1982年・点景 箕島-明徳 三分坂 報土寺 青影リアライズ | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

名誉も金も、素晴らしい音楽を作り人々を感動させようという気持ちもない、極めて不心得なアマチュアミュージシャンであり、アマチュアアーチストtrifling beetleの遺書。
HP https://www.music-scene.jp/triflingbeetle/

 

残念、あと一歩届かなかったな、我が母校。

しっかし、サッカーで、ガシ校が、全国大会の決勝に行く日が来るとはね~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青影リアライズ

 

「仮面の忍者・赤影」で青影役を演じた金子吉延さんは、撮影当時、仁和寺で有名な御室の御室小学校在住で、太秦撮影所に自転車で通っていたそうだ。

そのあたりの団地に住んでいたらしい。

両親共働きの「かぎっ子」。

 

そうそう、御室仁和寺というと、おかめ桜じゃなく、自分的には御室八十八ヵ所である(笑)。

当時の相方・恵麻と、大量の一円玉を持って回ったことが懐かしい。

 

 

TBS裏 三分坂 報土寺・練り塀

 

TBSのお膝元三分坂は宇崎竜童の大のお気に入りだそうだ。あまりにも急で車代三分増しが由来とか。

 

 

途中の報土寺は練塀(築地塀)が有名

瓦を横に組み入れた築地塀工法で作られたもので、港区文化財に指定されている歴史的遺構だ。さらにここには江戸の名力士雷電為右衛門の墓がある。単純比較はできないが、谷風梶之助や雷電為右衛門などは「最強の力士」との呼び声が高い

 

 

 

1982年・点景

箕島-明徳

 

箕島は2回戦で何と明徳とぶつかる。

この時の明徳は、これが甲子園初見参。

しかし、四国大会では池田を破り、明治神宮大会を制し、初出場してきたので、優勝候補でもあった。

明徳・弘田、箕島・上野山両投手が完成度の高いピッチングの応酬。

まれにみるハイレベルな投手戦を展開。

そのまま試合はついに延長戦へ突入。

 

延長に入ると、さすがに両投手とも疲れからか若干制球が甘くなり、ポツリポツリとヒットが出るようになったものの、決定打は許さない。

そして13回表、明徳は途中からサードに入っていた9番・梶原(かじはら)が幸運なレフトへのツーベースでノーアウト2塁のチャンスを掴んだ。

完全に1点勝負であるから、強気の松田監督も強打のトップ・堀尾にバントをさせ、明徳は1死3塁の大きなチャンスを作った。
ここでスクイズを警戒し過ぎた上野山が2番の小谷を歩かせた。

そして、打者はここまでノーヒットの3番・清水。

当たっていないとはいえ、3番の清水だけに打たせるものと思われたが、スクイズを敢行。箕島のお株を奪うように、これが見事に決まって明徳がついに1点を先取した。
さらに、ツーアウト2塁から、背番号10の4番・藤本が上野山の速球をセンターオーバーに大3塁打。

 

さしのも箕島もこれまでかと思われた。

13回裏、2番の杉山3番の岩田が連打。

そして2アウトでバッターは5番の泉。

弘田はセカンドランナーを無視して振りかぶって投げる。

泉は弘田の気迫を上回り、外角低め難しいカーブをショートオーバーに

箕島は土壇場で2-2の同点に追いついた。

もうここまでくると、本当に神がかり的なものを感じずにはいられない。

この頃、PLよりも、箕島に、奇跡的なものを強く感じた人が多かったはず。

 

そして延長14回の表、疲れがピークの上野山はアウト満塁のピンチ。

ここでトップの堀尾がセンター前へタイムリー。

セカンドランナーの下崎の生還は、好返球で阻む。

これが次の回に、生きてくるのである。

 

その裏、箕島はワンアウト後、途中から畑山に代わって入っていた木戸がセンターオーバーにツーベース。

次の9番上野山の代打・藤本がサードゴロエラーに生き、ワンアウト1、3塁。

トップの江川に対してスクイズを警戒し過ぎた明徳バッテリーは、ストレートのフォアボールで江川を歩かせ、ワンアウト満塁。
迎える打者は2番の杉山。

内角に甘く入ったカーブを思い切り引っ張り、三塁線を突破。

ついに箕島が試合をひっくり返し、4-3でサヨナラ勝ち。  
いやいや、ものすごい試合だった。

 

この頃の高校野球は、今よりもレベルは低いのかもしれないが、見ていて本当に面白い試合が多かった。

その中でも、この箕島ー明徳はベスト1かもしれない。


明徳の松田監督は、チーム力からして当然優勝を狙って出場してきたのだろう。

試合後、「武蔵が若い小次郎に負けた」と言い残して、甲子園を去って行ったという

これが松田監督、最後の甲子園での姿。

76歳の名将は、約半年後、帰らぬ人となった。  

自分が見た最初で最後の松田監督in甲子園。