平成30年(2018年)7月14日(土)、会津若松城鶴ヶ城)の南走長屋干飯櫓の見学を終えた私は、本丸跡の一角にある茶室麟閣へと向かいました。

 

◇会津若松城❸

 

 干飯櫓から、本丸跡の南東の一角にある茶室麟閣に向かう途中の南側の土手の近くに、馬洗石があります。

 

(会津若松城/馬洗石)

 

 この辺りには、藩主が馬術を稽古するための馬場があったので、この石は、馬の口を洗うためのものであったと伝えられています。

 

 天守の東側には、大広間があったそうです。

 

(会津若松城/大広間跡)

 

 大広間跡から眺める天守も美しいです。

 

(会津若松城/天守)

 

 馬洗石の先には、荒城の月碑がありました。

 

(会津若松城/荒城の月碑)

 

 『荒城の月』は、明治31年(1898年)に、土井晩翠(どいばんすい)が書いた詩に、瀧廉太郎が作曲した歌ですが、後年、土井晩翠が会津女子高校の音楽会に出席した際に、『荒城の月』は、取り壊された会津若松城鶴ヶ城)をモデルにしたと述べたそうです。

 また、仙台城青葉城)もモデルにしたと言われています。

 

 そのため、荒城の月碑は、モデルとなった会津若松城仙台城と、作曲者である瀧廉太郎の故郷である大分県の竹田城の三ヶ所にあります。

 

 

 荒城の月碑のすぐ先に、茶室麟閣表門があります。

 

(会津若松城/茶室麟閣表門)

 

 表門を潜り、左手の入場券売場で入場券を購入し、露地(茶室に付随する庭園のこと)の中に入りました。

 

 入場券売場のお向かいに、寄付(よりつき)があります。

 

(会津若松城/寄付)

 

 寄付は、茶会に先立ち、客が連れ客と待ち合わせをしたり、身支度をする場所です。

 

 寄付の先には、腰掛待合があります。

 

(会津若松城/腰掛待合)

 

 客が露地に入り、亭主の迎えがあるまでの間、腰を掛けて待つ場所です。

 

 この腰掛待合は、森川家から移築復元したものです。

 森川家については、後ほど、詳しくお話しします。

 

 腰掛待合の先には、蹲踞(つくばい)の説明板がありました。

 

 

(会津若松城/蹲踞説明板)

 

 説明板によると、露地にある水場のことを蹲踞というそうで、手水鉢と役石などでできているそうです。

 蹲踞では、茶室に入る前に俗界の汚れを払い、清らかな心で席入りするために、手を洗い、口をすすぐそうです。

 

 蹲踞の説明板の先に、茶室麟閣があります。

 

(会津若松城/茶室麟閣)

 

 未だに真相は謎とされていますが、千利休は、豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉の命により、天正19年(1591年)2月28日に切腹しました。

 

 地名を黒川から若松へと改め、近世城郭へと改築し、会津若松の街を整備した蒲生氏郷は、利休七哲千利休の7人の高弟のこと)の1人であったため、利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、利休の後妻の連れ子であった千少庵を会津に匿い、徳川家康とともに、千家復興秀吉に働きかけました。

 

 秀吉はこれを許し、少庵は京都に戻って千家を再興し、少庵の子の千宗旦がそれを受け継いでいきます。

 

 そして、宗旦の次男の宗守武者小路千家を、三男の宗左表千家を、四男の宗室裏千家を興し、現代にまだ続く三千家となりました。

 

 少庵が会津に匿われていたときに、蒲生氏郷のために造ったと伝えられているのが、茶室麟閣です。

 

 この茶室麟閣ですが、戊辰戦争で会津藩が降伏し、1ヶ月に及ぶ籠城で傷んだ会津若松城(鶴ヶ城)が取り壊されることになった際、石州流会津怡渓派茶人でもあった森川善兵衛が、貴重な茶室が失われるのを惜しみ、明治5年(1872年)5月に、自宅に移築し、以来、森川家がその茶室を守り続けてきました。

