、だんだんとなんとなく覚醒してゆく。
今までしばらく抑圧されていた自由な白い心で、自分なりの日々をそれなりに紡ぐことができ出したんですよね。
発見とか、初体験が多くて、やっと自分のアイデンティティの尻尾を捕まえれた気がしました。
細かい挫折は日常茶飯時。
でも、概ね楽しかったです。
長いような短いような、憂鬱で愉快で、刺激的で、絶望と希望が交錯して激しく上下左右するような、まぁ落ち着きのない1年が過ぎて、そして迎えた1982年新春。
今一度初心に立ち返れたのかも知れない。
そんな気分でした。
2月にポールが新譜を出すニュースは自分の心を何よりも揺さぶりました。
本当に、救われた気分。
ジョンがのめり込んでいたライフワーク的な平和への希求を、今度はポールが引き受けてんだと理解しました。
このアルバムを聴くとあの頃の空気にすぐさま触れることができます。
大切な1枚です。
全ての曲が凄いけど、特に、タッグ・オブ・ウォー〜ティク・イット・アウェイへのメドレー的にクロスフェードされたこの2曲の流れが秀逸。
リッケンバッカーの音が痺れるんですよ。
今も自分の宅録作品においてのベース音の、最高のReferenceです。
ベーシストとしてのスガ君を評価してきた一人として、素直に感激。
これはいかねばなるまい。
テネリフェの悲劇
1977年3月27日、スペイン領カナリア諸島テネリフェ島の空港で起きた航空事故の通称。
さまざまな要因が重なった結果として、2機のジャンボジェット機が滑走路上で衝突、583名に上る犠牲者を出す大惨事となった。
この数字は今なお、テロなどの犯罪行為を除く航空事故で史上最悪の数字である。
テネリフェ空港の滑走路上にて、KLMオランダ航空4805便(以下オランダ機)とパンアメリカン航空1736便(以下パンナム機)が衝突し、爆発炎上。
オランダ航空機の乗客乗員248名全員と、パンナム航空機の乗客乗員396名中335名が死亡した。
おもな事故原因は管制官の指示を取り違え離陸開始し、強行したオランダ航空機機長のパイロットエラーとされているが、そこに至るまでの不運な偶然の連鎖が印象的な事故である。
事故当日のテネリフェ空港、もといカナリア諸島の航空事情はいささか混迷を極めていた。
なぜなら、諸島の空港のひとつであるラス・パルマスのグラン・カナリア空港で分離独立主義者(テロリスト)による爆弾テロとさらなる爆破予告があり、行き場を失った多数の航空機は、ただ近くにあっただけの小さな空港であるテネリフェ空港へ避難していたためである。
しばらくして、騒ぎが虚報という報告が入り、テネリフェ空港に待機していた旅客機たちは通常運航へと戻すため次々と離陸していた。
この時離陸した航空機は1時間に50機ともなったという。そ
のため、あまりの過密ぶりに管制塔側はたったひとつの平行誘導路を駐機場代わりとして航空機を待機させ、離陸への移行には滑走路でタキシング
しながら離陸開始位置に移動させなければならなかった。
離陸開始位置は滑走路端なので、これはつまり滑走路上を逆走することを意味する。
かなり危なっかしい運用であるものの、巨大なジェット機が通れる通路をいくつも建設するのは多くの場所において負担であり、このような運用は21世紀の現在でも大多数の空港で行われている。
衝突という大惨事を避けるために、管制塔による的確な現状把握と指示が必要となることはいうまでもない。
この事故では、オランダ機機長が管制官の「take off」という言葉を聞いて飛行計画の承認と離陸許可を取り違え、離陸を開始したのがそもそもの発端だった。
そのため、事故を受けて、「離陸許可又は離陸許可の取り消し時以外、離陸(take off) を使うのは禁止」という規則が新たに追加された。
これにより、交信における安全性が向上することとなったのだった。
この事故において、オランダ機側の生存者はゼロだった。
しかし、直前で降りて難を逃れた乗客がいる。
それが、テネリフェ島の恋人を訪問するためにフライトをキャンセルした女性だった。
彼女は当初、グラン・カナリア空港へ向かう予定だったが、テネリフェに住む恋人の家に泊まるために予定を変更し、飛行機を降りた。
そして死のKLMオランダ航空4805便から逃れたのである。
彼女が、4805便のたった一人の生存者であった。
後日談ですが、AA1736便コックピットクルー3名はFAA功労賞及び航空安全財団賞を受賞。
そのうち副操縦士であったロバート・ブラッグは、パンナム倒産に伴ってユナイテッド航空に異動後も、本事故の啓蒙活動に奔走し、2017年9月に79年の生涯を終えた。
2007年3月27日には犠牲者遺族や救助活動を行った地元住民の協力により国際慰霊祭が執り行われ、メサ・モタ山に国際慰霊碑「天国の階段」が建立された。
類似案件として2024年1月2日に起きた羽田空港での航空機同士の地上衝突事故がある。