監督:ビットリオ・デ・シーカ

キャスト

ランベルト・マジョラーニアントニオ

 エンツォ・スタヨーラブルーノ)

 

 この映画のストーリーはとても単純である。1948年頃のイタリアの社会的混乱と大失業の時代。アントニオは長い失業の末,2年ぶりにやっと映画のポスターを貼る仕事に就くことができたのだが,その仕事をするためには自転車が絶対必要である。そのために彼はシーツを質に入れて自転車を質屋から請け出す。しかし,ポスター貼りの仕事をしている最中,彼は自転車を盗まれる。自転車がなければまた失業の憂き目にあう。彼は6歳の息子ブルーノと一緒に日曜日の朝からローマの街のあちらこちらを歩き回って自転車を探すが,結局徒労に終わってしまう。簡単に言ってしまえば,これだけの話である。しかし,この映画は紛れもなく映画史に残る名作の一つである。今回はその点について感想を書いてみたい。

 

アントニオは当時どこにでもいた貧しくて平凡な労働者に過ぎない。その彼にとって仕事に必要な自転車を盗まれるということは死活問題ではあるが,当時の社会状況を考えればよくある出来事の一つであっただろう。そのありふれた出来事を描いた作品がなぜ名作であるかと言えば,父と子が自転車を探す過程で遭遇する出来事の一つ一つを丁寧に積み重ねていく中で父と子の絆を見事にすくい取っているという一点においてなのだ。よく考えてみれば,自転車を探すのになぜ彼は6歳の息子を連れて行かなければならなかったのか。私には,むしろ足手まといになる6歳の息子・ブルーノにこそこの映画の焦点があるのではないかと思われたのである。そして,そのブルーノを演じたエンツォ・スタヨーラの演技にすっかり魅了されてしまったのである。(この映画はネオレアリズモの代表的な作品の一つと言われており,私のような見方に対しては異論があるとは思うが,その点は後で考えてみたい。)ブルーノはまだほんの6歳の子供であって父親の前や後ろをちょこまかと歩いたり走ったりするのだが,その表情には父親の窮状をハッキリと理解し,何としてでも自転車を見つけ出そうという意志が感じられ,父親を尊敬している様子がうかがわれるのである。それを十全に演じているエンツォ・スタヨーラの演技なしにこの映画を批評することは不可能である。印象に残るシーンがいくつかある。少し冗長になるが紹介してみよう。

アントニオが自転車を盗んだ男の居場所を知っている浮浪者にそこに連れて行くように迫るが,結局その浮浪者に逃げられてしまったとき,「パパがお人好しだからだ」と言うブルーノの頬をアントニオは思わず打ってしまう。「なんで打つの?」ブルーノは拗ねるがアントニオは謝らない。あくまで父親としての威厳を保つのである。そして,橋のところで待っているように言って河原に下りていくと「子供が溺れているぞ!」という声が…。自転車を探すどころではなくなったアントニオが声の方に駆けつけると,溺れていたのはブルーノではなかった。安堵したアントニオは「空腹か?」とブルーノに尋ね,カネを数えながら「ピザを食うか?」と言ってレストランに行くのだ。レストランでアントニオはチーズとワインを注文し,グラスのワインを一息で飲んだ後,ブルーノに「お前も飲め」と言って勧める。ブルーノが一口飲むとアントニオは「ママには内緒だぞ」と言う。すると,ブルーノはにっこりと笑うのである。親子にとってひとときの安息であり,映画の中で唯一ホッとするシーンである。アントニオはいろいろなことを話す。あの仕事があればどれだけ稼ぐことができるかなどなど…。ブルーノは様々な表情を浮かべながら父親の話を聞く。父と子の絆を描いたシーンの積み重ねこそこの映画の真骨頂なのだ。

