7
三井寺の部屋で一夜を明かしてしまった。不思議なことに、まったく仕事は進んでいない。わたしと同じ外見をしていて鼻の赤いロボットがひとつ欲しいところである。
なぜか三井寺は、自分のベッドをわたしに提供してくれた。いくら遠慮をしても、自分は床に寝ると言って聞かなかった。真意を測りかねつつも、弾力のあるベッドをありがたく使わせてもらうことにした。
起きると同時に流し始めたジムノペディが、オートリバースで幾度も繰り返される。昨日からずっとこれである。いい加減、耳について離れない。
台風は本格的に猛威を振るっていた。吹き込む雨がヴェランダを水浸しにし、ダンボールをふやけさせている。テレビの気象情報で台風の進路予想図を眺めながら、トーストにマーマレードを載せて咀嚼した。三井寺の煎れてくれたコーヒーはなかなかの美味であり、わたしは砂糖とミルクをたっぷりと溶かしこんでから頂戴した。
「不純物を入れるなんて邪道だ」
と批判されたので地獄突きをお見舞いした。ブッチャーの得意技である。三井寺には喉仏が出ていないことに気づいた。
ポケットの中で携帯電話がアラームを鳴らす。メールの着信である。利御からで、「ウデムシサガスヨ」とあった。どうやら解放してはくれないらしい。まあ、わたしとしても、芽衣に対して取材のお礼はしなければなるまい。
セブンスターを一服してから三井寺の部屋を去り、九階へ向かった。
四階へ戻ってきた。黒服をつれて。
到着した利御に、芽衣の部屋で事件のことを話した。最初は気のなさそうにぼんやりと聞いていた利御であったが、次第に興味を示し、最終的には、
「よし、それでは三井寺君の部屋へお邪魔することにしよう」
などと言い出す始末。
横からおずおずと芽衣が、
「あのう、ひだりんの捜索は忘れてませんよね?」
「それはもちろんですよ。僕らの目的は、まさにそれです。――さあ霜月君、三井寺君の部屋へ案内してくれたまえ」
「関係あるのか、三井寺が。何を根拠に」
「行ってみないと判らないよ。それに、現在まったく手がかりがない状態じゃないか。今のところ、有力な情報はそれひとつだけだ」
わけも判らぬまま強引に押し切られ、わたしは利御を連れてエレベーターに乗った。
銜え煙草で三井寺が姿を見せた。
「忘れ物?」
「いや。また遊びに来た」
「ああそう」
三井寺は利御を認めると、軽く頭を下げた。そしてドアを大きく開け、我々を招き入れる。相変わらずサティの流れる室内は、やけに蒸し暑く感じられた。
利御が部屋に入ってこないので振り返ってみると、黒服は廊下の真ん中にうずくまるようにして片膝をついていた。両手をつき、コンタクトレンズでも探すかのように床を見つめているが、彼はコンタクトではなく眼鏡を愛用している。
「どうした?」
と訊いたが無視されたので、こちらも無視することにしよう――と思ったが、やはり多少気にはなる。
利御の指が何かを摘んだ。よく判らないが、細く小さいゴミのように見える。
「なんだ、それ」
と訊いたが、利御は無言で拾ったものを凝視している。やがてわたしの質問に答える代わりに、
「三井寺君、最後に掃除したのはいつだい?」
「掃除? えーと、ついこないだ。四日前かな」
「この廊下も掃除した?」
「うん」
「念入りに?」
「掃除機かけたよ。ついでに水拭きもした」
「ゴキブリはよく出るかい?」
「え? ――まあ、頻繁にってほどじゃないけど。滅多にってわけでもないかな」
「特に今くらいの時季は」
「そうだね、夏に入ってからはちらほらと。――なんなの、唐突に?」
「ゴキブリ以外には?」
「は? うーん、あんま見ないかな。蠅とか蛾とか」
「もっと大きなサイズでは?」
「いや、見たことないけど。――だからなんなの?」
すると利御は微かに口元を歪ませ、なるほど、なるほど、と呟いた。やはり三井寺の疑問にも答えるつもりはないらしい。自分勝手なやつである。今に始まったことではないのだが。
つまみ上げたゴミをジャケットのポケットに入れると、利御は三井寺の部屋に入ってきた。ヴェランダの戸を開け、外に出てみたりしてみる。雨が吹き込んで大迷惑である。だがそんなことは意に介さず、自分が濡れるのもかまわず、手摺りをつかんで下を覗き込む。
「何やってんの?」
三井寺がわたしに尋ねてきた。
「知るか」
わたしに訊かないでほしい。
「だって、相方でしょ」
「誰が」
「霜月さん」
「誰の」
「庵さん」
いつからそういうことになってしまったのだろう。わたしは黒い背中を見つめる。ここで利御の背を押したら、彼は真っ逆さまに落ちてしまうのかなと、ふと思った。
するうち利御が戻り、眼鏡のレンズについた雨粒をハンカチで拭いながら、
「下の部屋も、ここと同じくエアコンの設備はないのかい?」
「うん、そう言ってたよ、刑事さんは」
「なるほどね」
眼鏡をかけなおすと利御は、
「どうやら下の事件に説明がつけられそうだよ」
などと言った。
