無人の家で発見されなかった手記 -9ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      3

 六月の喫茶店、外は雨、ゆえにガラスを伝う流水、それはまるで透明なカーテンのよう。
 アイスカフェオレを飲みながら、私は正面の庚を見つめていた。
 庚の唇に差しはさまれたストロー。細い管の中を、黒い液体が上る。彼はアイスコーヒーにミルクもガムシロップも入れなかった。
 朝から蒸していた。この時季にしては高めの気温。そして雨。店内の控えめな冷房が心地よい。
 庚の着ているカッターシャツは鮮やかなブルー。彼には青がよく似合う。外されているふたつのボタン。鎖骨がセクシーだなと思った。
「――蛍って、見たことある?」
 グラスから手を離し、庚が訊いてきた。なんの前触れもなく。
 私は少し考え、子供のころに一度だけ、と答えた。あれは母の実家を訪れた夏の夜。母の生まれは宮城の山奥だった。
 黄色い光が何粒も、闇の中を浮遊していた。
 綺麗だと大人たちは言ったが、私は恐かった。得体が知れなかったからだ。あるいは、美しいがゆえに空恐ろしいと感じたのかもしれない。
「穴場がね、あるんだ」
 続いて庚はそう言った。
 私はすぐに意味を理解できなかった。蛍のことを言っているのだと気づくのに、数秒を要する。
 蛍の穴場、か。
「ここからずうっと南に下って、湖を越えたところにあるんだ」
 湖を越えた? 船で渡るのだろうか?
 愚かにも、そんな発想をしていた。
「違うよ。湖を迂回して行くの。その先に、湖がくびれているところがあるでしょ?」
 私は頭の中で、鳴兎子の地図を思い浮かべる。鳴兎子市の南には広大な鳴兎子湖が隣接しており、湖の東側には、確かに大きく湾曲している部分があったはずだ。そこには――。
「水火水(みずかみ)村って知ってる?」
 そう、そこにはそんな名前の村があったはずだ。今では誰も住んでいない、打ち捨てられた――。
「廃村なんだけれどね」
 どうして人がいなくなったのか。幼いころ、祖母からその理由を聞かされたことがある。単なる過疎化ではなく、実に不思議な出来事が関与しているのだという。とはいえそれは、夢のようなおとぎ話のたぐいだった。大人の分別がついた今では、到底信じるに値しない昔話。ふと、祖母が亡くなって五年目になることを思い出した。
「どうして人が住まなくなったか、知ってる?」
 そう訊かれたので、首を振っておいた。私の知識が真実であるわけなどないし、彼の――庚の口から直接、聞いてみたかったから。
 だけど、庚の口から語られた内容は、祖母のそれとほとんど変わりのないものだった。きっと人口に膾炙した伝承なのだろう。
 でも、それでもよかった。
 庚が何かを話してくれるというだけで。

 結論から言えば、水火水村の住人たちは、皆、蛍に姿を変えてしまった――というのが村の滅びた原因だ。
 どうして姿を変えたのか、なぜ蛍なのか、そういったことは「昔話」では明らかにされていない。
 ともかく、蛍なのだ。
 昔々、村に災厄をもたらす「凶蛍(まがぼたる)」なる蛍が現れ、ある高僧がそれを石に封じ、その石を御神体としてお堂に祀り、村人が護り続けてきた。だがあるとき何者かが御神体の封印を解いてしまい、「凶蛍」が解き放たれ、それを境に村では神隠しが続発。消えた人間は皆、赤い光を放つ蛍に姿を変えてしまったという、そんな話だ。やがてすべての人々が蛍に姿を変え、水火水村はなくなった。昼間でも赤く光るという奇怪な蛍ばかりが飛び回るようになって――。
 無論、嘘だろう。本当のはずがない。
 だが、たくさんの蛍が今でも現れるという話だけは本当のようで、人の手が入りこまないことを幸いに、毎年夏になると、目も眩むばかりの幻想的な光景が見られるという。
 今度、それを見に行こうか――庚はそう言ってくれた。嬉しかった。
 そしてこのとき、私の中ではある計画が――というほど大層なものではなく、単なる思いつきなのだが――具体的な形をとりつつあった。
 水火水村は廃村だ。誰もいないし、滅多に人は訪れない。
 そんなところに理由もなく赴く物好きなんているわけがないが、蛍という理由があるのなら話は別だ。
 特に、恋人同士というものは、陳腐な表現で言うところのロマンティックな夜景に引き寄せられる傾向にあるものだ。
 無数の蛍が舞い踊る、誰もいない夜の廃村。
 愛する者がふたりきりで肩を寄せ合うには理想的なロケーションだ。
 そして、今や厄介なだけの存在となりつつある昔の恋人を誘い出すのにも理想的だ。
 何より、人知れず、ふたりの関係にケリをつけるのにも理想的だ。
 永遠に別れるためには、ふたつとない舞台。
 誘ってみよう、あの人を。庚と行く前に。すぐにでも。早いうちに。
 庚ひとりきりに愛を注ぎ、庚ひとりきりから愛を注がれるため。
 彼のために。何より、自分のために。
 目の前の、新しい恋人を見つめる。
 見ているだけで、幸せになれる。
「――何?」
 私の視線がしつこかったのだろうか、庚が不思議そうに尋ねた。
 微笑むことで返答の代わりにする。
 外へ目を逸らした。
 降り続く雨。
 ふと思った。
 人を殺すというのは、いったいどういう気持ちがするんだろう。
 じき、解ることだった。
 道具は何がいいだろう。
 熟考の末、私はナイフを用意することにした。

