今,私たちは追いつめられている。私たちはこの事態から本当に抜け出すことができるのだろうか。抜け出すために私たちは何をすればよいのか。専門家でない私が思いつくのは,結局,専門家である西浦博が言うところの人との接触を80パーセント削減することぐらいだ。もちろん,私でも,それが確固たるエビデンスに基づくものでないだろうということぐらいの想像はつくが,それ以外に手立てがないということも現実なのだ。では,それは実現可能なのか?

政府は専門家会議の提言に従って緊急事態宣言を発し,国民に外出自粛要請を行い,各種事業者には休業要請を行った。「要請」である。辞書によると,「要請」とは「必要なこととして,強く願い求めること」とある。つまり,政府は国民に自粛や休業をお願いしているのである。お願いする以上,それが実現するための努力をするのが当然である。それはコロナの蔓延によって職を失った人たちや,休業を余儀なくされている人たちへの補償であり,それなしには実現できないことは誰が考えても分かる理屈だ。しかし,安倍首相の基本的スタンスは「個別の損失を直接補償するのは現実的ではない」ということだ。緊急事態宣言が発せられた場合,各都道府県の知事がそれを実行する権限を有するが,国の姿勢がそのようなものである以上,東京都のような財政的に余裕のある自治体以外は簡単に休業要請などできないことになる。結局,多くの事業者は事業を続けて感染拡大を引き起こすか,休業して困窮するかしかなくなるのである。先日発表された,全国民に一律10万円の給付ではどう考えても足りない。もっと大型の補償を打ち出さない限り,オーバーシュートは避けられないのではないか。「要請したのに,それを守らない国民が悪い」などという理屈は通用しないのである。

今のままでは感染爆発が起きるか,経済的に行き詰まって生活が破綻し,自殺する人たちが大量に出るかしかないのではなかろうか。もう猶予はないのだ。一刻も早く大型の補償体制を整えていただきたい。

 

今年の春は例年にない物憂い春になった。もちろん,新型コロナウイルスの全国的,いや全世界的な蔓延のためだ。私は,この感染症は私たちの国にとって戦後最大の危機ではないかと思っている。ただ,そういった受け止め方は必ずしも全ての国民に共有されているわけではなさそうだ。それは,年代によってこの感染症に感染した場合のリスクに大きな差があるからだろう。当初からよく言われていたことだが,感染した人間の80パーセントは軽症ないし無症状であるのに対し,残りの20パーセントは重篤化し,最悪の場合は死亡することもあるからだ。高齢者にはかなり厳しい病気であると言える。私が戦後最大の危機ではないかと思うのは,言うまでもなく自分が20パーセントに属しているからだろう。しかし,受け止め方の違いはそれだけが原因ではない。感染症の原因であるウイルスが私たちの目に見えないものであるということによるところのほうが大きいように思われる。

 戦争や天変地異のような目に見える危機が迫ってきた場合でも,その危機の認識は人によってそれなりの差はあるが,危機が目に見えない場合はその差は非常に大きくなるであろう。まったくないしほとんど危機感を持たない人と極度に恐れる人の範囲のどこかに私たちは位置しているのだが,私は,「極度に恐れる人」の範疇には入らなくても「かなり恐れる人」の範疇には入るだろうとは思う。

