無人の家で発見されなかった手記 -3ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

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 死体を発見したのは、新聞配達のアルバイトに精を出す高校生であった。
 彼がいつもと寸分違わぬ時刻――午前五時十二分に自転車でマンション・ローヤルへやってきたとき、ヴェランダに面した駐車場に倒れている女性を見つけた。自動車の陰になるため、道路からでは見えない位置である。
 表情は窺えなかったが、頭から大量の血を流しており、しかもそれはほとんど乾いていた。乱れた長髪は栗色に染められていたが、すっかり艶を失い赤黒い液にまみれ、見るも無惨な状態であった。
 女性は白いTシャツにベージュのチノパンという格好で、そして裸足だった。靴下すら履いていない。
 血液は頭から流れたものの他、右手と両足にも大量に付着していた。もちろん、すべて同じような乾き具合である。
 マンションから――ヴェランダか屋上か――落下し、頑丈なコンクリートに頭を打ちつけて死亡したものと思われる状況であったし、実際、のちの検死によると、死因は脳挫傷と断定された。
 だが不可解なことに、彼女の右手には、しっかりと握り締められていたものがある。それは、血にまみれた包丁であった。まるで誰かを殺してきたかのように。包丁の血痕も乾いて固まっていた。
 靴を履いていなかったため、自殺の可能性がまず上がった。次に、自室のヴェランダから誤って転落したのではないかという事故説も。そして誰かに落とされたのではないかという――他殺の可能性も。
 彼女の名前は五味悦子(ごみ えつこ)。マンションの三〇四号室にひとりで暮らしていた、二十歳のフリーターである。
 通報によって駆けつけてきた警察の面々は、他の住人たちの協力によって女性の身元を割り出すと、さっそく三〇四号室の鍵を管理人に開けさせようとした。しかしその必要はなかった。鍵はかけられていなかったのである。
 もうひとつの死体を発見したのは、まっ先に足を踏み入れた小紫(こむらさき)という名の刑事である。
 彼は三〇四号室の奥へ行くなり「ぐひぃ」と唸り、まるで誰かにタックルでもされたみたいに後方へ跳んだ。無意識のうちに彼の足が彼の身体を現場の惨状から遠ざけた結果である。おかげで、すぐ後ろにいた巡査が小紫の背中に鼻を潰された。彼もまた「ぐひぃ」とうめいた。鼻血は四分間止まらなかった。
 血の海、という使い古された表現が似つかわしい。五味悦子の部屋は緋色に染められていた。フローリングに広がった血液はいまだ乾ききっておらず、艶やかなぬめりを見せつける。
 部屋のほぼ中央に、男が横たわっていた。仰向けである。長身で肩幅があり、見るからに並み以上の力がありそうな男ではあるが、しかし彼は死んでいた。
 男はある有名な宅配会社の配達員の制服に身を包んでいた。しかし身分証のたぐいは携帯しておらず、駐車場や道路に車が停められていたわけでもなかったから、本物の配達員であるのかどうか、はなはだ怪しい。
 そしてその地味なグリーンの制服は、赤黒く濡れていた。血液を吸い取ってぐっしょりと、しかし吸収しきれずに床へ垂れ流す。帽子は脱げ落ちていて、これもまた床で血にまみれていた。
 男の左目からはシャープペンシルの尻尾が生えていた。言い換えるなら上半分だけを外に見せて、シャープペンシルは全体の半分までを男の眼窩に埋めていたのである。先端のボタンを押せば、芯がチキチキと男の脳に刺さってゆくかもしれない。
 さらに身体には――胸に、腹に、首筋に――いくつもの刺し傷が穿たれていた。鋭利な刃物でめった刺しにされた痕であり、左目ではなくこちらが死因となっていた。出血多量である。そして部屋中に飛び散り流れ出る血液は、すべて男のもの。人間ひとりの身体には、信じられないくらい大量の液体が流れているものである。
 明らかに殺人事件であった。
 エアコンがないためかヴェランダへ通じるガラス戸は開けられており、風が吹き込む。血溜まりの表面がふるふると震えていた。
 奇妙なことに男は裸足ではない。つまり靴を履いているということで、要するに土足で五味悦子の部屋に上がり込んでいたということになる。しかも配達員の格好をして。男が何をしようとしていたのかは今のところ不明だが、死人に口なし、本当の目的を知るすべは、もはやない。
 警察官といえどもそうそうお目にかかれない惨状に、ただ「あうあう」と繰り返す小紫の肩を、後ろからそっと叩く者がいた。
 決して、驚かそうとしたわけではないだろう。しかし不意に肩を触れられ、小紫の「あうあう」は「あひい」に変化した。背後からの新たな脅威に彼の足がまたもや反応し、彼の身体を今度は前方に押し出した。結果、小紫のソックスは白から赤へと変わることになる。また「あひい」。
「困りますね小紫君、現場を荒らしては」
 ぴちゃぴちゃと血の上で踊る小紫に、上司の冷たい叱咤が飛ぶ。叱咤とはいえこの人物の場合はまったく抑揚に欠け、気味が悪いほどに穏やかであり、まるで怒っているようには感じられない。だがそれゆえに背筋が寒くなる。
 小紫は全身を緊張させて振り返った。ほとんど泣きそうな彼の目が捉えたものは、蒸し暑さをものともしないモスグリーンのスーツと一糸乱れぬオールバック。この奇妙かつ凄惨な殺人現場の陣頭指揮を一任された、一条(いちじょう)警部補の立ち姿である。
 眠たそうな瞳で部下を一瞥し、無言で廊下に戻るよう促しながら、一条はジャケットのポケットから白手袋を取り出す。小紫が半袖のワイシャツ一枚でも大量の汗をかいているのに、この伊達男はネクタイを緩めようとすらしない。
 小紫が濡れたソックスを脱いでいると、背後で一条が、
「小紫君、それはなんです?」
「はい?」
「背中ですよ背中」
「はい?」
「はい、じゃなくて」
「はあ」
「背中の血痕はなんです?」
「あ、ついてます? 血。まいったなあ。ええと、これはですね、さきほど彼が――」
 脇に立つ巡査の鼻に押し込まれたティッシュを見て取ると、一条は片手で小紫の説明を遮った。
「さて――始めますか」
 惨殺死体と血の海を前に眉ひとつ動かさず、一条は静穏かつ的確に指示を飛ばしていった。