 

第5回

 

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                                      2

 更紗佐織は、ひょっとしたら浮気をしているのではないか――。
 赤星弘司(あかぼし ひろし)がそんな思いに囚われたのは、六月半ばの日曜日のことであった。
 梅雨であることを誇示するように、空は朝から雨を降らしている。一定のペースで、強まることも、弱まることもせずに。
 まるで昔からずっと変わらず降り続け、これからも永遠に途絶えることのないような、そんな雨。
 鳴兎子(なうね)には、こんな雨がよく似合う。
 雨を見ながら、赤星は思った。
 佐織は浮気をしていると。
 確固とした証拠があるわけではない。彼女の態度や言動から、そう想像しただけのことではある。
 だが自信があった。会話の端々に垣間見える彼女の無関心と無感動。微妙な目線のズレ。どこか上滑りの感がある言葉。歯車が、微妙に噛み合っていない。
 これは赤星が経験から学んだことである。以前に交際をしていた女性に関しても、四ヶ月目あたりから同じような現象が窺えた。そして彼女は赤星の前から消えた。出会って一ヶ月になるという、他の男のもとへ。
 あのときの失恋の衝撃が、胸の中で甦る。厭だ。失恋というやつは、やり場のない怒りに似ている。
 しかし赤星も、あのときよりは成長しているという自覚を持っていた。去ってゆこうとする相手に、みじめったらしく泣きつくような真似はもう御免だ。
 それに、相手を独占しているという感覚そのものが幻想である。お互い、自由に生きていいはずである。たとえ浮気に走ろうとも。
 そもそも自分たちはまだ学生だ。社会人でもなければ家庭を持っているわけでもない。なんの拘束も受けずに自由な恋愛を楽しめばいい。二股だろうが三角関係だろうが。それが若さの特権というものだろう。
 赤星は思う。自分に魅力がないのであれば仕方がない。ある程度の努力はするが、それでも相手に気に入られないのであれば、どうしようもない。去りたければ去ればいい。
 赤星は思う。遅かれ早かれ、佐織とは別れるつもりでいたのだ。思いがけずそのきっかけが訪れたというだけのことではないか。ならばこの機会を逃す手はない。
 だが、赤星は考える。
 相手の男が問題なのだ。赤星の知らない男であるなら構わない。いやもちろん知り合いでも一向に構わないわけであるが――しかし、彼だけはいけない。絶対に。
 彼――三井寺庚だけは。
 ある夜、赤星は佐織の部屋を訪ねた。夜と言ってもそれは夜明けに近い時間帯のことで、空は黒ずんだ青色に光っていた。
 なぜ約束もせず、突然そんなときに訪れたのか。それは、会いたくなったからである。他にどんな理由が必要だというのか。
 案の定、寝起きの佐織が赤星を迎えた。
 そして彼女は、赤星を追い返した。
 かなりの剣幕で怒りを表現してみせる佐織の態度に、赤星はただうろたえるばかりであった。こんなヒステリーを持ち合わせた女性であったろうか。確かに非常識な時刻の訪問ではあるが。
 ふと足元が視界に入った。
 佐織の足元ではない。赤星自身の足元である。そこは狭い玄関。靴が揃えて置いてあった。二足。一足は見慣れた佐織のベージュのスニーカー。もう一足もまた、見慣れたブルーのスニーカー。しかしそれは佐織のものではない。
 三井寺が、日ごろこれと同じスニーカーを履いている。
 これと同じ――まったく同一のものではないのか?
 佐織のワンルームマンションは、玄関から奥の部屋まで、短い廊下が伸びている。そのため、奥――寝室を覗き見ることは玄関からでは不可能だ。
 しかし判る。赤星には判った。
 寝室のベッドに、彼が寝ているということが。
 三井寺が寝ているに違いないということが。
 そして赤星は辞去した。
 自分でも驚くほど冷静だった。佐織が喚き立てれば立てるほど、こちらは無感動に佇むのみ。
 目の前で閉じられるドアをぼんやりと眺めていた。
 次いで、青いスニーカーの持ち主、三井寺の顔が目に浮かぶ。
 唇が震えた。胸が痛い。知らず、握り拳を作っていた。
 怒りとはまた違う、この感情は嫉妬なのだなと、赤星は冷静に自分を観察していた。

