ねこねこにゃんにゃん I LOVE DOG!!!

ねこねこにゃんにゃん I LOVE DOG!!!

適当にぐだぐだと

妄想を垂れ流す

アニメ呪術廻戦が佳境?というか、宿儺が大量虐殺&ナナミンが呪詛をかける、というシーンで、虎杖にかけられた言葉の数々が呪いとして機能していくのを見て、改めて日常の言葉や行いは須く呪いとして機能しうるなぁということを感じた


自分で言うのもなんだが、俺の行いなんか怨霊そのもので中学の半ば逆恨みを苛烈させてここに至るのだから、もはや呪霊認定されてもおかしくはないなと思う

だからといって自分で祓えるものではないのだからどうにもならない話だなと感じた


中学というか、俺の一方的な認識では小学生から知っている友達に会って、久しぶりに飲んだら、幼馴染だと思ってるよー、と何の気なしに言われて、なんだか嬉しくなった


ふと振り返ってみて、中高の部活は最終的に1人になり、大学の陸上部は途中で抜けて、人数不足のラグビー部に入り、後輩を亡くした

今思えばずっと1人に近い状態で過ごしてきており、自分の選民思想めいた、途中で部活辞めていった同級生達に対する怨嗟や呪詛の類は、自分の精神の保持のためだったなと分かる


どんどん友達が消えていき、俺が悪いのやら環境が悪いのやら分からず、どうしたって友達を攻撃するしかなかったんだなという解釈もある


友達を自分で選んだように思うことで、自分の友達がいないことを正当化していたように感じる

もちろん友達がいないということではなく、今も大学や高校の友達と飲んだりはする

だからと言って改めて俺たち友達だよななんて確認するわけでもないので、改めて幼馴染というか、友達というか、というのを言ってくれたのが嬉しかったんだろう


心が動く瞬間はある少ないとは思うが、少なくとも俺はこれでなんとなく動いていて、呪いも祓えていればいいな、となんとなく思う



さて、1年以上ブログを更新しなかった

そもそもブログというよりもほぼ個人(読者想定2)宛の嫌味みたいな使い方をしており、その読者も更新しないわそもそも連絡しないわなので、意味もない

が、そうは言ってもそれを理由に止めるのもおかしかろうということで書き始めた


そんなわけで自分の反省をする

上で呪い云々書いておいてなんだが、これは癖であり習慣であり思考様式であり病気なので、現実的に誰にも見向きされなくなるまで続くと思う

根治寛解は相当難しい

が、病気であり癖なのであれば対処のしようもある気はしている

実際、会う段、飲む段、帰る段になって、いや良くねーなと思って帰ることもザラだった

いや、会おうとするなという話なわけだが、問題はここだと感じている


要は、他に居心地のいい何者かがいるorいるかもしれない探すor接触する、が問題で、

他の何者かがいない状態なら問題ない


じゃあこの状態にするために何をすればいいか?なのだが、極端な話束縛だろう

途中段階で、居場所の共有や連絡手段の検閲が入った時期があったが、あれは極めて有効だった

物理的に遮断されている

まぁ、この方法は検閲側に負担があるので、俺自身で解決できないため、却下なのだが、今後そういうことがあればこれを推奨したい


じゃあ非物理的な方法になるわけだが、これはまぁなんともいえない話だ

こういう顛末になる前に、障害となりうる事項を列挙して、それが全て解消すればいいだろうと言われて、返す言葉はなかった

全て直されるなら、どうもこうもなく、覆水盆に返らずのゴリ押ししかなかった

その結果が今なわけで、もし全て直っているなら俺の頭が悪すぎるということで、降伏するしかない


一つ思いついたのは俺の世界をこの輪で完結させる、ということだが、なんかもう長いので次にする

どうで如何ともし難いなことをなんともかんとも言われるので疲れてしまった
およそ非は認めると言いながら、やれ足りなかっただのやれ聞いていないだの言われるので、結局のところは認めていない

ただ、それも裏返しであって、俺も非を認めはしないし、更生するつもりもなければ、更生できる気もしないという始末である

こうなってくるともはや意地の張り合いというか、未来への希望を提示する側が俄然建設的であり、俺が後ろ向きであり、誤っており云々ということになる

そんなこんなで生みの親に俺の不始末をどうでこうでと喧伝されることになるわけだが、それがどうしたという気にもなる
型にはめて云々もそうだが、周りに言われてどうこうでもなく、己が心に従うのみである
他人の意見を聞くと言えば聞こえはいいが、都合良い意見に寄り添いたいとも聞こえる話だ

結局のところ、俺の根底にあるのは自由になりたいというか、人生の厄介者をどうにかして排除したいという気持ちであって、人生の厄介者とどうしたいという話ではない
この厄介者がどう努力したところで、俺の自由には干渉するわけだから、何のお話にもならない
存在自体が支障になる

