5
死体を発見したのは、新聞配達のアルバイトに精を出す高校生であった。
彼がいつもと寸分違わぬ時刻――午前五時十二分に自転車でマンション・ローヤルへやってきたとき、ヴェランダに面した駐車場に倒れている女性を見つけた。自動車の陰になるため、道路からでは見えない位置である。
表情は窺えなかったが、頭から大量の血を流しており、しかもそれはほとんど乾いていた。乱れた長髪は栗色に染められていたが、すっかり艶を失い赤黒い液にまみれ、見るも無惨な状態であった。
女性は白いTシャツにベージュのチノパンという格好で、そして裸足だった。靴下すら履いていない。
血液は頭から流れたものの他、右手と両足にも大量に付着していた。もちろん、すべて同じような乾き具合である。
マンションから――ヴェランダか屋上か――落下し、頑丈なコンクリートに頭を打ちつけて死亡したものと思われる状況であったし、実際、のちの検死によると、死因は脳挫傷と断定された。
だが不可解なことに、彼女の右手には、しっかりと握り締められていたものがある。それは、血にまみれた包丁であった。まるで誰かを殺してきたかのように。包丁の血痕も乾いて固まっていた。
靴を履いていなかったため、自殺の可能性がまず上がった。次に、自室のヴェランダから誤って転落したのではないかという事故説も。そして誰かに落とされたのではないかという――他殺の可能性も。
彼女の名前は五味悦子(ごみ えつこ)。マンションの三〇四号室にひとりで暮らしていた、二十歳のフリーターである。
通報によって駆けつけてきた警察の面々は、他の住人たちの協力によって女性の身元を割り出すと、さっそく三〇四号室の鍵を管理人に開けさせようとした。しかしその必要はなかった。鍵はかけられていなかったのである。
もうひとつの死体を発見したのは、まっ先に足を踏み入れた小紫(こむらさき)という名の刑事である。
彼は三〇四号室の奥へ行くなり「ぐひぃ」と唸り、まるで誰かにタックルでもされたみたいに後方へ跳んだ。無意識のうちに彼の足が彼の身体を現場の惨状から遠ざけた結果である。おかげで、すぐ後ろにいた巡査が小紫の背中に鼻を潰された。彼もまた「ぐひぃ」とうめいた。鼻血は四分間止まらなかった。
血の海、という使い古された表現が似つかわしい。五味悦子の部屋は緋色に染められていた。フローリングに広がった血液はいまだ乾ききっておらず、艶やかなぬめりを見せつける。
部屋のほぼ中央に、男が横たわっていた。仰向けである。長身で肩幅があり、見るからに並み以上の力がありそうな男ではあるが、しかし彼は死んでいた。
男はある有名な宅配会社の配達員の制服に身を包んでいた。しかし身分証のたぐいは携帯しておらず、駐車場や道路に車が停められていたわけでもなかったから、本物の配達員であるのかどうか、はなはだ怪しい。
そしてその地味なグリーンの制服は、赤黒く濡れていた。血液を吸い取ってぐっしょりと、しかし吸収しきれずに床へ垂れ流す。帽子は脱げ落ちていて、これもまた床で血にまみれていた。
男の左目からはシャープペンシルの尻尾が生えていた。言い換えるなら上半分だけを外に見せて、シャープペンシルは全体の半分までを男の眼窩に埋めていたのである。先端のボタンを押せば、芯がチキチキと男の脳に刺さってゆくかもしれない。
さらに身体には――胸に、腹に、首筋に――いくつもの刺し傷が穿たれていた。鋭利な刃物でめった刺しにされた痕であり、左目ではなくこちらが死因となっていた。出血多量である。そして部屋中に飛び散り流れ出る血液は、すべて男のもの。人間ひとりの身体には、信じられないくらい大量の液体が流れているものである。
明らかに殺人事件であった。
エアコンがないためかヴェランダへ通じるガラス戸は開けられており、風が吹き込む。血溜まりの表面がふるふると震えていた。