 最近ではあまり言われなくなったが,この感染症が流行りだした頃,よく「正しく恐れる」という言葉を耳にした。私はこの言葉を聞くたびに少しイラッとしたものだ。「正しく」と言われても「正しく」の基準って,何なのだと思ったのである。言っている本人だってよく分かっていなかったのではないか。それは見えないものが見えないままであったからだ。そう,重要なことは目に見えないものを可視化することである。可視化の一つのパターンは数字だ。しかし,その数字が私たちの国ではよく分からなかったのだ。コロナに感染しているかどうかの検査が極端に制限されてきたために公表される感染者数や死亡者数がはたして実態を反映しているものなのかどうかが疑わしかったのである。じつに不思議なことがこの国では起こっていたのだ。検査を増やすべきか増やすべきでないかという論争をしているのは世界でも日本だけではなかったか。私は検査数を増やさなければ感染の実態が分からず,私たちもどのように行動すればよいかが分からないではないかと思っていたが,検査制限論を主張する人たちの言い分は「検査を増やせば陽性患者が増え,医療が崩壊するではないか」ということであった。つまり,この感染症を「指定感染症」に指定したために検査で陽性と出れば軽症の患者でも入院させざるを得ず,その結果,病床が不足し,感染症指定医療機関だけではなく一般の医療施設にも入院させざるを得なくなり院内感染を招くという理屈である。私にはこれはまったく顚倒した主張のように思われた。要するに,「指定感染症」の指定をはずし,いわゆるトリアージで患者を隔離すれば済むことではなかったのか。そういったことを主張していた専門家もいたが,専門家会議はその主張を全く無視し続けたのである。そして,この国では正確な数字による可視化が行われないまま,専門家会議はクラスターを追跡するという戦略に突入していったのである。もちろん,クラスターを追跡するという戦略が重要だということは素人の私でも分かるが,検査の数を制限したままでその戦略だけを追求したのではそこから漏れる感染者が多数出てくることは専門家でなくても理解できることだろう。実際,追跡困難な市中感染者は爆発的に増えてしまい,結局,政府は「緊急事態宣言」を発し,自粛要請をせざるを得なくなったのが現状である。専門家会議の西浦博によれば,外出を80パーセント削減すれば1ヶ月で収束できるとのことだが,現状,それが不可能なことはメディアが発表している数字を見れば明らかだ。検査制限論の完全な敗北であるが,専門的知識のない私のような素人が,今,そのことをあげつらったところであまり生産的ではないだろう。(本当は言いたいけれど。)コロナが沈静化した時に総括すればよいことだ。私たち国民にできることは西浦博の出した数字を信用して外出を自粛する以外にないだろう。そして,それが達成できなかった時に私たちを待ち構えているものは…。イタリアやNYの映像を見れば容易に想像はつくだろう。本日,TVで「NHKスペシャル」を見ていたら,検査制限論とクラスター追跡戦略を推し進めてきた専門家会議の押谷仁が「ちゃんとやる自信がなくなった。考える力が限界だ」と言っていた。今,私たちはそこまで追いつめられている。

 

 


 

 

監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ

 

キャスト

マリー・ベル(クリスティーヌ)

ルイ・ジューベ(ピエール)

フランソワーズ・ロゼー(ジョルジュの母親)

アリ・ボール(アラン)

 

富豪の夫に先立たれ,36歳で未亡人になったクリスティーヌは,20年前,16歳で舞踏会にデビューした時の手帳を見つけ,そこに記されたダンスのパートナーを訪ねる旅に出る。失恋から自殺した者,夜盗団の首領になっている者,聖職についた者,山案内人になっている者,田舎町の町長になってお手伝いの女性と結婚式を挙げている者,半狂乱の医師,生まれ故郷で理髪師になっている男と日曜の夜の舞踏会へ出て見たものの,それは侘びしい田舎びたものだった。かつてクリスティーヌに愛をささやいた男たちの20年後の人生はさまざまだが,クリスティーヌにとっては胸の痛む旅であった。

 

最近,自分の映画の好みがずいぶん偏ってきているような気がするのだが,その所為なのか,それとも戦後最大の危機とも言えるコロナウイルスの蔓延している状況のためなのか,あまり乗り切れない映画であった。率直に言って,かなりダルい映画であった。

欧州の富裕層にとって舞踏会という社交界へのデビューがもつ伝統の意義を私のような人間が理解できるはずがなく,そうである以上,舞踏会デビューを果たした20年も前に自分に言い寄ってきた男たちが現在どうなっているかなどということに興味が持てるものなのだろうか,と思ってしまうのである。冒頭のシーンから,クリスティーヌがヒマをもてあましているということは十分理解はできるのだが,それにしても…。

そもそも,20年もの年月が経てばたいていの人間は変わるのが普通だし,それも20歳前後の頃からの20年と言えば,ベルレーヌの詩を愛していた男が夜盗団の首領になっていたとしてもそれほど驚くことでもないだろうし,山案内人の男が20年ぶりに訪ねて来た女をほっぽり出して遭難者の救助に向かうのも当然のことだろう。クリスティーヌがその20年間どのような生活を送ってきたのかは分からないが,富豪の男の妻として何不自由なく暮らしている間に頭の中がお花畑になってしまったのではないか,と言うと言い過ぎだろうか?

