
あっちこっちと歩いて 宮城の南へ出た。
そして、また濠(ほり)に添って北に曲がり
焼けたり倒壊したビルディングの傍らを通り
東京駅の前に出て(東京駅は壊れずに居た)又 北側に抜けた。
何しろ、色々と歩いたのだった。
広瀬中佐と杉野の銅像のある須田町辺りも通った。
矢張り焼野は 涯てなく続いて、その惨状云うに難しだった。
高架鉄道の下を通って、何橋だかを渡ろうとした時
また地震がよった。
・
東京日々や報知などの新聞社は、危うく助かっていて
僕らは、その間を行った。
その時、
広い町の向かいは、まだ煙に包まれ
物凄い有様だった。
高架鉄道の下も皆燃えていた。大概は工場らしく
色々の器械が 焼け残っていた。
その下を又潜って、あの
僕がよく行った 職業紹介所の前に出た。
その三階建てだった紹介所も
矢張り、焼け潰れてしまって跡形もなく
唯、濠の傍らに築かれた石垣の上に
瓦や 灰が残っていた。
そして、あの よく受話器を耳にして
細い而も デリケートな目をむけた
17~8才の女事務員など、
どうしたのだろうかと
その行き先も忍ばれた。
・
それからすぐ交差路に出たが
あの神田橋は落ちてしまい、その付近には
数台の電車が、並んだまま焼けていた。
その前にも、通ってきた所には
そういう所が、どの位あったかしれなかった。
橋が落ちてしまったので、向こうへ行こうとする者は
皆、水道の鉄管を渡した上を 危なげに渡っていた。
濠に添って、ブラブラ歩いて行くと
その辺には、道の真ん中に
どうして死んだのか
3~4人ずつ 灰色の死体が並べられて
その上に、トタンの焼けたもの等が
被せられてあった。
乗り物が無いので、総てのヒトは皆
ひたすら歩いていた。
死体の上のトタン板等を覗いて
見ていく者もあった。
・
こうした時の気分とか情緒とか
総ての精神状態は、全く平常とは
打って変わったものだった。
被災地をさながらに、心までが
病的に なっていたのだろう。
僕らの目にも、唯 単なる死体としか映じなかった。
続く
(一部読みやすいように、加筆・文体の変更をしてあります。)