無人の家で発見されなかった手記 -2ページ目

無人の家で発見されなかった手記

──ある素人小説家の陳述

 そんなわけで、昆虫ミステリ第4弾「裸足の冒険者」でした。前作とはがらりと変わった作風ですね。なんというか、肩の力を抜いて書いてるなあという気がします。書くのが楽しくてしょうがなかったんでしょうね。若いというのはいいものです。どうぞ皆さんも若いうちに、楽しいうちに、できるだけたくさん創作してください。

 ウデムシは、当時知って、そのインパクトの大きさにビックリ仰天した虫です。ウデムシ、ヒヨケムシ、サソリモドキは世界三大奇虫などと呼ばれるそうですが、まあ納得の外観ですよね。ヒヨケムシもかなりキテる見た目ですが、ウデムシには気味悪さだけではなく、かっこよさがあると思うの。

 参考文献として挙げた『毒虫の飼育・繁殖マニュアル』は、飼育・繁殖する予定がなくても、読んでいるだけで楽しめる──そして実際に飼育・繁殖してみたくなる──なかなか素晴らしい本です。クモ、サソリ、ムカデの他、ヤスデやゲジについても記載されています。巻頭のカラーページを眺めているだけでも面白い。お勧め。

 

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                                      9

 駐車場の片隅で、雨に濡れたウデムシが裏返っていた。
 発見したのは、マンションの一〇一号室に暮らす大学生である。まさか生き物の死骸とは思わず、誰かが製作した精巧なフィギュアと思ったらしい。見事な造形美のオリジナル・クリーチャーであると。何日間か自室に飾っていたとかいないとか。
 詳細な経緯は省くとして、それがケニアジャイアントウデムシの死骸であることが判明し、ほどなく若葉芽衣がマンションの規則に違反して飼育していたということが発覚した。
 三〇四号室の事件については、三井寺が利御の説を一条に伝えたらしい。あの警部補が信じたかどうかは知らない。だが、お礼というわけではないだろうが捜査の進捗状況を三井寺に教えてくれたというから、ユニークな参考意見の提供ということで、多少は感謝しているのかもしれない。
 三井寺が聞いた話とここ最近の新聞記事やテレビのワイドショーを総合し、男の身元や、彼が五味悦子を執拗につけまわしていたこと――ストーカー行為というやつである――などが判った。五味悦子がアルバイトをしていたファーストフード店で、男は自分に向けられた悦子のスマイルを、何か別の意味と勘違いしてしまったらしい。よほど思いこみの強い性格なのだろう。日常生活にさしつかえがあるほどに。
 芽衣の部屋で壁に上ったウデムシ――ひだりん――が、わたしの背中にいつ移ったのかという問題に関しては、考えないでおくことにした。あの細長い脚を広げてわたしの背にぴたりと張りついているさまを思い浮かべるだけで、文字どおり、背筋が凍る。
 ウデムシを飼う独身美人OLの記事をなんとか脱稿し、写真とともに出版社へメールで送った。指定された締め切りを一日過ぎたあとだった。つまり、まったく問題はない。むしろ早いほうでさえある。
 ペットの飼育が、それも数多の毒虫がばれたとあっては、芽衣も引っ越しをしなければならないだろう。そしてウデムシを外に出してしまったのは、たとえ故意でないにせよ、わたしである。責任を感じている。
「まあ、不幸な事故ということで」
 ウデムシ発見の報を受けた彼女は、屈託なく言い放った。割り切った笑みである。だがそれはそれで問題かもしれない。ウデムシのおかげで人が死んでいるのだから。そして亡くなった女性の部屋へウデムシを運んでしまったのは、たとえ故意でないにせよ、わたしである。責任を感じている。
 ひと月後、わたしはB4サイズの茶封筒を小脇に、マンション・ローヤルを再訪した。三井寺の部屋で煙草を吸いコーヒーを飲む。コンポから流れる音楽はカノンであった。ジムノペディはやめたのかと訊くと、
「同じ曲を長々と一ヶ月も聴かないよ」
 と言われた。当然である。彼の中でサティのブームは終了したということだろう。
「環境音楽だからね。本気になって何遍も聴き入るのは、なんか違うでしょ」
 そう言う割合には随分と気に入っていたようではあったが。
 持参した封筒を開けて、本日発刊の雑誌を取り出した。もちろん、わたしの仕事が掲載されているものである。
「ほらよ、一応一冊渡しとく」
「わあいうれしいな」
 棒読みするみたいに言って受け取ると、三井寺は雑誌を床に置いた。きっと読まないだろう、こいつは。
 コーヒーを胃に収め、煙草を揉み消し、わたしは立ち上がった。じゃあな、と言って部屋を出る。
 エレベーターで上に向かった。封筒の中にはもう一冊入っている。
 ウデムシ発見をきっかけに、タランチュラ飼育までもが他の住人や管理人の知るところとなった若葉芽衣。彼女がその後どうなったかというと、
 実はまだ九階にいるのである。

