無人の家で発見されなかった手記 -8ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

                                      8

「ねえ――別れましょう」
 不意を突くように佐織がそう言ったので、赤星は一瞬だけ自己を見失った。
 別れ話を切り出そうとしていたのは、自分だけではなかったということだ。
「何――笑ってるの」
 感情を押さえつけた声で、佐織が言う。彼女の言葉どおり、赤星は笑っていた。声を押し殺し、身体を小刻みに震わせ、笑っていた。
 それは嘲笑であった。佐織への、そして自分自身へのあざけり。
 おかしかった。おかしくてしょうがない。
 涙が出てくるほどに。
 随分と気が合うカップルではないか。同じ場所、同じきっかけで、別れの言葉を告げようとしていたのだから。
 もしかしたら、やりなおせるのかもしれない。
 いや、そんなものは気の迷いだ。
 いや、そう簡単に投げ捨てていいのか。
 いや、そんな問題ではない。
 いや、いや、いや、いや……。
 赤星の中で自問が繰り返される。
 そして結論めいたものが出てくる。
 少し、気が変わった。
 佐織のことが、以前のように愛おしく思えてきた。
 いや、そんなものは――。
 赤星は踏ん切りをつけるように、道ばたの石ころを蹴った。
 それは跳びはね、滑稽な音を立てて水路に落ちた。瞬時に沈む。
 無意識にそれを追って佐織の視線が逸れた瞬間、赤星の両手が彼女の首に伸ばされていた。
 ひんやりとした感触。
 驚いて顔を上げる佐織。
 揺れる髪。
 赤星は両手に力を込めた。
 ためらわず、迷わず。

 

第10回

 

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                                      7

 またどこかでお会いしましょう――。
 と言われても、私にはまた会う気などなかった。
 再会などしようものなら、それこそ私の立場が危うくなる。
 次に会うときは、まず間違いなく私はひとりだろうから。
 お連れの方はどうされました?
 などと訊かれたら、どう答えればいいのだろう。
 庵を見送る。いつまでも見送る。
 雨は止んだが相変わらず薄暗い。
 もう夕刻にさしかかっているのかもしれない。
 時間の感覚が私の中から失われている。
 視界から、完全に黒い影が消えた。
 はじめから、庵などという人物はいなかったみたいに。
 ふたりきりだ。
 誰も見ていない。
 そばには用水路。
 深い。
 ポケットにはナイフ。
 握り締め、柄の感触を確かめる。
 そこで私は、別れ話を切り出すことにした。
 今生の別れ話を。
「ねえ――別れましょう」

 

第9回

 

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                                      6

