監督:レジスロワンサル

キャスト

ランベール・ウィルソン(エリック・アングストローム)

オルガ・キュリレンコ(カテリーナ・アニシノバ)

アレックス・ロウザー(アレックス・グッドマン)

リッカルド・スカマルチョ(ダリオ・ファレッリ)

 

全世界待望のミステリー小説『デダリュス』完結編を世界で同時に発売するため,フランスのある洋館の地下室に9か国の翻訳家が集められる。小説の内容を極秘にするため,彼らは外部と通じる通信機器などをすべて取りあげられ,外部と接触することが一切不可能になる。そして,毎日20ページずつ渡される原稿を翻訳していくのだが,ある夜,アングストローム出版社の社長であるエリックのもとに「『デダリュス』の冒頭10ページをネットに公開した。24時間以内に500万ユーロを支払わなければ,次の100ページも公開する。要求を拒めば全ページを流出させる」という脅迫メールが届く。誰がどのようにして小説の内容を知り得たのか。九人の翻訳家の中に脅迫メールを送った人物がいるのか。本作はこの点を巡って展開されるミステリー映画であるが,とりあえず,つかみはOKと言えるだろう。

では,肝心のミステリーとしての展開はどうかというと,話が二転,三転し,しかも伏線もキッチリと回収されていて,なかなか楽しめる映画であった。基本は復讐物語なのだが,文学に対する愛というテーマが随所で語られ,それがミステリーの展開に関わってくるという仕掛けになっているところにも説得力が感じられる作品である。

ミステリーなので,ネタバレにならないようストーリーの詳しい展開は書くわけにはいかないが,制作側の「どうだ,面白いだろう」というドヤ顔が見え隠れするような気がするので,私があまり納得のいかなかった点を一点だけ述べておきたい。ひょっとすると,物語全体に対する瑕疵になっているかもしれないと思われるのである。

それはエリックが地下鉄で帰宅する一連のシーンだ。このシーンはその後の展開に対して無理筋になっているように思われるのである。この一連のシーンは,一つにはアガサ・クリスティーの小説に引っかけたということがあるのだが,本当にこのシーンは必要だったのだろうか。映画の終盤で,犯人はそのシーンで行われたことの意味について語り,それはちょっとしたどんでん返しになっているのだが,ひと言で言うと,この緻密な犯罪を考えるような人間はそんな無防備なことはゼッターーーーイにしないと思うのだ。私が言っているのは,地下鉄を利用した行為そのものではなく,その行為を行うための準備がかなりのリスクを伴うということだ。不等号を用いて表せば,「リスク」>>>>>>「動機」だろう。あえて言えば,費用対効果が低すぎて普通はやらないのではないだろうか。(笑)

劇中,ある人物が『デダリュス』ついて語る言葉。「この物語の犯人は,あなただ。自分のものは自分で守る。」なるほど。

 

 このコロナ禍のなか,アメリカが揺れている。黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官の暴行によって窒息死させられ,それをきっかけに全米各地で人種差別への抗議デモが激化している。アメリカでは今回のような白人警官による黒人への暴行死はこれまでにも幾度となく繰り返されてきたが,SNSが発達している近年ではその様子が動画として拡散され,それによってこの暴行死が世界中に与えるインパクトは以前とは比べものにならないほど大きくなっている。Black Lives Matter. 彼らのこの主張を私も支持したいと思う。

 そんな中,米動画配信サービスHBO Max1939年公開の映画『風と共に去りぬ』の配信を停止したことを明らかにした。611日付の朝日新聞夕刊によると,「同社は米メディアへの声明で,『映画には,米社会によく見られてきた民族や人種に対する偏見が描写されている』と指摘。『こうした人種差別の描写は当時も間違っていたし,今日でも間違っている』などとした。同社は今後,映画の歴史的な意味合いや,差別表現への批判などの説明を加えた上で,配信を再開するとしている」とのことである。

 この映画に関しては従来から奴隷制を美化しているなどといった批判もあったようで,昨年観たスパイク・リーの『ブラック・クランズマン』でも冒頭でこの映画の一シーンが引用されており,スパイク・リー自身は明らかにこの映画を人種差別的な作品と位置づけていることがわかる。私自身はほぼ50年前にこの映画を観た記憶があるのだが,ごく大雑把なことしか覚えておらず,果たしてそれが人種的偏見が描写されている作品なのかどうかも定かではなかったので,今回DVDで再鑑賞することにした。以下は,そのような観点から見たこの映画に対する感想である。