                                                                          (了)



参考文献
 秋山智隆『毒虫の飼育・繁殖マニュアル』(データハウス)

 

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                                      8

「そ、そんな」
「そんな、なんだい?」
 うろたえるわたしをよそに、利御はあくびをかみ殺している。
「たかがウデムシ一匹で、とでも思っているのかい? 若葉さんのところでウデムシに近寄られて逃げたのは誰だい?」
「それとこれとは違う」
「そう、違うよ。下の階のほうが遙かにせっぱ詰まった状況と言えるね。男は五味さんを必死に組み伏せているとき、視界に侵入してくる虫に気づいたわけだ。今まで生きてきて、見たことも聞いたこともない虫をね。しかもそれは、とびきり奇怪な姿をしている。驚かないほうがどうかしている」
「それで、思わず力が抜けたと」
「そう。そして五味さんの反撃にあったというわけだよ。ウデムシの功績だね」
 しかし、その後、ウデムシは五味悦子にも被害をもたらすということか。
「警察が下の階に入った時点でウデムシが見あたらなかったということは、鑑識も調べていない家具の隙間に入りこんだか、あるいは――五味さんが穿いていたというチノパンの裾にでも入りこんだか」
「なんだって?」
「男と同様、初めて見る奇怪な虫が突然なんの予告もなしに裾から入り足首を這い上がってきたら、それは恐慌状態に陥るだろう。ましてや人をひとり殺害したあとだ。パニック状態となってしまった彼女は、手っ取り早く死体と虫から遠ざかるため、開いているヴェランダへ走った。冷房のない部屋だ。戸は開いていたと考えるのが妥当だね」
 それで、勢いあまって落ちたというのか。包丁を握ったまま。裸足で。そしてヴェランダには血の足跡がつく。
「ちょっと待てよ利御」
「なんだい? 別に急いではいないよ」
「どうしてウデムシは下の部屋――三〇四号室に現れたんだ?」
「三〇四号室に行ったからだろうね」
 説明になっていない。
「それだけじゃないぞ。九〇二号室から煙のように消えてしまったいきさつも不明のままだし。どうやって消えてどうやって現れたのか、ちゃんと解説してもらおうか」
 すると隣の三井寺が、
「面白いね、それ。虫の密室だ」
「密室?」
「うん、そうでしょ? 脱出経路が不明なのと、進入経路が不明なのと。ダブルで密室だね、虫にとっての」
 なるほど言われてみればそのとおりかもしれない。利御の言説が正しいとすれば、ウデムシは二重の密室を突破しなければいけなくなる。いくら薄っぺらい形状の虫一匹とはいえ、出入り不能であることに変わりはないのだから。
「そういうことだ利御。説明できるのか?」
「できなかったら、はじめからしていないだろう?」
「だったらさっさと――」
 わたしの次なる抗議の言葉を遮り、利御は続けた。
「下の部屋への進入経路? そんなものは明白だよ。四〇四号室、つまりこの部屋を経由したに決まっている」
「はあ?」
 意味が解らない。
「それはどういう――」
 またしてもわたしの言葉は阻まれ、
「台風の接近にともない、一昨日から風が強かったね。しかも四〇四号室と三〇四号室は、ともにガラス戸を開けていた」
「まさか――ここのヴェランダから下の階に落ちたと?」
「そのとおり。三井寺君の部屋からヴェランダに出たウデムシは、そこから下に落ちてしまったわけだ。もしかすると、排水用のパイプによじ登ろうとしたのかもしれない。ウデムシは樹上性だったね」
「そこを風に煽られて?」
「吹き込む強風によって、ウデムシの平べったい体は三〇四号室のヴェランダに舞い降りたというわけさ」
「そんなうまい話が」
「あったのだろうから仕方がない」