 心なしか、傘を打つ雨音が弱まってきたように思えた。
 赤星にとっては実に意外なことに、庵は「凶蛍」の話を莫迦にしなかった。初対面の人が聞かせてくれたということで遠慮もあるのだろうが、赤星が一笑に付した昔話を、目の前の黒服は「興味深いですね」と、実際に興味津々といったていで聞いていた。
「くだらない、と思いません?」
 赤星が問う。庵は中指で眼鏡に触れ、
「くだらないように思えるのは、話がオカルト的な様相を呈しているからですよ。何十人もの人たちに語り継がれていくうちに、尾ひれが生えて超自然的な現象が付加され、今のような伝説へと姿を変えていった、と見るのが妥当でしょうね」
「ということは――」
「話の本質は真実である、ということですよ。そもそも、おとぎ話というものは実話であることが多いんです。この言い方は語弊があるかな。もとは実話であった、と言い換えましょう。たとえば、勇者が悪いドラゴンを退治してお姫様を救ったというようなステレオタイプな英雄譚も、蓋を開けてみたら――」
 いつのまにか庵の話に引き込まれていた赤星と佐織であった。
「単なる殺人事件であったりするものです」
「どうしてです?」
「考えてもみてください。ドラゴンなんて、いるわけがないじゃないですか」
「まあ、そうですね」
「悪人がドラゴンに喩えられたわけです。勇者もただの人間。彼が悪人を殺し、女を手に入れた。ひょっとしたら、勇者のほうが本当は悪人なのかもしれません。己の欲を満たそうとし女を手に入れるため、彼女の親なり恋人なりを殺害し、さらった。それが長年の時を経て立場が逆転し、美談となってしまったという可能性もあります」
「救いがないですね」
 佐織がそう言った。
「しかし、おとぎ話とはそういうものです。ですから、この村の蛍の話だって、まったくの嘘だとは断言しがたいものがありますね」
「赤い蛍がいたかもしれない、と?」
 佐織が訊くと庵は「いいえ」と否定した。
「赤く光る蛍なんていません。発見されていないというわけではなく、存在するわけがないのです。蛍はルシフェリンやルシフェラーゼなどを複雑に酸化反応させて光を出すわけですが――詳細は省くとして――これが赤く輝く道理はないんです」
 水路を見下ろしながら、庵は続けた。
「それに、成虫が光る蛍はゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルなどのごく限られた種類ですが、これらは例外なく夜行性です。光る蛍が昼間に飛ぶことなどありえません。逆に、昼行性の蛍は皆、決して光を発しません。
 そもそも成虫の放つ光はお互いのコミュニケーションのためであり、他の蛍に自分の光が見えなければ意味がないんです。つまり、昼に星が見えないことと同様、昼に光ってもそれを見つけてくれるものなどいないわけですから、伝承に出てくるような蛍が存在する可能性は皆無です」
 だとしたら、昔話のどこが真実かもしれないというのだろう。赤星はそれを問い質してみた。
「それは、住民が蛍に姿を変えた、というくだりでしょうね」
「まさか」
「もちろん根拠はありませんが」
「でも、根拠も何も、人が蛍に変わるわけがないでしょう?」
 庵は微笑み、目線を上げた。
「人と蛍を直接つなごうとするから、不具合が生じるんですよ。そうです、確かに人が蛍に変身なんてしません。ですが、住民の失踪と蛍の間に、なんらかの相関関係がないとも限りませんよ」
「ですけどねえ」
「現に、水火水村は廃村となっていますし、この村にはたくさんの蛍が棲息しています」
 だからといって伝説を信じろと言うのだろうか。赤星は眉をひそめた。うのみにしろとは言わないまでも、この荒唐無稽とも思われる昔話の中に真実が隠されていると――?
 庵が水面を見ながら言う。
「雨が上がりましたね」
 予報よりも早く止んだ。だが、肝心の蛍はいない。
「それでは僕は、このへんで。水田のほうを見てきます」
 そう言って庵は傘を閉じ、軽く頭を下げてきびすを返した。赤星たちも一礼。
「これから、どうされます?」
 歩きかけて足を止め、庵が訊いてきた。
 佐織が黙っているので、赤星が答えた。
「もう少しドライブして、じき帰りますよ。蛍がいないのは残念でしたけど、庵さんがいたから、楽しいデートになりました」
 自分でも白々しい台詞だな、と赤星は自嘲した。
 庵は納得したように頷くと、
「それでは、またどこかでお会いしましょう」
 そして黒い背を見せ、立ち去った。

 

第8回

 

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                                      5

