冒頭の山本浩史の登場シーンだけで笑いはマックスになった。
一時停止させてから、しばし体を激烈に捩じらせ、涙、鼻水をだらしなく垂れ流し、引き攣りながら笑いにならない笑いをそこらじゅうにぶちまけた次第。
いや、ホンマにおもろすぎる映画というのは、実は相当体に悪いのではなかろうかと思う。
例えばプロレスやボクシングなどが、高血圧の高齢者とかには、非常によろしくないということは周知の事実だ。
エロ系もそうだ。
あまりにも過激なものとかはよくそう喩えられる。
過度に「興奮するもの」が血管や脳に対するリスクを高めることは確かにあろう。
しかし笑うことはどうかといえば、「笑えばがん細胞がやっつけられる」「長生きできる」挙句には「幸せがやってくる」などといわれる。
この扱いの差はなんだっ!!
正義の味方ではないか。
「百利あって一害なし」的なこの語られように、自分は疑問を投げかけたい。
ついては、この状況に軽く警鐘を鳴らしたいのだ(笑)。
つまりは笑うことにも、その状況とか、笑い方によっては相当危険なものがあるということだ。
こういう山下敦弘の映画とかを観て起こる笑いは総じて「腹に来る」ものだ。
声を出そうにも出ない笑い。
腹筋と背筋が尋常じゃなく硬直、痙攣する。
これは筋トレの類ではないぞ。
こむら返り的な、つまり正等ではない引き攣り方なのだ。
本当に体にこたえることがあって、二、三日間、お腹の筋肉及び背筋の調子に気持ちの悪い不具合が生じることが非常に多い!
やがては腰にも来そうで冷や冷やする。
机の端っこを両手でしっかりとつかんで腰を痛めないようにして、引き攣りながら笑っている、このなんともいえない間抜けな絵面。
コレは、ある意味地獄、いや拷問、虐待だ。
正直困る。
腹回りの毛細血管や筋がどれくらい断裂したかを想像したら頭もクラクラしてくる。
そんなに困るなら観るのをやめればいいし、わざわざ観るから余計な心配が浮かぶだけなのだが、それでも、な・ぜ・か、やめられないのが怖い。
ジャンキーASKAの気持ちという感じか(笑)。
まさに、「余計なものなどない」と言うこと(笑)。
山下敦弘監督デビュー作にして、山本浩司のデビュー作である。
しかも自主制作。
大阪芸大の卒業制作でもあったという。
完成度は微妙だが、『リンダリンダリンダ』『天然コケッコー』よりもずっといい。
完成度で言えばそら負けているけどね。
しょぼいし。
それでも良い作品だなと、皮膚感覚で思う。
すっきりしない曇り空とふきすさぶ風。
怪しげなリーゼント男・紀世彦と、プータローで、特に覇気もなくとりあえずパチンコで生計を立てている努とが、さびれたパチンコ屋で出会うところから物語が始まる。
このスリル感にまずは引き込まれる。
リーゼントがなんともいえないほどおもろい。
服装センスも最悪で、特に紀世彦は女物サンダルを履き赤いカーディガンを着ている。
昭和50年代頃のヤンキーだ(笑)。
意気投合したのかどうだか知らないが、紀世彦は努に裏ビデオのダビングを手伝わせることになる。
かくして奇妙な同居生活が始まる。
この紀世彦のねぐらの「男のひとり暮らしの汚部屋」のリアリティがハンパない。
酸っぱい気分になるほどだ。
それも含めて、本作は、徹底的に安っぽく、低予算映画の雰囲気がプンプンしている作品。
うだつのあがらない二人の男の生活感と、この低予算感が見事にマッチしていて、相乗効果を挙げているといえる。
趣味は実益を兼ねるという趣だ(笑)。
ところで、バブル後の不況から脱出できないどん底の不景気と喩えられていた2000年前後、こうした若者が、落ちこぼれてもこういう生活をしていて、それなりに楽しく、なんとか生活できた時代だったのだ、現実的に。
今はさらに経済状況は悪化している。
この映画の主人公のような生活さえ難しいという状況だ。
この先、不況が更に悪化していったとしたら、この作品を観た未来人は「羨ましい」と感じるのかもしれない。
さて、山下敦弘という監督は拙い人だと思う。
普通の劇映画だとあざとくなりすぎるほど素人っぽい演技やシーンなんかでも、この映画の持つ素人臭にブレンドされてしまうと、それはなんともいえない「味」になる。
その絶妙な旨みを引き出すことに成功しているのだ。
当然、計算ずくだろう。
「やりすぎると痛い映画になる」ことを理解した上で、「拙さから出る味」を引き出してだ。
すごい才能である。
だからこそ鬱屈とした病みモノとならずに、こういうこと長く続くといいよな、ならないかな?無理だよな…という、ある意味ファンタジー作品になっている。
こうやって旨みを散りばめた自主制作映画を、なんとギリギリのところで劇映画としても成立させている。
最後に、エンドロールでダルビッシュの名前を見つけた。
まさか本人?いやいや弟?と思って調べたら、弟のほうだった(笑)。