3
六月の喫茶店、外は雨、ゆえにガラスを伝う流水、それはまるで透明なカーテンのよう。
アイスカフェオレを飲みながら、私は正面の庚を見つめていた。
庚の唇に差しはさまれたストロー。細い管の中を、黒い液体が上る。彼はアイスコーヒーにミルクもガムシロップも入れなかった。
朝から蒸していた。この時季にしては高めの気温。そして雨。店内の控えめな冷房が心地よい。
庚の着ているカッターシャツは鮮やかなブルー。彼には青がよく似合う。外されているふたつのボタン。鎖骨がセクシーだなと思った。
「――蛍って、見たことある?」
グラスから手を離し、庚が訊いてきた。なんの前触れもなく。
私は少し考え、子供のころに一度だけ、と答えた。あれは母の実家を訪れた夏の夜。母の生まれは宮城の山奥だった。
黄色い光が何粒も、闇の中を浮遊していた。
綺麗だと大人たちは言ったが、私は恐かった。得体が知れなかったからだ。あるいは、美しいがゆえに空恐ろしいと感じたのかもしれない。
「穴場がね、あるんだ」
続いて庚はそう言った。
私はすぐに意味を理解できなかった。蛍のことを言っているのだと気づくのに、数秒を要する。
蛍の穴場、か。
「ここからずうっと南に下って、湖を越えたところにあるんだ」
湖を越えた? 船で渡るのだろうか?
愚かにも、そんな発想をしていた。
「違うよ。湖を迂回して行くの。その先に、湖がくびれているところがあるでしょ?」
私は頭の中で、鳴兎子の地図を思い浮かべる。鳴兎子市の南には広大な鳴兎子湖が隣接しており、湖の東側には、確かに大きく湾曲している部分があったはずだ。そこには――。
「水火水(みずかみ)村って知ってる?」
そう、そこにはそんな名前の村があったはずだ。今では誰も住んでいない、打ち捨てられた――。
「廃村なんだけれどね」
どうして人がいなくなったのか。幼いころ、祖母からその理由を聞かされたことがある。単なる過疎化ではなく、実に不思議な出来事が関与しているのだという。とはいえそれは、夢のようなおとぎ話のたぐいだった。大人の分別がついた今では、到底信じるに値しない昔話。ふと、祖母が亡くなって五年目になることを思い出した。
「どうして人が住まなくなったか、知ってる?」
そう訊かれたので、首を振っておいた。私の知識が真実であるわけなどないし、彼の――庚の口から直接、聞いてみたかったから。
だけど、庚の口から語られた内容は、祖母のそれとほとんど変わりのないものだった。きっと人口に膾炙した伝承なのだろう。
でも、それでもよかった。
庚が何かを話してくれるというだけで。
結論から言えば、水火水村の住人たちは、皆、蛍に姿を変えてしまった――というのが村の滅びた原因だ。
どうして姿を変えたのか、なぜ蛍なのか、そういったことは「昔話」では明らかにされていない。
ともかく、蛍なのだ。
昔々、村に災厄をもたらす「凶蛍(まがぼたる)」なる蛍が現れ、ある高僧がそれを石に封じ、その石を御神体としてお堂に祀り、村人が護り続けてきた。だがあるとき何者かが御神体の封印を解いてしまい、「凶蛍」が解き放たれ、それを境に村では神隠しが続発。消えた人間は皆、赤い光を放つ蛍に姿を変えてしまったという、そんな話だ。やがてすべての人々が蛍に姿を変え、水火水村はなくなった。昼間でも赤く光るという奇怪な蛍ばかりが飛び回るようになって――。
無論、嘘だろう。本当のはずがない。
だが、たくさんの蛍が今でも現れるという話だけは本当のようで、人の手が入りこまないことを幸いに、毎年夏になると、目も眩むばかりの幻想的な光景が見られるという。
今度、それを見に行こうか――庚はそう言ってくれた。嬉しかった。
そしてこのとき、私の中ではある計画が――というほど大層なものではなく、単なる思いつきなのだが――具体的な形をとりつつあった。
水火水村は廃村だ。誰もいないし、滅多に人は訪れない。
そんなところに理由もなく赴く物好きなんているわけがないが、蛍という理由があるのなら話は別だ。
特に、恋人同士というものは、陳腐な表現で言うところのロマンティックな夜景に引き寄せられる傾向にあるものだ。
無数の蛍が舞い踊る、誰もいない夜の廃村。
愛する者がふたりきりで肩を寄せ合うには理想的なロケーションだ。
そして、今や厄介なだけの存在となりつつある昔の恋人を誘い出すのにも理想的だ。
何より、人知れず、ふたりの関係にケリをつけるのにも理想的だ。
永遠に別れるためには、ふたつとない舞台。
誘ってみよう、あの人を。庚と行く前に。すぐにでも。早いうちに。
庚ひとりきりに愛を注ぎ、庚ひとりきりから愛を注がれるため。
彼のために。何より、自分のために。
目の前の、新しい恋人を見つめる。
見ているだけで、幸せになれる。
「――何?」
私の視線がしつこかったのだろうか、庚が不思議そうに尋ねた。
微笑むことで返答の代わりにする。
外へ目を逸らした。
降り続く雨。
ふと思った。
人を殺すというのは、いったいどういう気持ちがするんだろう。
じき、解ることだった。
道具は何がいいだろう。
熟考の末、私はナイフを用意することにした。
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