奇妙なことに男は裸足ではない。つまり靴を履いているということで、要するに土足で五味悦子の部屋に上がり込んでいたということになる。しかも配達員の格好をして。男が何をしようとしていたのかは今のところ不明だが、死人に口なし、本当の目的を知るすべは、もはやない。
警察官といえどもそうそうお目にかかれない惨状に、ただ「あうあう」と繰り返す小紫の肩を、後ろからそっと叩く者がいた。
決して、驚かそうとしたわけではないだろう。しかし不意に肩を触れられ、小紫の「あうあう」は「あひい」に変化した。背後からの新たな脅威に彼の足がまたもや反応し、彼の身体を今度は前方に押し出した。結果、小紫のソックスは白から赤へと変わることになる。また「あひい」。
「困りますね小紫君、現場を荒らしては」
ぴちゃぴちゃと血の上で踊る小紫に、上司の冷たい叱咤が飛ぶ。叱咤とはいえこの人物の場合はまったく抑揚に欠け、気味が悪いほどに穏やかであり、まるで怒っているようには感じられない。だがそれゆえに背筋が寒くなる。
小紫は全身を緊張させて振り返った。ほとんど泣きそうな彼の目が捉えたものは、蒸し暑さをものともしないモスグリーンのスーツと一糸乱れぬオールバック。この奇妙かつ凄惨な殺人現場の陣頭指揮を一任された、一条(いちじょう)警部補の立ち姿である。
眠たそうな瞳で部下を一瞥し、無言で廊下に戻るよう促しながら、一条はジャケットのポケットから白手袋を取り出す。小紫が半袖のワイシャツ一枚でも大量の汗をかいているのに、この伊達男はネクタイを緩めようとすらしない。
小紫が濡れたソックスを脱いでいると、背後で一条が、
「小紫君、それはなんです?」
「はい?」
「背中ですよ背中」
「はい?」
「はい、じゃなくて」
「はあ」
「背中の血痕はなんです?」
「あ、ついてます? 血。まいったなあ。ええと、これはですね、さきほど彼が――」
脇に立つ巡査の鼻に押し込まれたティッシュを見て取ると、一条は片手で小紫の説明を遮った。
「さて――始めますか」
惨殺死体と血の海を前に眉ひとつ動かさず、一条は静穏かつ的確に指示を飛ばしていった。
現場検証は一日続いた。結果、当然といえば当然のことだが、この事件には五味悦子が深く関与している可能性が明らかとなった。
男の目に刺さっているペンからは、彼女の指紋と男の指紋が検出された。おそらく悦子の愛用品なのであろう。そして、眼球を貫通したあとに男はそれを引き抜こうと試みたらしい。
めった刺しに使われた凶器は包丁であり、それは悦子の手に握られていたものだ。傷口の形状は完全に一致し、刃にこびりついた血液は間違いなく男のものである。
悦子の裸足を濡らした血液、これも男のものである。小紫と同様、彼女も血の海に足を踏み入れたものと推測され、実際に部屋の中には彼女の足跡がいくつも見られた。一角に特別濃厚な足跡があることから、悦子がその位置に長時間佇んでいたことが見て取れる。足の向きから推し量るに、男の死体をずっと眺めていたのだろう。
血の足跡はヴェランダへ続き、そこで途切れる。ここから落下したものと見て間違いはなさそうだ。そしてやはり、悦子の頭蓋骨の陥没状態から、このマンションの三階くらいの高さから落ちたものと断定された。
ローテーブルはひっくり返り、本棚は俯せに倒れていた。CDやら化粧品やら細々としたものが部屋中に散らばっており、文字どおり足の踏み場もない。五味悦子が整理整頓という言葉を心底毛嫌いしていた女性でないとするならば、これはイレギュラーであり、争った形跡と呼ぶことができる。
「――どう見ます? 小紫君は」
夜。駐車場からも部屋からも遺体は取り除かれた。乾いた血液と、しつこく残留する臭気。その中で一条警部補は部下の意見を訊いた。男が横たわっていたあたりを見つめながら。
