昨日、細川亮さんとお話ししました。
亮さんは視覚障害をお持ちです。
先日、亮さんのFacebookの投稿「視覚障害になりたくてなりました」という言葉を目にした瞬間、どうしても直接お話を伺いたくなり、すぐに連絡を取りました。
亮さんは左目が全盲、右目も視野に欠損があります。それでも、家の中ではまったく不自由を感じず、外に出ると少し困ることがある程度だそうです。
お話を聞きながら、私はふと考えました。
人が空を飛べないことを障害とは思いません。飛べないのが当たり前だから。
歩けないことを障害と感じるのは、「歩けるのが当たり前」という前提があるからではないでしょうか。
鳥にも、空を自由に飛ぶ鳥、飛べないけれど走るのが得意な鳥、泳ぎが上手な鳥がいます。
「出来ないこと=障害」という決めつけは、もしかしたら社会の側の価値観なのかもしれません。
「目が見えないのはかわいそう」
「目が見えないから仕事はできない」
そんな思い込みが、本人以上に生きづらさをつくってしまう。
そして私は、自分自身のことを思いました。
幼少期から生きづらさを感じ、「自分には生きる価値がない」と思っていた時期があります。
それは、私にとって“心の障害”でした。
亮さんは身体の障害。私は心の障害。
もしかすると、誰しも何らかの形で障害を持っているのかもしれません。
そして気づきました。
心の障害があったからこそ、今の私の活動に繋がっています。
亮さんも、視覚障害があるからこそ、伝えられることがあるのだと思います。
亮さんは言います。
「障害があっても、楽しめるし、夢を叶えることもできる。私は、障害のない社会をつくりたい」
そして私も思うのです。
障害は、障害ではなく“可能性”なのだと。
現在、亮さんは、9月20日の講演会に向けて「壁打ち相手」を募集中です。
興味のある方は、ぜひMessengerでご連絡くださいね。