ケネス・ハワード・ライト
「岡山東商業の選手の交代をお知らせします。ピッチャーの吉田君はライト、ライトの松下君が退いて9番ライト君」
このアナウンスで甲子園球場はどよめいた。
「一世を風靡した太田幸司の再来を願う気持ち」という背景があったのかもしれない。
ところで、このライト投手はプロ入りしている。
が、まずそもそも、岡山東商から阪急に入ったK・H・ライト投手を知っている人からして、相当少ないとおもわれる。
1971年、甲子園夏の大会、岡山東商業はベスト4に進出。この学校はベスト4まではいく学校だが、でもそこから先が...センバツの一回のみ(平松投手で優勝)という学校である。
1978年の夏、アンダーハンド薮井投手を擁してのベスト4も印象深い。
近年は甲子園からは遠ざかっている。
今年は21世紀枠の候補になりそうだったというが。
...無理だった。
さてさて、ライト投手は広島に駐留していたオーストラリア人兵士T・G・A・ライトさんと日本人の女性、藤本弥生さんの間に生まれた。
四歳でメルボルンから日本へ。
英語は全くダメで、自分の名前をアルファベットで書くときによく間違えたそうだ。
話を戻すと、1971年は岡山東商業のエースでベスト4進出とあるが、実は彼は一応背番号こそ{1}だったが、エースと呼ぶのも微妙な立ち位置で、完投できる力量がなく、ほぼ100%リーリーフ投手だったということである。
高校時代、一度たりとも完投勝利はない、そういう投手なのだ。
実質エースは吉田投手だった。
その完投勝利経験のないライトを阪急はドラフト4位で指名。
実力不足が明らかなのに話題性のみでドラフト指名、そして阪急はかれの人生を破壊したのである。
まったくプロには通用しないとわかっていての使命は犯罪なのかも知れない。
二年目に自ら実力不足を痛感、退団を申し出たという。
阪急退団後は岡山に帰っていたが結局、母国の豪州に帰国。
オーストラリアで子どもたちにバスケの指導をしているよう。
英語は克服、できているんでしょうね。
ちなみに、現在の岡山東商業のユニフォームは、何とほぼほぼ黄色(笑)!!
クリーム色ではない。まっ黄色に限りなく近い黄色なんです。
おまけ・クライド・ライト
ギョロ目でよく日本野球への不満を漏らしていた人ですよね。現役のジャイアンツ選手なのに、ジャイアンツの批判ばかり。そんなに嫌ならとっとと帰ればいいのにと思ったのは自分だけではないと思われます。
ただこの人の投げるスクリューボールが好きで(笑)。高橋一三のそれも好きでしたけど、やはりライトかな。