 

う~ん。He is not what he used to be.「彼は昔の彼ならず」だ。

 

 NHKのホームページでは「かつてクリスティーヌに愛をささやいた男たちの人生の郷愁と悲哀をこめたドラマを、名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ監督が、当時を代表する大スター出演のオムニバス形式で描き、日本でも大評判となったフランス映画の名作」と紹介されており,そう言われればそういう気もするが,私の心にはほとんど刺さるものはなかった。

 

大林宣彦監督が10日夜,肺ガンのためお亡くなりになった。享年82歳。合掌。

私は尾道三部作を初め比較的初期の大林監督の作品はよく観ていたのだが,その頃の大林作品で最も好きな映画と言えば『異人たちとの夏』である。風間杜夫と片岡鶴太郎,秋吉久美子がすき焼きを食べるシーンは今でも強烈に印象に残っている。その後,大林作品というより,あまり映画そのものを観なくなったのだが,映画の趣味が復活して以後にDVDで観た『花筐 HANAGATAMI』の圧倒的な映像美と,その耽美的な雰囲気にはすっかり魅了されてしまい,「Yahoo!ブログ」でこの映画のレビューを書いたことがある。そろそろブログを再開しようと思っていたところなので,この機会にそれを再掲することにした。

 

監督:大林宣彦

 

キャスト

窪塚俊介(榊山俊彦・僕)

矢作穂香(江馬美那)

常盤貴子(江馬圭子)

満島真之介(鵜飼)

長塚圭史(吉良)

 

*************************************

名匠・大林宣彦監督が,1977年のデビュー作「HOUSE ハウス」より以前に書き上げていた幻の脚本を映画化し,「この空の花」「野のなななのか」に続く戦争3部作の最終章として撮り上げた青春群像劇。檀一雄の純文学「花筐」を原作に,戦争の足音が迫る時代を懸命に生きる若者たちの友情や恋を赤裸々に描き出す。1941年,春。佐賀県唐津市の叔母のもとに身を寄せている17歳の俊彦は,アポロ神のような鵜飼,虚無僧のような吉良,お調子者の阿蘇ら個性豊かな学友たちと共に「勇気を試す冒険」に興じる日々を送っていた。肺病を患う従妹・美那に思いを寄せる俊彦だったが,その一方で女友達のあきねや千歳と青春を謳歌している。そんな彼らの日常は,いつしか恐ろしい戦争の渦に飲み込まれていき。大林監督作の常連俳優・窪塚俊介が俊彦役で主演を務め,俊彦が憧れを抱く美少年・鵜飼役を「無限の住人」の満島真之介,ヒロイン・美那役を「江ノ島プリズム」の矢作穂香がそれぞれ演じる。(映画.comより)

 *************************************

 

 この映画について語るとき,まず,その凄まじいまでの映像美に触れないわけにはいかないだろう。全体としてのやや暗い色調と対照的な鮮やかな「赤」。それは登場人物たちの口や指から流れ出る血であったり,落ちて血の一滴に変わる赤い花びらであったり,鮮やかな口紅であったり,登場人物たちが飲む赤ワインである。そして,全編を通じて作為に満ちたカットが醸し出す耽美的なムードに観客は圧倒されるのだ。そして,それと同時に大林宣彦監督が余命幾ばくもないと宣告された後に製作されたこの映画の紛うかたなき青春映画としてのメッセージを感じないわけにはいか

ないのだ。


 冒頭,檀一雄の言葉が引用される。「ゆきずりの/まぼろしの/花のうたげ/くるしくも/たふとしや」青春とは自由で放埒なものだ。戦争が迫りつつある1941年,唐津浜大学予科の学生たちと,彼らを取り巻く女性たちとの「青春の自意識」とでも呼ぶべきものを描いた本作は,自らが信じる自由を求める意志の表明である。劇中,観念が服を着たような学生である吉良は言う。

「僕は僕の観念だけを信じるよ。観念が指令を発したらどんなにハレンチなことだって実行する。」

 「花筐」とは「花かご」のことだ。登場人物たちは青春という「花かご」の中で自らの自意識に悩み,苦しみ,そして恋をする。それはまさに青春に特有な生きる意志の表明だ。しかし,「花筐」の外では戦争の足音が不気味に近づいている。明らかに「生」(=青春)と「死」(=戦争)が対比され,「死」が「生」を飲み込もうとしているのだ。映画の終盤,鵜飼が言う。「青春が戦争の消耗品だなんて,まっぴらだ。」そして,彼らは自らの手で青春の幕を閉じるのだ。「死」が自分たちの「生」を飲み込むのであれば,その前に自らの自由意志によって青春を終わらそうではないか。もちろん,そこには少し屈折した反戦映画としての大林監督のメッセージをうかがうことはできるが,私たち観客はまずは一つ一つのカットと登場人物たちの魅力溢れる個性を見事に演じている役者陣の姿を楽しもうではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 記事にした作品(と言っても,一つだけですが)以外では,12月は次のような映画を観ました。

