監督:ビットリオ・デ・シーカ
キャスト
ランベルト・マジョラーニ(アントニオ)
エンツォ・スタヨーラ(ブルーノ)
この映画のストーリーはとても単純である。1948年頃のイタリアの社会的混乱と大失業の時代。アントニオは長い失業の末,2年ぶりにやっと映画のポスターを貼る仕事に就くことができたのだが,その仕事をするためには自転車が絶対必要である。そのために彼はシーツを質に入れて自転車を質屋から請け出す。しかし,ポスター貼りの仕事をしている最中,彼は自転車を盗まれる。自転車がなければまた失業の憂き目にあう。彼は6歳の息子ブルーノと一緒に日曜日の朝からローマの街のあちらこちらを歩き回って自転車を探すが,結局徒労に終わってしまう。簡単に言ってしまえば,これだけの話である。しかし,この映画は紛れもなく映画史に残る名作の一つである。今回はその点について感想を書いてみたい。
アントニオは当時どこにでもいた貧しくて平凡な労働者に過ぎない。その彼にとって仕事に必要な自転車を盗まれるということは死活問題ではあるが,当時の社会状況を考えればよくある出来事の一つであっただろう。そのありふれた出来事を描いた作品がなぜ名作であるかと言えば,父と子が自転車を探す過程で遭遇する出来事の一つ一つを丁寧に積み重ねていく中で父と子の絆を見事にすくい取っているという一点においてなのだ。よく考えてみれば,自転車を探すのになぜ彼は6歳の息子を連れて行かなければならなかったのか。私には,むしろ足手まといになる6歳の息子・ブルーノにこそこの映画の焦点があるのではないかと思われたのである。そして,そのブルーノを演じたエンツォ・スタヨーラの演技にすっかり魅了されてしまったのである。(この映画はネオレアリズモの代表的な作品の一つと言われており,私のような見方に対しては異論があるとは思うが,その点は後で考えてみたい。)ブルーノはまだほんの6歳の子供であって父親の前や後ろをちょこまかと歩いたり走ったりするのだが,その表情には父親の窮状をハッキリと理解し,何としてでも自転車を見つけ出そうという意志が感じられ,父親を尊敬している様子がうかがわれるのである。それを十全に演じているエンツォ・スタヨーラの演技なしにこの映画を批評することは不可能である。印象に残るシーンがいくつかある。少し冗長になるが紹介してみよう。
アントニオが自転車を盗んだ男の居場所を知っている浮浪者にそこに連れて行くように迫るが,結局その浮浪者に逃げられてしまったとき,「パパがお人好しだからだ」と言うブルーノの頬をアントニオは思わず打ってしまう。「なんで打つの?」ブルーノは拗ねるがアントニオは謝らない。あくまで父親としての威厳を保つのである。そして,橋のところで待っているように言って河原に下りていくと「子供が溺れているぞ!」という声が…。自転車を探すどころではなくなったアントニオが声の方に駆けつけると,溺れていたのはブルーノではなかった。安堵したアントニオは「空腹か?」とブルーノに尋ね,カネを数えながら「ピザを食うか?」と言ってレストランに行くのだ。レストランでアントニオはチーズとワインを注文し,グラスのワインを一息で飲んだ後,ブルーノに「お前も飲め」と言って勧める。ブルーノが一口飲むとアントニオは「ママには内緒だぞ」と言う。すると,ブルーノはにっこりと笑うのである。親子にとってひとときの安息であり,映画の中で唯一ホッとするシーンである。アントニオはいろいろなことを話す。あの仕事があればどれだけ稼ぐことができるかなどなど…。ブルーノは様々な表情を浮かべながら父親の話を聞く。父と子の絆を描いたシーンの積み重ねこそこの映画の真骨頂なのだ。
終盤の展開はこの映画のクライマックスである。アントニオは自転車を盗んだ男を見かけ,彼の自宅前で自転車を返すように詰め寄るが,男の仲間たちから追い返されてしまう。失意のうち彼は自転車を取り戻すことを諦める。その時,彼は路上に一台の自転車が無造作に置かれているのを見つけ,その自転車を盗むことに決める。彼はブルーノに待ち合わせの場所を指定し,先にバスでそこに行って待っているように指示する。「モンテカルロで待ってろ」。しかし,満員のためバスに乗れなかったブルーノはアントニオが自転車を盗むところを見てしまう。そして,彼が数人の男たちに取り押さえられるところまで…。自転車の持ち主はアントニオが小さい子供連れであることに免じ,彼を警察に突き出さない。ラスト。男たちから解放されたアントニオとブルーノはトボトボと歩いている。アントニオはチラッとブルーノを見る。そして泣き出すのだ。それは,息子に自転車を盗もうとして取り押さえられるところを見られてしまったということからくるやるせなさであろう。エンディング。ブルーノはアントニオの手をそっと握る。その光景は貧しい親子の惨めな姿にしか映らないかもしれないが,私にはブルーノが一つ大人になったように見えたのである。「パパ,大丈夫だよ。しっかりしなよ」と言っているようだったのだ…。デ・シーカの意図がどうであったのかはわからないが,私はこのエンディングのシーンに拘りたいと思う。
さて,この映画はネオレアリズモの代表的な作品の一つだと言われている。スタジオでの撮影は一切なく,すべてのシーンがローマの街中で撮影されており,素人の役者を使ってドキュメンタリー風に描かれている作品であるということを考えれば,たしかにそのとおりだろう。したがって,1948年頃のイタリアの社会的混乱と大失業の時代に仕事に絶対必要な自転車を盗まれた貧しい労働者の姿を通じた社会批判としてこの映画を観ることはもちろん可能であり,デ・シーカの意図がそこにあったと言うことは十分可能なことである。その場合,エンディングのシーンは貧しい親子の惨めな姿を通じての社会批判ということになるであろうが,上にも書いたように,私はなぜアントニオが一人で自転車を探すのではなく,ブルーノと一緒になって探し回ったのかということに拘ってみたい気がするのだ。すると,社会的な問題は父子の絆を描くための背景として位置づけられることになるが,それは言い過ぎだろうか?



