この間会った中小企業の社長が、こんなことを言っていた。

「私は顧客に対して媚びる必要はないと思っている。どんな店でも、顧客からお金をもらうときにはありがとうございますと言う。それは当然のことだが、だからといって客のほうが偉いわけではない。店側も努力して商品を生み出し、客の役に立っているのだから、客も店に感謝をすべきなのだ。
もちろんそのためには、店側がそれだけ質の高い商売をしている、という事実が前提としてなければならない」

その通りだと僕は思った。ビジネスというのは基本的に金銭と労力の等価交換で、両社の立場は本来対等であるべきだ。

しかし、おそらく特に日本では、客の立場が強い。「お客様は神様です」といった気持ち悪いフレーズが、今でも割と当たり前のように使われたりする。客の無茶な要求のために、深夜まで残業して仕事をこなさなければならなかったりする。

日本のサービスはすばらしい、とよく言われる。特に接客のレベルは世界一だろう。だから大抵の日本人は海外に行くと、サービスに対して物足りなく感じる。「もっと気遣ってほしい」「もっと良い設備を導入してほしい」と思う。しかしそれは客の甘えなのではないか。金を払っている人間は優遇されるべきだ、という思い上がりがそこにあるのではないか。

日本はおもてなしの国である、という。それは良い。しかし、もてなされるのに慣れ過ぎるのも考え物だ、と思う。
東京駅で限定Suicaを発売したところ、全国から購入者が殺到して混乱が起き、販売を中止するということが起きたそうだ。
誰が具体的に悪いのか、ということはこの際どうでもいい。ニュースを見て最初に感じたのは、この国は貧しいな、ということだった。

経済的、物質的な貧しさではない。九州や北海道からわざわざカード一枚買うために上京する人がいるのだから、みんななかなか贅沢とも言える。

しかし、前日の夜から長蛇の列を作ってカード一枚ほしがるというのは、どうも趣味が子供っぽい気がするし、みようによれば他にやることがなくなった老人の道楽のようでもある。

少し考えればわかることだが、限定Suicaそのものには大した価値はなく、多くの人が欲しがり、なおかつ販売数が少ないという市場原理に従って、見かけ上の価値が高まっているだけのことだ。行列ができているという理由だけでパンケーキ屋の行列に並ぶのと同じで、その欲望の根拠は空虚である。この欲望の貧しさに、僕は違和感を覚えたのだ。

ちなみに僕は行列に並ぶのが極端に嫌いで、10分以上待つなら妥協して別の店を選んだほうがいい、という方針で生きている。しかし空いている店というのは大抵空いているだけの理由があるもので、ちょっと我慢して向こうの店で待てば良かった、と後悔することも少なくない。バランスよく生きるのは難しいですね。
目の前の仕事を一生懸命こなすのは基本的に「まじめ」なことだと思うが、それだけで、その人が誠実に生きている証明にはならない。たとえば本当にやりたい仕事、やるべき仕事が他にあるのに、そのための努力を厭い目先の稼ぎを優先しているとすれば、それはある意味「ふまじめ」と言える。あるいは、仕事にかまけて家族や友人をないがしろにし、結果的に周囲に不幸な人を増やすとすれば、それも「ふまじめ」かもしれない。

結局のところ、まじめに、誠実に生きているということを、何を持って判定すれば良いのだろう。それはたぶん、本人が死ぬ間際にならなければわからないのではないか。いまわの際に、「私は自分の良心に対して誠実に人生を生きた。結果はさておき、何も悔いはない」と、心の底から思えたなら、「まじめ」な生涯だったのだろう。

僕は今35歳なので、普通に考えればあと30年ぐらいは生きることになる。しかし、心から誠実に生きている、と実感できる瞬間はそれほど多くはない。僕はもともと身体があまり丈夫でないので、仕事が忙しくなると風邪をひいて、土日は寝込んで過ごすことが多くなる(それでも平日はなんとか働けるところが、いかにも勤勉な日本人らしいところだ)。そういう意味では、残り30年というのは決して長い時間ではない。

ときどき、死の床にある、老いた自分の姿を想像してみる。「彼」は果たして自分の人生に満足しているだろうか。「なぜ若い頃、もっとやりたいことにチャレンジしなかったのだろう」と果てしない愚痴をつぶやく、うっとうしい老人の姿が、目に浮かんでくる。「彼」のために今何ができるのか、そろそろ真剣に考える時期が来たのかもしれない。