終盤の展開はこの映画のクライマックスである。アントニオは自転車を盗んだ男を見かけ,彼の自宅前で自転車を返すように詰め寄るが,男の仲間たちから追い返されてしまう。失意のうち彼は自転車を取り戻すことを諦める。その時,彼は路上に一台の自転車が無造作に置かれているのを見つけ,その自転車を盗むことに決める。彼はブルーノに待ち合わせの場所を指定し,先にバスでそこに行って待っているように指示する。「モンテカルロで待ってろ」。しかし,満員のためバスに乗れなかったブルーノはアントニオが自転車を盗むところを見てしまう。そして,彼が数人の男たちに取り押さえられるところまで…。自転車の持ち主はアントニオが小さい子供連れであることに免じ,彼を警察に突き出さない。ラスト。男たちから解放されたアントニオとブルーノはトボトボと歩いている。アントニオはチラッとブルーノを見る。そして泣き出すのだ。それは,息子に自転車を盗もうとして取り押さえられるところを見られてしまったということからくるやるせなさであろう。エンディング。ブルーノはアントニオの手をそっと握る。その光景は貧しい親子の惨めな姿にしか映らないかもしれないが,私にはブルーノが一つ大人になったように見えたのである。「パパ,大丈夫だよ。しっかりしなよ」と言っているようだったのだ…。デ・シーカの意図がどうであったのかはわからないが,私はこのエンディングのシーンに拘りたいと思う。

 

 

さて,この映画はネオレアリズモの代表的な作品の一つだと言われている。スタジオでの撮影は一切なく,すべてのシーンがローマの街中で撮影されており,素人の役者を使ってドキュメンタリー風に描かれている作品であるということを考えれば,たしかにそのとおりだろう。したがって,1948年頃のイタリアの社会的混乱と大失業の時代に仕事に絶対必要な自転車を盗まれた貧しい労働者の姿を通じた社会批判としてこの映画を観ることはもちろん可能であり,デ・シーカの意図がそこにあったと言うことは十分可能なことである。その場合,エンディングのシーンは貧しい親子の惨めな姿を通じての社会批判ということになるであろうが,上にも書いたように,私はなぜアントニオが一人で自転車を探すのではなく,ブルーノと一緒になって探し回ったのかということに拘ってみたい気がするのだ。すると,社会的な問題は父子の絆を描くための背景として位置づけられることになるが,それは言い過ぎだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 本年107日,和田誠が亡くなった。享年83歳。合掌。

 生前の和田誠については,私は,映画『麻雀放浪記』の監督であり,若い頃定期購読していた『キネマ旬報』に掲載されていた「お楽しみはこれからだ」というエッセーを読んでいた程度で,あまりよく知らなかったのだが,亡くなったころラジオを聴いていたら,その著書をずいぶん高く評価していた人がいたので,とりあえず買って読んでみた。読んだのは『もう一度 倫敦巴里』(2017)で,これは1977年に話の特集より刊行された『倫敦巴里』に新たにいくつかの内容を加え,再編集されたものである。

 

 

和田誠『もう一度 倫敦巴里』をひと言で言い表すとすれば「軽妙洒脱」という言葉がもっともピッタリくるだろう。じつに都会的センスに溢れた非常に質の高いパロディ本であり,読み出したら止まらなくなってしまったのだが,和田誠自身はパロディについて次のように述べている。

 

「『パロディ』って言葉をわざと使わないのはね,近ごろ,只の真似や亜流にすぎないものを『パロディやってんだ』なんて本人が弁護するのに使ったり,評論家なんかもそんな風に使ったりする風潮があるような気がして,ちょっと反発するんだな。それと,本来は『パロディ』って本当に権威を引きずり下ろすくらいの力があるものをそう呼ぶんじゃないかと思うんだ。それに比べれば俺のやってることなんか,やっぱり『モジリ』程度なんだなあ。でもそれが楽しいんだけどね。」(p.170)

 