 

第4回

 

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                                      1

 カーテンを開くと、窓の外は夜明け間近の薄暗い青空だった。
 夜と朝の中間。夜が朝に変わる刹那。静かな青だ。
 私の一番好きな時間。
 私の一番好きな色彩。
 寝ぼけまなこで空を見上げた。
 すべての事象をただ淡々と睥睨し、赦しも戒めも与えてはくれない、無感情な空を。
 なぜだか、少しだけ泣きそうになる。
 視線を――彼に移した。
 私が横になっているベッド。寝ているのは、私だけではない。
 彼の名前は三井寺庚。
 私の恋人だ。
 庚は私と同様、一糸まとわぬ姿で狭いベッドに横たわっていた。
 華奢で小柄で繊細で綺麗な身体。滑らかな白い肌には、ほくろや体毛といった瑕瑾はほとんど見受けられない。昨夜気づいたことだが、彼の脇には無駄なものが生えていない。剃っているわけではなく、いまだに生えないという。じき二十歳になる男性にしては珍しい。
 美しいのは身体だけではない。庚の顔。どこか頼りなげな、それこそ無垢な少年のような顔。それでいて、心の奥底に秘められた鋭さを滲ませてもいる。切れ長の眉と瞳。すっきりと整った鼻梁。きつく閉じられてはいるものの、触れてみれば判る柔らかな唇。髭が生えてくることなど想像もできない顎と頬。
 指通りのよい髪は少し長めで、彼の無精な性格を物語っている。襟足はかろうじて肩をかすり、前髪は瞳の上半分を隠す。
 女でさえも嫉妬せずにはいられない。彼はそれほど綺麗だ。
 私には、もったいないほどの恋人。
 自分なんかが、彼とつり合うはずもない。
 しかし、彼は私を抱いてくれた。
 抱擁、接吻、愛撫、そしてその先も。
 私のすべてを受け入れてくれた。
 そして私も、彼のすべてを。
 明けて朝。
 私たちを無言で見守る、夜明けのブルー。
 その光にさらされ、庚の裸体が蒼白く幻想的に色づいた。
 私は彼の身体に触れる。
 体温を感じる。私ではない他人の体温。
 庚が目を覚ました。空の色に染まった彼の肢体が、艶めかしく動く。
 うっすらとまぶたを開け、鋭角的な顎を上げた。仰向けのまま、逆さまに窓の外を見ている。
 しばらく、夜明けを見つめている。
 澄みきったブルーに彩られた両の瞳が、こちらを向いた。
 あまりにも綺麗で可愛らしくて、儚げで切なくて、私の胸は熱くなる。
 微笑んでみた。嬉しくて。嬉しくて。
 庚に見つめられていることが嬉しくて。
「――何?」
 少し掠れた声で、そう訊いてくる。意味は解らない。
 そっと抱きしめた。
 庚も微笑んでくれた。少し、ぎこちないけど。
 彼は私の腕の中で、微かに身をよじった。鼻から漏れる吐息が、私の胸をくすぐる。
 愛おしさは最高潮に達し、私は彼の口を自分の唇で塞いだ。
 そして、頭を撫でてやる。
 愛している。
 そんな言葉を口にできる人間を、私は信用しない。そういうことにしている。これまでの人生で得た教訓だ。
 だけど、どうしようもなく、
 愛している。
 たった一夜、お互いの身体を求め合っただけなのに。
 いや、求めたのは私のほうだけなのかもしれない。
「――愛してる」
 心からそう言えた。
 満たされている。
 確かにそう感じた。
 静寂と青い光が、私たちを包んでいた。
 そのとき唐突に、チャイムが鳴った。しじまが壊される。
 来客だ。こんな時間に。誰だ。頭に来る。
 インターフォンで誰何すると、それは私が現在つきあっている、言うなれば恋人と呼ばれる人物であった。
 今の私にとっては、すでに昔の恋人となりつつある存在。
 子供のように不安げな目線を送ってくる庚を見つめながら、突然の来客をどうやって追い返そうかと考えていた。
 私には、庚しかいない。