風雨はいちだんと激しさを強め、外は昼だというのに暗い。穏やかな音楽が流れ、蛍光灯のつけられた室内とは対照的である。
利御はまず、ずうずうしくも一杯のコーヒーを所望した。三井寺君のコーヒーは格別だね、などと心にもないことを言いながら啜る。砂糖を大量に溶かしてからでは、言葉に信憑性がない。そして唐突に語り始めた。
「言うまでもなく僕は階下の五味悦子嬢とはまったく面識がないわけで、すべては三井寺君が一条警部補から聞き出した情報だけが拠りどころとなっている。つまり、多少事実と食い違う点も見られるかもしれないが、そんなことは些末なものにすぎないよ。そもそもどうして無関係とも思える殺人事件のことなど話すのかといえば、事件の解決に貢献したいからではなく、行方不明者の足取りを追うためだからね」
「行方不明者?」
「もう忘れてしまったのかい霜月君。意外に薄情だね。ウデムシだよウデムシ。ひだりん氏だね」
虫にミスターをつけて呼ぶやつなど初めて見た。最初で最後であることを祈る。
わたしの横では三井寺が、話が見えずに首を傾けている。
「ウデムシ? ヒダリンシ?」
利御がわたしに目配せをしたので、三井寺にこれまでのいきさつを説明してやらなければならなかった。
「へえ、上にそんな人が。でもここって確か、ペット厳禁だったような」
開いた口がふさがらない。「禁止」どころではない「厳禁」なのだ。ただでさえ厳しく禁じられているというのに、芽衣はおよそ一般的とは言いがたい有毒の生き物を、しかも複数飼育している。これは問題である。ウデムシが他人に発見でもされたら、さらに問題である。恐ろしい女だ。
彼女のことは他言無用だと釘を刺しながら、雑誌の原稿も匿名性に関しては気をつけて書かなければならないなと考えていた。芽衣の容姿との落差が面白みのひとつであったのだが、彼女の顔写真は控えたほうがいいだろうか。
「で、本当なのかそれは? ウデムシの行方が判るってのは」
「さて。断言はしかねるね。だが少なくとも手がかりにはなるだろうし、それにこれだけは言えるけど、階下の事件にはウデムシが深く関わっているよ」
「まさか」
「いや本当に」
コーヒーを啜る。猫舌らしく、だましだまし口に含んでは舐めていった。
「そう考えれば丸く収まるよ。最も蓋然性の高い解釈、それがウデムシの事件への関与なんだ」
「まさか」
「いや本当に」
「確証はあるのか」
「微妙なところかな」
「なんだよ、それは」
利御にしては歯切れが悪いなと思いつつ。
「とにかく説明してくれよ」
「ああ、そのつもりだよ」
「手短に頼むぞ」
この男の長々と回りくどい、もったいぶった語り口調には、わたしでなくともストレスを溜めてしまうだろう。
利御は眼鏡を中指で押し上げ、
「解ったよ。君がそう言うのなら、手短にまとめることにしようか」
そして頭の中で考えを整理するかのように黙りこむと、やおら手元のカップを見つめながら、ぼそぼそと語りだした。
「昨夜――目的は不明だがおそらくは五味さんに不埒な行為でも働こうとしたのだろう、男は宅配員を装って彼女の部屋に入りこみ、そして五味さんとの乱闘になったわけだ。部屋は荒らされ、小物が散乱する。屈強な男に小柄な五味さんがかなうはずもなく、いとも簡単に床に組み伏せられてしまう。しかしそこで、あることをきっかけに男がひるみ、抑えていた腕の力が抜けてしまった。彼女はそれを見逃さず、とっさにつかんだシャープペンシルを無我夢中で突き出した。それは男の左目に刺さり、彼は激痛と驚愕のため五味さんの身体から離れる。その隙に逃げだし、彼女は武器を求めてキッチンへ向かった。どこの家にある最も強力な武器といったら包丁だね。それを手にして引き返し、痛がる男の腹を刺した。何度も刺して男の動きが止まると、ようやく我に返った五味さんは、自分がとんでもないことをしでかしてしまったことに呆然と立ちつくす。男の身体からは血が流れ出し、床に溜まっていく。そのとき彼女は、先ほど男の力を緩めさせた存在に気づいてしまう。精神不安定であるうえに恐慌状態に陥り、彼女は一目散に外へ逃げだそうとヴェランダへ向かったわけだ。そして勢いあまって落下した。以上」
再びコーヒーを啜りだす。
わたしは三井寺とともにぽかんとした表情をしていたが、やがてすぐに抗議の声を発した。
「以上、って。なんの説明にもなってないじゃないか」
「ちゃんと聞いていた?」
「当たり前だろう。だいたい、なんだよいったい。その、男が力を緩めたきっかけとか、五味さんが逃げだした理由とか――」
「――まさか」
横から三井寺が口を挟む。
「それがウデムシってやつ?」
「最初からそう言ってるじゃないか。ウデムシが深く関わっているって」
つまらなそうに利御はため息をついた。
「下の階でふたりが目撃して、結果、一見奇妙とも思える状況を作りだしたものの正体は、若葉さんのところから逃げだしたウデムシなんだよ」
第8回