じつに和田誠らしい言い方であり,自分の仕事に対する矜持が感じられる文章である。

パロディとは非常に知的な遊びである。良質のパロディが成り立つためには,対象に対する知識はもちろん,対象を観察する鋭い視点と洗練された遊び心が必要とされる。この観点に照らして考えれば,本書はこれ以上ないパロディ本であることは間違いないだろう。ただし,こういったことはパロディを提供する側だけではなく,受け手の側にも求められるものであり,私の知識不足のためにいくつかの作品についてはその面白さを味わえなかったことが心残りではあるのだが。

 

和田誠と言えば,まず,人物を描いた卓越したイラストが思い浮かぶが,本書にもほぼ全編を通じて非常に興味深い似顔絵のイラストが掲載されていて,「はめ絵映画館」という項目では中国の地図の中に,「男はつらいよ」の渥美清から始まって,「独裁者」のチャップリンとジャック・オーキー,「座頭市」の勝新太郎などのはめ絵を初めとしていろいろ楽しめるのだが,ラストの「お熱いのがお好き」のマリリン・モンローとトニー・カーティスが抱き合っている作品には思わず唸ってしまった。しかし,何と言っても,最も遊び心を感じさせられるのは,ジョン・フォード,市川崑,ヒッチコック,ゴダール,ベルイマン,黒澤明,山田洋次,深作欣二,フェリーニなど,世界の映画監督がイソップの寓話『兎と亀』を撮ったらどうなるかのパロディだ。例えば,次のようなシナリオ。

 

溶明。抱き合い,キスをしている二人。

亀(マルチェロ・マストロヤンニ)とその妻(モニカ・ビッティ)である。

高層アパートの一室。窓から隣のビルが見える。朝の光が差し込んでいる。

亀「別れようか」

妻「ええ」

 以下の引用,略。

 

 マルチェロ・マストロヤンニとモニカ・ビッティの「出演」ということで,これは,あの小難しい映画で有名な(私だけの感想です!)アントニオーニ風の『兎と亀』だとわかるが,いかにもそれらしい展開になっていくのである。「上手い!」のひと言。

 これが映画バージョンだとすれば,川端康成『雪国』をいろいろな作家が書いたらどのようになるかというパロディが小説バージョンだ。庄司薫,野坂昭如から始まって,43人の作家たちの「それ風」の『雪国』が掲載されている。個人的に最もウケたのは,「国境の長いトンネルを抜けると雪国であったのだが,もちろんここで雪国というのは夜の底が白くなったと表現するほかないほどの地方を指すのであり,…確認されるのだ。」という蓮実重彦風『雪国』で,やはり,句点(。)は最後にしか打っておらず,昔読んだ『シネマの煽動装置』を思い出して思わず笑ってしまった。「浮気してやろうかと島村は思った。そして汽車に乗った。島村は駒子を憶えている。そのチロチロとした感触を,左手の指が憶えていた。国境の長いトンネルを抜けると雪国に着く。…」などいうのは言うまでもなく,川上宗薫センセーである。

 

 和田誠『もう一度 倫敦巴里』。一家に一冊,いや二冊でもよいが備えておくべき常備薬のような本である。(断定口調)

 

 

 

 

記事にした作品以外で11月に観た映画は以下の通りです。

 

1. 小津安二郎監督『晩春』(1949年)

2. 小津安二郎監督『麦秋』(1951年)

3. 小津安二郎監督『お茶漬けの味』(1952年)

4. 小津安二郎監督『早春』(1956年)

5. 小津安二郎監督『彼岸花』(1958年)

6. 小津安二郎監督『お早う』(1959年)

7. 小津安二郎監督『秋日和』(1960年)

8. 小津安二郎監督『小早川家の秋』(1961年)

9. 小津安二郎監督『秋刀魚の味』(1962年)

10. ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(イタリア 1945年)

 

