前回に続いて「私の好きな外国映画ベスト50」を書いてみた。好きな映画のジャンルはかなり狭いということは自分でも分かっていたが,このように並べてみると,それを再認識することになった。1~20位は順位通りだが,21位以下は順位をつけることができないので,50音順になっている。

1            ゴッドファーザー PART2

2            愛を読むひと

3            かくも長き不在

4            ニュー・シネマ・パラダイス(完全オリジナル版)

5            質屋

6            地獄に堕ちた勇者ども

7            旅芸人の記録

8            善き人のためのソナタ

9            ブラック・クランズマン

10          情婦

11          暗殺の森

12          スティング

13          冬の光

14          ソフィーの選択

15          瞳の奥の秘密

16          愛の嵐

17          2001年宇宙の旅

18          処女の泉

19          別離

20          殺人の追憶

             

「アポロンの地獄」  「あの日の声を探して」  「アパートの鍵貸します」  「アマデウス」  「アンダーグラウンド」 「おとなのけんか」 「家族の肖像」  「鑑定士と顔のない依頼人」  「サウルの息子」  「シェルブールの雨傘」  「死刑台のエレベーター」  「市民ケーン」  「十二人の怒れる男」  「スミス都へ行く」  「スリー・ビルボード」  「タクシードライバー」  「ディアハンター」  「抵抗-ある死刑囚の手記より-」  「パリ,テキサス」  「ハンナ・アーレント」  「ひまわり」  「ファントム・スレッド」  「プラトーン」  「ホテル・ルワンダ」  「マンチェスター・バイ・ザ・シー」  「みかんの丘」  「道」  「召使」  「ユージュアル・サスペクツ」  「欲望という名の電車」  「ラストエンペラー」       次点:「パラサイト」

 

APPENDIX

この数年間で,かなり期待して観たものの,期待外れだった映画を選んでみた。若い頃観た映画で,当時はよい映画だと思ったのに,今回は「う~ん」という映画,監督に期待したのだが,イマイチだった映画などである。年齢や時代のせいでもあるだろうし,過度の思い入れがあったせいでもあるのだろう。

 

1.めぐりあう時間たち(2003年 アメリカ)                      

好きな映画の2位に挙げた『愛を読むひと』のスティーブン・ダルドリー監督の映画で,ニコール・キッドマン,メリル・ストリープ,ジュリアン・ムーアという大女優3人の共演ということもあって期待したが,まったく期待外れだった。異なる時代を生きた3人の女性の人生を描いており,そのうちの1人がヴァージニア・ウルフである。3人を結びつけるのはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』なのだが,どうもこの小説を読んでいないと,この3人の女性の苦悩がよくわからないのではないかと思う。私には「ただ人生に退屈しているだけじゃないの?」としか思えなかった。それに,ニコール・キッドマンのメイクが恐すぎる。(笑) 

  ついでに言うと,スティーブン・ダルドリー監督作では,「リトル・ダンサー」は○,「ものすごくうるさくて,ありえないほど近い」は×。他は未鑑賞。

 

2.禁じられた遊び(1952年 フランス)

以前に観たときには反戦映画というイメージだったのだが,実はそうではなくて,「無垢な」ファム・ファタールと彼女に翻弄される少年の物語だった。ちょっとガッカリ。あの音楽にだまされていたのかも。ブルジット・フォッセー演じるポレットはとてもかわいいのだが,大きくなったら悪女になりそう。5歳なら両親が亡くなって平然としていないと思うのだが。いろいろな見方のできる映画ではあると思う。

 

3.俺たちに明日はない1967年 アメリカ)

ボニーとクライドの物語。以前観たときはなかなか良い映画だと思ったのだが,結局はイカれた男と女が行き当たりバッタリに犯罪を犯して,逃走したあげく射殺されるという話。時代が変わったのだな~とつくづく思う。フェイ・ダナウェイにあまり魅力を感じないことも原因かもしれない。実話なのだが,う~ん。

 

● 二度と観たくない映画

1.「ライフ・イズ・ビューティフル」

 このコロナ禍のなか,ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んだ。ずっと以前にも読んだことがあるが,精神的な面でコロナ禍を乗り切るためのヒントになるようなことが書かれているかもしれないと思ったからだ。これは優れた精神病理学の書物だと思う。その書物の中にこの映画で描かれているような精神病理は一行も書かれてはいない。したがって,この映画はデフォルメではない。タチの悪いウソだ。フランクルは言っている。「未来を,自分の未来をもはや信じることができなかった者は,収容所内で破綻した」。だから,例えば,来るかどうか分からないが,愛する人と再会する未来を思い続けるといったことが大切なのだ。それは,この映画で描かれているテレビゲームのような「父親の子供への愛」などとは断じて違うのだ。

