日本の近代(下) 第6章 第二次世界大戦中の日本の戦略 | 怠け者のつぶやき

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1933年に首相の座についたヒトラーは、ドイツが生き残るためには武力行使も辞さないとは言っていた物の、どこまで本気であったかは疑わしい部分があり、ヒトラーとしても第2次世界大戦が開始した事は不測の事態であったようである。

 1938年のミュンヘン会議の際には、イギリスの首相チェンバレン、フランス大統領ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニと会談を行いズデーデン地方の割譲を取りつける。この時英仏は、ドイツのベルサイユ条約の過酷さに同情していた事から、甘くなっていた部分もあった。

 しかしこの後ドイツがチェコスロバキアを解体すると、チェンバレンの態度が一変、ポーランドの自由都市ダンツィヒ(グダニスク)への自由交通を要求しただけで、イギリスはポーランドと同盟条約を結び、侵略行為に対しては即座に先端を開くと宣言される。これに対してドイツはポーランドに対して利害の一致するソ連と1939823日に独ソ不可侵条約を結ぶ。そしてその9日後、ポーランドに侵攻したドイツに対して、英仏が宣戦布告し第2次世界大戦がはじまる。

 この直前、1936年に日本はドイツと日独防共協定を結んでいる。米内光政や山本五十六はこれに反対していたのだが、世論が後押しをする結果となった。国際連盟を脱退し米英との関係が悪化する中で、これに対抗できる国を探していた。ドイツは、この時には日本よりずっと技術水準も高く、ソ連を牽制する事も目論んでいた。中国に進行している間、ソ連から攻撃を受けない様、さらに言えばソ連を挟み撃ちにできると言うメリットも考えていたのだ。日独防共協定に対して、ソ連は挟み撃ちを恐れ、中ソ不可侵条約をもとに中国に兵器と武器弾薬を提供していった。この頃日本とソ連は、満州との国境付近の紛争、を起こしており、ノモンハン事件や張鼓峰事件で日本はソ連に壊滅的なダメージを負わされていた。

 1938年、とうとう日本は国家総動員法が制定され、総力戦を行う準備を整える。国家総動員法は、勅令一つで国民の財産全てでも徴収できる法律である。政友会の牧野良三や民政党の斎藤隆夫は猛反発をするが、軍の圧力により41日に公布、55日から外地も含めて施行される。贅沢品の販売・製造の禁止や、食糧等の配給制、出版社の整理統合等出された勅令は終戦までに83件を数えた。

 1940年になると、日本を一つにしなければいけないと近衛が唱え、新体制運動が起きる。これによりいくつもあった政党はすべて解党し、近衛の立ち上げた大政翼賛会へ統合されることとなる。これは近衛の考えていた既存勢力を排除して強力な新党を作ると言う思惑とずれた形になり、また総裁を自分としなかった事で近衛は独裁者としての権力をつかむチャンスを自ら逃し、結局は内部での権力争いを生む事になってしまった。さらには各県以下の支部長を知事がやる事になってしまい、上意下達の組織に成り下がってしまった。

 この後、日本は南進論を唱え、日独伊三国軍事同盟を結ぶ。これによりフランスを陥落したドイツと同盟の日本は、フランス領インドシナ(現ベトナム)へ進駐と南進論を進めて行く。さらには南方への進出を行うために日ソ中立条約を成立させる。これを受けてアメリカは、日本へのクズ鉄輸出を禁止、中国にP-40戦闘機を100機送るなど日本への制裁を加えるのであった。また日ソ中立条約は、実はソ連に進行しようとしていたドイツにとっても不快な物であり、日本はこのような裏の情報で後れを取っていた。

 アメリカに対して、日本も交渉の道を探ろうとしていた。アメリカの要求を飲み、これに反発していた松岡洋右を外すために総辞職をする。日本へ対して有利な諒解案も作成されていたが、仏印進駐を知るとアメリカは態度を硬化させ、石油の全面禁輸を行うなどABCD包囲網を固めて行く。

 日本の南進論は、インドネシアの石油が目的であった。フランス領の南ベトナムには進駐できたが、これ以降侵攻するとアメリカと闘わなければならない事は分かっていた。そのため石油全面禁輸が分かった時には近衛はアメリカに交渉を使用とするがルーズベルトがこれを拒否。日本から2つの案を提示するも、中国の反対により対日強硬策しか受け入れられなかった。これにより最後通告だと考えた日本は、全面戦争になる前にアメリカを攻撃し、戦意を失わせることを決定した。