週末、義母が入院している倉敷の病院へ行ってきました。
3週間前、義母は誤嚥性肺炎で入院していました。

先日、主治医から連絡があり、
入院時から食欲がなく、嚥下反射(飲み込む力)も弱いため、

経口摂取(口から食べる)では誤嚥性肺炎を繰り返してしまいます。
・点滴だけでよいか
・経鼻栄養をするか
・胃瘻を造設するか
どうされますかと。


医療の現場では、こうした選択をしないといけない場面があります。
ですが、今回は家族の立場・・・
本人の意思とは関係なく、家族が“命の選択”をしないといけない。


・点滴だけでは十分な栄養がないため、いずれ死に至ります。
・経鼻栄養は、鼻からチューブを胃に入れ、栄養剤を入れます。

欠点として、義母は認知症があるため抜いてしまったら、

医療行為になるため施設では再挿入できない(=施設に帰れない)。
・胃瘻造設は、腹壁から胃に穴を開け、胃に直接栄養剤を入れることができます。

手術が必要だけど、施設に帰ることができます。


義母は数年前に腎臓を患い透析をしており、認知症も進んでいます。
現在はサービス付き高齢者向け住宅に義父と共に入所しています。


入院時、血液中の酸素濃度は85%(正常97~100%)、

CRP(炎症反応)は30(正常は0)でかなり重症でした。

 

私たちは愛媛ですが、義母は岡山に住んでおり、

主人や子供が代わる代わる見舞いに行きましたが、

意識はもうろうとし、会話も少なく快方に向かっているようにはみえませんでした。

 

 

主人は「もう年だし、このまま逝かせた方が良いのではないか・・・」




日本では、国民皆保険のお陰でこうした医療行為を受けることができます。
輸液、経鼻栄養、胃瘻からの経腸栄養など。


海外では、簡単には受けることができません。受けることができても高額です。
イギリスでは、65歳以上は抗がん剤を使用することができません。

国で決められているのです。簡単に医療行為が受けられない。

だから予防医療が発達しているのです。

日本では簡単に医療行為を受けられる反面、寝たきりの方が増えている現状があります。



本人にとって生きている意味はあるのだろうか?

心臓が動いて体の機能が働いていたら生きているといえるのだろうか?
生産性がいないと生きている意味がないのだろうか?
本当に生きている意味がないのだろうか?


家族にとっては両親が肉体を持って存在してくれることに意味があるのではないだろうか?
たとえ体が動かなくても、たとえ話ができなくても、

遠く離れていても存在してくれるだけで、何か心の支えになっている気がします。

 

 


私は、「とりあえず会いに行って病状の確認をしましょう。
結論を出すのはそれからでも遅くないんじゃない?」と主人に言いました。


病院へ行って、画像と検査結果をみせてもらったところ、肺炎は良くなっていました。
意識もしっかりしており、会いに行くと「あら、徳子さん」と私のことは覚えていましたが、
主人(息子)は亡くなった弟と間違えてました。

帰りに胃瘻造設してもらうように主治医にお願いしました。
 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
愛媛県松山市在住

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。