 現場検証は一日続いた。結果、当然といえば当然のことだが、この事件には五味悦子が深く関与している可能性が明らかとなった。
 男の目に刺さっているペンからは、彼女の指紋と男の指紋が検出された。おそらく悦子の愛用品なのであろう。そして、眼球を貫通したあとに男はそれを引き抜こうと試みたらしい。
 めった刺しに使われた凶器は包丁であり、それは悦子の手に握られていたものだ。傷口の形状は完全に一致し、刃にこびりついた血液は間違いなく男のものである。
 悦子の裸足を濡らした血液、これも男のものである。小紫と同様、彼女も血の海に足を踏み入れたものと推測され、実際に部屋の中には彼女の足跡がいくつも見られた。一角に特別濃厚な足跡があることから、悦子がその位置に長時間佇んでいたことが見て取れる。足の向きから推し量るに、男の死体をずっと眺めていたのだろう。
 血の足跡はヴェランダへ続き、そこで途切れる。ここから落下したものと見て間違いはなさそうだ。そしてやはり、悦子の頭蓋骨の陥没状態から、このマンションの三階くらいの高さから落ちたものと断定された。
 ローテーブルはひっくり返り、本棚は俯せに倒れていた。CDやら化粧品やら細々としたものが部屋中に散らばっており、文字どおり足の踏み場もない。五味悦子が整理整頓という言葉を心底毛嫌いしていた女性でないとするならば、これはイレギュラーであり、争った形跡と呼ぶことができる。
「――どう見ます? 小紫君は」
 夜。駐車場からも部屋からも遺体は取り除かれた。乾いた血液と、しつこく残留する臭気。その中で一条警部補は部下の意見を訊いた。男が横たわっていたあたりを見つめながら。
「どう――って言いますと?」
「現場が形成されるにいたった経緯ですよ」
「ええと、殺人事件があったのだと思われます」
 一条は小紫をじっと見る。睨んだものと思われる。
「ええと、ですからつまり、男が何者かに殺害されたのでしょう」
「誰に?」
「五味悦子――?」
「室内の状況から鑑みるに、犯人と被害者の間には力ずくの争いがあったものと思われますね」
「ですね」
「男性の体格を見ましたか?」
「ええ、まあ、一応」
「真っ正面からふたりがぶつかった場合、あの男性と五味さんとで、どちらに勝機があるでしょう?」
「男――でしょう、か。でしょう、ね」
「もう一度訊きますよ。どう見ますか、小紫君は」
 男の目をシャープペンシルで突いたのは、おそらく五味悦子だ。そして死因となった包丁の刺傷であるが、これも彼女の手によるものと見て誤りではなかろう。だとしたら――。
「五味悦子さんは、見かけによらず強かったんですね」
 納得したように頷く小紫。それを見つめる一条警部補。睨んでいるのだろう。
「小紫君、本気でそう思ってますか?」
「え? あ、はあ、いや、いえ、だって彼女は武器を持っていたでしょう?」
「シャープペンシルのことですか?」
「いえいえ包丁」
「男は自分の目に刺さったペンを引き抜こうと試みた形跡があります。つまり、死因であるところの包丁による傷は、目のあとでつけられたものであるということですよ」
「はあ」
「つまり先にペンを用い、包丁はあとから手に取ったという可能性が高そうです。どうして武器としての性能に秀でている包丁をまっ先に使わなかったのでしょう」
「包丁とシャープペンの両方を持っていたんでしょうねえ。二刀流です。それで冷静な判断もできない状態だった、というのは?」
「ペンは左目に刺さっていました。角度からも、五味さんが右手で突き刺したものと思われます。そして包丁もまた右手に握られていた。言うまでもなく彼女は右利きです。友人の証言もありますね」
「ペンを刺したあとで包丁を持ち替えたんですよ、きっと」
「どうやってペンを刺せたんですか?」
「へ?」
「包丁を腹部に突き立てるのとは、わけが違いますよ」
「揉み合っているうちに」
「だから、力の差は圧倒的です」
「困りましたね」
「まったくです」
 一条が困っているのは、現場の状況に対してだけではなかったかもしれない。
「仮に、五味さんが僥倖にも恵まれて男との争いに勝利したとしましょう。つまり、彼女が犯人です。さて、するとここで新たな問題が起こりますね」
「はあ」
「どうして五味さんはヴェランダから落下したのか」
「不思議ですねえ」
「どう見ます?」
「自殺ではないでしょうか。罪の意識にさいなまれて」
「三階から?」
「ええ、そうです」
「検死官が言ってましたよ。四階ならばいざ知らず、三階からでは飛び降り自殺の成功率は格段に低いものとなるそうです」
「でも死んでますし。下はコンクリですし。頭から落ちてますし。打ちどころ悪いですし」
「確実に死にたかったら、屋上まで行くでしょう?」
「衝動的に飛び降りたのかも」
「本当にそう思いますか?」
「ええ、まあ、一応」
「この足跡はなんでしょうね?」
 白手袋に包まれた一条の指が示したのは、くっきりと残された赤い裸足の跡である。
「五味さんは長い間、この場に立ち続けていました」
「呆然としていたのではないでしょうか」
「罪の意識にさいなまれて?」
「そうです」
「落ちつきを取り戻す時間は、充分にあったはずです。それなのに衝動的な飛び降りを? しかも包丁を握ったままで」
「解りませんよ、この年代の女性の精神は」
「それは一般論?」
「いえ――ただなんとなく」
「素晴らしい」

 

第6回

 

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                                      4

