独り暮らしの父はよく、
「人に迷惑をかけない、自分が後悔しない」生き方をしたい、
自分はそうやって生きてきた、と言う。
若い頃は私もそういう生き方をしたいと思ったし、そんな父を尊敬もした。
でも母が他界した後、父の生き方は、見えない所での母の支えなしには
あり得ないものだったと知った。
家族に助けてもらうのは、人に迷惑をかけるのとは違うと思うのだが、
父は何でも独りで決めて、独りでやりたがる。
買い物の足など手伝いがあった方がよさそうな時でも、
「乗せて行ってほしい」や「買って来てほしい」ではなく
「来週こっちに来ることはあるか(あるならついでに)」というような言い方をする。
父に気を遣わせないよう、以前は用事があるふりをして実家に行っていたが、
自分が病気になってからはめんどくさくなった
「お父さんが何か用事があるなら来るけど、いつがいい?」と聞き返している。
結果、父は独りでやろうとしてうまく行かないことも度々。
先週も夕方から一人で銀行に行き、薄暗くなった道で転倒。
意識を失っている所を、通りかかった人が救急車を呼んでくれたらしい。
はぁ~
電話1本くれたら、車で30分で行けるのにさ~。
デコを数針縫う怪我だったけど、骨折はなく(頭蓋骨は多少凹んだらしい)、
入院は免れた。
心臓や脳の検査でも今の所これといった異常は見られず、
抜糸のためにあと1回病院に行けば済みそうなのは、不幸中の幸い。
人に頼らずに自分でやろうとする気持ちがあるのはいい。
全面的に頼られたら、正直言って私も困る。
でも、病院への付き添いとか、連絡をくれた人へのお礼とか、
壊れた眼鏡を直しに持って行ったりとか、予定外の仕事がこちらに・・・
いや、いいんですよ、私や妹が父の世話をするのは
娘として当然ですからね。
でもさ・・・・・・
自分が動けなくなったことを嘆きはするけれど、
私たちへの「ありがとう」がないのが、時々やりきれなくなる。
例えば、タオルが汚れているのに気付いて、妹が洗濯する。
でも父は汚れに気付いていない、というか、汚れていても大して気にしないので、
妹の行為は残念ながら、感謝の対象にはならない。
救急車を呼んでくれた人や私に連絡をくれた人へのお礼、という概念もないので、
同様に私も、感謝の対象にはならない。
そんな父を見て、最近よく夫婦で話をする。
自分たちが年取って娘に面倒をかけるようになったら、感謝しようね。
ちゃんとありがとうって言って、たまにはお小遣いを渡そうね。
年を取ったり病気になったりすると、誰かに助けてもらわなければいけなくなる。
その時、世話をしてくれる人が気持ちよくできるようにするのも、
大事なことだと思うのだ。
私もちょっと頑張り過ぎちゃうところがあるから、
自分でできることとできないことをちゃんと見極めて、
してもらったことには感謝して・・・・・・
などと考えて、ふと思った。
入院中や抗がん剤中、私ちゃんとありがとうって言ったっけ?
病院の人には言ったけど、主人や娘や妹に言っただろうか?
覚えてない・・・・・・
クリスマス前の4週間を、カトリックやプロテスタントの教会では
アドベント(待降節)と呼ぶ。
(アドベントカレンダー、って聞いたことない?)
今年のアドベントは、家族に毎日「ありがとう」を言おう、と決めた。
感謝の気持ちがあっても、相手に伝わらないとだめだものね。
娘のちょっとした手伝いにも、ありがとうと言ったら、
どうイタメシ~、と笑顔で返事が返ってきた。
こんな小さなことで嬉しくなったりする今日この頃でございます。
長いひとりごと、読んでくれてありがとう^^