11月は小津安二郎監督作品がマイブームだった。上の9作品に,9月に観た『東京物語』と10月に観た『東京暮色』を加えると,小津安二郎が『晩春』を皮切りに戦後に制作した13作品のうち,『宗方姉妹』(1950年)と『浮草』(1959年)を除く11作品を鑑賞したことになる。

未鑑賞の2作品については何とも言えないが,小津安二郎監督は徹底して「家族」を描いた映像作家である。その一つのパターンは,親が娘の結婚話で気をもむという物語である。1, 2, 5, 7, 9がそれに該当する。これらの作品で小津が描く「家族」には一つの特徴があり,それは「抽象化された家族」だということである。つまり,小津の映画には職場とか仕事が描かれることがほとんどないのである。もちろん,登場人物達は会社の役員,大学の教師,医師などという職業を持ってはいるのだが,彼らの仕事の内容が描かれることはない。会社のオフィスの映像は出てくるし,登場人物が会社の役員である場合,その役員室の様子が描かれることはあるが,それは仕事をする場としてではなく,彼の知人や家族が訪ねてくる場として描かれるだけなのである。要するに,小津の映画に登場する人物たちは社会から切り離されており,家族や親戚,友人たちだけの世界に生きているのである。小津の映画に登場する家族が「抽象化された家族」だというのはそういう意味であり,物語は家族や友人たちの間でだけ進行するのである。では,なぜ小津はこの「抽象化された家族」に拘ったのだろうか?そのことについて私なりに考えてみた結果出てきた結論は,小津は戦前・戦中の価値観を徹底的に否定することに創作の動機があったのではないかということである。

戦争中においては,家族は国家に従属する存在であり,国のために家族が犠牲になるのは当然のこととされていた。では,戦後はどうか。たしかに国家と家族の関係は戦争中のようなものではなくなった。しかし,戦後は国家に変わって家族より優先すべき存在として会社が登場したのである。会社(仕事)のためには男は家族を犠牲にしてでも働くのは当然のこととなった。公は国家から会社に移ったが,公のために私(家族)が犠牲になるのは当然だという価値観はちっとも変わってはいない。小津はこの価値観に対して異議を申し立てており,それを映画の中で具現化する手法として用いられたのが会社の存在を消すことだったのではないだろうか。そして,その帰結として小津が描く父親像と言えば,バリバリ仕事をしたり,仕事で悩む存在ではなく,娘の結婚話に一喜一憂し,なんとか自分の気に入った男と結婚してもらいたいと思っている人物として登場するのである。戦前・戦中の家父長的な家族制度において存在した父親の権威などというものは小津の映画ではまったく存在しないのである。

5のように,娘が父親の勧める男ではなく,自分の意中の男と結婚することに父親が強硬に反対する場合もあるが,結局は折れて娘の結婚を祝福するのである。父親,さらには夫の権威の失墜というのは1, 2, 5, 7, 9だけではなく,小津作品のほぼすべてにおいて見られるものであり,それは3のように育ちの悪さを妻に内心バカにされる夫,6のように中学生と小学生の子供に反抗され口を利いてもらえなくなり,結局,子供のおねだりをかなえてやる父親,8のように老人になっても女のところに通い詰める男などとして描かれるのである。

小津の映画が社会との接点を欠き,「抽象化された家族」の中で物語が完結するということから出てくるもう一つの帰結は,例えば,娘が嫁に行って家族とのつながりが切れたとき,一人でいるのは寂しいということであり,家族といっても結局は他人なのだということであり,一人になっても人は生きていかなければならないということである。小津が描く家族は比較的裕福な家庭であり,子供たちもとても行儀の良い存在である。いわば,理想の家庭とも言えるが,それでも,人間は結局は孤独な存在なのだという小津の冷めた目線をも感じるのは私だけなのだろうか。

 

