しおんパパtalltreeです。 今回は義母のことを少し書いてみました。
この年の桜は早かった。近所の公園でも、池の周囲の樹々が3月の末には満開になった。
「今年はもう桜が咲きましたよ」私は、近くの病院で、ずっと眠り続けている義母に語りかけるように、この写真を撮った。
早く咲いておくれ、見ることができなくても、義母の生命のあるうちにと願っていた、この年の桜だった。
その一年前の4月、我が家の前で、義父と一緒に散歩帰りの義母と会った。
まもなく入院することは聞いていたし、連れ合いが専門の医学書まで買い求めて必死で調べた結果は、かなり悲観的だった。
「今日、大阪城公園へ行ったけど、桜がきれいでしたよ。お義母さん、来年ぜひ行きましょうよ!」涙が出そうになったので、私はわざと横を向いて義母に言った。
義母は娘夫婦にはもちろん、孫たちにも限りない愛情を注いでくれた人だった。
まだ幼かった上の息子は、毎週のようにお泊まりに行っていた。
「おばあちゃん!あおいでしゅ!今晩泊まりに行ってもいい?」
自分で電話をかけて、マイまくらとトランプをリュックに詰めて、うきうきと出かけて行った。
義父には内緒で「あおいやしおんの服を買ってあげて」と、少ない年金からお小遣いをくれた。
子どもの運動会などにも必ずやって来て、孫の快走に無邪気に(この人は大体根っから無邪気な人だった)声援を送っていた。
しおんの「異変」(その頃は、話しかけても目が合わなくなっていた)に最初に気づいたのも、たぶん義母だったし、しおんの将来のことをいつも気にかけて、連れ合いの相談に乗ってくれていた。
もし附属養護学校(支援学校)に入らなかったら、恐らく現在のしおんに、写真やテニスとの出会いは、なかっただろう。
小学校入学時に抽選で外れ、選考の厳しい中学部では無理かなと思っていたが、幸運にも途中欠員が出て、6年生からしおんは「ふよう」に転校した。
この「ふよう」入学について連れ合いは、「きっとお母さんが、自分の生命を削って、しおんが入れるようにしてくれたんだよ」と言う。
ちょうど転学許可の正式発表の日に、義母は胆石で病院に運ばれて、手術を受けることになった。
そして術後小康を得て、出席するのを楽しみにしていた、しおんの入学式の前日が、今度は脳腫瘍の手術日になった。
岡山の自宅を引き払って、大阪へ出てきてからの数年は、義母にとって娘や孫の近くで過ごせた幸せな日々だったと思う。
何より娘にとって心強い存在だったし、一緒に習い事や買い物に出かけたりして、日々の生活をエンジョイしていた。
私たち家族と毎年旅行したし、食事をともにしたり、近所の和菓子店で季節のお菓子を買っては、義母を訪ねて抹茶を点てたりした。何種類か和菓子を買って来るが、いつも義母の好みは、私と同じだった。
それにしても…。
今回のしおんの個展は無理としても、せめてあと数年の寿命が義母にあったなら、と思う。
義母が亡くなった翌年、私たちは初めて韓国へ行った。
連れ合いが「秋の童話」にハマったのがきっかけで、「冬ソナ」が静かに人気を高め始めた頃だった。ガイドさんに撮影地を巡るツアーはないんですかと聞いたら、「そんなのありません」と、にべもなかった頃である。
いつもポジティブ思考で気の若かった義母は、きっと連れ合いの誘いに乗って韓流ファンになったに違いない。
「私はやっぱりヨン様がええな~」とか言って、娘と一緒に韓流にハマってあれこれ語る義母を見たかった。
我が家には娘がいないので、娘の立場で連れ合いが義母と一緒に、大人の母娘として付き合う姿を、もう少し見ていたかったと思う。
今でも義父の家に行けば、しおんは勝手に一人で仏壇の前に座って、派手にチンチンチ~ン!と鳴らしては、手を合わせている。
「しーちゃん、大きゅうなったねえ!いい写真が撮れとるねぇ~」と義母は喜んでくれているだろうか。

