奈良旅行三日目の平成31年(2019年)4月30日(火・祝)は、奈良県桜井市三輪に鎮座する大神神社を参拝したのですが、前回予告したとおり、大神神社の創建の経緯や、そこに登場する神々の系譜について、『古事記』、『日本書紀』がひた隠しにしてきたと思われる真実について、今回から2回に分けて、考察します。
◇出雲口伝①
古代の出雲王朝の東王家である富家(とびけ。「向家」とも称する。)の正当な歴史の伝承者である富當男氏の息子である斎木雲州氏の著書『大和と出雲のあけぼの』(大元出版)や『出雲と蘇我王国』(大元出版)には、『向家文書』などを始めとする出雲に伝わる出雲王朝の歴史などが記されています。
この富家が代々口伝で伝える出雲王朝の歴史は、通称『出雲口伝』とも呼ばれます。
『婆娑羅日記Vol.50~熊野古道中辺路旅行記後編in2018⑭(請川の登り口→熊野本宮大社)』でも、『出雲口伝』が伝える歴史の一端をお話しさせていただきましたが、今回は、それと重なる部分も触れつつ、出雲王朝の成り立ちまで遡って、お話ししたいと思います。
基本的に、『大和と出雲のあけぼの』、『出雲と蘇我王国』の内容をそのまま引用してご紹介しますが、「私見」又は「補足」と示した部分で、私の解説を挟ませていただきます。
『出雲口伝』によると出雲族は3000年以上前に、「鼻の長い動物の住む国」から来たと伝えられています。「鼻の長い動物」とは象のことで、「鼻の長い動物の住む国」とはインドであると考えられています
3500年以上前に、インドの西北方から戦闘的な民族であるアーリア人が侵入し、農耕生活を送っていた先住民であるドラビダ人の多くが、アーリア人の奴隷にされました。
この当時、バイカル湖方面から交易に来ていたブリヤート人から、「シベリアの南方の大海原の中に、住民の少ない温暖な島がある」と聞いたクナ地方を支配していたクナト王は、その温暖な島(日本列島)への移住を決意し、移住に応募した数千人の民衆を引き連れ、食料などを家畜の背中に積んで、北の山岳地帯を超えました。
そして、クナト王とそれに従った移住者は、何年もの歳月をかけ、その間、クナト王も何代も代替わりをしながら、砂の平原(ゴビ砂漠)を通り、広い湖(バイカル湖)の近くから、長い川(アムール川)を流れ下って、樺太(サハリン)西海岸を通り、北海道に辿り着き、そこから本州に渡った後は、移住者は各地に分かれていきました。
クナト王の子孫は日本海沿岸を南に移動し、最後に出雲の地に住み着きました。
クナト王の子孫が、なぜ出雲を選んだかというと、「黒い川があったから」だと伝えられています。黒い川とは、斐伊川のことですが、斐伊川には川底や河原に砂鉄がたまり、黒く見えることがあるそうです。
古代から出雲では、野蹈鞴(のだたら)によって鉄が作られていましたが、クナト王の子孫が斐伊川のある出雲の地に定住したのは、その製鉄に必要な砂鉄の取れる「黒い川」(斐伊川)があったからということです。
そして、出雲の砂鉄の出る山地と野蹈鞴(のだたら)の穴を作る土地を所有し、製鉄と鉄器生産を支配したので、古代出雲王は、オオナモチ(大穴持)と呼ばれました。
インドの熱帯では、常緑樹が濃緑色に茂っていましたが、出雲では、春に芽が出た森の色が目に染みるように美しく感じられたので、自分たちの国のことを「出芽の国」(いずめのくに)と呼び、その音が変化して、「出雲の国」となったと伝えられています。
そして、インドから移住した人たちは、「出雲族(イズモ族)」と呼ばれるようになりました。
出雲族は、インドでの風習であった祭を各地で続けており、春分の日に春祭を、秋分の日に秋祭を村中で行いました。そして、民族の先祖霊を守護神と定め、サイノカミと呼びました。山陰地方では、サイノカミを「幸神」と書いています。
そして、クナト王の名前から、父神をクナト(久那斗)大神、母神を幸姫ノミコト(さいひめのみこと)と言い、息子神として、インドの象神ガネーシャが当てられ、サルタ彦と呼ばれました。ドラビダ語で「サルタ」とは、長鼻を意味するので、サルタ彦は、「鼻高神」とも呼ばれます。補足ですが、サルタはドラビダ語で、長鼻の意味なので、「猿田彦」の字は当て字です。つまり、「猿」の漢字には、何も意味がないということです。
この三柱の家族神は、サイノカミ三神と呼ばれ、三の数は、出雲族の聖数となりました。
インドのガンジス川には、その昔、ワニがいました。ワニは怖がられて神に祭り上げられて、河の神と呼ばれました。また、コブラも怖がられ、森の神になりました。このワニとコブラが合体されて、龍神ナーガとなり、ドラビダ族に崇拝されました。