「どう――って言いますと?」
「現場が形成されるにいたった経緯ですよ」
「ええと、殺人事件があったのだと思われます」
一条は小紫をじっと見る。睨んだものと思われる。
「ええと、ですからつまり、男が何者かに殺害されたのでしょう」
「誰に?」
「五味悦子――?」
「室内の状況から鑑みるに、犯人と被害者の間には力ずくの争いがあったものと思われますね」
「ですね」
「男性の体格を見ましたか?」
「ええ、まあ、一応」
「真っ正面からふたりがぶつかった場合、あの男性と五味さんとで、どちらに勝機があるでしょう?」
「男――でしょう、か。でしょう、ね」
「もう一度訊きますよ。どう見ますか、小紫君は」
男の目をシャープペンシルで突いたのは、おそらく五味悦子だ。そして死因となった包丁の刺傷であるが、これも彼女の手によるものと見て誤りではなかろう。だとしたら――。
「五味悦子さんは、見かけによらず強かったんですね」
納得したように頷く小紫。それを見つめる一条警部補。睨んでいるのだろう。
「小紫君、本気でそう思ってますか?」
「え? あ、はあ、いや、いえ、だって彼女は武器を持っていたでしょう?」
「シャープペンシルのことですか?」
「いえいえ包丁」
「男は自分の目に刺さったペンを引き抜こうと試みた形跡があります。つまり、死因であるところの包丁による傷は、目のあとでつけられたものであるということですよ」
「はあ」
「つまり先にペンを用い、包丁はあとから手に取ったという可能性が高そうです。どうして武器としての性能に秀でている包丁をまっ先に使わなかったのでしょう」
「包丁とシャープペンの両方を持っていたんでしょうねえ。二刀流です。それで冷静な判断もできない状態だった、というのは?」
「ペンは左目に刺さっていました。角度からも、五味さんが右手で突き刺したものと思われます。そして包丁もまた右手に握られていた。言うまでもなく彼女は右利きです。友人の証言もありますね」
「ペンを刺したあとで包丁を持ち替えたんですよ、きっと」
「どうやってペンを刺せたんですか?」
「へ?」
「包丁を腹部に突き立てるのとは、わけが違いますよ」
「揉み合っているうちに」
「だから、力の差は圧倒的です」
「困りましたね」
「まったくです」
一条が困っているのは、現場の状況に対してだけではなかったかもしれない。
「仮に、五味さんが僥倖にも恵まれて男との争いに勝利したとしましょう。つまり、彼女が犯人です。さて、するとここで新たな問題が起こりますね」
「はあ」
「どうして五味さんはヴェランダから落下したのか」
「不思議ですねえ」
「どう見ます?」
「自殺ではないでしょうか。罪の意識にさいなまれて」
「三階から?」
「ええ、そうです」
「検死官が言ってましたよ。四階ならばいざ知らず、三階からでは飛び降り自殺の成功率は格段に低いものとなるそうです」
「でも死んでますし。下はコンクリですし。頭から落ちてますし。打ちどころ悪いですし」
「確実に死にたかったら、屋上まで行くでしょう?」
「衝動的に飛び降りたのかも」
「本当にそう思いますか?」
「ええ、まあ、一応」
「この足跡はなんでしょうね?」
白手袋に包まれた一条の指が示したのは、くっきりと残された赤い裸足の跡である。
「五味さんは長い間、この場に立ち続けていました」
「呆然としていたのではないでしょうか」
「罪の意識にさいなまれて?」
「そうです」
「落ちつきを取り戻す時間は、充分にあったはずです。それなのに衝動的な飛び降りを? しかも包丁を握ったままで」
「解りませんよ、この年代の女性の精神は」
「それは一般論?」
「いえ――ただなんとなく」
「素晴らしい」
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