 アカデミー賞作品賞を受賞した有名な作品なので,この映画について知っている人は多いと思うが,ひと言で言えば,南北戦争前後という時代と,南部のアトランタを背景として大農場主の娘スカーレット・オハラの2人の男との関わりを中心に,彼女の波乱万丈の半生を壮大なスケールで描いた映画である。時代背景からもわかるように,問題はオハラ家の召使いとして登場する黒人奴隷の描き方がどうであるかにある。召使いとして登場する主な人物は,マミー,ビッグ・サム,プリシーという3人の黒人であるが,彼らはオハラ家の中で特に虐待を受けているわけではなく,普通の使用人のように描かれている。あえて黒人奴隷に対するあからさまな差別意識が現れているシーンとしては,北軍が南部に攻め入ってきて駅の広場に無数の負傷者が横たわっているシーン(『ブラック・クランズマン』の冒頭で引用されていたシーンである)を挙げることができるであろう。この大混乱の最中,アシュレーの妻メラニーが産気づく。スカーレットは召使いのプリシーに駅に行って医者を呼んでくるように言うが,プリシーは躊躇している。その時にスカーレットがプリシーに向かって言い放ったひと言が「急がないと売り飛ばすわよ」なのだ。しかし,このシーンを捉えて,この映画を人種差別的であると断罪するのは問題の本質を見失うことになるだろう。問題はむしろ逆だ。オハラ家と黒人の召使いの関係が雇用主と普通の使用人のような関係として描かれている点にこそあるのではないだろうか。つまり,そのような描き方こそ現実に存在した奴隷制度の過酷さを隠蔽し,この制度を使用人思いの主人と主人一家を愛する黒人たちという類型化されたパターンに流し込むことになるのではないだろうかということである。ただ,ここには映画制作上の難しい問題が存在することも事実だろう。つまり,この映画は,上にも書いたように,スカーレット・オハラの波乱万丈の半生を描いた映画であり,奴隷制度の問題はこの作品のテーマではないし,南北戦争の問題を正面から扱った映画でもないのである。さらに,この映画の制作年度は1939年,公民権法が制定された1964年より25年前であり,人種差別が公然と行われていた時代であるということも考慮されるべきであろう。その意味では,私には「映画の歴史的な意味合いや,差別表現への批判などの説明を加えた上で,配信を再開する」というHBO Max社の措置は妥当なものだと思われる。

 なんとも,どっちつかずの結論になってしまった。(苦笑)しかし,それほど,これは難しい問題なのだと思っていただければありがたい。最後に,ひと言だけ言うと,私はこの作品を再々鑑賞することはないだろう。差別問題とは関係なく,どうも私の趣味には合わない作品だし,220分は長すぎるからである。(笑)

 

 

監督:レニー・アブラハムソン     

キャスト:

ブリー・ラーソン(ジョイ)                      

ジェイコブ・トレンブレイ(ジャック)

 ジョアン・アレン(ナンシー)

 ショーン・ブリジャース(オールド・ニック)

 

 たいていの物語は,その構成が「起承転結」であろうが「序破急」であろうが,クライマックスへと向かっていき,その後,問題が解決されて物語が完結する。犯罪を扱った映画の場合,事件が解決すればジ・エンドだ。しかし,現実世界においては,ことはそれほど簡単ではない。犯罪報道が事件を「消費」し,それが私たちの記憶から消えていったあとも,被害に遭った人たちの生活は続く。想像するに,彼らは事件が起こる前とは違った世界の中で生きていかなければならないだろう。映画『ルーム』は,この問題に焦点をあて,犯罪被害に遭った主人公が自己回復を遂げるまでを描いた映画である。

 

(ネタバレ)

 映画の冒頭,小さい男の子がベッドで横になっている若い女性に「ママ,5歳になった」と言う。男の子の名はジャック,女性の名はジョイ。ジャックとジョイの会話から,二人はオールド・ニックという男によって小さい部屋(あとで,ニックの家の納屋だと分かる)に監禁されていることがわかる。部屋には窓がなく,天窓が一つあるだけだ。ジョイは17歳の時ニックによって拉致され,その後7年間もこの部屋に監禁されているのである。つまり,ジャックは監禁2年目に生まれた,犯人であるニックとの間の子供ということになる。ジャックは生まれたときから,この「ルーム」から外に出たことはなく,ジャックにとって「ルーム」が「世界」のすべてなのである。ある日,ジョイはジャックを「ルーム」から逃がそうとして作戦を立て,それを成功させるべく何度も練習をする。いよいよ脱出計画を実行する日がやってきて,ジャックはなんとか「ルーム」から脱出することに成功し,その時たまたま出会った人が警察に通報してくれたおかげでジョイも解放され,ニックは逮捕される。映画のプロットとしては,ここでジ・エンドとなってもいいだろう。ジョイとジャックの濃密な関係が世界のすべてであり,それ以外のTVに写る映像や天窓を通して見える「宇宙」はすべてフィクションである「ルーム」の世界。しかし,外の世界を知っているジョイはなんとかしてジャックを現実の世界に出してやりたいと思う。ジャックが脱出できるかどうかが映画のクライマックスになり,観客をハラハラドキドキさせながらもジャックは無事に脱出する。しかし,レニー・アブラハムソンはさらにその後の物語を紡ぐのだ。