 下りのエレベーターを四階で降り、わたしは四〇四号室の前に立った。部屋番号に「四」がつくことは一般的に忌避される傾向にあるが、ここは例外である。きっと管理者が合理的思考の持ち主なのだろう。いいことである。
 わたしがどうしてこんなところに寄り道をしたのかといえば、無論、ここの住人に用があったからである。とはいえ、確固とした用件があるというわけではない。友人であるがゆえ、ちょっと顔を出しておこうと思い立ったまでのことだ。
 ネームプレートには『三井寺(みいでら)』とある。最初は横文字で表記しようと思っていたらしいが、『Miidera』とすべきか『Midera』とすべきか逡巡し、結局結論が出ずにこうなったらしい。
 彼は大学の文芸サークルの後輩である。後輩と言ってもわたしはとっくに卒業しているわけだし、三井寺はまだ入学して半年ほどの一年生だ。つまり、実際のところ、お互い大学生として出会ったわけではない。しかしなぜか彼はわたしになついているし、わたしにとっても彼は特に仲のよい友達と言える。つまり、相性がいいのだ。
 チャイムを押し、インターフォンで名乗れば、やがてすぐにドアが開いた。
 途端に、室内から大音量のクラシックが聞こえてくる。
「やあ霜月さん。――こんなとこで何してんの?」
 半分下りかけたまぶたと、くしゃくしゃに寝癖のついた髪のせいで、あまりそうは見えない状態ではあるが、彼はなかなかの美形である。少年のように――事実まだ十八だ――華奢で色白の身体には、明るいブルーのタンクトップとスウェット。間違いなく寝起きである。午後だというのに。
「上がるぞ」
「なんで?」
「喉が渇いた」
「どうして?」
「暑いから」
「まあ、確かに」
「何か飲ませろ」
「なんで俺が?」
「後輩だから」
「わざわざ飲物もらいに来たわけ?」
「かもしれない」
「自分で買えよ」
 奥の部屋へ行くと、三井寺自慢のコンポが高らかにピアノの音色を響かせていた。これは聴いたことがある。
「エリック・サティ?」
「そうそう。ジムノペディ」
 壁が厚いので、それほど近所迷惑にはなっていないはずだ。しかしクーラーがない彼の部屋は、常にヴェランダのガラス戸が全開されているので、そこから隣へ大いに響き渡っていることだろう。結局は迷惑である。時折吹く烈風が、薄青いレースのカーテンを激しくはためかせていた。入居してまだ半年ということもあるのだろう、男のひとり暮らしにしては小綺麗だ。彼の性格からして、いらないと判断したものは即座に捨ててしまうのかもしれない。そしてその判断も迅速なのに違いない。あるいは、まめに掃除してくれる人でもいるのか。
 本棚を見ればその人の特質が解るなどと言うが、隅に置かれたカラーボックスの中には小説や漫画や大学の教科書などが乱雑に詰め込まれ、しかもジャンルがバラバラであるから、この部屋の主の特質を解することは難しいと言えよう。ランボオやポオがあるかと思えば、和製ジュヴナイルがすぐ横に並んでいたりする。量子論の専門書の隣にはタレント本。つげ義春の作品集も見つけた。わたしは『李さん一家』が好きである。ミステリは一冊もないが、その割に彼はミステリが好きなのである。
 ペタペタと裸足でフローリングを歩き、三井寺は冷蔵庫を開いた。腰ほどの高さしかなく、冷凍庫や野菜室などついていない。
「ジムノペディって、どういう意味か知ってる?」
「知らない」
「当てたら何か飲ませてあげる。――バドワイザー冷えてるよ」
「知らないものは知らない」
「残念でした」
 そう言って三井寺は一リットルの牛乳パックを取り出し、ゴキュゴキュと飲む。
 それを横取りしてわたしもゴキュゴキュ。喉がびっくりするほどに冷たい。凍りつく一歩手前だろうか。
「腹壊すぞ」
「壊したことないけど」
 少しは設定温度を上げておけと思ったが、聞けばこれでいっぱいらしい。壊れているのは冷蔵庫のほうだ。
「バドもらうぞ」
「駄目」
 ぼんやりと笑いつつ三井寺はわたしの背後に廻る。そしてわたしの背中に彼の指の感触。
「これ当てたらあげる」
 指で何やら文字を書いている。
 ちょっとだけ気色が悪いかもしれない。ともにいい歳をした男である。
「昔のカップルかよ」
「意味が不明だよ」
 三井寺は文字を書き続ける。
 人間の背中とは、鈍感さと敏感さがないまぜになった部分である。身体の後ろ側なんてものは、普段はまったく意識されることがないのに、何かことが起こると真っ先に反応して冷や汗を滲ませるものである。背中に指で文字を書いてそれを当てるというささやかな遊戯も、この解りそうで解らない微妙な感覚が備わっているからこそ、絶妙なゲームバランスとなっている。
 どうやら書き終えたらしい。やたらに画数が多かったような気がする。
「なんて書いた?」
「だから当ててよ」
「知るか」
「ヒント。今の俺の気持ち」
 まさか、アイラヴユーとか書いてないだろうな。まさかな。
 気分よさそうに目元を緩ませている三井寺を眺め、わたしは、
「薔薇色」
 複雑な文字を言ってみた。
「残念。はずれ」
「なんだよ、正解は」
「憂鬱」
「判るか、そんなの」
 へらへらと三井寺は笑う。さては、まだ寝惚けているに違いない。
 結局、牛乳をごちそうになっただけだった。しかしそれなりに喉は潤ったわけで、まあ悪くはない。ジムノペディは二曲目に入った。母親の口ずさむ子守歌のように、穏やかで優しげなメロディ。
 三井寺はヴェランダに出ると、ジムノペディをハミングしながら鉄柵を掴み、身を乗り出した。危なっかしいことこのうえない。柵はこの部屋の冷蔵庫と同じくらいの高さしかないため、ちょっとでも勢いがついたら向こうの世界へ旅立ってしまうそうだ。火災のさいに避難器具を使用してすみやかにここから下りられるようにとの配慮らしいが、いかがなものだろう。各部屋に取りつけられているという問題の避難器具――身体をロープに固定し、するすると降下してゆくというタイプのものだ――も、積み上げられたダンボール箱に埋もれている。どうして男やもめは、十中八九ヴェランダに古いダンボールが置いてあるのだろう。
 わたしの部屋もそうだけれど。

 

第5回

 

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                                      3

