10
ぽすん、とまるでジョークのように派手な音を立てて、車のスピードがゼロになる。
エンジントラブルだろうか。機械に明るくない赤星には、原因もよく判らなければ、対処法の見当もつかない。
ならば修理を呼ぼうかと携帯電話を取り出したが、それでは自分の犯行が露見してしまう可能性が大きい。そもそも、ここは電波の届かない圏外であった。
周りは、見渡す限り無人の田園風景。時刻は五時を回り、本格的に暗くなってきた。
「なんだよ、くそ」
ハンドルに八つ当たりをしてみた。アクセルとブレーキにも。スカイラインは何も答えてくれない。
幸いなことといえば、路上駐車していても誰にも迷惑がかからないし、切符を切られることもない、ということぐらいである。
「素敵だね」
吐き捨てると、赤星はシートを倒し仰向けになった。
結局、一夜が明けてしまった。
夜の闇はどこまでも深く、ここが人の住む世界とは信じられないほどであった。
庵の言っていたように、蛍など一頭たりとも窺えなかった。
しかも空はどんよりと曇っている。月の輝きも星ぼしの瞬きも見えなかった。
空を埋めつくしていた雲も朝までには薄れ、夜明け前の青黒い光は見ることができた。
こんな、夜から朝に移りゆく空の青さを、なんと言ったか。
確か横文字の名称があったはずだが、赤星は思い出せない。
だが、赤星はこの時間帯が大好きであった。最も心安らかなる時。
さすがに腹が減ってきた。当然のことだが、この車に食料など積んではいない。さて、どうしたものか。
赤星は自分の手を見た。
両手の平は血色を失って生白い。空の色が反射しているせいかもしれない。
誰もいない助手席。
どうにも実感がなかった。
この手で締めたのだ。絞め殺したのだ。恋人を。恋人であった更紗佐織を。
自分は人殺しだ。赤星弘司は――殺人犯だ。
そう言い聞かせてみる。頭では充分すぎるほど解っているのだが、どこかピンと来ない。夢でも見ているようであった。
これからどうしようかと、まどろみの中ぼんやりと思い描いていた。何も思いつかない。
だからまぶたを閉じた。
疲れているのがよく判った。
やはり精神的には参っているのだろう。
再び赤星は眠りにつく。
恋人の夢を見た。
車窓を叩く音で目が覚めた。
まぶたを開くと、窓の外からこちらを覗き込んでいる庵と目が合った。彼は微笑し、口を動かした。
――おはようございます。
そう言っているのだろうが、よく聞こえない。
時計を見ると、すでに正午を過ぎていた。
「ああ、庵さん」
窓を下ろして声を返した。
「どうかしました?」
「それは僕が訊きたいですよ。――ええと、赤星さん、でしたね」
「ええ。ちょっと、車が動かなくなってしまって」
赤星は忌々しげに言った。忌々しいのは、動かないスカイラインと、こんなときに現れた昆虫写真家。
「エンストですか?」
「かもしれません」
「携帯電話の圏外ですからね、このあたりは。どうされるつもりです?」
「歩いては――帰れませんよね」
「残念ながら。ヒッチハイクも難しいでしょうね」
この男はどうするつもりなのであろう。赤星はそれを訊こうと口を開きかけたが、それよりも先に庵が新たな質問をしてきた。最も訊かれたくないことを。
「お連れの方は、どうされました?」
「ああ、彼女ですか――」
なんと答えよう。ちょっと用を足しに行きました――いつまでも戻ってこないのはおかしい。喧嘩して先に帰ってしまいました――帰る手段などないではないか。殺して棄てました――などと正直に言えるわけもない。
「赤星さんが寝ている間に、ひとりでどこかへ行かれた、とか」
そう、それだ、それがいい。
そういうことにしておいた。
「それはそれは。心配ですね。どこまで行ってしまったのでしょう」
庵は振り返って村落のほうを見つめながら言った。
赤星は、どうということもないふうを装い、
「よくあるんですよ。あいつ、ひとりでふらつくのが好きなんです。こんな廃村なんて、滅多に来れるとこじゃないですからね。珍しいんでしょう」
そう説明した。
庵は相変わらず遠くを見ながら、穏やかに喋る。
「そうですか。道に迷っていないといいですね。――用水路なんかに落ちたりでもしたら大変だ」
赤星の全身が緊張した。
「あそこ、案外深いんですよ。雨の影響でしょうけれど。おや、どうされました?」
「いや、別に――そうか、そうですね、危ないですね、それは」
庵の思考が読めなかった。落ちつけ、落ちつけ、と赤星は心の中で唱え続けた。
「庵さん」