 コーヒーを飲み干した。テーブルの上で、空になったカップを意味もなくもてあそぶ。
 わたしはなおも噛みついた。
「証拠はあるのか? ウデムシがこの部屋に来たっていう証拠は。今までの話は、すべて、何から何まで、利御の想像にすぎないぞ」
「証拠なら、ほら、さっきの」
 利御がポケットからゴミを取り出した。つい先刻、廊下で拾っていたやつだ。長さ三センチほど、V字型に折れ曲がった細い焦げ茶色の物体である。微細な毛のようなものが飛び出しているのが見てとれた。
「なんだ、それ」
「脚だよ脚。クロゴキブリの」
「ゴキブリぃ?」
 そんなものを拾ってどうしようというのだ。
「忘れたのかい霜月君。ウデムシは肉食だよ。他の虫を捕食して生きている」
 そういえば、コオロギを餌として与えていると芽衣が教えてくれた。
「三井寺君によると、この部屋にゴキブリ以外の虫は普段現れていないということだね。つまり、ゴキブリを捕食するムカデやクモ、ゲジのたぐいはいない。そしてゴキブリの脚だけが落ちていたということは――」
「ウデムシに食べられた?」
「そういうことになるね。しかも掃除をしたのが四日前ということは、ここでゴキブリが捕食されたのはごく最近ということになる。つまりウデムシによる可能性が高い」
 利御はゴキブリの脚をまたポケットにしまった。そんなもの何に使うのだろう。
「この仮説が正しいとするなら、五味さんの足によじ登ったウデムシは今ごろマンションの外、ひょっとしたら死体と一緒に運ばれてしまったかもしれないね。たとえその前に彼女の裾から這い出したとしても――残念ながらこの大雨にやられてしまっている可能性は高い」
 そう言って軽く首を振った。芽衣もそうだが、この男も、他人の死よりウデムシの死を嘆く傾向にあるようだ。
 感慨にふける利御に対し、わたしは、
「ちょっと待てよ利御」
「だから別に急がないよ。なんだい?」
「納得がいかないな。ここにウデムシがいたとして、ゴキブリが喰われたとして、それが三井寺の気づかないうちにヴェランダに出たとして、そして下の部屋に侵入して騒動を起こしたとして――それ以前のウデムシの行動について説明がないぞ。逃げだしたのは九〇二号室。そしてここは四〇四号室。ウデムシにとってはとてつもない長旅じゃないか。どうやってそんなことができたんだ? まさか、九階から排水パイプを伝って下りてきたなんて言うつもりじゃないだろうな。それにもうひとつの密室――こっちは脱出方法だな――それについてはまだ何も判ってないじゃないか」
「あれ? 判らないのかい霜月君?」
「判らないから訊いてる」
「若葉さんのヴェランダから外に出た可能性はないし、たとえ出られたとしても風に吹き飛ばされてしまう。風に運ばれてこの部屋までやってくるというのは都合がよすぎるし、ほとんど不可能に近い。それに万一ヴェランダからここに入りこんだのだとしたら、いったん廊下まで行って食事をしてから戻ってくるというのも考えにくいね」
 なぜか意地悪そうに笑みを浮かべ、わたしを見つめた。
「つまり簡単なことだよ。ウデムシはマンションの中を移動してきたわけだね。だけどこの距離を歩いてきたわけではない。階段を一段一段下りてきたわけでもない。そう、もちろんエレベーターを使ったわけだ」
「莫迦言え。虫がエレベーターを操作するわけないだろう」
「人を莫迦呼ばわりする前に、我が身を省みることも重要だよ霜月君。人生、ときには振り返って後ろを見てみることも大切だね」
 いっそう笑みを深める。気持ち悪いやつだ。
「ウデムシがエレベーターを動かせるわけがない。もちろん動かしたのは人間だよ。その人間はウデムシのいた部屋を出たあと廊下を歩き、エレベーターに乗り、四階へ来て、この部屋を訪れた」
「あ?」
「ウデムシは、その人物と一緒にこの部屋にお邪魔したわけだ」
「え」
 その人間というのは、まさか。
「霜月君」
 利御の笑いの意味が解った。つまり、これは、そういうことなのだ。
「ウデムシは君の背中に張りついていたんだよ」