 さすがに四半世紀以上もだらだらと生を送っていると、大概のことには驚かなくなってしまう。メディアが発達していなかった時代ならばともかく、現代日本では種々雑多な情報群が日々飛び交い、厭でも目につき耳に入ってくる。密林の奥、高山の頂上、海の底、地球の外――決して自分では訪れることのない場所の映像を手軽に鑑賞することもできれば、見たこともないような生き物――深海を泳ぐ奇形の魚、地底に蠢く盲目の両棲類、そして今日目にしたタランチュラのようなものまで――を知ることもできる。
 だからこの歳になってしまうと、見たこともない生き物などというものは、それこそ肉眼で見えない微生物のたぐいのみとなってしまうのである。
 しかし――ここに例外があった。
 すでに凝り固まった「常識」なるものが脳内で形成され、世界のほとんどを網羅した気になっていた自分にとって、これは衝撃的な邂逅と言えた。
 今まで見たこともない形をした生き物――それも、そこそこの大きさがある虫である――を目の前にしたとき、人はただ唖然とする。そして同時に戦慄するのだ。自己のちっぽけな知識量をまざまざと見せつけられ、得体の知れない異物に畏怖し、生理的嫌悪と拒否反応を示す。
 ――なんだ、これは。
 類似した生き物を思いつけない。いや、ところどころのパーツを取り上げてみれば、他の虫に似かよっていると言えなくもない。だが総合して見た場合、まったくもって異形と言うほかない、まさに常識はずれの節足動物なのである。
 これが、ウデムシ――。
 体の大きさ自体は五センチメートルくらい。特別大型というわけではない。まずこれは蜘蛛に似ている。頭部と胸部が同化しており、そこに四対の脚がくっついている。腹部は円形だが、蜘蛛のように膨らんではいない。胸も腹も平たいのだ。真上から見れば蜘蛛のそれだが、真横から見るとまるでゴキブリのごとき平板さ。
 四対つまり八本の脚であるが、これが長い。伸ばしたら十センチ以上になるだろうか。いかにも俊敏さはかくあろうと思われるスマートな節足。脚に関してはもうひとつ大きな特徴がある。四対あるのだが、一見すると三対のように思える。そして顔の付近から、異様に長い――そう、あまりにも細長すぎる――二本の触角が伸びているかのように見えるのだ。だがこれは触角ではない。最前部の脚なのである。その証拠に、途中に関節がある。これは伸ばしたら二十センチは軽く超えるだろう。
 そして頭部からはさらに脚――いや「腕」が生えている。なるほどウデムシとはよく言ったものだ。蟷螂(かまきり)が有する鎌状の前脚が、最も近い形態と言えよう。脚よりも太く力強そうな二本の腕は途中で肘のように折れ曲がり、先端には棘のようなものが窺えた。この器官で蟷螂のように獲物を捉えるのだということは間違いない。だが蟷螂とは異なり、腕は横に広げられている。人間の腕に喩えるなら、蟷螂が脇を締めているのに対して、こちらは大きく脇を開いた状態だ。そのため、より全体が大型に見える。
 模様は黒褐色と茶褐色のだんだら。遠目には竈馬(かまどうま)に見えるかもしれない。もちろん、色合いだけに着目すればの話ではあるが。竈馬など比較にならない醜怪さである。
 そして全体的なシルエットは、どことなく蠍(さそり)か蟹(かに)を想起させる。だが蠍にしては尻尾がないし、蟹にしては面長である。やはり体のつくりゆえ蜘蛛に見えるのかというとそういったわけではなく、蜘蛛よりは蠍や蟹に近い。だが蠍にも蟹にもほど遠い。
 つまり、異形なのである。これまでの常識など通用しない。
 蜘蛛と蟷螂と蠍と蟹と竈馬と――あるいは他の何かも混合されているのかもしれない――そういった生き物たちが芸術的なまでに絡み合った、悪趣味なパロディ。どこかの前衛アーティストがたぐいまれなる空想力でもってでっちあげた畸型のオブジェクト。
 わたしには、そうとしか見えなかった。
 だがしかし、それは動いていた。目の前で。
 生きているのだ。
 これが、ウデムシなのか――。
 言葉など、なくしていた。
 ただ、頭の中に湧き起こる惑乱を鎮めることに精一杯であった。
 恐かったのかもしれない。
 そう、日常性とあまりにも乖離したこの存在に対し、わたしは確かに恐怖していたのだろう。
「素晴らしい」
 そんな言葉を呆然と呟きながら、いつのまにか利御はデジカメの液晶モニタを凝視しつつシャッターを切っていた。ケース内で動く二頭のウデムシに身も心も奪われているといったていである。
 その高さ六十センチ強のケース内には、真っ白な発泡スチロールの板が立てかけてあった。黒い土が敷かれている底からニョッキリと生えた異物は、いかにもアンバランスである。非常な急勾配が作られており、板の角度は垂直に近い。
 その中腹ほどに一頭、四対の長足を左右に広げてへばりついている。両腕をしっかりと閉じたまま。休息しているものと見える。
 もう一頭は下にいた。緩慢な動作でうろつき、触角じみた二本の前脚をゆらりゆらりと、まるで闇の中で手探りするかのように動かしている。
「素晴らしい。いや、素晴らしい。絶品だ」
「そ、そんなに凄いのか、この虫は」
「何を言ってるんだい霜月君。ウデムシだよウデムシ」
 息づかいが荒いように見えるのは、気のせいだろうか。
「ケニアジャイアントウデムシです」
 と芽衣が補足する。その名のとおりアフリカ産なのだろう。
「幼体のころから餌をいっぱいあげてたせいか、結構大きめに育ったんですよ」
「ああ、素晴らしい」
 その後も利御は、「秀逸である」「美麗である」「珠玉である」などと繰り返しながら狂ったように指を動かし、あっというまにメモリーを満杯にしてしまった。当初の取材目的であるタランチュラは、まだ一枚も撮っていない。