この龍神信仰を、出雲族が倭国に持って来て、その龍神が、サイノカミの眷属神(けんぞくしん)となりました。
(※補足ですが、「倭国」は、中国の歴代の王朝が、中華思想に基づいて付けた蔑称と考え、その後、日本側が自ら国号を「日本」にしたとの説もあります。そのため、倭国のことを、「和国」と記載する学者もいるのですが、他方、日本列島には、2つの国家があり、倭国が日本国を併合したとの説もあります。また、倭は、「やまと」とも読まれ、『古事記』にも倭姫命(やまとひめのみこと)など、「倭」の字を冠した皇族も登場します。そのようなことも踏まえて、倭国と呼ばれていた時代の国号は、基本的に、このブログの中では、「倭国」と記します。)
また、出雲族は、インドから太陽の女神スーリアを持ってきたといわれています。その太陽信仰では、東の山から上る朝日を拝む習慣となっていました。
古代出雲では、王家が2つありました。一家は、東の向家(むかいけ)で、もう一家は西の神門臣家(かんどのおみけ)です。
「向」は、各地を「コトムケタ」(制服統合した)という動詞のムケを意味し、向家は古くは「ムケ家」と呼ばれたといわれています。
古代出雲は二王制で、主王はオオナモチ(大穴持)、副王はスクナヒコ(少名彦)と呼ばれました。大穴持と少名彦は、主王と副王の職名なので、代々の主王と副王が、その職名を受け継ぎます。
ちなみに、『日本書紀』などでは、オオナモチは、「大巳貴命」(オオナムチノミコト)、スクナヒコ(少名彦)は、スクナヒコナ(少彦名)とされ、しかも、職名ではなく、一柱の神個人を指す名になってしまっています。
両王家の当主のうち、年長者が主王:大穴持になり、もう1つの王家の当主が副王:少名彦に就任しました。
出雲王国の王は、各地の豪族の意見に、よく耳を傾けました。そのため、初代の主王:大穴持は、八耳王と呼ばれました。
その後、出雲の大祭に参加した人々は、土産を東王家の向家に捧げるようになり、それが倉にあふれたため、それ以後、人々は向家を富家と呼ぶようになりました。
記紀に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)は、第八代大穴持の八千矛(やちほこ)のことを指します。八千矛は、西王家の神門臣家出身でした。
また、記紀に登場する事代主命(ことしろぬしのみこと)も、記紀によって作られた名称で、八千矛が主王:大穴持であったときの副王:少名彦であった東王家の向家出身の八重波津身(やえなみつみ)のことを指します。ただし、事代主は当て字で、前々回お話ししたように、本来は、武力ではなく言葉により知ろしめ、統治する者という意味で、「言治主」(ことしろぬし)という名でした。
八重波津身(事代主)の王宮には、摂津国の三島(現在の大阪府高槻市)から、三島溝喰(みしまみぞくい)の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ)が輿入れしました。
補足ですが、活玉依姫は、勢夜陀多良姫(せやだたらひめ)とも呼ばれます。
弘仁6年(815年)にできた『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)には、「宗形君は大国主命六世孫吾田片隅命の子孫である。」と記されていますが、ここにおける吾田片隅命(あたかたすのみこと)の祖父であると書かれている大国主命は、第8代大穴持の八千矛ではありません。宗形君(宗像君)の祖となった吾田片隅は、西王家の神門臣家出身の第6代大穴持の臣津野(おみつぬ)の孫で、その吾田片隅が筑前国に行き、宗形家(宗像家)を起こしました。
吾田片隅の長女田心姫(たごりひめ)は、第7代大穴持の天之冬衣(東王家:向家出身)の后となり、八重波津身(事代主)を生みます。
また、第8代大穴持の八千矛(西王家:神門臣家出身)には、吾田片隅の次女多伎津姫(たぎつひめ)が輿入れしました。八千矛と多伎津姫との間に生まれたのが、味鋤高彦(あじすきたかひこ)です。味鋤高彦は、『古事記』では阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)、『日本書紀』では味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)として登場しますが、なぜ本来の名前に、「根」という文字が足されたかについて、斎木雲州氏の著書『出雲と大和のあけぼの』では、「聞き間違いによるものだと思われる。」と記しています。
