今日の大阪は、ことのほか冷え込んで、季節外れのこんな雪景色になりました…。
なんてウソです。大阪では、日中に積もった雪がこんな風になるのは、数年に一度くらい。これは我が家の二階ベランダからしおんが撮った2011年2月11日のものです。
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我が家は、祖父の家がもとあった場所に建っている。姉は小学3年までその家で寝起きしていたし、私も始終遊びに行っていた。
4m道路を中央に、左は今はマンションになっているが、元は一軒のお屋敷で、幼い私にはどんな人の住まいか、知るよしもなかったが、同年代の「タケボちゃん」という子供がいて、よく一緒に遊んでいた。たぶん名前の一部に「タケ」が付く坊ちゃんで「タケボちゃん」だったのだろう。
右手は元「鉢の木」という料亭兼高級旅館で、戦後すぐの将棋の名人戦などが行われた、格調高い老舗であった。内藤国雄が30歳で初タイトルを獲得した棋聖戦なども後年ここで行われており、私が将棋に熱中し、プロの将棋界の存在を知った頃と、ぎりぎり重なっている。もちろん客として入ったことなんかなく、実家(酒屋)の配達で一、二度入ったことだけは記憶している。
私の住む帝塚山には、昔、こんなお屋敷や由緒正しき建物がたくさんあった。また、市内中心部へのアクセスが良いので、芸能人、著名人が多く住む街でもあった。そして、以前にも書いたように、チンチン電車の通りには、しもた屋を挟んで各種の小売店が並ぶ、「自立」した街でもあった。
お屋敷の奥様は自分で買い物などには来なかった。みんな(たぶん)住み込みの「女中さん」が買いに来るのである。または電話を受けて、醤油一本でも父や「番頭さん」と呼んでいたオジサンが車で配達していた。スーパーやコンビニなんてなかった、店売りで日銭の入る、けっこう儲かる商売だった。それをいいことにキリギリスよろしく無計画に浪費して、今や無い無い尽くしのていたらくである。
実家から電車通りをはさんで南へ50mほどのところに、南海ホークスの鶴岡(山本)一人監督が住んでいた。何かの取材だったのだろう、私が駆り出されて、近くの万代池公園で、監督が投げるボールを打ったことがある。
また、よく雑誌などを買っていた、帝塚山3丁目電停前の「かもめ書房」のおばさんが、庄野潤三・英二兄弟のお姉さんだなんて、ずっと後まで知らなかった。
さて、最初の写真に戻る。写真で言うと左のマンションの奥、我が家から1ブロック向こう側に、当時の大阪府知事の自宅があり、その孫が小学校の同級生だった。たぶん転校して来たように思うが、この界隈の子供は、前述のように著名人にはわりと慣れていたのだろう、別に特別視したり、ちやほやするなんてことはなく、普通に接していた。
冬が間近な、とある祝日。この頃から自堕落な生活を好むようになっていた私は、祝日といえばゆっくり寝て、ふだん観られない午前の古い邦画などをTVで観るのを、この上ない楽しみとしていた。
ところが、自然に目覚める前に、母に叩き起こされた。「早く起きて!サトー君が迎えに来てるよ!」
約束もしていないし、訳も分からぬまま、電車賃くらいはもらったのだろう、南海電車に乗って、着いた所は「松ノ浜」…ここはどこなんだ?
何かの見学なのか、船に乗って…まあ昼過ぎには帰れるかな……!!
船が動いている!
結局、サトー君と私が帰り着いた頃には、とうに日は暮れていた。
オレの休日を返してくれ!!!という思いだけが残った。
1969年11月3日。記録によると、今のところ大阪で行われた最後の海上自衛隊観艦式であった。
サトー君、たぶん前日の晩にでも、オジイチャン経由で招待券をもらったのだろう。何しろ防衛庁長官もやったことのある人らしいから…。
ここまで読まれて(ありがとうございます)、「いいじゃない、めったにない機会だったんだし」と思う向きもあるだろう。
しかし私の中では、一生忘れられない、ざらついた記憶として残っているのである。
【私の帝塚山物語 その1】 おわり