 

1.『イタリア旅行』(1953年 イタリア)

 監督: ロベルト・ロッセリーニ

キャスト

イングリッド・バーグマン(カテリーヌ) 

ジョージ・サンダース(アレックス)

 

ゴダールをして「男と女と一台の車とカメラがあれば映画ができる」と言わしめ,ヌーヴェルバーグに影響を与えたと言われている作品。ナポリの海辺の別荘を相続したアレックスと妻のカテリーヌはその別荘を売却するためにイタリア旅行に出かけるが,二人の結婚生活は破綻寸前であり,夫婦はそれぞれ別々の行動をする。タイトルは『イタリア旅行』ではあるが,観光映画ではない。カテリーヌが一人で見るナポリやポンペイの風景は彼女の心象風景とも重なるようにも見えるのだが,ラストでは二人は固く抱き合い,お互いの愛情を改めて感じ合うのである。

現実生活ではロッセリーニとイングリッド・バーグマンは1950年に結婚,1957年に離婚するが,この映画が制作された当時の二人の関係はどうだったのだろうかなどと考えるのはゲスの勘ぐりであろう。しかし,ラストの展開はロッセリーニの願望のような気がしなくもないのだが…。

 

2. 『パフューム ある人殺しの物語』(2006年 ドイツ)

監督:トム・ティクバ

キャスト

ベン・ウィショー(バティスト・グルヌイユ)

 

 図抜けた嗅覚を持ち,人気調香師になったグルヌイユが究極の香りを追求するために次々と殺人を犯していく物語。

 途中まではグイグイ引き込まれたのだが,終盤の展開がもう少しなんとかならなかったのだろうか。香水のビンを取り出して…というところは荒唐無稽とはいえ気にはならなかったのだが,人びとが愛し合っている姿を見てグルヌイユが急に愛に目覚めるという展開には,それまでのグルヌイユの描き方から考えると「おいおい,急にそれはないだろう」という違和感が…。その意味で惜しい作品だと思われた。

 

3. L.A.コンフィデンシャル』(1997年 アメリカ)

監督:カーティス・ハンソン

 キャスト 

ケビン・スペイシー(ジャック・ヴィンセンス)

ラッセル・クロウ(バド・ホワイト)

ガイ・ピアース(エド・エクスリー)

キム・ベイシンガー(リン・ブラッケン)

 

ハリウッド映画のサスペンスの一つの典型的なパターン。面白い展開だとは思ったが,途中で黒幕が誰かが分かってしまい,サスペンスとしての興味は半減。今から思うと,ケビン・スペイシー,ラッセル・クロウ,キム・ベイシンガーなど出演陣が豪華。ケビン・スペイシー出演のサスペンスなら『ユージュアル・サスペクツ』のほうが断然面白い。

 

4. 『ある愛の風景』(2004年 デンマーク)

 監督:スサンネ・ビア

 キャスト

コニー・ニールセン(サラ)

ウルリッヒ・トムセン(ミハエル)

ニコライ・リー・コス(ヤニック)

 

罪と赦しを扱った映画。ただ,それが簡単に解決できるものではないところに切り込んでおり,観客に「あなたはどう?」と問いかけてくる。ヤニックとミハエルはそれぞれ罪を犯すが,それが相似形になっており,ヤニックは赦しを請う。ミハエルの犯した罪の重さはそれとは比べものにはならない。スサンネ・ビア監督は彼がどのようにして贖罪をするのかについては言及していない。それほど簡単な問題ではないからだ。エンディングは妻のサラがその罪を一緒に背負っていくだろうということを示唆しており,それが彼女の夫への愛なのだろう。希望はあるが,それは映画としての一応の解決でしかないということを監督はよく分かっているのだと思われる。観ていてヒリヒリするような痛みを伴う映画だ。あまりよく知らなかった監督だが,今後注目していきたい。

 

5. 『未来を生きる君たちへ』(2010年 デンマーク / スウェーデン)