 利御の反応に満足げな笑みを浮かべ、芽衣はケース内に手を入れた。
「出しましょうか?」
 ためらうことなく、下を這っていたウデムシに、白く綺麗な指を伸ばす。
「おいでー、みぎい」
 みぎい――どうやらウデムシの名前らしい。
 わたしの疑問を察したのか、
「みぎいと、ひだりんです」
 芽衣が紹介してくれた。スチロールに張りついてるのがひだりんか。まさかウデムシだけに右腕と左腕になぞらえているわけではあるまいなと思ったら、まさにそのとおりだった。どちらが右でどちらが左なのか、わたしには区別がつかない。だが芽衣に判るのだから、それでいいのだろう。
 みぎいは芽衣の指に掴まると、じたばたと暴れた。細長い脚が乱舞するさまは、見ていて怖じ気だつ。
 カーペットの上に置かれると、自分の身に起きたことをいまいち理解できていないのか、またさっきと同様に第一足を揺らめかせて這いずる。
 あきれるほどの早さでメモリーカードを交換し、利御はウデムシを撮影した。接写、接写、接写。恋人にだって、こんなうっとりした目はしないだろう。
「はい、こっちもどうぞ」
 気づいたときには、相方のひだりんも放たれていた。先ほどまでは微動だにしなかったにもかかわらず、床に置かれたやいなや、猛烈なスピードで走る。こちらへ向かって。
 これが美女であるならばわたしは両腕を広げて迎え入れ、抱きとめ、あはははと笑いながらその場でクルクルと回ってみせるところであったが、いかんせん相手は美女ではなくウデムシである。あまりにも違いすぎる。
 だからわたしは、とっさにジャンプした。無意識の行動であるがゆえ、責められるいわれはない。
 着地した先は、すぐ横にあった芽衣のベッドである。なかなかのふかふか具合であった。
「霜月君、少しはデリカシーというものを持ちたまえ」
 こちらを見ずに利御が言った。芽衣は苦笑している。
 しかしわたしは安堵の溜息をつくことに精一杯で、自分の立場など考慮していられる状態ではなかった。
 今までわたしが座っていたところを、ひだりんが疾走する。それを追って光るカメラのフラッシュ。
 ひだりんは壁に突き当たると、ほとんど速度を落とすことなく、そこを上りはじめた。
 しゃかしゃかと器用に六本の脚を働かせて。
 危ないところだった。跳びのいていなければ、今ごろ壁ではなくわたしの身体に上られていたところだろう。
「ウデムシについては、実はよく判っていないんですけど――」
 そう前置きしてから芽衣が説明した。
「どうやら、樹上性みたいなんです。餌を探すときに下りることはありますけど、基本的には高いところに張りついていたほうが安心できるみたいです。脱皮するときは必ずそうしますしね。地上だと、捕食者の心配をしないといけないっていうのもあるんでしょうけど」
 なるほどこれは習性なのか。そのために発泡スチロールを立てかけてあるというわけだ。形状といい表面の質感といい、ウデムシにはおあつらえ向きの素材なのかもしれない。
「餌はなんなんです?」
 この立派な腕は、何を捕らえるときに使われるのだろう。
 だが芽衣は首をひねり、
「さあ」
「さあって――」
「現地では何を食べてるのか判りませんけど、うちではコオロギを与えてますよ」
 コオロギというと、秋の風物詩のコオロギか。涼しげな鳴き声をあげるまもなくウデムシにムシャムシャいかれるという寸法だ。可哀想に。
「餌を見つけるまではゆっくり歩いてますけど、見つけた途端、もの凄いダッシュでとびつくんですよ。そして自慢の腕で抑えこんでガブチョガブチョ」
 なるほど。あまり目にしたくない光景ではありそうだ。
 などと脳天気に頷いてなどいられない。さすがにいつまでも人様の――それも若い独身女性の――ベッドを占拠しているのは問題である。わたしはカーペットに下りた。
「霜月君、予定を変更しよう。タランチュラではなくウデムシについて取材したまえ」
 利御が熱を帯びた口調で、提案もとい命令してきた。勝手に決められても困る。しかしすでに用意してきたメモリーの大半を使ってしまったとのことで、これはしょうがないよウデムシにするしかないよ霜月君などと言いやがる。だったら無駄なメモリーを消せばいいだろうにと思ったが、彼の機嫌を損ねて拗ねられでもしたら元も子もない。子供や狂人と同じで、制御するためには下手に逆らってはならない。
 しかたなく予定は変更された。予定は未定にして確定にあらずとは、神代からの常套句である。間違いなく、これは最も異質の記事になる。なにせウデムシなのだ。なんだそれは。聞いたことすらない人が大半だろう。
 ウデムシとの出会い、ウデムシの特徴、ウデムシの魅力、ウデムシの入手法、ウデムシの飼育法、ウデムシの繁殖法――。ひととおりウデムシのことは尋ねておく。さらに肝心な若葉芽衣自身のことも。ペットとその飼い主、両方を紹介するコーナーである。忘れてはならない。
 しかし利御はすっかり失念している様子なので、釘を刺しておいた。芽衣も撮るように、と。虫の写真は放っておいても撮りまくるのだが、人間は決して自分から写そうとはしない。
「――ありがとうございます。おかげで助かりましたよ」
 出版された折には一部お渡しすることを約束し、わたしは芽衣に礼を言った。一応、利御にもそれなりに感謝の言葉をぼそぼそと呟いておく。利御からは画像をメールで送ってもらうことになっている。さすがにすべてとはいかないので、適当に見つくろって。
 もう少し長居すると言って聞かない利御を放っておき、わたしはひと足先においとますることにした。原稿の締め切りは近い。