 

 平成2年(1990年)、会津若松市が、市制90年を記念し、茶室麟閣を、森川家から会津若松城内に移築し、復元しました。

 

 前述の腰掛待合も、この森川家から移築したものです。

 

 

 この森川家ですが、元々は蒲生家の家臣で、蒲生氏郷が会津に移封になった際、家臣の森川重則もそれに従い、会津に移住しました。

 氏郷の子で、会津藩蒲生家第2代藩主蒲生秀行が亡くなったときに、森川重則は殉死します。

 

 さらに、秀行の子の蒲生忠郷が嗣子がいないまま早逝し、蒲生家は断絶し、森川家も浪人の身となります。

  

 森川重則の弟の森川昌茂は、町人となって、薬種商となり、この昌茂を初代として、代々、当主は森川善兵衛を名乗っていきます。

 明治5年(1872年)に茶室麟閣を自宅に移築した森川善兵衛は、8代目に当たるそうです。

 

 この茶室麟閣のそばに、森川家所縁の牡丹の説明板がありました。 

 

(会津若松城/森川家所縁の牡丹の説明板)

 

 前述の森川重則が、会津藩蒲生家第2代藩主蒲生秀行から、会津若松城内にあった牡丹の木を拝領したそうです。

 

 蒲生家が御家断絶となり、森川家が浪人となり、その後町人となってからも、この牡丹は、森川家の自宅で代々大切に育てられ、佳節の際には、旧重臣が相寄り、この牡丹を囲んで、旧主である蒲生家を偲んだと伝えられています。

 

 そして、茶室麟閣が移築復元された後、平成4年(1992年)に、この牡丹も、森川家からこの場所へ移されたとのことです。

 

 

 茶室麟閣の前には、お茶席が用意されていたので、私も、抹茶をいただきました。

 

(会津若松城/抹茶)

 

 表門の前から眺める天守も、とても綺麗です。

 

(会津若松城/天守)


 この後、東側の土手の方に人がいたので、私もそこに昇ってみると、眼下に廊下橋が見えました。 

 

(会津若松城/廊下橋)

 

 天守の入場券売場の前から旧表門を抜け、廊下橋に向かったのですが、途中に、萱野国老殉節碑がありました。 

 

(会津若松城/萱野国老殉節碑)

 

 萱野国老とは、戊辰戦争時、会津藩の国家老で、内政の責任者であった萱野長修(かやのながはる)のことです。

 

 会津藩は戊辰戦争で降伏し、会津藩松平家第9代藩主松平容保(まつだいらかたもり)と、容保の養子で、会津藩松平家第10代藩主となっていた松平喜徳(まつだいらのぶのり)は、明治新政府の命令により、東京に送られました。

 

 そして、松平喜徳萱野長修は、会津藩士5名と共に、久留米藩邸預かりとなりました。

 会津藩の家老の上席3名のうち、西郷頼母(さいごうたのも)は行方知れず、田中玄清(たなかはるきよ)と神保内蔵助は、戊辰戦争で奮闘するも負傷し、自刃していました。

 

 萱野長修は、次席の家老として、城の明渡しなどに尽力しました。

 そして、「戦争の責任は全て自分にある」と主張して、藩主であった松平容保松平喜徳の父子を庇い、二人の助命嘆願に奔走し、戦争責任を一身に背負って、切腹しました。

 

 萱野国老殉節碑は、昭和9年(1934年)に、萱野長修を偲んで、有志によって建てられたものです。

 

 廊下橋を渡ると、東側に二の丸跡があります。 

 

(会津若松城/二の丸跡)

 

 二の丸跡は、現在、テニスコートになっています。

 

◇次回予告

 

 会津若松城の見学を終えた私は、二の丸跡から、三の丸跡にある福島県立博物館に向かったのですが、次回はそのお話をさせていただきます。

 

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