 

第9回

 

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                                      7

 三井寺の部屋で一夜を明かしてしまった。不思議なことに、まったく仕事は進んでいない。わたしと同じ外見をしていて鼻の赤いロボットがひとつ欲しいところである。
 なぜか三井寺は、自分のベッドをわたしに提供してくれた。いくら遠慮をしても、自分は床に寝ると言って聞かなかった。真意を測りかねつつも、弾力のあるベッドをありがたく使わせてもらうことにした。
 起きると同時に流し始めたジムノペディが、オートリバースで幾度も繰り返される。昨日からずっとこれである。いい加減、耳について離れない。
 台風は本格的に猛威を振るっていた。吹き込む雨がヴェランダを水浸しにし、ダンボールをふやけさせている。テレビの気象情報で台風の進路予想図を眺めながら、トーストにマーマレードを載せて咀嚼した。三井寺の煎れてくれたコーヒーはなかなかの美味であり、わたしは砂糖とミルクをたっぷりと溶かしこんでから頂戴した。
「不純物を入れるなんて邪道だ」
 と批判されたので地獄突きをお見舞いした。ブッチャーの得意技である。三井寺には喉仏が出ていないことに気づいた。
 ポケットの中で携帯電話がアラームを鳴らす。メールの着信である。利御からで、「ウデムシサガスヨ」とあった。どうやら解放してはくれないらしい。まあ、わたしとしても、芽衣に対して取材のお礼はしなければなるまい。
 セブンスターを一服してから三井寺の部屋を去り、九階へ向かった。