 

第4回

 

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                                      2

 才能に恵まれないフリーライターが文字の羅列と引き替えに金銭を得るためには、仕事を選ぶなんてわがままを言うことは夢にも思ってはならない。貪婪に食指を伸ばし手当たり次第にネタを――それが悪食であろうとも――摘んでゆく必要がある。
 そして今回わたしの摘んでしまったネタが、最低の一品なのである。いや、当初は単に「珍しいペット」を飼っている人を取材するだけという、まことにヌルい、湯冷めを危惧するほどに温い仕事のはずだったのである。ひとり暮らしの若者をターゲットにした月刊誌の特集記事なのだが、室内において飼育可能であり、かつ一般的でない――具体例を挙げるならばイグアナとかカメレオンとかピラニアとか電気ウナギとか、まあそんなものだ――ペットとその飼い主を何人も取材し、写真入りで適当に記事を仕上げれば、ご褒美にお金がもらえるというシステムである。
 もちろんわたしひとりで動き回るわけではなく、何人かのライターが方々走り回っているのだが、彼らのスタートが早かったと言うべきか、わたしが出遅れたと言うべきか、前述した爬虫類やら怪魚やらには、もう唾がつけられてしまったのである。わたしまでもが同じような生き物を紹介したところで、出版物としての有効性は皆無に等しくなる。そこで、他の動物をどこからか探し出さねばならないという必要性に駆られる。トカゲでも怪魚でもウーパールーパーでもリュウグウノツカイでも毒鳥でも毒猫でもチュパカブラでもぬっぺっぽうでもない、もっと他の動物を探し出さなければならない。さもなくば、この先しばらくの間、一日あたりの食費が千円以下となってしまう。
 さて困ったと文字どおり懊悩していたところ、――やはり持つべきものは友である。
「それならちょうどいい人がいるよ。しかも身近にね」
 わたしの話を聞いた利御が、こんな嬉しいことを言ってくれた。やはり、友達というものはいいものだ。
「紹介料は原稿料の半分ということでどうだろう?」
 こんなふざけたことを無表情で言うことができるようなやつであっても、朋友というものは大切にしなければならない。冗談の上手い男である。
 鳴兎子市内のマンションの一室に暮らす、うら若き女性を紹介してもらえることとなった。なんでも利御がネットで知り合い、一度だけオフ会で顔を合わせたことがあるらしい。ネットと言ってもいわゆる出会い系サイトのたぐいではなく、昆虫マニアの集うBBSだ。利御が虫以外に興味を持ったなんて話は聞いたことがない。
 それで問題の生物であるが、幸か不幸か、まだ他のライターには手のつけられていない節足動物――、
「タランチュラだよ。霜月君の好きな」
 そう、タランチュラ。わたしは断じて好きではないし、じかに見たこともない。ともかく、悪名高き大毒蜘蛛である。
 若い女性がそんなものを飼育しているとは意外な気もしたが、小型のトカゲなどはそういった層に思いのほか人気があるらしい。爬虫類と節足動物をいっしょくたにするつもりはないが、タランチュラの事情も似たようなものなのかもしれない。小さくておとなしくて手間がかからないのだとか。
 ワンルームマンションに居住する若い女性である。誰だって、飼っている蜘蛛は一頭、多くてもせいぜいつがいにすぎないだろうと、頭から思いこむに違いない。わたしだってそうだ。
 なのに、話が違う。

