会津若松旅行二日目の平成30年(2018年)7月15日(日)、新選組局長近藤勇の墓のある天寧寺のお参りを終えた私は、松平家墓所へと向かいました。

 

◇松平家墓所

 

 天寧寺からは、Googleマップによると、大通りに出ずに松平家墓所に行けるようなので、それに従って、民家が建ち並ぶ住宅街を歩いて行くと、10分ちょっとで、「松平家塋域入口」と書かれた石柱が建っているところに着きました。

 

(松平家墓所/塋域入口)

 

 塋域(えいいき)とは、墓地のことです。

 

 この松平家墓所は、院内御廟とも呼ばれており、会津藩松平家第2代藩主松平正経から、第9代藩主松平容保(まつだいらかたもり)までの歴代藩主が祀られています。

 ちなみに、会津藩松平家初代藩主保科正之(ほしなまさゆき)は、この松平家墓所には祀られておらず、猪苗代町の土津神社に祀られています。

 

 この石柱の少し先に、松平家墓所の案内板がありました。

 

(松平家墓所/説明板)

 

 この説明板の絵によると、入ってすぐのところに第2代藩主松平正経の墓があり、東の方にある拝殿の前を抜けて、少し登ったところに、第4代藩主松平容貞(まつだいらかたさだ)の墓、その右手に第8代藩主松平容敬(まつだいらかたたか)の墓が有ります。

 そして、階段のところまで戻り、さらに西の方に歩いて行くと、右から第3代藩主松平正容(まつだいらまさかた)、第5代藩主松平容頌(まつだいらかたのぶ)、第6代藩主松平容住(まつだいらかたおき)、第7代藩主松平容衆(まつだいらかたひろ)、第9代藩主松平容保(まつだいらかたもり)と、墓が並んでいます。

 

 全部お参りして、門のところまで戻ってくると、1時間30分ほどかかるとのことでした。

 

 また、近くには、「熊出没注意」、「この近辺で熊目撃の通報がありました。」などの注意書きが貼られていました。 

 

(松平家墓所/門)

 

 門から覗いてみると、草が生い茂っていて、も出そうな感じで、しかも、この日はかなり気温が高く、このまま1時間30分も山道を歩く自信がなかったので、今回は会津藩歴代藩主のお墓をお参りするのを断念し、門のところで手を合わせるだけにしました。

 

◇会津武家屋敷

 

 松平家墓所から県道325号に出て、北西の天寧寺の方に少し歩くと、会津武家屋敷があります。 

 

 会津武家屋敷は、会津藩家老西郷頼母邸を復元した家老屋敷を中心に、福島県の重要文化財を含む歴史的な家屋や資料館などからなる歴史テーマパークで、お食事処九曜亭、土産物を販売している郷工房古今を併設しています。

 

 

(会津武家屋敷/冠木門)

 

 冠木門を潜り、まずは左手にある家老屋敷へと向かいました。

 

(会津武家屋敷/家老屋敷・片長屋)

 

 家老屋敷の片長屋を脇を歩いて行くと、突き当りに西郷四郎山嵐の像が立っています。

 

(会津武家屋敷/西郷四郎の山嵐の像)

 

 西郷四郎は、姿三四郎のモデルとなった柔道家です。

 

 四郎は、会津藩士志田貞二郎の三男として生まれました。

 会津武家屋敷にある家老屋敷は、会津藩家老西郷頼母邸を復元したものですが、四郎は、16歳のときに西郷頼母(さいごうたのも)に養子となりました。

 

 四郎は明治15年(1882年)に上京して、陸軍士官学校の予備校であった成城学校に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいたところ、嘉納治五郎(かのうじごろう)に才能を見出され、嘉納治五郎が設立した講道館に移籍し、柔道の道を究めていきます。

 この西郷四郎の得意技が、山嵐です。

 

 

 西郷四郎山嵐の像の写真を撮った私は、その手前にある表門から、家老屋敷に入りました。

 

 

(会津武家屋敷/家老屋敷・表門)

 

 会津藩松平家初代藩主は保科正之(ほしなまさゆき)ですが、西郷家はその保科家の分家で、会津藩では代々家老職を務める1700石取りの家柄でした。
 そのため、西郷家の屋敷は、江戸時代中期の和様建築の粋を集めた豪華なもので、敷地面積は2400坪、建築面積は280坪を誇り、38室もの部屋があったそうです。

 

 そのような西郷家の屋敷を復元したのが家老屋敷です。

 

 

 表門を潜ると、その先に表玄関があります。 

 

(会津武家屋敷/家老屋敷・表玄関)

 