 四階へ戻ってきた。黒服をつれて。
 到着した利御に、芽衣の部屋で事件のことを話した。最初は気のなさそうにぼんやりと聞いていた利御であったが、次第に興味を示し、最終的には、
「よし、それでは三井寺君の部屋へお邪魔することにしよう」
 などと言い出す始末。
 横からおずおずと芽衣が、
「あのう、ひだりんの捜索は忘れてませんよね?」
「それはもちろんですよ。僕らの目的は、まさにそれです。――さあ霜月君、三井寺君の部屋へ案内してくれたまえ」
「関係あるのか、三井寺が。何を根拠に」
「行ってみないと判らないよ。それに、現在まったく手がかりがない状態じゃないか。今のところ、有力な情報はそれひとつだけだ」
 わけも判らぬまま強引に押し切られ、わたしは利御を連れてエレベーターに乗った。
 銜え煙草で三井寺が姿を見せた。
「忘れ物?」
「いや。また遊びに来た」
「ああそう」
 三井寺は利御を認めると、軽く頭を下げた。そしてドアを大きく開け、我々を招き入れる。相変わらずサティの流れる室内は、やけに蒸し暑く感じられた。
 利御が部屋に入ってこないので振り返ってみると、黒服は廊下の真ん中にうずくまるようにして片膝をついていた。両手をつき、コンタクトレンズでも探すかのように床を見つめているが、彼はコンタクトではなく眼鏡を愛用している。
「どうした?」
 と訊いたが無視されたので、こちらも無視することにしよう――と思ったが、やはり多少気にはなる。
 利御の指が何かを摘んだ。よく判らないが、細く小さいゴミのように見える。
「なんだ、それ」
 と訊いたが、利御は無言で拾ったものを凝視している。やがてわたしの質問に答える代わりに、
「三井寺君、最後に掃除したのはいつだい?」
「掃除? えーと、ついこないだ。四日前かな」
「この廊下も掃除した?」
「うん」
「念入りに?」
「掃除機かけたよ。ついでに水拭きもした」
「ゴキブリはよく出るかい?」
「え? ――まあ、頻繁にってほどじゃないけど。滅多にってわけでもないかな」
「特に今くらいの時季は」
「そうだね、夏に入ってからはちらほらと。――なんなの、唐突に?」
「ゴキブリ以外には?」
「は? うーん、あんま見ないかな。蠅とか蛾とか」
「もっと大きなサイズでは?」
「いや、見たことないけど。――だからなんなの?」
 すると利御は微かに口元を歪ませ、なるほど、なるほど、と呟いた。やはり三井寺の疑問にも答えるつもりはないらしい。自分勝手なやつである。今に始まったことではないのだが。
 つまみ上げたゴミをジャケットのポケットに入れると、利御は三井寺の部屋に入ってきた。ヴェランダの戸を開け、外に出てみたりしてみる。雨が吹き込んで大迷惑である。だがそんなことは意に介さず、自分が濡れるのもかまわず、手摺りをつかんで下を覗き込む。
「何やってんの?」
 三井寺がわたしに尋ねてきた。
「知るか」
 わたしに訊かないでほしい。
「だって、相方でしょ」
「誰が」
「霜月さん」
「誰の」
「庵さん」
 いつからそういうことになってしまったのだろう。わたしは黒い背中を見つめる。ここで利御の背を押したら、彼は真っ逆さまに落ちてしまうのかなと、ふと思った。
 するうち利御が戻り、眼鏡のレンズについた雨粒をハンカチで拭いながら、
「下の部屋も、ここと同じくエアコンの設備はないのかい?」
「うん、そう言ってたよ、刑事さんは」
「なるほどね」
 眼鏡をかけなおすと利御は、
「どうやら下の事件に説明がつけられそうだよ」
 などと言った。