 

2.「グリーンブック」

 観客がほっこりとした気分になる映画を作りたいのであれば,題材を選んで欲しい。肉料理を作るのに魚を買ってきても,それは無理。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年に続いて「私の好きな日本映画ベスト50」を書いてみた。ただ,この1年の間に観た映画が加わっただけで,あまり変わり映えはしないと思われる。1~20位は順位通りだが,21位以下は順位をつけることができないので,50音順になっている。

 

1           泥の河

2           ツィゴイネルワイゼン

3           仁義なき戦い・広島死闘編

4           花筐 HANAGATAMI

5           恋人たちは濡れた

6           いつか読書する日

7           万引き家族

8           竜二 

9           淵に立つ

10          TATTOO(刺青)あり

11          そこのみにて光り輝く

12          ゆれる

13          東京物語

14          さらば愛しき大地

15          麻雀放浪記

16          異人たちとの夏

17          羅生門

18          七人の侍

19          海よりもまだ深く

20          復讐するは我にあり

             

「赤い殺意」  「歩いても歩いても」  「天城越え」  「駅STATION」    「女が階段を上る時」  「カラスの親指」  「駆け込み女と駆け出し男」  「海炭市叙景」  「飢餓海峡」  「凶悪」  「黒い十人の女」  「西鶴一代女」  「秋刀魚の味」  「仁義なき戦い・頂上作戦」  「青天の霹靂」  「太陽を盗んだ男」  「小さいおうち」  「冷たい熱帯魚」  「二百三高地」  「日本のいちばん長い日(岡本喜八版)」  「野良犬」  「張込み」  「走れ,絶望に追いつかれない速さで」  「幕末太陽傳」  「百円の恋」  「百万円と苦虫女」  「フラガール」  「フィッシュストーリー」  「めし」 「夜叉」

 

 

町山智浩

映画評論家。1962年,東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。「宝島」「別冊宝島」などの編集を経て,1995年に雑誌「映画批評」(洋泉社)を創刊。その後,アメリカに移住。現在はカリフォルニア州バークレーに在住。

 

 自由と民主主義はアメリカの市民が信奉している重要な価値観であり,私たちはアメリカが生み出す映画を通じてそれを知ることもできる。しかし,他方,アメリカの歴史を眺めたとき,そこにはアメリカが抱える宿痾とも言うべき闇の部分も見えてくるのである。それは,1865年まで存続していた奴隷制度と,それ以降も続く根強い人種差別であり,また,第2次大戦以後のマッカーシズム,ベトナム戦争やイラク戦争,ポピュリズムなどである。こういった「危険な」側面に焦点を当ててアメリカ映画を見たとき,どういったことが見えてくるのだろうか。2016年に発刊された町山智浩著『最も危険なアメリカ映画』(集英社インターナショナル)はそういったことをいろいろ考えさせてくれる書物である。タイトルとして取り上げられている映画は全部で20本であり,本文の中で言及されている映画を含めるとかなりの数にのぼるが,私が特に印象に残った2~3本の映画について感想を述べてみることにする。

 

 著者の町山智浩は,例えば第45代アメリカ大統領に就任したドナルド・トランプによって代表される価値観,つまり,白人至上主義に基づく強いアメリカといった価値観とは対極的な立場に立っており,そういった立場から,上に見た危険な側面を喧伝している映画と,それとは逆に,その側面を対象化し批判的に描いている映画の両方を「危険なアメリカ映画」として紹介している。ここでは,前者を代表する映画として,D.W.グリフィス『國民の創生とロバート・ゼメキス『フォレスト・ガンプ~一期一会~,『バック・トゥ・ザ・フューチャーについての町山智浩のアプローチを見ることにする。