 

第3回

 

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                                光る影、ふたつ
                                Luciola lateralis


                                  プロローグ

 まぶたを開いて顔を上げると、窓の外はサイレントブルー。
 夜と朝の中間。夜が朝に変わる刹那。そんな、ひとときの空の色。静かな、青。
 彼は寝ぼけまなこで空を見上げた。
 仰向けに横たわったまま。逆さになった景色いっぱいに、淡い青。
 薄ぼんやりとした光は、彼――三井寺庚(みいでら こう)の全身を照らしていた。
 ベッドの隣を見やれば、彼女がにっこりと微笑む。
 ――何?
 微笑の意味を図りかねて、三井寺はそう訊いた。
 答える代わりに、彼女――更紗佐織(さらさ さおり)は三井寺の背に腕を廻した。細く暖かな手首の感触。
 三井寺は顔の筋肉を動かし、微笑みを形づくってみせた。うまくできただろうか。
 佐織の笑顔が近づく。
 唇が、塞がれる。
 次いで、頭を撫でられる。
 まるで子供のように。
 三井寺とつきあってきた女性は皆、彼をまるで弟のように扱った。年上であれ、年下であれ。
 特に不快ではない、と三井寺は思う。かといって快いわけでもない。
 この女性――佐織も、じきに三井寺から離れてゆくのだろうか。
 こうして誰かと一夜をともにするたび、彼は今までの自分の恋愛を振り返る。意識してそうしているわけではなく、気づけば回想している自分を見つける。
 いずれの恋も、長くは続かなかった。恋愛、という言葉自体が相応しくないかもしれない。
 なぜなら、三井寺にはそういった感情がまったく湧き起こってこなかったから。
 いつも相手から三井寺に接近してくる。拒む理由はないから、言葉に従う。そして身体を重ね合わせる。やがて別れる。その繰り返し。
 だからきっと、佐織もいなくなるのだ。ひと月か、ふた月か、あるいは一週間も保たないかもしれない。
 それでも別に構わなかった。
 佐織に対して特別な感情など抱いていない。彼女に何も求めていない。彼女が自分に何かを求めるのなら、可能な範囲で応えてやってもいい。それが厭なら何もしない。自分から感情とか要求とか、そんな勝手なものをぶつけることはありえない。いつだって、近づくのも離れるのも、相手の人間だ。三井寺は、ただここにいるだけ。いつだってそう。
 室内を染める青。
 冷たい光に包まれて。
 ――愛してる。
 佐織が囁いた。
 三井寺には、その言葉の意味が、よく解らなかった。

 

第2回

 

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 更新サボってました。

 さて、異形コレクションの一般公募が終わりまして、次にやってきた(というか目についた)公募企画が、あれでした。あれ。

 その名も、〈史上最少のクトゥルー神話賞〉

 以下のブログにおいて東雅夫さんによって呼びかけられたのを、たまたま見つけてしまったんです。
http://blog.livedoor.jp/genyoblog-higashi/archives/6220215.html
 記憶が曖昧なのですが、たぶん、mixiのコミュニティか何かで知ったんじゃなかったかなーという気がします。mixi、一応まだアカウント生きてますよ(笑)。過去の日記もそのまま置いてますので、ご興味ある方は、探してみてください。

 もともとは〈ビーケーワン怪談大賞〉という、原稿用紙2枚(800文字)以内という制限での怪談公募から派生した企画なのですが、当時の僕はその存在を知りませんでした。いきなり「クトゥルー神話で800字」というレギュレーションを目にしたわけで、たった2枚で神話世界を描くだなんて、これは凄く面白そうだぞ、ぜひ参加してみよう、と即断しました。

 そしてここから、800字のクトゥルー神話作品を書き、さらに800字の怪談にも手を出すという、新たな道へ足を踏み入れることになるわけです。

 そのことを思い出しつつ書いていきたいと思いますが、その前に、昆虫ミステリのストックから3作目の連載を開始して、しばしお茶を濁したいと思います。
 過去2作とはだいぶ毛色の違った作品で、評判は上々のやつです。いや、過去2作の評判が悪かったわけではないですが(笑)。タイトルは「光る影、ふたつ」。確かこれ、「鳴兎子の湖畔にある廃村に、赤く光る蛍が生息していると言われている」などといった(他の方が考えた)設定がもとになって生み出された作品だったはずです。
 次回から始まりますので、よろしくお願いいたします。