 風雨はいちだんと激しさを強め、外は昼だというのに暗い。穏やかな音楽が流れ、蛍光灯のつけられた室内とは対照的である。
 利御はまず、ずうずうしくも一杯のコーヒーを所望した。三井寺君のコーヒーは格別だね、などと心にもないことを言いながら啜る。砂糖を大量に溶かしてからでは、言葉に信憑性がない。そして唐突に語り始めた。
「言うまでもなく僕は階下の五味悦子嬢とはまったく面識がないわけで、すべては三井寺君が一条警部補から聞き出した情報だけが拠りどころとなっている。つまり、多少事実と食い違う点も見られるかもしれないが、そんなことは些末なものにすぎないよ。そもそもどうして無関係とも思える殺人事件のことなど話すのかといえば、事件の解決に貢献したいからではなく、行方不明者の足取りを追うためだからね」
「行方不明者?」
「もう忘れてしまったのかい霜月君。意外に薄情だね。ウデムシだよウデムシ。ひだりん氏だね」
 虫にミスターをつけて呼ぶやつなど初めて見た。最初で最後であることを祈る。
 わたしの横では三井寺が、話が見えずに首を傾けている。
「ウデムシ? ヒダリンシ?」
 利御がわたしに目配せをしたので、三井寺にこれまでのいきさつを説明してやらなければならなかった。
「へえ、上にそんな人が。でもここって確か、ペット厳禁だったような」
 開いた口がふさがらない。「禁止」どころではない「厳禁」なのだ。ただでさえ厳しく禁じられているというのに、芽衣はおよそ一般的とは言いがたい有毒の生き物を、しかも複数飼育している。これは問題である。ウデムシが他人に発見でもされたら、さらに問題である。恐ろしい女だ。
 彼女のことは他言無用だと釘を刺しながら、雑誌の原稿も匿名性に関しては気をつけて書かなければならないなと考えていた。芽衣の容姿との落差が面白みのひとつであったのだが、彼女の顔写真は控えたほうがいいだろうか。
「で、本当なのかそれは? ウデムシの行方が判るってのは」
「さて。断言はしかねるね。だが少なくとも手がかりにはなるだろうし、それにこれだけは言えるけど、階下の事件にはウデムシが深く関わっているよ」
「まさか」
「いや本当に」
 コーヒーを啜る。猫舌らしく、だましだまし口に含んでは舐めていった。
「そう考えれば丸く収まるよ。最も蓋然性の高い解釈、それがウデムシの事件への関与なんだ」
「まさか」
「いや本当に」
「確証はあるのか」
「微妙なところかな」
「なんだよ、それは」
 利御にしては歯切れが悪いなと思いつつ。
「とにかく説明してくれよ」
「ああ、そのつもりだよ」
「手短に頼むぞ」
 この男の長々と回りくどい、もったいぶった語り口調には、わたしでなくともストレスを溜めてしまうだろう。
 利御は眼鏡を中指で押し上げ、
「解ったよ。君がそう言うのなら、手短にまとめることにしようか」
 そして頭の中で考えを整理するかのように黙りこむと、やおら手元のカップを見つめながら、ぼそぼそと語りだした。
「昨夜――目的は不明だがおそらくは五味さんに不埒な行為でも働こうとしたのだろう、男は宅配員を装って彼女の部屋に入りこみ、そして五味さんとの乱闘になったわけだ。部屋は荒らされ、小物が散乱する。屈強な男に小柄な五味さんがかなうはずもなく、いとも簡単に床に組み伏せられてしまう。しかしそこで、あることをきっかけに男がひるみ、抑えていた腕の力が抜けてしまった。彼女はそれを見逃さず、とっさにつかんだシャープペンシルを無我夢中で突き出した。それは男の左目に刺さり、彼は激痛と驚愕のため五味さんの身体から離れる。その隙に逃げだし、彼女は武器を求めてキッチンへ向かった。どこの家にある最も強力な武器といったら包丁だね。それを手にして引き返し、痛がる男の腹を刺した。何度も刺して男の動きが止まると、ようやく我に返った五味さんは、自分がとんでもないことをしでかしてしまったことに呆然と立ちつくす。男の身体からは血が流れ出し、床に溜まっていく。そのとき彼女は、先ほど男の力を緩めさせた存在に気づいてしまう。精神不安定であるうえに恐慌状態に陥り、彼女は一目散に外へ逃げだそうとヴェランダへ向かったわけだ。そして勢いあまって落下した。以上」
 再びコーヒーを啜りだす。
 わたしは三井寺とともにぽかんとした表情をしていたが、やがてすぐに抗議の声を発した。
「以上、って。なんの説明にもなってないじゃないか」
「ちゃんと聞いていた?」
「当たり前だろう。だいたい、なんだよいったい。その、男が力を緩めたきっかけとか、五味さんが逃げだした理由とか――」
「――まさか」
 横から三井寺が口を挟む。
「それがウデムシってやつ?」
「最初からそう言ってるじゃないか。ウデムシが深く関わっているって」
 つまらなそうに利御はため息をついた。
「下の階でふたりが目撃して、結果、一見奇妙とも思える状況を作りだしたものの正体は、若葉さんのところから逃げだしたウデムシなんだよ」

 

第8回

 

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                                      6

 ブレードランナーのテーマがしつこく鳴り続け、それで目を覚ました。わたしの携帯電話の着信メロディである。
 外がまだ暗いので深夜かなと思ったが、曇り空の早朝であった。だがわたしのように正午起床が日常となっている人間にとっては、健全な人々にとっての深夜と変わりがない。
 無視して目をつぶっていたが、いつまで経っても収まらない。いるのは判っているぞとでも言いたげだ。ディスプレイを見れば庵利御の名前が表示されていて、わたしの心は空よりも暗澹たる風情を醸し出す。
「はい――もしもし?」
「電話を受けたほうが『もしもし』と応えるのは正しくないな。この言葉は申し上げるという意であり――」
「なんの用だ?」
「人の話は最後まで拝聴するものだよ霜月君。特に君のように不安定な自由業者の場合、仕事がもらえるか否かという――」
「用がないなら切るぞ」
「人の話は最後まで静聴するものだよ霜月君。明け方のクマゼミだってもうちょっと落ちついて――」
 意味不明すぎるので切った。
 直後にまたかかってきた。
「なんだ利御しつこいぞ」
「寝起きは不機嫌だね霜月君。まあいい。若葉芽衣嬢から連絡があってね、すぐ来てほしいんだそうだ」
「なんでまた」
「君に会いたいらしいね」
「なんでまた」
「君の力が欲しいそうだ」
「なんでまた」
「嬉しいかい? 頼りにされて」
「別に」
 ちょっとだけ嬉しかったことは秘密である。
「詳しい話は彼女の部屋でするそうだよ、まあ、せいぜい頑張りなさい」
 わたしは身支度を整えた。