 本書の第1章においてまず取り上げられるのが,1915年にD.W.グリフィスによって制作された『國民の創生である。町山はこの映画を評して,「KKKを甦らせた『史上最悪の名画』」とまで言っているのだが,残念ながら,私はこの映画を観たことがない。町山がこの映画を「史上最悪の名画」と言っている理由は,この映画は技術的には間違いなく偉大な傑作であるが,内容が嘘と欺瞞に満ちているということである。町山はこの映画を様々な側面から検証して,その嘘と欺瞞を証明しているが,それは,一言で言えば,南北戦争前の南部をあたかも楽園であるかのごとくに描き,南北戦争は工業化によって奴隷を必要としなくなった北部が仕掛けた戦争で,南部は無垢な被害者であるという描き方である。また,この映画では,南北戦争後の黒人の暴虐を止めるためにKKKが誕生したとされているが,町山は,これはまったく事実を歪曲しているものだと批判している。さらに,町山は,この映画は事実を歪曲しているだけではなく,この映画がヒットしたことによって消滅していたはずのKKKが復活したことを取り上げ,これを「映画というメディアによるプロパガンダの結果だ」(p.28)と批判するのである。グリフィスはその後『イントレランスを制作する。それは「人類史上の弱き者たちへの慈しみに満ちた映画」(p.36)であり,町山によれば,『國民の創生を制作したことへのグリフィスの贖罪だったのだろうとのことである。

 上に見たように,『國民の創生についての町山の視線は,映像芸術としての優秀さを認めながらも,歴史を歪曲し嘘と欺瞞に満ちた映画であるということである。同様な観点から批判の対象になるのが,最終章で取り上げられる,ロバート・ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)と『フォレスト・ガンプ~一期一会~(1994)だ。「え~?!」と思う映画ファンは多いだろうし,私もそう思った。本当にそうなのだろうか?

 

 町山によれば,『フォレスト・ガンプ~一期一会~は「60年代を恣意的に歪めて描き,黒人がついに平等を勝ち取った公民権運動を歴史から抹消している」(p.210)のであり,さらに,「『フォレスト・ガンプ』は単独ではなく,ゼメキス監督の出世作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と互いに補完し合って,ねじ曲がったアメリカの戦後史を形成している。いかにねじ曲げられているか,決定的な例をひとつ挙げるなら,ベトナム戦争を描きながら,アメリカがそれに負けた事実をなかったことにしているのだ」(pp.210-211)ということになる。町山の言うところをもう少し詳しく見てみよう。

 『フォレスト・ガンプ~一期一会~であるが,主人公のフォレスト・ガンプは南部アラバマ州で生まれ,1950年代,1960年代をそこで過ごした。町山によれば,「50年代,60年代のアラバマと聞いて誰もが真っ先に思い浮かべるのは人種隔離政策と公民権運動」(p.235)なのだが,映画『フォレスト・ガンプ~一期一会~には,ローザ・パークスの事件に端を発するバス・ボイコットもキング牧師の公民権運動もまったく登場しないと言うのである。

 映画『フォレスト・ガンプ~一期一会~』は主人公のフォレスト・ガンプとジェニーの30年にわたる愛を描いた映画である。そうだとすれば,ガンプとジェニーはどのように描かれているのかということが問題だ。ロバート・ゼメキスが言うには,「ふたりはアメリカのふたつの面を象徴している。…ガンプは古き良きアメリカ。ママと神様とアップルパイを愛する心。ジェニーは変革を求めるアメリカ。セックス,ドラッグ,ロックンロールだ」(p.237) 町山によれば「ジェニーは,ガンプの無垢さに対して,徹底した堕落の象徴として描かれる」(p.237) つまり,ジェニーはベトナム反戦運動に参加するとともに,次々と男と関係を持ち,ブラック・パンサーのリーダーと関係を持ち,最後にはエイズ(と思われる病気)で死んでいく,という描き方だ。町山は,ここから,この映画は, 60年代,70年代のカウンターカルチャーを貶め,反戦運動家を人間のクズと考えた当時の大人たちと同じ価値観を共有していると批判し,ロバート・ゼメキスは,「ベトナム戦争ではなく反戦運動を,公民権運動を過ちだと断言しているのだ」(p.245)と切って捨てるのである。そして,ロバート・ゼメキスのこういった価値観こそが,カウンターカルチャーの時代である60年代,70年代をスキップして,「50年代の古き良きアメリカをスクリーンによみがえらせる『バック・トゥ・ザ・フューチャー』」(p.214)につながっているのであるが,「50年代はアメリカの黒人にとって暗黒の時代だった。けっして帰りたいなどとは願わない」(pp.226-227)時代だと主張するのである。

