お気に入りスポット、夏の終わりの、乃木坂。
1981年・点景
深夜、たけし
真夜中の楽しみは木曜の13時にもあった。
「この番組はナウな君たちの番組ではなく、完全にオレの番組です」と公言するビートたけし。
1981年元旦に、ひょんなことから発掘した、「たけしのオールナイトニッポン」は、確実にオレの人生を狂わせた。統一教会にはまったようである(笑)。
もう、なんかこんなに笑ったことは本当に久しぶりだったと思う。
毎週真夜中に、大声で馬鹿笑いする自分を見て、家族は恐怖を感じていたのかもしれないな(笑)。
それでも中毒のようにやめられなかった。
ハガキ職人になりたくてはがきをたくさん出した。取り上げられた時には狂喜乱舞した。
あの頃の、とんでもない典型だけど、それでも救われていた気がする。
笑えない悲惨な日常をチャラにするぐらい、大笑いしてカタルシスが図れていた気がするからだ。
たけしがいなかったら、とっくに自殺していたと思う。
14.5歳そこそこで。
睡眠不足で昼から登校が状態になり、たまに登校すると「深夜放送をこの耳が聞いて、寝坊してるんやろ」とアデランス坂根に耳をつねり上げる体罰を受けたこともあった。
軽く手の甲で平手打ちとか、痕跡を残さないように犯罪を行う、せこいやり方だ。
1970年代後半から1981年頃にかけて、京都市立音羽中学にはこういう教師がぞろぞろいたのである。
大した指導技量もなく、ただ暴力でものを言わすような、野蛮人の群体。
クズどもである。
「村田英雄さんは頭がでかすぎて、見ていると遠近感が狂う」というネタがあった。
ただひたすら笑いまくっていた。
いや、多分、声が出ていなかったと思う。
その他にも、「和食ですか?洋食ですか?」と聞かれて「バカヤロー、朝食だ!!」と答えたとか
サバの刺身を出されて「俺はエネルギー体質だから食えないんだよ」と答えたとか
入国審査の欄にある「性別 SEX」のところに「大好き」と書いたところ、いや、そうじゃなくてといわれて、あわてて「週二回」と書き直したとか
ステーキハウスで焼き方を聞かれて「焼き方はカルビ、あとガスで頼む」と答えたとかもう傑作である。
実際にラジオに出て、たけしと即興で任侠ドラマをやったのも懐かしい。
あ、そうそう、生放送中に抗議の電話をしてきたことも。
タケちゃん焦りまくっていたよね(笑)。
それにしても村田先生のあの威圧感満載の大人物に見せかける歌唱法と、やや斜に向くたたずまいはすごいのひとこと。
ガッツ石松コーナーで一番笑ったのはたぶん
「ラッキーセブンの3にします」
と
「太陽はどこから昇りますか?」
「右から!」
かな。