 私たちは傘を取り出すと車を下りて、胡乱な人影に接触してみた。
「おや、こんなところで人に――それも若いカップルに会うとは」
 私たちよりもやや年上だろうが、若い男だ。スマートな体形が、黒のスーツによってより引き締まって見える。冠婚葬祭かと思ったが、ジャケットの下のシャツも黒で、ノーネクタイであることから、ただのファッションなのだと思われる。センスがあるかどうかはともかくとして。
 眼鏡の奥に、穏やかだけれどもどこか鋭さを秘めている瞳を持っていた。なんとなく、庚に似ている目をしているなと感じた。
 男は庵(いおり)と名乗った。私たちも簡単な自己紹介をする。
「世間一般では昆虫写真家と言われる職業に就いているんですよ」
 回りくどい言い方だ。左手に傘を、右手にカメラを持っている。
「昆虫写真っていうと、やっぱり蛍を撮りに?」
 私はそう訊いてみた。庵は頷き、
「ええ、よくご存じですね。このあたりは蛍がよく観察できる貴重な場所なんですよ。保護地域に指定されても不思議ではないほどの。――マイナーなので見過ごされているみたいですけどね」
「穴場だって聞きましたけど」
「そうですね、確かに。――ああ、そうか、それでおふたりは噂の蛍を見にいらっしゃったというわけですね」
 私は素直に頷いた。
「どのあたりで見れるんでしょうか」
「それはやはり、この用水路や水田の近辺でしょうね。しかし――更紗さん、でしたか」
「はい」
「更紗さん、残念ですが無駄足ですよ」
「えっ?」
 私は不意を打たれたみたいに驚いた。
「蛍の成虫が見られるのはもう少し先――八月がピークです。今の時季では、成虫が飛ぶには早すぎます」
「そんな」
 落胆の色を見せながら、私は苦笑していた。それでは仕方がない。今回はせいぜい、夏に庚と訪れるときの下見、ということで自分を納得させることにしよう。
 それと、もうひとつの目的のために。
 それには、この男――庵が厄介だ。
 私の、私たちの姿を見られてしまった。
 これでは、今日私たちが水火水村にいたことを、後々証言されてしまうおそれが出てくる。
 計画は中止するべきだろうか。いや、それはできない。最初で最後のチャンスだ。それに、私は可能な限りすみやかに、ふたりの関係を終わらせてしまいたいと思っている。
 考えろ。犯行を見られさえしなければ問題はない。死体さえ出てこなければ、何もまずいことはない。この村に人はいない。庵と別れてしまえば、再びふたりきりだ。何をしようが誰にも見とがめられることはない。
 私は予定を変更しないことに決めた。
「蛍がいないって言いましたけど――」
 私は会話を続けようとした。ごく自然な態度を装うために。
「だったら、庵さんはどうして?」
 彼は何を撮りに来たというのか。
 手元のカメラへ視線を落とし、庵は答えた。
「蛍ですよ」
「今、いないって――」
「成虫はいませんよ。でも、いきなり成虫が湧いて出てくるわけではありません」
 水火水村の伝説を思い出した。人が蛍に変わりでもしない限り、いきなり成虫が飛び立つなどということはありえない。
「幼虫の時期というものがありますから」
「ああ、なるほど。それを撮りに」
「ええ」
 なかなか大変な仕事だな、と思った。生き物の成長に合わせて行動しなければならない。人の都合など自然は考えてくれない。
「ところで庵さん、赤く光る蛍って、聞いたことありませんか?」
 例の昔話を思い出したこともあり、訊いてみることにした。どうも、今の私は沈黙を恐れる傾向にあるようだ。
 庵は怪訝そうな顔でこちらを見、
「いいえ。――なんでしょうか、それは」
 と話の続きを促した。
「昼でも真っ赤に光るそうなんですけど」
「昼でも光る?」
「はい。この村にたくさん飛んでいるんだそうです」
「――どうやら飛んでいないみたいですよ」
 あたりを眺めながら庵は言った。そんなジョークに私は苦笑する。
 もうちょっとだけ、この男と話をしてみたくなった。
「昔話なんですよ」
「昔話?」
「はい。この村に関する伝説というか伝承というか。おとぎ話のようなものです」
「聞いたことがないですね」
 赤い蛍ねえ、と庵は呟いた。
「庵さんは、水火水村がどうして廃村になったのか、ご存じですか?」
「人がいなくなったからでしょうね。そういった状態の村を廃村といいます」
「いや、だから」
 面白い男だ。
「どうして人がいなくなったか、ですよ」
「色々な理由があるんでしょうね。少なくとも、たったひとつの原因とは考えにくい」
「蛍になったんですよ」
 少しいたずらっぽく、私は囁いてみた。
「蛍?」
「そうです。村人はみんな、赤く輝く蛍に変身してしまったんです」
 そして私は、水火水村の「凶蛍」の伝承を、庵に語って聞かせた。

 

第7回

 

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                                      4