 監督:スサンネ・ビア 

キャスト

ミカエル・パーシュブラント(アントン)

トリーヌ・ディルホム(マリアン)

ウルリッヒ・トムセン(クラウス)

マルクス・リゴード(エリアス)

ウイリアム・ヨンク・ユエルス・ニルセン(クリスチャン)

 

いじめの問題を解決するには,いじめている人間に逆襲するかその人間から逃げるかしか方法はないのではないだろうか。子供は前者の方法でいじめを解決した。しかし,大人はその方法を是としない。それは憎しみの連鎖を生むだけだからというのがその理由だ。しかし,大人もその選択を迫られる。しかもその相手は人間性のかけらもないような人間だ。では,それほど極端ではなくてもただ暴力的でしかない相手に対してはどのように対処すればよいのか。スサンネ・ビア監督は徹底的に問題を提起し,その選択を迫ってくる。ここでも監督はラストで赦しと希望を描いてはみせるが,観客が納得しないかもしれないということは折り込み済みのように思われる。

 

6. 『薔薇のスタビスキー』(1974年 フランス)

監督:アラン・レネ

キャスト

ジャン=ポール・ベルモンド(アレクサンドル・スタビスキー) 

シャルル・ボワイエ(ラオール男爵)

フランソワ・ペリエ(ボレリ)

アニー・デュプレー(アルレッテ)

クロード・リッシュ(ボニー) 

ロベルト・ビサッコ(モンタルボ)

 

 1930年代の初めにフランスで起こったスタビスキー事件を題材にした作品。稀代の詐欺師スタビスキーはバイヨンヌ市の公設質屋を舞台に偽債権を発行するが,結局それが発覚し,政界を揺るがす一大疑獄事件へと発展する。映画は,スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーがフランスに亡命するところから始まる。映画の終盤,トロツキーはフランスから追放される。その間に描かれるのがスタビスキーの没落の過程である。トロツキーとスタビスキー事件とは直接の関係はないのだが,映画の終盤でトロツキーを支援していた若者は言う。「スタビスキーのせいだ。奴がいなかったら2.6暴動も内閣総辞職も右翼政権もない。右翼だからトロツキー追放さ。原因はスタビスキーだ。」スタビスキーの事業の協力者であったラオール男爵はスタビスキーの死後ぽつりと言う。「スタビスキーという男は一つの時代に終止符を打ったんだよ。自身と一緒にね。」スタビスキーのかかりつけの医師は言う。「たしかに彼は精神を病んでいた。」はたしてスタビスキーとは何者だったのか。映画の中で,人生における最悪の事態は死か牢獄かをめぐり,スタビスキーとラオール男爵が議論するシーンがある。スタビスキーは牢獄だと言い,ラオール男爵は死だという。ラスト。スタビスキーは死に,妻のアレットは牢獄へ。世界はこのあと,ファシズムが台頭する暗い時代に突入していった。スタビスキー事件とは暗い時代の入り口に咲いたあだ花だったのだろうか。

 

12月に観た映画は以上ですが,それ以外にアレクセイ監督『戦争のない20日間』(1976年 ソ連)を観だしたのですが,映像の劣化があまりにも激しく,暗闇の中で人物が動いているようにしか見えなかったので,始まってから15分ぐらいのところで放棄しました。残念。

 

**************************************

 

 2019年もいよいよ押し詰まってきましたが,今年もたいして変化のない生活でした。変化と言えば,20歳前後のころ親しくしていた数人の人たちと数十年ぶりに会い,その後もお付き合いが続いているということと,楽天イーグルスのファンをやめたということぐらいです。来年は野球を見ていた時間を別のことに振り向けたいと思っています。

  

★今年観た映画ベストワン。

1. 邦画部門:大林宣彦監督『花筐

 反戦映画としてのメッセージもさることながら,圧倒的な映像美と耽美的な雰囲気の中に見られる登場人物たちの「青春の自意識」とでも言うべきものに引き込まれた。

2. 外国映画部門:スパイク・リー監督『ブラック・クランズマン』

 エンタメ的手法を通じて人種差別問題を直球で扱っているスパイク・リーの才能に唸った。

 

 12月に入って大量の仕事のオファーを引き受けてしまい,ブログを書く時間がほとんどとれなくなってしまいました。桜の花が咲く頃までブログを休止致します。では,皆様,よいお年を。