ランチタイムに足を運んだ喜多方食堂 ハイハイタウン店。

今回いただいた「全部のせ」は、器を覆い尽くすようにチャーシュー、メンマ、ねぎが盛られ、見た目からして満足感があります。


スープは喜多方らしいあっさりとした醤油ベースで、脂の主張は控えめ。具材が多くても全体のバランスを崩さず、最後まで食べ疲れしません。

チャーシューは厚みがありながらも硬すぎず、噛むほどに旨みが広がります。


派手さよりも、日常に寄り添う一杯。

「今日はラーメンでいい」ではなく、「今日はこのラーメンがいい」と思わせてくれる、そんな安心感のある店でした。




焼肉を「食べに行く」というより、「確かめに行く」。

この日はそんな気分で、ワンカルビ尼崎店へ向かった。


選んだのは全品焼肉食べ放題コースにソフトドリンク。車の運転があるのでアルコールは我慢だが、肉に集中するにはむしろ都合がいい。


ワンカルビは名前負けしない。焼き網に乗せると脂がじわっとにじみ、火を通しすぎなくても旨味が立ち上がる。角切りカルビは噛んだ瞬間に肉の繊維がほどけ、厚切り上ロースステーキは「これ本当に食べ放題でいいのか」と一瞬考えてしまう迫力だった。


正直に言えば、全部おいしい。ただ、その中でもこの三つは明確に記憶に残る。

食べ放題だから量で攻めるのではなく、「好きな肉を、好きな焼き加減で、何度でも確認できる」。その安心感が、この店の一番のごちそうかもしれない。













東京で『ライオンキング』を観てきた、という人の話を聞いた。
舞台は完璧だったらしい。構成も演出も隙がなく、「さすが東京やね」と、感心したように話してくれた。

その人は広島出身だった。

私はというと、大阪と名古屋で『ライオンキング』を観たことがある。
どちらも強烈に覚えている。
なぜなら、どちらも容赦なく方言だったからだ。

大阪で観たときのプンバァは、最初の一言で空気を全部持っていった。
コテコテの大阪弁で、こうだ。

「気にせんでええって!
人生なんてな、考えすぎたら損やで!」

サバンナの話のはずなのに、一瞬で梅田か難波の空気になる。

さらに追い打ちをかけるように、

「腹減ってる時に大事な話したらアカンわ。
まず食べよ。話はそれからや」

この時点で、観客席はほぼ負けている。

名古屋で観たときも負けてはいなかった。
こちらは、じわじわ効いてくるタイプのコテコテだ。

「まぁ、そんなに無理せんほうがええがね」
「世の中、急いでもろくなことないでいかんわ」

語尾が出た瞬間、場所が特定できる。
サバンナにいるのに、名駅の気配しかしない。

だから、東京で観た人が言った「地方公演じゃと、猪がご当地の方言で喋るんよ」
という話には、全面的に頷くしかなかった。

そして、その人は続けた。

「広島でやったら、もう完全に広島弁じゃけぇ」

想像は、もはや容易だ。

「まぁまぁシンバ、そんなに気張りんさんな。
人生、思うようにいかん日もあるんよ」

少し間を置いて、さらにこう来る。

「腹が減っとるけぇ、余計に深刻になるんじゃ。
とりあえず、なんか食べよや」

この流れ、大阪でも広島でも、まったく同じだ。
深刻な話ほど、途中で遮られる。
そして最後は、必ずこう締められる。

「お好み焼き、行こか」

大阪と広島は、お好み焼き文化が共通している。
焼き方は違っても、鉄板の前に立つと急に人生論が始まるところまで同じだ。

プンバァはきっと、サバンナでも鉄板の前に立つ。
ヘラを持ち、妙に真剣な顔で言う。

「見とき。ひっくり返すタイミングは、早すぎても遅すぎてもいけん」

大阪の人が「せやな」と頷き、広島の人が「ほんまそれ」と頷き、名古屋の人は一拍置いて、「まぁ…一理あるがね」と頷く。

東京で観た舞台は、完成度が高かったという。
でも地方で観る『ライオンキング』は、土地の言葉が入って、ようやく完成する気がする。

サバンナなのに、なぜか駅前の風景が浮かぶ。
それでいい。
たぶん、それが一番、正しい観方なのだ。


人と食事をする、ということは、単に栄養を摂取する以上の意味を帯びてしまう年齢になった。

それは喜びであると同時に、どこかで自分の立ち位置を確認する作業でもある。


リンクス梅田の八階にある「酒房うおまん」を訪れたのは、特別な期待からではない。むしろ、過度な期待を抱かずに済む場所を、無意識に選んだ結果だったように思う。


この日頼んだのは、

海鮮舟盛りと豚の陶板焼きの名物鯛めしコース(飲み放題付き五千円)。

金額と内容が、過不足なく釣り合っている。その事実は、現代の飲食店において、決して自明ではない。


舟盛りが運ばれてきたとき、私はその「控えめさ」に少し安心した。

魚は飾り立てられることなく、しかしぞんざいにも扱われていない。一切れごとに、ちゃんと咀嚼されるべき重さがある。口に運ぶ行為が、思考を妨げない。


豚の陶板焼きは、熱を受けながら変化していく時間を許されている料理だった。

急かされず、冷めることもなく、食べる側が自分の速度を取り戻せる。宴会料理にありがちな「処理される食事」ではない。


飲み放題の酒を選ぶとき、私は日本酒の欄に呉春の名を見つけた。

それが特別に強調されるわけでもなく、当然のようにそこにある。

この「当然さ」は、店の思想を静かに語っているように思えた。酒を単なる付属物として扱わない、という意思表示だ。


締めの鯛めしは、私に何かを訴えかけてはこない。

ただ、杯を重ねた身体を、無理なく終わりへ導いてくれる。食事とは、本来そういうものであったはずだ、と一瞬考える。


ここには、記憶に残る一皿はないかもしれない。

しかし、誰と来ても破綻せず、言葉が自然に続いていく空間がある。

それは、人が人であることを確認するには、十分な条件だ。


食べ終えて店を出たあと、私は満腹感よりも、奇妙な安堵を感じていた。

今日の自分は、過剰にも不足にも傾かなかった。

それだけで、この夜は意味を持ったのだと思う。







堂山町の一角にある「堂山食堂 東通り店」。

今回は 麻婆唐揚げ定食(770円) を注文したのですが、運ばれてきた瞬間、思わず笑ってしまうほどの“山”。

白い小皿を覆い隠すように、麻婆がどっしりとかぶさってくる。

麻婆豆腐単体でも迫力がありますが、これは“覆いかぶさり型”。

視覚的なインパクトで一気に心を掴みにくるタイプです。


味は、甘さと辛さが同居した町中華らしい濃いめの味付け。

とろみの強い餡がご飯に絡むので、自然と箸が進みます。

唐揚げは衣薄めで、麻婆のソースを吸うと一体化してまるで別料理のよう。


一方で、唐揚げ自体の香ばしさは少し弱め。

これは「麻婆餡がかなり強い味で主役をさらうため」です。

唐揚げを単品で楽しみたい人には物足りなさもあるかもしれません。


ただ、この価格でこのボリュームは大衆食堂の醍醐味そのもの。