昨日は書籍『許される連続五度』について書いてみました。さて、でも、和声などの禁則ってなんのためにあるのでしょうか。なぜ、学ぶのでしょうか。少し引用して、こぼればなし的にきょうは書いてみたいと思います。
こんばんは。
トロンボーン吹きで作編曲家、吹奏楽指導者の福見吉朗です。
表現と学習
まずは、許される連続五度のあとがきの中から引用しますね。
教育上の特別な配慮によって学習の範囲や目的を意図的に限定するならまだしも、表現活動としての音楽を学習と勘違いし、そこに「唯一無二の正解」があり、「不正解を出さないことが正解であり目指すべき姿」であり、挙句の果てには「正解を示して高得点や高評価を得させることが音楽教育の主たる目的」というような盲信によって音楽の活動をしたり教育に関与したりすることは、若い人たちにそもそも与えられている無限の可能性を潰すことになりかねません。
さて、どうでしょうか。よく読んでくださいね。
盲信、世の中にたくさんあるのではないでしょうか。
なぜ
以前に書いた、こちらの記事…
この中で、「守」、つまり、「型を守る」、「型にはまる」段階で、
意味をわかってそれをおこなうこと、それが、ほんとうの意味での「守」なのではないか、
そんなふうに書きました。
型、規則、禁則は、それがなぜあるのか、どう形成されてきて、どういう意味があるのか、
それを理解しておこなわなかったら、本末転倒だと思うのです。
「そういう決まりだから」「そう決まっているから」というだけで無思考におこなっていては、
それはどんどん劣化していく…
これはべつに音楽の話だけではなくて、規則でも法律でもおんなじですね。
禁則
楽譜を書いていると…
スケッチを元にスコアに音を書く段階で、声部の上下が入れ替わっただけで禁則に触れる、
そんなことが起こるのですよね。
たとえば、連続四度は許されるのに連続五度は禁則です。
スコアをチェックしていたら連続五度がいくつも見つかって冷や汗をかいたことがあります。
全部直しましたが、でも…
「連続五度があるなんて恥ずかしい…」
「和声の禁則ぐらい知ってるよってところを示さなければ…」
正直、そんな意識があったことも確かです。恥!
禁則は、なぜ禁則なのか…
規則だから、ルールだから、決まっているから、だからとにかく…、ではダメなのですね。
たしかに、音にしてみると連続四度と連続五度って違うのです。違和感が。
自由と無秩序
もうひとつだけ引用します。『はじめに』の中に、こんな一文があります。
制限を知らない自由らしきものは本当の自由ではなく、単なる無秩序です。
これ、マイルスの言った、「規則を知ることで、規則を破る自由を得る」とおんなじですね。
ほんとうの自由を獲得するために、規則を学ぶのです。つまり、
『規則』は決して、『目的』などではないのです。
ほんとうの自由を得て、生きた表現活動をすることが目的。そのために、規則を学ぶのです。
それによって結果的に、規則を破る自由をも得るのです。
生きた音楽を演奏するために正確に演奏できる技術を学ぶのが、楽器ですよね。
『正確に演奏すること』は決して目的なんかではない。ましてや、いい評価が目的でもない。
本末転倒、たくさんあるように思いますよ。自戒も込めて…
音楽ばかりではなく
でもこのお話はやっぱり、音楽のことだけではなくあらゆることに言えるように思うのです。
学校には校則がある。それはなぜ?
法律や条例、規則はどうして守らなければならないの?
「決まりだから」「規則だから」という無思考は、ダメだと思うのです。
そこには意味があり、なにかのためにそれがある。
考え、理解し、判断しておこなう。だから、人間がする意味がある。
そのために裁判官だっているのでしょう。判断するために。
正解のない世界は音楽だけではないのですよね。
以前にも書きましたが、世の中の多くのことは正解のないものなのではないかと思うのです。
さて、みなさんは理解し判断しておこなっていますか。