補足ですが、記紀では、宗像三女神(田心姫、多伎津姫、市杵島姫)は、天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)によって生まれたとされていますが、出雲口伝では、出雲王家の分家の宗像家を興した吾田片隅の娘であることが明かされているわけです。
三女の市杵島姫が誰に嫁いだかは、次回お話しします。
さて、中国の春秋戦国時代、現在の山東省付近に、戦国の七雄の1つに数えられた斉がありましたが、秦によって滅ぼされ、秦が中国を統一します。日本でも各地に渡来伝説が残る徐福は、この斉の王族であったと伝わります。
『史記』の秦始皇本紀には、始皇28年(紀元前219年)に、徐福が「海中に三つの神山があり、名前は蓬莱と方丈・嬴州(えいしゅう)と言います。島上には仙人が住んでいて、仙人は不老不死の仙薬を持っています。身心を清め、けがれなき童男童女を連れて仙人を求めたいと思います。」と上書して述べたと記しています。
そこで、始皇帝は、童男童女数千人を送って、徐福をつかわし、海を出て仙人を探させました。
徐福の大船団は、出雲口伝によると、石見国の五十猛(いそたけ)の磯に着き、そこから徐福が上陸したと伝えています。徐福が連れて来た童男童女は、「海童」と呼ばれました。
秦から来たので、秦族と呼ばれましたが、高級機織の技術を持っていたので、秦族は「ハタゾク」と呼ばれるようになりました。
徐福は、出雲に上陸する1年前に、穂日(ほひ)と武夷鳥(たけひなどり)の親子を来日させ、穂日は、第8代大穴持の八千矛(大国主)に仕え、隠中となっていました。
徐福は、倭国に来てから、倭国風の名前として、ホアカリ(火明)の名前を使い、大屋の地に屋形を構えました。
徐福は、神門臣家出身の第8代大穴持(主王)の八千矛(大国主)の娘の高照姫を奥方に迎えたいと希望し、八千矛はそれに応じることを決め、高照姫は大屋の屋形に輿入れしました。この大屋の屋形で、高照姫は、五十猛(いそたけ)を生みました。
『出雲と大和のあけぼの』(斎木雲州著)では、中国では、先祖の名前の一字を受け継いで子孫に使う習慣がありましたが、徐福の父は徐猛でしたので、五十猛の名の猛は、祖父の名から取ったと考えられると記しています。
あるとき、八千矛(大国主)が園の長浜に出掛けたときに、行方不明になりました。その地には、サイノカミを祀る祠があったそうです。その異変の知らせは、西王家の神門臣家、東王家の向家に伝えられました。
このとき、第8代少名彦(副王)の事代主(八重波津身)は不在で、島根半島東端の美保の海辺で海釣りをしていました。
そこで、武夷鳥が、諸手舟でオウ川を下って王の海を渡って、事代主に知らせました。この速舟の様子が、美保神社によって「諸手舟神事」とされ、現在も、毎年12月3日に美保港で行われています。
迎えに来た武夷鳥は、事代主(八重波津身)に、「園の長浜で八千矛様が行方不明になったから、事代主様も来て探して下さい。」と言って、事代主を舟に乗せました。舟は弓ヶ浜の粟島(現在の米子市彦名町)に着きました。そうすると、海童たちが現れ、舟を取り囲み、事代主を捕え、粟島の裏の洞窟に幽閉しました。
八千矛も、同じように、猪目洞窟(現在の出雲市猪目)に幽閉されていました。
補足ですが、斎木雲州氏の著書『出雲と蘇我王国』では、「主福の両国王が同時に枯死した事件」と記しており、同書の他の記載などからも、出雲口伝では、八千矛(大国主)と八重波津身(事代主)は、この時、海童たちに洞窟に幽閉されて殺されたと伝えられているようです。
この後、五十猛の成長を高照姫に託し、徐福は秦に一時帰国をします。
この事件を嫌って、両王家の分家が出雲人の約半数を連れて、大和(現在の奈良県)に移住し、この時に、岐神(サイノカミ)の信仰を大和とその周辺に伝えました。
第8代少名彦の事代主の后の1人は、親族の鳥耳姫で、その子の鳥鳴海(とりなるみ)が、第9代大穴持となりました。
また、事代主は、摂津国三島(現在の大阪府高槻市)の三島家より、玉櫛姫(たまくしひめ)を后として迎えていました。玉櫛姫は、活玉依姫(いくたまよりひめ)とも呼ばれています。
活玉依姫との間に生まれたのが、奇日方(くしひかた)、蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)、河俣姫(かわまたひめ)です。