『無防備都市』はイタリアがドイツによる支配から解放された直後に制作された映画で,第2次大戦中,ドイツによって占領下におかれたローマを舞台にしたレジスタンスの話である。この作品はいわゆる「ネオレアリズモ」の最初の作品だと言われているが,例えば,アンドレ・バザンは『映画とは何か』の中で次のように述べている。「ネオレアリズモは結局のところ,ある種の客観的なドキュメンタリー主義に帰着するというわけではありません。…ネオレアリズモが,社会に対してある立場を取ったり,社会を批判したりする姿勢を見せないわけではありませんが,ネオレアリズモが前提としているのはむしろ,精神のあり方そのものなのです。つまり,ネオレアリズモの現実とは,芸術家の視点を通した現実であり,…いわばばらばらになった要素がふたたび寄せ集められてできた現実にほかなりません。」(邦訳 岩波文庫 下 p.238

この考えに即してこの作品を観たとき,私には次のようなシーンでのセリフが印象に残った。

映画の主人公であるマンフレディがゲシュタポに激しい拷問を受けているとき,隣の部屋でナチスの将校がゲシュタポの中佐に対して言う言葉。「俺たちは殺して殺して殺しまくった。ヨーロッパ中でだ。この戦争は必然的に憎悪を生む。俺たちが憎悪の的になる。憎悪に囲まれて希望はない。…俺たちは憎悪の中で死ぬんだ。」

ラスト。ドン・ピエトロ神父がゲシュタポに処刑される時に言う言葉。「死ぬのは難しくない。生きるのは難しい。神よ,彼らを許したまえ。」

 

ロッセリーニ監督の目を通した戦争観がよく表れているような気がするセリフだ。戦争に勝者は存在しない。

 

 

監督:白石和彌 

キャスト

佐藤健(稲村雄二)

田中裕子(稲村こはる)

鈴木亮平(稲村大樹)

松岡茉優(稲村園子)

 筒井真理子(柴田弓)

音尾琢真(丸井進)

韓英恵(牛久真貴)

MEGUMI(稲村二三子)

佐々木蔵之介(堂下道生)

 

女優で劇作家,演出家の桑原裕子が主宰する「劇団KAKUTA」が2011年に初演した舞台を佐藤健,鈴木亮平,松岡茉優,田中裕子の出演,「孤狼の血」の白石和彌監督のメガホンで映画化。タクシー会社を営む稲村家の母こはるが,愛した夫を殺害した。最愛の3人の子どもたちの幸せのためと信じての犯行だった。こはるは子どもたちに15年後の再会を誓い,家を去った。運命を大きく狂わされた次男・雄二,長男・大樹,長女・園子,残された3人の兄妹は,事件のあったあの晩から,心に抱えた傷を隠しながら人生を歩んでいた。そして15年の月日が流れ,3人のもとに母こはるが帰ってきた。次男役を佐藤,長男役を鈴木,長女役を松岡,母親役を田中がそれぞれ演じるほか,佐々木蔵之介,音尾琢真,筒井真理子らが脇を固める。(「映画.com」より転載) 

 

 白石和彌監督の『凶悪』を観た時の衝撃は未だに私の頭から離れない。以後,白石監督作は『彼女がその名を知らない鳥たち』,『孤狼の血』を観たので,今回が4作目の鑑賞になる。白石監督作についての全般的な印象としては,我々の中にある負の部分を「純粋に」抉り出してみせるという手法なので,作品の成否はその部分の料理の仕方にかかっていると言えるだろう。さて,今作は…。

 

 この映画,冒頭からいきなり暴力を予感させるシーンに観客を引き込むのだ。土砂降りの雨の夜。ハサミ,ドライバー。いずれも凶器になり得るものだ。そして,殺人が起こる。タクシー会社を営む稲村家の母こはるが,3人の子供たちに対して壮絶な家庭内暴力を振るっていた夫を車でひき殺したのだ。「もう誰もあなたたちを殴ったりしない。自由に生きられる。好きなものになれる…母さん,誇らしい気持ちだよ。」こはるは15年後に戻ってくると言い残して自首をする。そして,15年の歳月が経ち,こはるが戻ってくる。