「なんでしょう」
「昨日はあれから、田んぼで撮影を?」
「ええ、そうです。とはいっても、収穫はゼロに近いですが。雨のおかげで水かさが増したうえに、水自体も濁ってしまいまして」
「そうですか。――用水路のほうは?」
「夜中にちょっと歩いてみましたが、さすがに懐中電灯ひとつでは心もとないですから、早急に切り上げましたよ」
「撮影は」
「おこなっていません。それが何か?」
「いえ」
庵の言葉が正しければ、彼は知らないはずである。赤星が今最も知られたくないことを。
用水路の水の中に沈められたもののことを。
「ところで、どうやってお帰りになるんです、庵さんは?」
話を逸らそうと、赤星は問うた。
庵は肩をすくめ、
「僕も帰れないんですよ」
「はあ?」
「明日にならないとね」
そして口元を歪める。
「明日の早朝に、知人が車で迎えに来てくれる手はずになっているんです。それまで僕は撮影に専念ということで」
それに同乗させてもらえば帰途につくことができる。だがそれは、もうひと晩ここで足止めを食う、ということでもある。しかも、庵と一緒に。危険だ。
「よかったらどうです? それで一緒に帰りませんか?」
庵が、そう持ちかけてきた。ありがたいことではあるが、余計なお世話でもある。
「ふたり分なら席はありますよ」
「はあ、考えておきます。ありがとうございます」
赤星は適当に答えておいた。
「そういえば庵さんって、どこに寝泊まりされてるんですか?」
疑問に思ったので質問しておいた。今の話からして、彼は自動車を持っていないようだ。
庵はさも当然であるように、
「廃屋ですよ」
涼しい顔で解答した。
ある農家の座敷にて。
ズボンに埃をこびりつかせながら、赤星は庵と向かい合って座っていた。
庵から分けてもらったサプリメントを頬張り、ミネラルウォーターで嚥下する。
家の外は薄暗い。
また、雨が降りだしたのである。
「昨日の話、ありましたよね」
庵が語り始めた。
「水火水村の蛍の伝承」
赤星は無言で頷いた。
「昨夜、思いついたんですよ。用水路の横を歩いているときに。こう解釈できるのではないかと」
興味深げに赤星は庵を見た。
「水火水村の住人が消えた理由のひとつは、もしかすると――大量死、なのではないかと」
「大量――死?」
「ええ。たくさんの人間が一度に、あるいは短い期間のうちに亡くなった、ということです」
「それは」
何を言おうとしているのであろう、この男は。
水を飲むことも忘れ、赤星は聞き入る。
「もちろん、死亡の原因は判りません。手がかりが少なすぎますからね。インフルエンザなどの深刻な伝染病が流行ったのかもしれません。大規模な自然災害や事故が発生したのかもしれません。あるいは――大量虐殺があったのかもしれません」
「虐殺、ですか」
「無論、想像の域を出ません。ともかく、一度にほとんどの村人が死んでしまったのです」
「それで滅びたと」
「そうです」
庵も水をひと口飲み込んだ。
「くだんの伝承が正しいとするならば、ですけどね」
「しかしそれでは」
赤星は納得がいかない。
「蛍はどうなるんです? なんで蛍が出て来なきゃならないんですか?」
そして、急に口をつぐんだ。どうして自分はこんなにも本気になって、庵の話につきあわなくてはならないのだろう。
いや、自分でも解っている。赤星にはよく解っている。
「それはですね、赤星さん――」
赤星には、庵がすでに感づいているということが解っているのだ。
「短期間のうちに大量の死体が出てしまった。そしてその死体は――水の中に葬られたのです」
言うな。それ以上、言わないでくれ。
「どうして火葬にも土葬にもしなかったのか。これに関してもまったくの空想ですが、おそらく、できなかったのだろうと思われます」
「できなかった……」
「残された村人の数があまりにも少なく、労力が得られなかったというのもあるでしょうけれど、たぶん、死体は最初から水の中に沈んでしまっていたのでしょうね」
どういうことだ。いや、いい。それ以上は、もう。
「地質学的にありうるのかどうかは知りませんが、湖の洪水というのは可能性がありそうです。溺死体は言うまでもなく水の中で作られるわけですから。あるいは――」
庵の目が、赤星を射た。
「津山三十人殺しではありませんが、何者かが――集団かもしれませんね――村人を大量虐殺し、水田や用水路、湖などに棄てた」
人を、殺して、水の中に、棄てた。
赤星は、身体の震えを押さえつけることができなかった。
第12回