当人もどうせ気づきはしないが、根本にある問題は自分がどうなれば他人が変わるかでものを考えている点である
また、他人の問題に干渉しようとしたがることである
どうしたって自分は自分で変えるものであって、他人にどうこうということはない
仮にあったとして一過性のことであり、あまり気にしても仕方ないことである

好き嫌いでないからと言って、自分に不愉快な人間と常にいる必要はない
娘息子であればともかく、およそ他人同士なのだからどうにでなる
そういう突き放した態度を取れるようにならない限り、こちらがどうもこうもないのだが、およそこうした想いは届かない

この手のやりとりはずっとしてきた
泣いて喚いて愚図れるのをこういう時は羨ましいと思う
相手の様を見てどうにもみっともなく思い、こちらが折れるのだ
どうせきっとこちらが手折られるのだろうと思いつつも、どうか理解いただけないかと思いながら生きる

jtか何かだったと思うがいい言葉と思う
人の時、人の一生
そういうものに目を向けた時に解釈や理解の及ばぬ名状し難いものにぶち当たる

自宅待機というか自粛というかで暇で仕方がなかったので自作ラーメンに邁進した
ラーメンに限らず、自炊の腕を磨こうと思い立つ

本やYouTubeで見ていると、次第に自分の手の届かない高級な料理を食べてみたいと思うようになる

不思議なもので、ほとんど毎日のようにふざけた高級コース料理を食い散らかす御仁がSNSには跋扈している
なんとなくフォローしては高級そうな料理を見る

曰く寿司業界はインフレ状態だそうで、手を替え品を替え新たな寿司店舗が乱立しており、立地や価格帯による篩がうまく効いていないようで、舌も耳も心も肥えた御仁にしてもハズレに当たることがあるようだ

中でも面白かったレビューは、ついぞ品の値段に言及し、いかに高級な品を高級な技で仕上げ、店での食事の高級さを滔々と説明され、どうにも嫌気がさしたという話だ
それが本当かどうかは知らないし、いわゆる情報リテラシーを効かせれば、おそらく初手の不快な思いが全体に影響しているとも読める
が、どうせ行くこともなければ、このレビューで俺の人生が変わることもないのだから、その確からしさよりも、さもありなんと思う自身の実感の方がよほど大事である


ゴッホ展が東京都美術館でやっていたので見に行った
絵の知識なぞまるでないので、なるほど立派な絵だと思っても、その絵に潜む技術技法、あるいは塗料の豪奢なぞ解ったものではない

もっともらしい解説文も展示と並んではいるものの、やれ晩年の作だの、やれ療養中の絵だのと言われたところで、はぁそうなのか知らんと言った調子で、およそ自分の理解には役に立たなかった

それでも絵の凄みというのは伝わるもので、ろくに解説も読まなければ年表も読まなかったが、夜のプロバァンスの田舎道や療養院の庭の小道などは特に惹きつけられずにはいられなかった

絵に潜むテーマや使われた技法、塗料のなんたるかを知らずとも心惹かれるものはある

およそ美術品にしても食事にしても理解や感動というのはそういうように体験されるもので、食事の仕入れ価格や技法を語られたところでそれが理解や感動の助けにはならない

むしろ逆で、作品を目の前にして心を惹かれ、そこに潜む人間や過程に想いを馳せることが楽しみ方と思う

美術品を並べて、そこに書かれた解説をありがたがって、絵の方はふぅんこんなものかと言ったそぶりで歩く人を見て、そんなことを思った


比類なき名文というものがあるのかは知らないが、自分の好きな小説を10あげるなら、中島敦の弟子と夏目漱石の夢十夜、芥川龍之介の鼻は間違いなく入るだろう

そんなことを言うから、弟子を読んだやつに、何が面白いか分からない、と言われて困った
俺の好きであって、人の好きではないので、面白いか分からないと言われれば、そうですかとしか言われようがない
すると、お前は何が良かったのだ?と聞かれるのだが、およそこういう質問ほど答えにくいものはない

論語にしても弟子にしても、何か痛快な答えが得られるような読み物ではないので、そういうところに得心がいかぬものと思うが、これはこれで所謂受験勉強の弊害かなと思う
仕事も影響しているはずだ

もう受験生でもなければ学生でもないので、小説や批評文を読んで、作者の思いを気にする必要はないのだが、どうも小さい頃からの癖で、答えを探すにはいられないようだ

例えば自分が小説を書こうと思って、何か伝えたいと思って書くだろうか?
伝えたいことが明確にあるなら、それを書けばいい
それでは多くの人に伝わらない!と思って小説の形をとっても、何か伝えたいことが明確にあれば、モノローグで語るでも登場人物に語らせるでもやりようはある

だが、そうでない小説は何が伝えたいのか
それを読んで、はっきり書けよ!と思うのは、何か他人任せな考えではないだろうか?