映画は15年後の「今」を中心に展開される。3人の子供たちは30歳前後の大人になっているが,戻ってきた母親に対する彼らの心の持ちようはそれぞれ異なる。予告編のフレーズを借りると,「信じ続けた長女(園子),苦しみ続けた長男(大樹),許せなかった次男(雄二)」ということになるだろう。

扱われているテーマとそれを表現する役者たちの素晴らしい演技のおかげでとても見応えのある映画であった。事件当時中学~高校生だった子供たちがその後の15年間に世間からどのような仕打ちを受け,どのような気持ちでその15年間を過ごしてきたのか,映画はその部分を一切映像では示さず,現在の彼らを描くことを通じて観客に伝える。もちろん,突然戻ってきた母親についてもそうなのだが,その親子の愛憎,心の奥にある気持ちを過不足なく演じている出演者たちの演技にまずは拍手を送りたい。

 場末のスナックのホステスをしている園子は毎晩正体をなくすほど酔っ払っており,そこに彼女の受けた傷の深さを感じることはできるが,母親を愛し感謝していた気持ちがよく伝わってくるのだ。彼女は言う。「お母さんはあの人から私たちを助けてくれたじゃん!」園子が母親に甘えるシーンがある。夜,園子が枕を持って母親の部屋に入ってきて,彼女と抱き合って眠るのだ。とてもいいシーンだった。大樹は苦しみながらも母親を信じたいと思っているのだろう。大樹は言う。「母さんは母さんだよ。」しかし,彼の苦悩は妻・二三子との関係を通じて痛いほど伝わってくるのだ。週刊誌の記者をしている雄二の母親に対する気持ちはとても複雑だ。彼はどんな思いで15年間を過ごしてきたのだろう。「愛憎相半ばする」という言い回しもあるが,それほど単純なものではないだろう。彼は母親を許してはいない。それにしてもあの行為は…。「母さん,誇らしい気持ちだよ」と言って出て行った母親の15年間はどうだったのだろう。彼女は決して子供たちに謝ることはない。「自分のしたことを疑ったら子供たちは迷子になっちゃう。」本当に彼女は自分の行為を疑ったことはなかったのだろうか。おそらくそうではないだろう。口とは裏腹に彼女は子供たちにすまないと思っている。私にはそのように思えた。タクシー会社で働いていて,徘徊を重ねる認知症の母親を抱えている柴田弓が,こはるに「母親を殺してしまいたいと思うことがある。私にあなたほどの度胸があればね」と言うシーンがある。こはるはドスの利いた声で「度胸?度胸なんかじゃないよ」と言ってその後の言葉を飲み込む。おそらくやむにやまれぬ気持ちからの行為だったのだろう。口には出さないが,おそらくこはるは迷子になっているのだ。それにしても,田中裕子と筒井真理子という芸達者の二人によるこのシーンは,見ていてゾクゾクするシーンだった。

母の行為が家族を崩壊させたのだとしたら,この家族に再生はあるのだろうか?いや,そもそも,母の行為は家族を崩壊させたのだろうか?それは母親に対する雄二の思いによって表されている。上にも書いたが,雄二は母親を許してはいない。だからこそ,彼は事件のあった地元を離れ,東京での生活を選択したのだろう。たしかに,許せないのはわかるが,私には彼の行為は「なぜ?」なのだ。しかし,白石監督の事件に対する想像力は雄二の行為にまでのびており,まるで観客に「あなたたちの想像力はここまで届きますか?」と尋ねているようでもある。率直に言って,私の想像力は彼の行為をカバーすることが出来なかったし,私には,この点においてこの映画は後半の行き場を失ってしまったように見えるのだ。堂下の登場はおそらく雄二の気持ちに対するオトシマエをつけるために必要だったのだろうが,私には,過剰な映画的作為が感じられて,必ずしも成功しているようには見えなかった。佐藤健の演技は素晴らしかったと思うが,脚本段階において雄二の人物造形が中途半端だったようにしか思えないのである。まあ,無い物ねだりなのかもしれないとは思うが…。

