研修医の頃、患者さんが亡くなるたびに、私は泣いていました。
けれど、涙に浸っている時間はありませんでした。
次から次へと新しい患者さんが入院し、毎日がめまぐるしく過ぎていく。
立ち止まる余裕なんてなかったのです。
そんな日々の中で、いつしか私は「割り切る」という術を覚えました。
感情移入しすぎないように、心に線を引く。
時には、患者さんを“モノ”のように感じてしまうこともありました。
そうでもしないと、自分の心がもたなかったのです。
私たち夫婦は、共に医師です。
長女は現在医学生。
ゴールデンウィークに家族で義理の両親を訪ねました。
義父は寝たきりで会話もできません。胃ろうで栄養を摂っている状態です。
離れて暮らしている長女は
久しぶりに義父の姿を見て、静かに涙をこぼしていました。
昨日、その出来事について主人と次女と3人で話しました。
「長女は、医者としてやっていけるのだろうか?」
主人はつぶやきました。
でも私も研修医の頃は、患者さんの死に涙していました。
それが自然だったし、心が動くことに蓋をする術をまだ知らなかったからです。
一方で、夫は「一度も泣いたことがない」と言います。
どうして?と尋ねると、
「線を引いてるから。距離を置いてるんだ」と。
けれど、「泣くから良い」「泣かないから悪い」という話ではありません。
人それぞれ、命との向き合い方があるのです。
夫が語った言葉が印象に残っています。
「昔は家で家族を看取るのが当たり前だった。死はもっと身近にあった。
自分も小学生の頃、祖父母が亡くなり、お葬式にもちゃんと出たよ」と。
今は、多くの人が病院で最期を迎える時代です。
子どもたちは「死」という現実に触れる機会がどんどん減っています。
“生きていること”は、本来当たり前ではありません。
けれど、それを本当の意味で理解するのは、言葉だけでは難しい。
体験して、目で見て、心で感じて、ようやくわかるものなのかもしれません。
命に触れることで、私たちは命の重さを知る。
そしてその一歩は、時に、静かに流れる涙から始まるのかもしれません。