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助手席には更紗佐織が座っていた。いつものように。
赤星弘司の運転するスカイラインはせわしなくワイパーを揺さぶり、フロントグラスにこびりつく水滴をぬぐい去っていた。
免許を取った祝いにと、赤星の父親が彼に贈った車である。実際のところはいわゆるお下がりであり、父は父で新車を購入したばかりなのだが、赤星にとっては非常にありがたいことであった。それまでは父親のことをあまり好いてはいなかったのだが、これを機に評価が百八十度変化した。現金なものである。
今日は珍しく湖に霧がかかっていない。しかし雨のため視界は良好と言えない。
目指す廃村、水火水村までは車で一時間以上かかる。もしも湖岸に沿ってゆくならば、もっと時間が短縮できるのであろうが、生憎と車道は大きく迂回するコースを辿っていた。しかも湖自体がダイナミックに東へ突出している。そして目的地は、そんな出っ張りを越えた向こうにある、今度は西の方向へ窪んだ場所なのだ。直線距離ならばたいしたことはないのだが、陸路となるとどうしても余分な時間が必要となる。
かつては漁業と農業で暮らしを営んでいたという水火水村だが、現在では廃村となって久しい。鳴兎子市との間に引かれている線路も今では使われておらず、雑草に呑み込まれ無為に寝そべっている。
赤星と佐織は、ふたりだけで水火水村に蛍を見に行くこととなった。
佐織が言い出したことである。
素晴らしい蛍の穴場なるものが、その廃村にあるという。友人から教えてもらったと佐織は説明していたが、三井寺から聞いたのではないのかと赤星は想像している。これは邪推かもしれないが。
しかしそれならば、どうして佐織は三井寺と来ようとしなかったのか。どうして赤星と行くことにしたのか。佐織の浮気自体が赤星の誤解であったという可能性もあるのではないか。それとも、夜明けの訪問時にヒステリックに追い返したことの埋め合わせか。――いや、やはりそれはない。
民家が消え、人工物が減ってゆき、代わりに自然の草木が目立ちはじめる。そして再び建築物が目につきだす。そのときすでに、自分たちが水火水村に入りこんでいたことに気づいた。
死んだレールが行き着く先は小さな駅。現在では文字どおりの無人駅と化している。日に一本の電車も入っては来ない、無人駅。
駅前はささやかなバスターミナルとなっている。茶色に変色した時刻表が独り佇み、永遠に乗客とバスを待ち続けていた。
誰もいない道を、ゆっくりと走る。自分の車の音と雨音以外、一切、空気の振動はない。木造の家屋がところどころに見受けられ、空いた空間には、かつて田畑であった荒れ地が広がっている。
人はもとより、鳥や昆虫の姿さえ目に入ってこない。雨のせいであろうか。
側溝に気をつけながら車を進め、村の奥――鳴兎子湖岸を目指した。
佐織は何も言わない。だから、赤星も何も言わなかった。
赤星は前方を、佐織は左の窓を、ただひたすらに見つめていた。
人類からふたりだけ取り残されたような、奇妙な不安が湧いてきた。これが寂寥感というものなのだろう。
沈黙に耐えきれず、ラジオをつけてみた。雑音。周波数を変えてみる。ノイズ。電波状況が芳しくないのか。まさかどの局も入らないということはあるまい。
ようやく人の声が聞こえた。とぎれとぎれに天気予報を告げている。雨は夜までに上がるらしい。スイッチを切った。現在、午後二時。
思いのほか、村の面積は大きかった。かつては、人口密度が極端に低かったに違いない。それでも今よりは随分と高かったわけだが。
途中で何度か道に迷ったということもあり、湖岸に到着したとき、時刻は二時半になろうとしていた。
蛍は、田へ水を供給していたかつての用水路に棲息しているそうだ。用水路の正確な場所は判らない。ならば、その元を見つければいい。当然のことながら、水は水瓶――鳴兎子湖――から引いていたわけであるから、湖岸に沿って車を走らせていれば、そのうち目的のものを見つけられるはずであった。
ほどなく、目指す水路への入口を発見した。
用水路は幅二メートルほど。地面が掘りさげられ、自然な感じの傾斜で土手となっており、とても人工的に作られたものには見えなかった。都合よく水田に伸びていることを除けば、自然の河川と変わりないように思えた。
稲を植える者などとうの昔に消えてしまっているのに、水路は己の仕事を休まず遂行している。湖の水を田んぼへ引き込むという、重要な職務を。
普段はきっと、もう少し水かさが低いものと思われる。だが降り続く雨のため、水路にはたっぷりと水が張られていた。
「雨だから――」
ぽつりと、佐織が言う。赤星は、彼女の声を久しぶりに聞いた気がした。
「見れないかもね、蛍」
「夜までに止むよ」
赤星は答えてやる。すると佐織は、
「そうなの?」
さっきの天気予報を聞いていなかったのだろうか。聞いていなかったのであろう。
「――別にいいけどね、見れなくても」
自分から言い出して蛍を見に来たというのに、佐織は気だるげな様子でそう呟いた。
蛍を見なかったら何を見るというのだろう。他に目的でもあるのか。
赤星は佐織の横顔を眺めていた。
佐織は、視線を合わせようとしない。
そして外を指さした。
「あれは――?」
赤星に訊いてきたというより、自問しているような口調である。
彼女の指と視線の先を、赤星も見てみた。薄暗い、雨模様の用水路。雑草が生い茂り、視界は不良だ。
そこに佇む影がひとつ。
「人――か?」
幻でも見たように、赤星は呟いていた。
五十メートルほど先、水路の縁に立っている、真っ黒な人影である。黒い蝙蝠傘を差しているうえ、服装も黒い。文字どおりの黒い人影なのである。
その人物は、水路を見下ろしたまま動かないでいたが、やがて赤星の車に気づいたのか、こちらへと顔を向ける。
第6回