 以上が町山の主張であるが,これは,私が以前『フォレスト・ガンプ~一期一会~を観たときの印象とはずいぶん異なるものである。私には,この映画は,フォレスト・ガンプとジェニーの30年にわたる愛の映画であり,黒人の公民権運動やベトナム反戦運動を正面から描いた映画ではないという印象があったのである。そうだとすれば,必ずしもそれを描く必要はないのであり,映画の直接的なテーマに関わらない部分を描いていないからと言って,歴史を捏造しているということにはならないのではないだろうか。この点,『國民の創生における歴史の捏造とは異なるのではないかと思われたのである。そこで,この度,再度この映画を鑑賞してみた。すると,映画が始まって5分ほど経過したところで,フォレスト・ガンプの名前について次のような説明がなされているのである(これは町山の著書でも言及されているところである。)

 「ママは僕に南北戦争の英雄,ネーサン・フォレストの名をつけた。血がつながってるとママは言ったが,彼はKKKというクラブを作った。頭巾とシーツをかぶって幽霊のマネみたいなことをする連中だ。…とにかく,それがフォレスト・ガンプの由来だ。人間はバカなことをすると戒めるため,ママは僕をフォレストと名付けたらしい。」

 人間はバカなことをすると戒めるため,ママは僕をフォレストと名付けたらしい」と言われても,ロバート・ゼメキスは,なぜ,わざわざKKKの創始者の名前から主人公の名前を取ってこなくてはならないのか。この作為を考えれば,バカなことをするとされている人間とは,ロバート・ゼメキスによれば黒人のことだと考えざるをえないのだが,そうだとすれば,これは,ロバート・ゼメキスの価値観をまず明らかにしていると考えられても仕方のないことだろう。そのように考えると,『フォレスト・ガンプ~一期一会~』において,バス・ボイコットもキング牧師の公民権運動もまったく登場しない点にロバート・ゼメキスの意図を読み込む町山の評価は間違っているとは言えない気がするのである。町山は言っている。『フォレスト・ガンプ~一期一会~』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような「娯楽映画に政治性を見いだすのは不快に感じる人も多いだろう。…しかし,ロバート・ゼメキスが政治的なのだからしようがない」(p.231)。今のところ,私はこの主張に反論できる理由を見いだすことはできない。

 

以前,Yahoo!ブログに掲載した事の再掲載です。

 

 

 

 

 

 

 

監督:フランク・キャプラ

キャスト:ゲイリー・クーパー (ジョン・ドー)

                  バーバラ・スタンウイック(アン・ミッチェル) 

                  エドワード・アーノルドD.Wノートン)

 

 原題はMeet JohnDoe(ジョン・ドーに出会う)で,John Doeとは「名無しの権兵衛」という意味だ。映画評論家の町山智浩はこの映画を「最も危険なアメリカ映画」の一つに挙げている。それは,「民主主義を信じていたフランク・キャプラ監督が民主主義・大衆の恐ろしさを描いた映画」だからだと言うのである。要するに,ポピュリズムがいかにして作られ,その背後に何があるのかを描いているからだということだ。果たしてそうなのだろうか?

 

 冒頭。経営難に陥った新聞社「ブルティン」はD.W.ノートンに買収され,社名が「ニュー・ブルティン」と改められてリストラの嵐が吹き荒れている。女性編集者のアン・ミッチェルもクビを告げられる。コラムに刺激がないからという理由だ。アタマにきたアンは最後にジョン・ドーという架空の人物をでっち上げ,その人物が投稿したという記事を掲載するのである。それは,自分は政府の無策によって4年前に失業したままであり,政府に抗議するためにクリスマスイブの夜に市庁舎から飛び降り自殺をするというものである。この記事は反響を呼び,ニューヨークがジョン・ドーの話題で持ちきりになるだけではなく,新聞社には自分こそがジョン・ドーだと言う浮浪者たちが押し寄せる。アンは彼らの中の一人を実際にジョン・ドーに仕立て上げ,それを利用して新聞の売り上げを伸ばすべきだと主張する。そのようにして選ばれたのが元マイナーリーグの野球選手で今は無職のジョン・ウィラビーである。そして,アンはクビになるどころかボーナスまで手に入れるのだ。ジョンはこのあと,アンが書いた原稿をもとにラジオで演説をし,弱き庶民の団結を訴える。それを聴いた民衆は大いに感動し,全国の至る所で「ジョン・ドー・クラブ」が結成され,それは国政にも影響を及ぼすようになる。脳天気だったジョンも良心の呵責を感じるようになるが,D.W.ノートンは「ジョン・ドー・クラブ」を利用して政界進出を企むようになっていく。

 

感想(ネタバレに触れています)