何か名状し難い人生や人のやり取りの間に生まれるものを伝えたくて、書きたくても書けない微妙なものの存在に思い当たりはしないものか?

物理や化学の処する定量的ものの捉えた方というのは魅惑的で、課題解決の万能の手段に思える

しかしこと人間と人間のやり取りの中で生まれる課題において、物理や化学が解決に期する役割は決して大きいとは言えない
物理や化学に限らず、およそどんなものも解決に何か役に立つとも思えない

小説や批評文を読んでなるほど、何か学びが得たい!これの伝えたいことはなんだろう!と思うのは自由だが、小説や批評が美術品の鑑賞と何が違うのか

人生の問題の答えを小説に探しても、美術品の美しさを解説に求めても、得心至る答えは出ない
およそ誰かを説得しようとしない姿勢にだけ、人は説得される

理解や解釈を拒絶してなお動じない事実
それは悲劇であっても喜劇であってもいい
またとない人生、またとない一瞬、この身に与えられた生の瞬間瞬間
それを誰も彼もが持っていて、懸命に生きている

どうということもないが今年は週に1冊本を読もうと決めた
40冊くらい読んだところで、人に40冊読んだと話したら、それがなんなの?と言われた
なんだかアホらしくなって読むのをやめた

ふとした折に本屋に入ると、小林秀雄の考えるヒント3を見つけた
俺は小林秀雄ファンで、考えるヒント1は自分にとって欠かせない本であったし、久しぶりにこれは読もうと思った

まるで心が洗われるかのような気分だった
実在と時間と人間との姿を追う難しさを淡々と語られて、自分が感じる違和感を飄々と評される
そうして読書欲が復活した

大学の頃、学生に人気のあるジジイがいた
曰く、モノにより学んだことは活かせる場合もそうでない場合もある
しかし学び方を学べば、なんでも学ぶことができる
このジジイのセリフに、なるほどと追随した輩も少なくなかったが、俺はとんだ高慢な野郎だと思った

科学的と言えば聞こえばいいが、定量の名の下に己の眼や手を蔑ろにしてはいけない

善悪や社会的正義に身を任せて、他人を攻撃するのは良くないことだ

目で見て耳を澄ませて手で触れ感じ取った何かを、善悪正誤損得に履き替えて何になるだろう

この心が揺れる時がある
それは夕焼けだったり、青空だったり
山の紅葉や水溜りの波紋
本の中に見つけた答えだったりする
空に水に山と花、人の生き方や喜怒哀楽

自分だけじゃない他人も人間で、誰も間違えようと生きはしない
2度とないこの瞬間に生きる懸命さに思い及んだ時、どうしようもない自分に直面する

を読んだ
どうも狐の話を読んで心を入れ替えなさいと説教された

名作と名高い作品なので、過去も読んでみようとしたことがあったと思うが、どうにも途中で挫折していた
しかし説教されて読まないわけにもいかず、とうとう読み切った

その内容はなるほど、これは挫折するだろうと言った内容で、説教されでもしなければ到底読み切る気持ちにはならなかったと思う

内容はシンプルで、星の王子さまたる自由人が、仕事に取り憑かれた人類を揶揄して、本当に大事なものは子供だけが知っているのだ、という啓蒙もの
これだと要約しすぎだが、とにかく大事なものを見失っており、心の目でみなさいと諭される

きつねの話というのは、一度面倒見たものには責任が伴うというような内容で、それはそうだがそうも言っていられぬ事もあろうに、という内容である

なにせ星の王子さまたるが、自由気ままで子供の権化なので、そうも言ってられないこともあろうに、という感想にアンサーがない
それは小説中に露骨に現れていて、主人公が王子様に何か問いかけても返ってこない

レトリックとか暗喩されたテーマに対する回答とかじゃなく、シンプルに小説中の会話がそもそも成立しない

そういうわけなので、これを読んだところで、そういうご意見もございやしょうね…
で終わるのである

こういうことを書くとやれ感受性だのやれ読解力だのと言われそうで嫌なのだが、手放しに責任と言われてもそれはそれで困る

心の目で何かを見ろと言うが、心の目たるを信じてもやはり美徳そのものを掴むことは難しい
美しい花はあっても、花の美しさはない、に拘泥する

たとえ花をガラスで覆ってやり、責任が生じたとしても、星の王子さまは星には帰ることができない

よしんば星の王子さまが帰って、やれ花なりやれ活火山なりを世話したところで、それは星の王子さまの話である

主人公は王子様に対してやっている責任というのは常に記憶にある、程度のものである
それで責任だというなら俺は忘れないだろう
そして記憶が責任というなら、それを放棄しているのはいったい誰だ