 来なければよかった。
 よく解らないが、マンションの駐車場には何台ものパトカーが並び、制服警官や鑑識員がたむろし、周囲には野次馬たちがごったがえしていた。なんでも飛び降り自殺らしいが、おかげでわたしはいったん引き返し、有料駐車場にワンボックスを置いてくるはめになった。そこからマンションまで早足で十分。いい運動になった、などとは思えない。
 下界では死人が出て大騒ぎだというのに、芽衣の部屋に到着して彼女から聞かされた、わたしを召喚した目的というのが、人を食ったような話で――。
「ひだりんがいなくなったんです」
 ひだりんとは無論、昨日わたしに向かって突進してきたウデムシのことである。なんでも脱走してしまったらしい。しかもケージからの逃亡という意味ではなく、彼女の部屋――九〇二号室から。
「昨日の夜に庵さんが帰られて、そのあとで気がついたんですけど……」
 顔を曇らせ芽衣が言った。
「――そういうわけで君も捜索に協力してくれるね霜月君」
 とは先に到着していた利御の言葉である。有無を言わさぬ口調で。
 どうしてわたしが――と言いかけたが、言葉を呑み込み、可能な限りの笑顔で応えてあげた。考えてもみれば昨日の取材は芽衣の好意によるものだし、これくらいのお返しは当然だろうという、しごく常識的な良識がわたしに芽生えたからであった。決して彼女が魅力的な女性だったからではない。――少なくともそれだけが理由ではない。
「お願いします、霜月さん。うるうる」
 うるうるとは落涙の擬音語あるいは擬態語なのであろう。芽衣はまったく泣いてなどいなかったが、気持ちは充分に伝わった。あんな奇怪きわまりない醜悪な蟲が善良な一般市民にでも発見されようものなら、大パニックになることうけあいである。そのような不幸な犠牲者を出さないためにも、ひとりでも多くの協力を必要としているのだ、彼女は。なかなか心の清らかな女性である。
「ここのマンション、ペット禁止なんです。あれが見つかったらバレちゃうかもしれないんです」
 なるほど、よく解った。色々と。
 まずは逃走経路を探してみることにした。ヴェランダの戸は常に閉めきられているし、玄関のドアもしかり。誰かが出入りするさいに足元を這い出したとしても、気づかないなどということはあるまい。靴を脱いだり履いたりする場所である。厭でも足元に目が行く。
 あとはキッチンやバスルームの排水口に入りこんだという可能性だが、これも否定される。昨夜のうちに芽衣がしつこいほど中を調べているという。用を足した折、一緒にトイレに流されてしまったということもない。
 単に見あたらないというだけであって、ケージや家具の裏側に隠れているのではないかと指摘してもみたが、これについても答えは否であった。わたしに言われるまでもなく調査済みということだ。
 さてそうすると、ここにひとつの謎が残される。問題のウデムシひだりんは、いかにしてこの密室状況から煙のごとく消えうせたのか。そして今、どこでどうしているのか。部屋の中にいないとなると、雲をつかむような話ではある。たかだか四、五センチの平べったい虫を探すなんて。とりあえず同じフロアの廊下を見て回り、見つからなければ他の階を、それこそマンション中を見て回る覚悟でいこうかと思った矢先、携帯電話が音を鳴らした。三井寺からだ。
「霜月さん、殺人事件だよ殺人事件。惨殺死体猟奇死体」
 藪から棒にセンスのないユーモアである。こちらは、そんなことにつきあっていられる状態ではないのだ。
「本当だってば。うちのマンションで」
 お前のマンションなど関係ない――と言いかけ、それはここのことではないかと気がついた。マンション・ローヤル。
「俺の下の部屋で」
 先ほどマンションの表に警察が集まっている本当の理由を知り、そしてそこいらじゅうに野次馬たちがたむろすることによってウデムシの捜索どころではないと悟り、わたしは眉をひそめた。
 わたしが三井寺の話を芽衣と利御に伝えると、ふたりは納得したように頷いた。芽衣はヴェランダへ出て、駐車場を見下ろしている。
「ひだりん大丈夫かな」
 そう呟く彼女にとっては、同じ建物で人間が殺されたことよりも、行方知れずの虫のほうが遙かに重要なのだろう。
 結局夕刻までわたしたちは芽衣の部屋で漫然とすごし、彼女の茹でてくれたパスタをタランチュラに囲まれながら食し、ただ時間を潰した。締め切りが迫っているというのに。
 来なければよかった。