 女性の部屋に、ふたりの男がずかずかと上がりこむ。こざっぱりした玄関には、柑橘系のほのかな香りが漂っていた。黒光りする革靴を脱いだ利御の足には、やはり黒のソックス。わたしも履きつぶしたスニーカーを脱いで続く。もちろん今日はいつもと異なり、穴の開いた靴下ではない。
 短い廊下が奥へ伸び、突き当たりには半開きのドアがある。廊下の途中にはユニットバスとキッチンが無駄なく配置されている。
「足元、気をつけてくださいね」
 先に立つ芽衣が、横顔を見せながら言う。
「たまに、こっちまで歩いてくることありますから」
「――何がです?」
 訊くまでもないことだが、わたしが尋ねると芽衣はにんまり微笑み、
「蜘蛛です」
「それって、やっぱり」
「大蜘蛛です」
「あなたが飼育されている……」
「毒蜘蛛です」
 足を止めて屈託なく答えてくれる彼女は、なかなか好感の持てる女性と言える。言葉の内容は別にして。
「裸足で踏むと、ちょっと――」
「ちょっと――?」
「やばいかもしれないです」
「放し飼いなの?」
「うちから外には出しませんよ」
 それはそうだろう。わたしが言っているのは違う意味だ。
「いや、その――ケースか何かに入れているというわけでは――?」
「ああ、もちろんそうですよ。でも、たまには散歩もさせてるんです」
「散歩、ですか。たまに」
「ええ、たまに」
「どのくらい」
「日に一回ぐらいかな」
 帰りたくなってきた。
「霜月君、足元に一頭いるよ」
 慌てて跳びのいた。近年まれに見る瞬発力である。
 しかし、八本足の御仁の姿はどこにも見当たらない。
「――いないじゃないか」
「嘘だよ」
 つまらなそうに利御が言う。
「あまり見事に乗ってくれるから面白くないね」
 それは悪かったな。眼鏡の奥で眠たそうにしている利御の瞳を睨みつけておく。
 そしてわたしは芽衣の部屋に足を踏み入れた。おそるおそる。
 予想に反して、虫を飼育しているような独特の臭いはしない。女性の部屋らしい心地よい芳香もなかったが。消臭には気を遣っているものと見受けられる。
 真っ先に目につくのは、やはり、所狭しと並べられている飼育ケースの数々である。無色透明のアクリル製の箱。小さいものでは高さが三十センチほどのものから、大きなものとなると一メートル近いものまである。八帖の部屋のおよそ半分が、素敵なルームメイトたちの生活空間として割かれている。
 それぞれケースの中には土が敷かれ、まるでジオラマのように木の枝が立てられていたり、小石が転がされていたり、竹によるトンネルが設営されていたりしていた。ペットボトルの蓋が逆さまに埋められ、小さな池を模しているようなものもある。おそらく水飲み場なのだろう。中には、真っ白な発泡スチロールが無造作に立てかけられているケースまであった。
 ケースにはすべて電源コードが伸ばされており、それらの先には、どれも同じ形の平たい機械がつないである。本来暖かな地方に暮らす彼らを、日本の気候から守るヒーターだ。熱帯魚と同じというわけか。夏だというのにスイッチが入れられている。そして部屋には微弱なエアコンの冷気が。直接ケースのほうに吹きつけないよう、角度を調整されている。好みの環境が異なる種どうしがひとところに暮らすというのは、何かと苦労が絶えないものだ。電気代は莫迦にならないだろう。だがしかし、エアコンにあまり意味はないように思えるほど、室内は温暖であった。湿気も少なくない。外のほうが、まだ風が強いぶん涼しげかもしれない。ヴェランダに面したガラス戸は閉じられている。
 ――そして、いた。初めて見た。ひとつのケースに一ないし二頭の黒い影。
 お目当てのタランチュラである。
 真っ黒で握り拳大ほどの恐ろしい姿を想像していたのだが、もう少し小型で色も淡い。いや、中には大型の種もいないわけではなかったが、主だったものはせいぜい体長五センチメートル前後――それでも我々日本人の感覚からしてみれば、充分に巨大な蜘蛛ではある。脚を伸ばせば十センチに達するかもしれない。
 灰色じみた暗色の胴は腫瘍のようにぷっくりと膨らみ、八本の長い脚はしなやかな人間の指のように動く。そしてそのいずれにも、剛毛と称するにふさわしい針のような短い毛が、びっしりと生え揃っていた。
「これがチリ出身のチリアンコモンで、うちでは一番多いですね。四匹います。こっちがメキシコ出身のメキシカンレッドニー。名前のとおり膝が赤いでしょ? どっちもおとなしくて優しくてキュートでラブリーです」
 挨拶もそこそこに、芽衣はさっそく我々をケース前に呼び寄せて解説を始める。わたしたちに教えてやるというよりは、蜘蛛たちに話しかけているようにも見える。
 女利御――という言葉を思いついたが黙っておいた。
 その顔立ちから、さぞかし引く手あまたなのだろうと思ったが、はたして、この部屋につれてこられた一般の男性陣は、いったいどのような反応を示すのだろう。
「――で、ゴライアスもそのうち欲しいなーなんて」
 なんだか強そうな名前が出てきた。たぶん、カブトムシで言うところのヘラクレスみたいなものだろう。
 幸い、現在外に出されている個体はいないようであった。わたしは内心溜息をつくと、芽衣に続いて腰を下ろした。明るい緑のカーペットは清潔で肌触りがよい。とても、普段この上を醜怪なタランチュラたちが散歩しているようには見えない。
 確かに数は多めだが、思っていたよりも小型で毒々しい印象は受け取れず――よほど想像していたものが酷かったというのもある――ほんの少しだけ拍子抜けもしていた。テレビや映画でならば何度も目にしたことがあったし、ある程度の心構えとも呼べるものがあったことは間違いない。蜘蛛は蜘蛛なのだが、日ごろ見慣れているものとはサイズが違いすぎるため、いまひとつ蜘蛛らしい気持ちの悪さが感じられなかった。だが無論これはこれで別種の嫌悪感を催させる生き物ではある。
 取材は簡単に済ませることにしよう。利御に何枚か写真を撮ってもらって、適当に芽衣から話を訊いて――タランチュラの魅力とやらとか、飼育の苦労話とやらとか、まあそんなものだ――さっさとおいとまするのだ。個人的には芽衣に興味がなくもなかったが、怪奇蜘蛛屋敷などに長居は無用である。
 芽衣と利御は和気あいあいといった風情で身を寄せ、飼育ケースを覗き込んでいる。はたから見たら恋人同士のようでもある。無邪気な子供のようにケース内に腕を伸ばし、中からタランチュラを取り出しては手のひらに載せて――一頭、二頭、三頭、次々出て来るぞ。楽しそうだなあ。
 ちょっと待て。
 利御が振り向き、こちらを見てにんまりと口元を歪めた。いかにも意地の悪そうな目が、わたしを射る。
 そして無言で近づいてきた。
 手には蜘蛛である。
 待ってくれ。頼むから。
 わたしは座ったままで後ずさる。
「おやどうしたんだい霜月君。ほら、タランチュラだぞ」
 判っている。承知している。認識している。
「あんまり強く掴まないようにしてくださいね。そんなに強烈じゃないですけど、一応、毒ありますから。毛を飛ばされることもありますしね。肌につくと荒れちゃいます」
「そういうことだ。気をつけて触りたまえ」
 ごめんこうむる。
 芽衣はけむくじゃらの腹部をつんつんつつきながら、
「本当は素手で触っちゃいけないんですけどね」
 触っているじゃないか。
「大丈夫ですよ霜月さん。蜘蛛のほうから手に載るように誘導してやれば」
「チリアンコモンとのツーショットを撮ってあげよう」
「キュートですよ可愛いですよラブリーですよ愛らしいですよー。ほらほら」
 何かが間違っているような気がしてならない。こんな美女の手のひらに、もぞもぞと大蜘蛛。タランチュラ――チリアンコモンとやらは静かに脚を動かし、芽衣の手首を上ってゆく。
 利御のほうも同様で、黒いジャケットにチリアンとレッドニーを這わせてご満悦の様子である。
「霜月君も記念に触れておきたまえ」
 そんな記念などいらない。
「後学のために」
 なんの役に立つというのだ。
「騙されたと思って」
 この男にだけは騙されたくないと、かねがね思っている。
「ほらほら、ふわふわのもこもこだぞ」
 ふわふわだろうがもこもこだろうが、わたしは絶対に厭なのである。
 ふたりが近づいてくる。
 ふたりに付着した蜘蛛たちも近づいてくる。
 これは悪夢である。
 何かが間違っている。芽衣の艶やかな髪の上を蜘蛛がにじる。そして彼女は笑っている。笑顔がキラキラと輝いている。何かが間違っている。
 壁際に追いつめられたわたしに、身体をすり寄せるようにして利御が肉薄し、ああこれでもうおしまいだな短かったし何もやりとげなかったがまあ悪くはない人生だったのだろうと諦観しかけたそのとき、突然芽衣が思い出したように、
「あ、そういえば、こないだチャットでお話ししてたやつ入手しましたけど、見ます?」
 と言った。
 すると利御は、はじかれたように芽衣へ向きなおる。
「と言うと、サソリモドキ?」
「いいえ、それじゃないです。もっと凄いやつ」
「ではヒヨケムシ?」
「いえいえ。もっと」
「ではまさか――」
 息を飲む利御。とっておきのプレゼントを渡す直前のように微笑む芽衣。ふたりの身体を這い回るタランチュラ。
 芽衣は続いてこう言った。
「ウデムシです」
 すると利御は、「今夜はハンバーグよ」と母親に告げられた子供みたいに喜んで見せた。

 

第3回

 

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                                  裸足の冒険者
                                Damon variegatus