 助手席には更紗佐織が座っていた。いつものように。
 赤星弘司の運転するスカイラインはせわしなくワイパーを揺さぶり、フロントグラスにこびりつく水滴をぬぐい去っていた。
 免許を取った祝いにと、赤星の父親が彼に贈った車である。実際のところはいわゆるお下がりであり、父は父で新車を購入したばかりなのだが、赤星にとっては非常にありがたいことであった。それまでは父親のことをあまり好いてはいなかったのだが、これを機に評価が百八十度変化した。現金なものである。
 今日は珍しく湖に霧がかかっていない。しかし雨のため視界は良好と言えない。
 目指す廃村、水火水村までは車で一時間以上かかる。もしも湖岸に沿ってゆくならば、もっと時間が短縮できるのであろうが、生憎と車道は大きく迂回するコースを辿っていた。しかも湖自体がダイナミックに東へ突出している。そして目的地は、そんな出っ張りを越えた向こうにある、今度は西の方向へ窪んだ場所なのだ。直線距離ならばたいしたことはないのだが、陸路となるとどうしても余分な時間が必要となる。
 かつては漁業と農業で暮らしを営んでいたという水火水村だが、現在では廃村となって久しい。鳴兎子市との間に引かれている線路も今では使われておらず、雑草に呑み込まれ無為に寝そべっている。
 赤星と佐織は、ふたりだけで水火水村に蛍を見に行くこととなった。
 佐織が言い出したことである。
 素晴らしい蛍の穴場なるものが、その廃村にあるという。友人から教えてもらったと佐織は説明していたが、三井寺から聞いたのではないのかと赤星は想像している。これは邪推かもしれないが。
 しかしそれならば、どうして佐織は三井寺と来ようとしなかったのか。どうして赤星と行くことにしたのか。佐織の浮気自体が赤星の誤解であったという可能性もあるのではないか。それとも、夜明けの訪問時にヒステリックに追い返したことの埋め合わせか。――いや、やはりそれはない。
 民家が消え、人工物が減ってゆき、代わりに自然の草木が目立ちはじめる。そして再び建築物が目につきだす。そのときすでに、自分たちが水火水村に入りこんでいたことに気づいた。
 死んだレールが行き着く先は小さな駅。現在では文字どおりの無人駅と化している。日に一本の電車も入っては来ない、無人駅。
 駅前はささやかなバスターミナルとなっている。茶色に変色した時刻表が独り佇み、永遠に乗客とバスを待ち続けていた。
 誰もいない道を、ゆっくりと走る。自分の車の音と雨音以外、一切、空気の振動はない。木造の家屋がところどころに見受けられ、空いた空間には、かつて田畑であった荒れ地が広がっている。
 人はもとより、鳥や昆虫の姿さえ目に入ってこない。雨のせいであろうか。
 側溝に気をつけながら車を進め、村の奥――鳴兎子湖岸を目指した。
 佐織は何も言わない。だから、赤星も何も言わなかった。
 赤星は前方を、佐織は左の窓を、ただひたすらに見つめていた。
 人類からふたりだけ取り残されたような、奇妙な不安が湧いてきた。これが寂寥感というものなのだろう。
 沈黙に耐えきれず、ラジオをつけてみた。雑音。周波数を変えてみる。ノイズ。電波状況が芳しくないのか。まさかどの局も入らないということはあるまい。
 ようやく人の声が聞こえた。とぎれとぎれに天気予報を告げている。雨は夜までに上がるらしい。スイッチを切った。現在、午後二時。
 思いのほか、村の面積は大きかった。かつては、人口密度が極端に低かったに違いない。それでも今よりは随分と高かったわけだが。
 途中で何度か道に迷ったということもあり、湖岸に到着したとき、時刻は二時半になろうとしていた。
 蛍は、田へ水を供給していたかつての用水路に棲息しているそうだ。用水路の正確な場所は判らない。ならば、その元を見つければいい。当然のことながら、水は水瓶――鳴兎子湖――から引いていたわけであるから、湖岸に沿って車を走らせていれば、そのうち目的のものを見つけられるはずであった。
 ほどなく、目指す水路への入口を発見した。
 用水路は幅二メートルほど。地面が掘りさげられ、自然な感じの傾斜で土手となっており、とても人工的に作られたものには見えなかった。都合よく水田に伸びていることを除けば、自然の河川と変わりないように思えた。
 稲を植える者などとうの昔に消えてしまっているのに、水路は己の仕事を休まず遂行している。湖の水を田んぼへ引き込むという、重要な職務を。
 普段はきっと、もう少し水かさが低いものと思われる。だが降り続く雨のため、水路にはたっぷりと水が張られていた。
「雨だから――」
 ぽつりと、佐織が言う。赤星は、彼女の声を久しぶりに聞いた気がした。
「見れないかもね、蛍」
「夜までに止むよ」
 赤星は答えてやる。すると佐織は、
「そうなの?」
 さっきの天気予報を聞いていなかったのだろうか。聞いていなかったのであろう。
「――別にいいけどね、見れなくても」
 自分から言い出して蛍を見に来たというのに、佐織は気だるげな様子でそう呟いた。
 蛍を見なかったら何を見るというのだろう。他に目的でもあるのか。
 赤星は佐織の横顔を眺めていた。
 佐織は、視線を合わせようとしない。
 そして外を指さした。
「あれは――?」
 赤星に訊いてきたというより、自問しているような口調である。
 彼女の指と視線の先を、赤星も見てみた。薄暗い、雨模様の用水路。雑草が生い茂り、視界は不良だ。
 そこに佇む影がひとつ。
「人――か?」
 幻でも見たように、赤星は呟いていた。
 五十メートルほど先、水路の縁に立っている、真っ黒な人影である。黒い蝙蝠傘を差しているうえ、服装も黒い。文字どおりの黒い人影なのである。
 その人物は、水路を見下ろしたまま動かないでいたが、やがて赤星の車に気づいたのか、こちらへと顔を向ける。

 

第6回

 

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