人と食事をする、ということは、単に栄養を摂取する以上の意味を帯びてしまう年齢になった。
それは喜びであると同時に、どこかで自分の立ち位置を確認する作業でもある。
リンクス梅田の八階にある「酒房うおまん」を訪れたのは、特別な期待からではない。むしろ、過度な期待を抱かずに済む場所を、無意識に選んだ結果だったように思う。
この日頼んだのは、
海鮮舟盛りと豚の陶板焼きの名物鯛めしコース(飲み放題付き五千円)。
金額と内容が、過不足なく釣り合っている。その事実は、現代の飲食店において、決して自明ではない。
舟盛りが運ばれてきたとき、私はその「控えめさ」に少し安心した。
魚は飾り立てられることなく、しかしぞんざいにも扱われていない。一切れごとに、ちゃんと咀嚼されるべき重さがある。口に運ぶ行為が、思考を妨げない。
豚の陶板焼きは、熱を受けながら変化していく時間を許されている料理だった。
急かされず、冷めることもなく、食べる側が自分の速度を取り戻せる。宴会料理にありがちな「処理される食事」ではない。
飲み放題の酒を選ぶとき、私は日本酒の欄に呉春の名を見つけた。
それが特別に強調されるわけでもなく、当然のようにそこにある。
この「当然さ」は、店の思想を静かに語っているように思えた。酒を単なる付属物として扱わない、という意思表示だ。
締めの鯛めしは、私に何かを訴えかけてはこない。
ただ、杯を重ねた身体を、無理なく終わりへ導いてくれる。食事とは、本来そういうものであったはずだ、と一瞬考える。
ここには、記憶に残る一皿はないかもしれない。
しかし、誰と来ても破綻せず、言葉が自然に続いていく空間がある。
それは、人が人であることを確認するには、十分な条件だ。
食べ終えて店を出たあと、私は満腹感よりも、奇妙な安堵を感じていた。
今日の自分は、過剰にも不足にも傾かなかった。
それだけで、この夜は意味を持ったのだと思う。