                                      1

 恐怖とは、日常性の喪失にあるという。
 生き物とは元来、変化をいとうものである。このままでいられるのなら、そのままで生きていけるのであれば、これにまさる贅沢はない。
 ゆえに、未知の領域へ足を踏み入れることは極力避けようとする。今日までつちかってきた己のちっぽけな経験則を何よりも重要視し、それに反する事柄を忌避する。
 だが生きるということは前に進むということと同義であり、前進とは自己に変化をもたらす格好の手段であり要因である。
 だから生き物は、人間は、常に新しい物事へ目を向けざるをえない。
 そしてそれは時折、恐怖の対象となる。
 今回わたしの身に降りかかった出来事ほど、そういった意味あいでの恐怖――日常の喪失――に相応しい事例と呼べるものは、そうそうないだろう。
 あれは、今思い出しても背筋の凍る、畏怖すべき体験であった。そう、「背筋の凍る」という使い古された慣用句こそが、事件の本質を突いている。
 蒸し暑い晩夏の午後であった。蝸牛のごとき歩みで北上する台風が鳴兎子(なうね)に迫りつつあるということだったが、空は嘘のように青かった。ただ、やがて訪れるであろう雨に先行するかのように、強い風が時折、思い出したみたいに盆地を駆け抜けていた。
 その日わたしは、友人の昆虫写真家と一緒に「マンション・ローヤル」という十階建ての賃貸ワンルームマンションを訪れていた。ローヤルとはローヤルゼリーのローヤルであり、まったく同じ間取りの部屋が整然と並ぶ、こんな蜂の巣じみた集合住宅には似つかわしい名称と言えた。
 都心部から愛車を十分間も走らせれば、なだらかな登り坂にさしかかる。そこを上ると、道の左右にいくつもの団地がにょっきりと生えているのが見て取れる。無個性に立ち並ぶコンクリートの建造物は、狭隘な空間を的確に利用し、大人数を一度に収容することに成功している。合理的だ。
「蟻も蜂も同じだよ。生き物はエントロピー増大に抵抗しようとする性質があるし、そうしなければ繁栄しえない」
 庵利御(いおり としみ)――昆虫写真家の名前である――は、団地の群れを眺めながらそう言った。わたしは特に相槌を打つこともなかったが、彼相手に無駄な同意など必要ないのだから、それでいい。
 団地の集団に紛れるようにして、マンション・ローヤルは午後の陽差しを浴びていた。殺風景な灰色の外観で、一見、他の団地の仲間に思える。だがこの建物だけはマンションなのである。その証拠に、A-5とかC-1とかいった記号が外壁にペイントされていない。十かける十、合計百のヴェランダが我々を迎える無機質な光景には、どこか空恐ろしいものを感じる。台風が来る前にさっさと乾かしておこうというつもりか、やたらと洗濯物が目につく。もちろん、今日が土曜日であり休日であるということもあるのだろうが。
 それぞれのヴェランダには、背の低い柵が設けられている。ちょっと危なっかしい。その気になれば、幼い子供だって楽々と乗り越えることができるだろう。そんなスチール製の柵に干されている布団もちらほらと。風が強いので布団バサミは必須だ。屋上から地面へ向かって、排水用のパイプが何本も伸びている。数日後、早ければ明日には、このパイプが大活躍をするのであろう。
 ヴェランダに面して駐車場がある。わたしはワンボックスをそこに滑り込ませた。停車するやいなや、後部座席の利御がドアを開ける。彼は絶対と言っていいほど、助手席には座らない。きっと、わたしの「助手」なんて立場はごめんなのだろう。そういう男だ。このくそ暑いのに、いつもの黒スーツを脱ぐ気はないらしい。黒い鞄を手に、コンクリートの上に降り立つ。
 家賃はリーズナブルで、間取りも悪くないらしい。学生や若い社会人がひとり暮らしをするのに理想的であり典型的である。もちろんエレベーターだってある。狭い箱の中で、利御は九階のボタンを押した。
「どうしてエレベーターの中に入ると、途端に会話が止まるのだろうね」
 今まで会話なんてしていなかったくせに、利御が呟いた。たぶん一般論を言っているのだろう。
 わたしも利御も、斜め四十五度、階数表示を眺めていた。
「声が響いてうるさいからじゃないのか」
「違うね。距離が近すぎるからだよ。生き物は皆、それぞれ自分の間合いというものを持っている」
 答えが判っているのなら訊くな。
 結局、その後まったく会話はなしに目的の九階へ到着した。
「さあ着いたぞ霜月(しもつき)君」
 言わなくてもいいことを言う。無駄口が多いということは、機嫌がいいのだろう。そんなに会いたいのか、例の女性に。――いや、利御のことだから目的は人間の女性ではないはずだ。
 狭いエレベーターホールからまっすぐに伸びる廊下は薄暗い。北側に十の窓が並び、南には窓と同じ数のドアがある。突き当たりは非常階段になっているのだろう。昼間なのに薄暗い。
 目指すは九〇二号室。つまり手前から二番目、すぐの部屋である。濃緑色のドアには覗き穴と郵便受け口とノブと鍵穴があり、ごくごく一般的なアパートやマンションのそれである。ノブは丸くはなくレバー型だ。インターフォン上のネームプレートには、ワープロ打ちの明朝体で「若葉」とあった。
「ひとり暮らしなの?」
 わたしが訊くと利御は、
「気になるのかい?」
「いや、別に」
「ワンルームに家族暮らしということもないだろう」
 利御の長い指がボタンに触れ、ドアの向こうでチャイムが鳴った。
「ただでさえ、同居している生き物たちでいっぱいなんだろうから」
「いっぱいって――そんなに飼ってるのか?」
「ひと桁ではないだろうね」
「聞いてないぞ」
 少し、自分の声がひきつっていた。
 利御は眉をひそめつつも口元は歪め、
「君が取材したいと言うから、格好の人物を紹介してあげてるんじゃないか。――おや留守かな」
 もう一度、ボタンを押す。
 二度目のチャイムが鳴りやまぬうちに、スピーカーから声が聞こえてきた。
「はぁい」
 若い女性の声である。しかも、予想外なことに――無論これは偏見である――なかなか可愛らしい。
 心もち顔を近づけて利御が名乗ると、
「はぁい」
 今度は幾分嬉しそうにそう言って、間を置かずチェーンが外される。
 ノブが傾き、開いた隙間から見える微笑。
「お待ちしてましたよー、庵さん」
 二十代半ばくらいに見えるその女性はスレンダーで色白で綺麗な手をしていてショートカットが絶妙に似合い切れ長の目は決してきつい印象など与えずに人なつっこい笑顔を形づくるファクターとなっており先ほどの声の持ち主であることもむべなるかなと思わせる口元は柔らかそうでちょっとだけ色っぽくてしかし決してくどいわけではなく控えめである。
「狭いとこですけどね、どうぞどうぞ」
 つまり端的に言うなれば、若葉芽衣(わかば めい)は可憐な女性なのである。
 とても、十頭以上のタランチュラと同居している人物などとは信じられないほどに。

 

第2回

 

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