 提起されている問題は重い。頻繁に報道される児童虐待のニュースを見る度に私などは母親の存在について考えてしまうのだが,「なぜ彼女は子供を守ることができなかったのだろう?」という疑問はおそらく第三者の勝手な言い分でしかないのだろう。ニュース報道は日々消費されていくが,当事者にとって事件は出発点でしかなく,家族は再生されなければならない。この映画はそのことについての一つの実験作とも言えるような気がするのだが,稲村家の家族は再生したのだろうか。

 

 

 

監督:マーティン・リット 

キャスト

リチャード・バートン(アレック・リーマス)

クレア・ブルーム(ナン・ペリー)

オスカー・ウェルナー(フィードラー)

ペーター・バン・アイク(ムント)

 

ジョン・ル・カレ原作の『寒い国から帰ってきたスパイ』の映画化作品。ジョン・ル・カレのスパイ小説は読んだことがないが,映画化された作品では,『裏切りのサーカス』,『誰よりも狙われた男』を観たことがある。いずれも派手なアクション映画ではないが,リアリズムに貫かれたスリリングな展開に引き込まれる作品であった。

 

1960年代,東西冷戦時代のベルリン。冒頭,静かな音楽が流れるなか,クレジットとともに東西ベルリンを隔てている有刺鉄線と検問所が映し出される。そして,西側への亡命を企てたイギリス諜報部の連絡員リーメックがイギリスの検問所のすぐ近くで射殺される。ただちにイギリス諜報部のベルリン主任アレック・リーマスはロンドンに呼びもどされる。帰国したリーマスは,サーカスの秘密情報部長官(通称管理官)から,西側の諜報員が次々に殺害されるのは元ナチ党員で現在東ドイツ諜報機関の副長官ムントによるものだと知らされる。そして,東ドイツに潜入し,ムントの部下で,ムントに疑惑を抱いているユダヤ人のフィードラーの尋問を受け,ムントが二重スパイだと告発するよう仕向けるようにという密命を受ける。リーマスは,表向きはイギリス諜報部をクビになり,酒浸りになったように装っていると,東ドイツの諜報員が接近してくる。一方で,彼は職安で紹介された図書館の仕事をして日々を過ごしているが,同じ図書館で働くナン・ペリーと恋に落ちるのである。このあと,物語は東ドイツに潜入したリーマスを中心に,彼の任務遂行のプロセスを描いていく。

 

 原作をかなりカットしているだろうと思われる部分もあって,展開の速い作品であるが,とても分かり易く,ダレてしまうところが全くなかった。特に,終盤の最高評議会による査問のシーンから一気にたたみ掛けてくるどんでん返しに次ぐどんでん返しは実にスリリングで,スパイ映画の真骨頂とでも言うべき展開には思わず唸ってしまった。派手なアクションシーンはまったくないが,The Endまで観る側の緊張感を持続させるのは,脚本段階での構成の手堅さによるものであろう。たとえば,リーマスとナンの恋愛にしても,サスペンスの中に無理なく位置づけられており,映画の終盤でキッチリと回収されているところは見事のひと言である。

 このように,この作品はスパイもののエンタメ映画としてはとてもレベルの高い作品であるが,それだけではなく,スパイの目を通しての国際政治の非情さをもキッチリと描いているのである。例えば,終盤,リーマスとナンは次のような会話を交わす。

ナン「あなたはどっちの味方? 考えはないの?」

リーマス「ご都合主義。それだけだ。…スパイを何だと?…スパイは修道僧なんかじゃないんだ。」

 こんな物言いをするリーマスがエンディングでとった行動…。深い愛情を感じさせるが,なんとも切ないよね~。国家の大義と個人の幸福ということについても考えさせられる映画であった。