  表玄関から、家老屋敷の周りを歩いて、見学しました。 

 

(会津武家屋敷/家老屋敷)

 

 家老屋敷の裏にある会津歴史資料館を見学してから、家老屋敷の裏門を潜り、家老屋敷の東側にある旧中畑陣屋へと向かいました。

 

 

(会津武家屋敷/旧中畑陣屋)

 

 陣屋は、藩の役所のことで、代官所とも呼ばれていました。

 

 説明板によると、この陣屋は、現在の福島県矢吹町中畑にあったもので、その当時の代官は、旗本の松平軍次郎だったそうです。

 昭和50年(1975年)に、この地に移築復元されました。

 

 旧中畑陣屋の北東には、茶室があります。

 

(会津武家屋敷/茶室)

 

 茶室には、相伴席(しょうばんせき)もあります。

 

(会津武家屋敷/茶室・相伴席)

 

 相伴席とは、茶室に隣接して設けられた控えの間のことです。

 

 『婆娑羅日記Vol.45~会津若松旅行in2018④(会津若松城❸)』で、千利休の後妻の連れ子、千少庵が作った茶室「麟閣」が、現在会津若松城鶴ヶ城)に移築されているというお話をしましたが、会津武家屋敷の茶室は、この麟閣を再現したものです。

 

 

 茶室を見学した私は、茶室の北東にある会津天満宮を参拝しました。

 

(会津武家屋敷/会津天満宮)

 

 西郷頼母は、菅原道真を尊敬し、自宅で祀っていたそうで、西郷頼母邸が復元されたのを機に、現在の地に遷宮されたものです。

 

 会津藩天満宮を参拝した後、郷工房古今お香を購入し、会津武家屋敷を後にしました。

 

 

 この会津武家屋敷の2kmほど南西に、小田山公園があります。

 小田山公園は、鶴ヶ城(会津若松城)を見下ろせる地にあることから、戊辰戦争の際、明治新政府軍(西軍)が鶴ヶ城(会津若松城)を砲撃するのに利用された場所です。

 

 郷工房古今を出たのが14時過ぎだったので、その小田山公園に行きたかったのですが、この日はかなり暑い中、バスやタクシーを利用せずにずっと歩いて観光していたので、松平家墓所と同じく、また次に機会に譲ることにして、一旦、ホテルに戻り、シャワーを浴びて、ゆっくりしてから、予約していた鶴ヶ岡茶寮に向かうことにしました。

 

◇鶴ヶ岡茶寮

 

 鶴ヶ岡茶寮は、鶴ヶ城(会津若松城)の北出丸から北に1ブロック行ったところにあります。

 

(鶴ヶ岡茶寮)

 

 コースで予約していたので、まずはビールで喉を潤してから、料理をスタートしていただきました。

 

 最初に、前菜鰊の山椒漬が出ました。

 

(鶴ヶ岡茶寮/前菜・鰊の山椒漬)

 

 次に、鯉の甘煮が出たので、会津若松市内の酒蔵辰泉の「京の華」を注文しました。

 

(鶴ヶ岡茶寮/鯉の甘煮)

 

(鶴ヶ岡茶寮/京の華)

 

 鯉の甘煮の後は、お造り3種盛り鮎の塩焼きと続きました。

 

(鶴ヶ岡茶寮/鮎の塩焼き)

 

 私は、静岡県浜松市天竜区出身で、子供の頃は父と一緒に近くを流れる天竜川鮎釣りに行っていて、鮎の塩焼きや天ぷらをよく食べていたので、鮎が出てくるとテンションが上がります。

 

 鮎の塩焼きの次に、蟹の椀物が出て、その後、こづゆが出ました。

 

(鶴ヶ岡茶寮/こづゆ)

 

 こづゆは、ホタテの貝柱で出汁を取り、豆麩、人参、椎茸、里芋などを入れたお吸い物を、会津塗の椀で出す、会津の郷土料理で、美味しかったです。

 会津では、このこづゆは、何杯でもおかわりして良いという習慣があるそうです。 

 

 まだお酒が飲み足りなかったので、今度は、会津市内の末廣酒造の「玄宰(げんさい)」をいただきました。

 

(鶴ヶ岡茶寮/玄宰)

 

 玄宰は、会津藩藩校日新館を設立した会津藩家老田中玄宰(たなかはるなか)の名を冠したお酒です。

 

 この後、締めで小さめの蕎麦とデザートが出て、フィニッシュとなりました。

 

 

◇次回予告

 

 翌朝は、ゆっくりめにホテルをチェックアウトし、荷物を預けて、ソースかつ丼をいただいてから、七日町へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

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