 町山智浩は著書『最も危険なアメリカ映画』の中で次のように述べている。「『群衆』のジョンは自分がノートンによって利用されていたことを知り,反逆するのだが,先にノートンによって彼がジョン・ドーを演じていただけだったことを暴露され,裏切り者として民衆から憎まれる。『スミス都へ行く』であれほど無邪気にポピュリズム賛歌をうたい上げたキャプラはここで,『普通の人間』がいかに簡単に政治的に利用されるかを描いている。また,メディアによって大衆がいかに簡単に操られるかも。その意味で,『群衆』という邦題は実に本質を突いている。」(p.139)

 

 映画の中で描かれている「ジョン・ドー・クラブ」は大衆のいわゆる草の根運動であり,彼らは熱狂的にジョン・ドーを支持するとともに,既存の政治体制に対する不満を爆発させていくのであるが,その背後にはそれを利用する者たちが存在しているのだという点で,民主主義が持つ危うさが指摘されているのだ。これが町山の主張である。たしかに,この映画には,ジョン・ドーが偽物であるということが分かった途端,民衆がジョン・ドーを激しくバッシングするシーンも描かれていて,ある一つの方向に雪崩を打ったように向かっていくポピュリズムの持つ恐ろしさが描かれてはいる。しかし,この映画をその側面だけに還元して,「『スミス都へ行く』であれほど無邪気にポピュリズム賛歌をうたい上げたキャプラ」がポピュリズムの恐ろしさを描いているとするのは,この映画の評価として妥当なのだろうか?私はむしろこの映画のラストにキャプラのこの作品に対する想いがあるように思われた。ラスト。行方不明だったジョンがクリスマスイブの夜,市庁舎の屋上に現れる。彼は飛び降り自殺をするつもりできたのだ。手には「クラブの人たちへ」と書かれた遺書も持っている。そして,ジョンが現れるのではないかと思ったノートンや,いつの間にかジョンを愛していたアン,クラブの人たちも待っている。ジョンがノートンに言う。「あんたは運動をつぶした。しかし,生き返らせるぞ。」アンがジョンに抱きついて言う。「二人で闘うのよ。」クラブの人間が言う。「クラブは続けるわよ。」「正義」,「公正」という価値に対するキャプラの信頼こそがこの映画のテーマなのだ。そして,それは『スミス都へ行く』以来の彼の一貫したテーマなのであって,『スミス都へ行く』で賞賛した民主主義に対するキャプラの評価の変更ではないのである。しかし,町山は言う。「正義に目覚めた『ニュー・ブルティン』紙の編集長がノートンに言う捨て台詞で映画は終わる。しかし,観客の目には彼らは新たなカルトの誕生にしか見えない。それに,あれほど扇動されやすくて移り気で無責任でレミングのように愚かな群集心理をさんざん見せられた後で大衆を称揚しても遅すぎる。」(p.140)この映画を離れた場合,私はメディアによる大衆の操作やポピュリズムの持つ危うさについて,私たちはよく考える必要があるとは思う。しかし,この映画についての評価に関する限り,ラストシーンを「新たなカルトの誕生」であるとか,「大衆を称揚しても遅すぎる」という評価は当たってはいないのではないかと思うのである。

 余談になるが,以前当ブログで記事にした森本あんり『反知性主義』で述べられているように(2019.9.8),アメリカの信仰復興運動(リバイバリズム)には,エリート主義に対して反発し,「平等」,「公正」を求める側面と,ポピュリズムに流れていく側面があるが,おそらくフランク・キャプラは前者の価値観に対する揺るぎない信頼を寄せているのではないだろうか。

 

(昨日の記事『スミス都へ行く』に対する大和屋さんのコメントを読んで,以前,Yahoo!ブログでこの映画についてのレビューを書いていたことを思い出しましたので,再掲いたします。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

監督:フランク・キャプラ

キャスト:

  ジェームズ・スチュアート(ジェフ・スミス)

 ジーン・アーサー(サンダース秘書)         

 クロード・レインズ(ペイン上院議員)

 エドワード・アーノルド(ジム・テイラー)

 

