みなさん、『指導』と『指摘』の違いって、わかりますか。どちらが、相手にとって有益なのでしょうか。それはいろいろあるのかもしれませんが、でも、安易な指摘ならしないほうがいい、とは言えるように思うのです。
こんばんは。
トロンボーン吹きで作編曲家、吹奏楽指導者の福見吉朗です。
指導と指摘
トランペット奏者の荻原明さんが、こんな記事を書かれていました。
さて、どう思われますか。
まったくこの通りだと思うのですよね。
相手の成長の糧になるかどうかが大切なのだと思うのです。
それに寄与しないものって、あったりしませんか。
指摘
現状の指摘がすべていけないとは言いません。でも…
たとえば、「音がまっすぐじゃありません。揺れています」という指摘があったとします。
これってね、大方は、本人だってよくわかってることだったりすると思うのです。
しかも、それを少なからず気に病んでいて、でもどうしたらいいのかわからない…
そんなことだったりするのかもしれません。
そこへ、単なるダメ出しとして「音が揺れています」とだけ伝えるのって、どうなんでしょう。
なにか、相手のためになるでしょうか。
なりませんよね。それどころか、マイナスにすらなりかねない。
この場合、まったく余計な一言だといえるように思います。
動機
誰かになにかを指摘する、その動機ってなんでしょう。
その人の成長を願って
プラスになると思って
自分の知識をひけらかすため
指導する立場だから
そういう役割だから
悪いところに気づいたから
…
さて、どうでしょうか。
気づいたことを伝えることは、相手のためになる?
そもそもその指摘、相手のため? それとも、自分のため?
ほんとうに、相手のため? ほんとうに?
現状と目標と方法と
伝えること、内容には、3つあると思うのです。
今、どうなっているのか、つまり現状。
どうなりたいのか、どうなるといいのか、つまり目標。
そのためにはどうしたらいいのか、どうしたら出来るようになるのか、つまり方法。
また、そのためのヒントもあるでしょう。
さて、どれを伝えるのがいいのでしょうか。
ひとつポイントだと思うのは…
相手がわかっていることは伝えなくていい、ということなのではないかと思うのです。
そういう意味で前出の『音が揺れている』なんていうのは、
相手のわかっていることしか言っていません。
これではまったく、相手のためにならないのですね。
指摘だけでも
もし、現状の指摘で相手が目標と方法を見つけ出すことが出来るのなら、
その能力があるのなら、現状の指摘だけでも有益かもしれません。
でも、それであるのなら、指摘する自分のなかにもその答えがあるハズですね。
答えをわかっているけれど、あえて伝えない、ということはあると思います。
でも、答えがわからないから、方法がわからないから、現状の指摘だけしておこう…
これでは相手のためにはなりませんし、
荻原さんが言われるように、悪意でも出来てしまう行為です。
どうしたらいいのか、出来るようになるのか、
それを一緒に考え導き出す、それが、指導するということだと思うのです。
もちろん、思い込みによる間違った答えではいけません。
予断を持たず、広い視野を持ち、よく観察し、問い、考える。
さて、指導と指摘、あなたはどう思われますか。