 夜になった。三井寺はショートホープを銜えてベッドに腰かける。BGMはやはりジムノペディである。最近お気に入りなのだそうだ。
 開かれたガラス戸から夜風が吹き込む。雨が降りだしたため、湿った空気だ。しかし涼しげなので心地よい。網戸も全開なのだが、蚊は入ってこなかった。三井寺が言うには、このあたりは夜になるとコウモリたくさん飛び回るのだそうだ。ゆえに蚊は捕食され、数を制限されている。
 事件のあった部屋の真上に住んでいるということで、昼間は警察の事情聴取があったという。昨夜――どうやら死亡推定時刻は午後九時から十一時の間らしい――何か物音を聞かなかったかとか、不審な人物を見かけなかったかとか、そういうことだ。部屋を出ずに大音量で音楽をかけていた三井寺の答えは、両方とも否である。ヴェランダから外を見下ろすこともしていない。
 三井寺への質問自体はすぐに終わったのだが、今度は逆に彼が刑事に質問を浴びせかけた。この図々しさにも恐れ入るが、概要とはいえ事件の話を色々と聞き出すことに成功したというのだからあきれる。三井寺のみならず、口の軽い警察にもあきれる。
 だがこれにはちょっとした理由がある。というのも、事情聴取にやってきた警察官というのが、三井寺と顔見知りだったのだ。一条という警部補と、その部下の小紫刑事。もちろん顔見知りとはいえ、さほど親しい間柄ではなく、それだけでは理由にならない。一条の口を柔軟にした要因として挙げられることは、事件の不可解な特徴にある。ふたりの男女――調査の結果、ふたりに交友はなく、まったくの他人同士であったらしい――がほぼ同時に命を落とし、しかも大柄な男のほうが小柄な女に打ち負かされているという状況。さらに女性の自殺あるいは事故死。得心のいく説明がなかなかつけられず、難儀しているらしい。
 そしてこれはわたしの邪推なのだが、一条は三井寺がわたしと親しいということを知っている。同時に、わたしが利御と友人であるということも知っている。加えて、一条は利御のことを若干ではあるだろうが評価している――のではないだろうか。利御は以前、一条の担当した事件の解決に一役買っている。もしかすると、利御の独創的な発想あるいは突飛な妄想に、ほんの少しだけ期待しているのかもしれない。
 だから、この飄々とした大学生風情に事件のあらましを教えたという可能性もなくはない。未成年であるのに、煙草の臭いが染みついた部屋で暮らす、この男に。
 念のため、一条はどんな様子だったかを訊いてみた。わずかでも期待のこもった目をしていたかもしれない。
「眠そうだったよ」
 というのが三井寺の答えである。
 雨が一段と激しさを増してきたものだから、さすがに戸を閉めた。三井寺はベッドの上であぐらをかき、裸足を無意識に撫でていた。

 

第7回

 

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