 オリバー・ストーンとピーター・カズニックの共著『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』(大田直子他訳 早川書房)の中で,19447月にシカゴで開かれた民主党大会の模様が描かれている箇所がある。(邦訳pp.304-305)そこを読むと,フランクリン・ルーズベルト大統領の副大統領候補として,進歩主義的な理念の持ち主ヘンリー・ウォレスが圧倒的に支持されていたのだが,反ウォレス派の工作によって休会宣言がなされ,再開されるまでの間に様々な密約などによる裏取引が行われた結果,まったく人気のなかったハリー・トルーマンが勝利したということが述べられている。その後,1945年4月,トルーマンはルーズベルトの死去に伴って大統領になり,日本への原子爆弾の投下を決定したのであるが,オリバー・ストーンはこの点に関して,もしウォレスが大統領になっていれば「原爆投下も,核武装競争も,冷戦もなかったかもしれない」(邦訳p.305)と述べている。この本が出版されたあと,同じタイトルで全10回のドキュメンタリーフィルムが制作されている。私は何年か前にNHK BS「世界のドキュメンタリー」として放映されたのを見たことがあるが,このシカゴ大会のシーンで「スミス都へ行く」のラストシーンが挿入されているのである。オリバー・ストーンは,この映画の主人公スミスとヘンリー・ウォレスを重ねて見ており,「『スミス都へ行く』を,幼稚で共産主義的とけなした人たちは,彼(ヘンリー・ウォレス)を思い出すべきです」とも述べている。

 

 冒頭,ある州の上院議員フォーリーが急死する。同じ上院議員のペインや州財界のドン,テイラー,州知事のホッパーたちが焦る。彼らは州の中でのダム建設から巨額の不正な利益を得るための法案を通過させることを目論んでいたのだが,フォーリーの死で赤信号が点りそうな気配になったからだ。そこで,彼らは政界の裏事情に通じておらず,自分たちが扱いやすいと思える少年団の隊長ジェフ・スミスをフォーリーの後釜に選ぶのである。スミスは首都ワシントンに赴くが,田舎の純朴な青年で右も左も分からず,メディアにからかわれたりする。しかし,女性秘書のサンダースの協力を得て議員生活の第一歩を踏み出すことになり,二人で法案を作成する。スミスは以前からの念願であった,故郷のウィレット河のほとりに子供たちのためのキャンプ場を建設する法案を作成し,議会でその法案を読み上げる。しかし,そこはペインたちがダム工事用地として政府に売り込もうとしている場所であった。ペインは提出した法案を撤回するようスミスを説得するが,スミスは応じず,父の友人として尊敬していたペインに失望する。どうしても,スミスの法案を通過させたくないテイラーやペインは,翌日の議会で,スミスがキャンプ場予定地に私有地を持っているという書類をでっち上げ,スミスの法案は自分自身への利益誘導のためのものだと主張し,スミスの除名動議を提出するのである。議会はペインの主張を認める。スミスは失意のうちに辞職する決意をする。しかし,彼は,自分を信じてくれるサンダースに励まされ,翌日のスミス追放の決議のための議会に出て行き,議長に発言を求めるのである。議長は発言を認める。ここから,スミスの24時間に及ぶ演説が始まる。はたして,スミスは真実を明らかにし,テイラーやペインの不正を告発することができるのだろうか。

 

 一つの特徴によってある国民,国家を理解することなどできないということは言うまでもないが,アメリカの国民性の中にジャスティスに対して敬意を払うという側面が根付いていることは確かである。それは建国の精神としての民主主義に対する敬意から来るものと言ってもよいであろう。もちろん,アメリカという国がそういった側面だけで成り立っているわけではないということは言うまでもないが,不正に対峙するのに,私たちの国で国民的人気を博している「水戸黄門」のような物語は彼の国ではまず制作されることはないであろう。

 『スミス都へ行く』を,単純な民主主義賛歌の映画と言ってしまえば,確かにその通りかもしれないが,24時間ぶっ通しで演説してでも自らのジャスティスを貫くところに,この映画を見た多くのアメリカ国民は賛同するのだろう。もっとも,自分たちの民主主義が至高のものであるという「信念」によって,まったく文化の異なる世界に戦争を仕掛ける独りよがりには辟易する面もあるが…。いずれにせよ,この映画を通じて私たちはアメリカの根底にある民主主義への信念を感じることはできるが,この映画の面白さはそれだけではない。この映画には,随所でしゃれた会話が交わされるシーンがあり,ビリー・ワイルダーの映画にも通じる洒脱な側面を楽しむこともできるのだ。

 ついでに言うと,ペイン役のクロード・レインズは,どことなくトルーマンに似ている気がするが,制作年度を考えればパロディーではなさそうだ。

 

再びヘンリー・ウォレスについて。

 ヘンリー・ウォレスは戦後,トルーマン政権の商務長官を務めるが,トルーマンの政策を公然と批判したことから,結局辞任せざるを得なくなり,歴史の表舞台から消えていくのである。

 

Yahoo!ブログに投稿した記事の再掲載です。