大国主(八千矛)と事代主(八重波津身)が枯死した事件の後、活玉依姫は、奇日方、蹈鞴五十鈴姫、河俣姫を連れて、実家の摂津国三島に帰りました。
奇日方の父方の実家は、東王家の「富家」(向家)ですが、摂津国三島に移住して、「登美家」と呼ばれました。補足ですが、いずれも「とみけ」または「とびけ」と読むので、漢字が違うだけです。
摂津国に着いた奇日方は、奈良地方に新王国をつくろうと考え、母方の実家である三島家の親族にも協力を求め、摂津の人々を引き連れて、奈良盆地を通り、金剛山地の東麓・葛城地方に移住しました。葛城は古くはカヅラキと発音しましたが、今ではカツラギといいます。
奇日方は、葛城山頂から真東に当たる葛城川の左岸に住み、その屋敷付近に父の事代主を祀る鴨都波神社を建てました。
「鴨」の字が使われていますが、弥生時代の出雲では、神を「カモ」と発音したためで、葛城に移住した登美家は、葛城のカモ(神)家とも呼ばれ、「神」の字が後に、鳥の「鴨」の字で書かれるようになりました。
鴨都波神社の名は、この鴨と、事代主の本名である八重波津身(「八重波都身」とも表記)の一部を組み合わせたものです。
登美家は、後に磯城方面に発展したので、磯城登美家(または「磯城家」)と呼ばれました。
鴨都波神社の西方に、猿目(猿女)の地名があります。そこには、登美家の分家が住み、猿田彦大神を崇拝したので、その地名となりました。この分家の家系の娘が猿田彦大神の司祭となったので、その家系は猿女家(さるめけ)と呼ばれました。
前々回の當麻寺の記事でお話しした一言主神社は、この猿目の南方の中之谷にありますが、これは、登美家の関係者が建立したものだそうです。
他方、第8代大穴持の八千矛が枯死した西王家の神門臣家では、八千矛の子の味鋤高彦の孫の速𤭖之建沢谷地乃身(はやみかのたけさわやじのみ)が第11代大穴持に就任しました。
速𤭖之建沢谷地乃身の父は塩治彦といいますが、その塩治彦の弟の多伎都彦(たぎつひこ)は、神門臣家の親族や家来を連れて、東王家の富家の分家である奇日方を頼って、葛城に移住しました。多伎都彦は、葛城川の上流地域に住み、後に、父の味鋤高彦と叔母の下照姫、その婿の天稚彦(あめのわかひこ)の霊を祀る社を建てました。
神門臣家も、葛城では、登美家と同じく、カモ族と呼ばれました。葛城南部の鴨家の家系は、特に高鴨家と呼ばれ、建立した社の名は、高鴨神社となりました。
奇日方の登美家に話を戻すと、磯城登美家が加茂家と呼ばれるようになるのは、7代目の鴨建津乃身からです。そして、奇日方から8代目の大田田根子(おおたたねこ)は、出雲神門臣家の美気姫(みけひめ)を奥方に迎えました。大田田根子が最初に住んだ新庄の北方の当麻町で、「太田」の地名が残されています。
さて、出雲族は、古くから神名備山信仰(かんなびやましんこう)を持っていました。祖霊が形の良い山に隠っているという考えがありました。円い山は女神と考えられました。だから、大和地方では、三輪山は女神の山でした。
太陽は朝、三輪山から現れます。それで三輪山は太陽の女神と考えられました。
三輪山は神名備山であるので、山そのものが御神体です。そのため、大神神社には本殿がなく、拝殿から三輪山を拝みます。
出雲の長浜神社境内には、サイノカミ三神が祀られているので、三ツ鳥居が建っていますが、三輪山には狭井神社があり、古くはサイノカミ三神が祀られていたようです。そのため、拝殿と御神体である三輪山の間には、三ツ鳥居が建っています。
ところで、第8代大穴持である八千矛、第8代少名彦である事代主が枯死した事件の後、天火明(あめのほあかり)こと徐福は一旦秦に帰国しました。
残された息子の五十猛は、成長すると父である徐福の意思に従い、母の高照姫、八千矛(大国主)の孫娘で、後に五十猛の奥方となる大屋姫(味鋤高彦の娘)と共に、丹後国に移住しました。ちなみに、この大屋姫との間に生まれた高倉下(たかくらじ)は、後に紀の川河口に移住し、その子孫が、紀伊の国造家となったと伝わります。
五十猛が丹後に移住したときに、出雲王家の親族であった大伴氏の祖となる日臣(ひのおみ)も付き添いとして移住しました。
五十猛は、石見国や出雲国にいる多くの秦族を丹後国に集め、香語山(かごやま)と名を改めました。
◇次回予告
この後、秦に一時帰国していた徐福が、再び渡来するのですが、次回は、その徐福の再上陸のお話からさせていただきます。
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