 解放されたジョイとジャックは病院に収容されており,そこにジョイの両親が駆けつけてくる。7年ぶりに感激の再会をするジョイと両親。もっとも,ジョイの母親ナンシーと父親ロバート(ウィリアム・H・メイシー)は離婚しており,ナンシーはレオ(トム・マッカムス)と暮らしている。ジョイとジャック,それにジョイの両親はとりあえずナンシーが住んでいる家に向かう。レオも彼らを歓迎してくれ,ナンシーはジャックをかわいがってくれるが,ロバートはジャックの顔を見ようともしない。自分の娘と犯人との間に生まれた子供にわだかまりを持っているのだ。それに気づいたジョイはロバートを激しく非難する。観客にとってこのシーンは衝撃的だ。ジョイとジャックの解放善意の人々予定調和という流れにロバートは水を差す。私はレニー・アブラハムソンにこのシーンをもっと掘り下げてもらいたかったのだが,ロバ-トはその後スクリーンに登場しない。その後,映画は,ジャックが徐々に「世界」に馴染んでいく一方で,ジョイが徐々に精神のバランスを崩していくシーンを追い続ける。日が経つにつれて,ジョイは「なぜ自分だけがこんな目に?」という思いにとらわれ, とうとうナンシーとも激しく言い争ってしまう。そんなある日,ジョイはテレビ局のインタビューを受けることになる。インタビュアーの遠慮のない質問。インタビューのあとジョイは鬱状態になり,自殺未遂で病院に運び込まれる。ジャックは自分の力の源をジョイに送り,ジョイは立ち直る。

 映画の後半を私なりに絵解きすれば,ナンシーの家での生活は,ジャックにとっては初めて経験する世界であり,ジャックは「ルーム」の中での「世界」をリセットして現実の世界を経験し直さなければならない。脱出に成功して病院に収容されたとき,医者がジョイに言う。「子供はプラスチックのように柔軟だからね。」医者の言葉通り,ジャックは新しい世界に徐々に親しんでいく。一方,ジョイはどうか。解放は,ジョイにとっては,もといた世界への帰還になるのだが,両親の離婚,世間の好奇心,自分だけがひどい目に遭ったという思いなどのため,そこは以前の世界とは違ったものになっている。ジョイにとっても,拉致される前の世界をリセットして新しい世界に入っていかなければならない

 このように見たとき,この映画は帰還と再生・発見の物語と言うことができるし,監督の意図も理解できるのだが,私には何となく物足りなく思われたのである。その原因の一つは,ジョイが追いつめられていくプロセスを描く一つ一つのシーンの積み重ねが,やや平板な描き方になったことにあるのではないだろうか。たとえば,ジョイとロバートの確執などはかなり現実的だと思うのだが,それほど深く追求されることはない。また,自殺未遂事件を起こしたジョイを救ったのはジャックなのだが,この回復過程も私には安直な描き方だったように思われる。テーマも物語の構成もよかっただけに,あと一歩の踏み込みがあればと思わせる映画であった。

 

 

 

 

 

監督:フェデリコ・フェリーニ

キャスト

 ジュリエッタ・マシーナ(ジェルソミーナ)

アンソニー・クイン(ザンパノ)

リチャード・ベイハースト(イル・マット)

 

 今から何十年か前,まだ30代だった頃,ある人に「好きな映画監督か脚本家は?」と聞かれたことがある。それに対する私の返答は「フェデリコ・フェリーニ」だった。その人は,少し間を置いてから「では,日本人では?」と聞いてきた。私の返答は「」だった。それ以後,その人に会ったことはない。そして,それからしばらく経って,私はその時の自分の返答が場違いなものであったことに気がついたのだが,私が「フェリーニ」と答えたとき,私の脳裏にあったのは映画『道』であったことは確かに憶えている。そんなことを思い出しながら,最近『道』を再鑑賞した。そして,ハタと気づいたのだ。私が30代の時に抱いていたこの映画に対する印象の中で気づかなかったことが一つあることに…。「すごい!」のひと言。フェリーニはスクリーンに映らない映像で語るのだ。

 

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イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの代表作のひとつで,旅回りの芸人たちの悲哀を描き,第29回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した古典的名作。貧しい家庭に生まれ育った知的障害の女性ジェルソミーナは力自慢の大道芸人ザンパノに買われ,彼の助手として旅回りに出る。粗暴で女好きなザンパノに嫌気が差したジェルソミーナは彼のもとから逃げ出すが,捕まって連れ戻されてしまう。そんなある日,2人はサーカス団と合流することになり,ジェルソミーナは綱渡りの陽気な青年と親しくなる。青年の言葉に励まされ,ザンパノのもとで生きていくことを決意するジェルソミーナだったが…。「アラビアのロレンス」のアンソニー・クインがザンパノ,フェリーニ監督の公私にわたるパートナーであるジュリエッタ・マシーナがジェルソミーナを演じた。(「映画.com」より)

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 この映画についてはすでにいろいろなことが語られてきた。喜怒哀楽を表すジェルソミーナの豊かな表情と動作,ニーノ・ロータの音楽のすばらしさ,イル・マットがジェルソミーナに語る石ころの話,イル・マットとジェルソミーナの別れのシーン…。もちろん,すべてが素敵だし,私もそう思う。しかし,すでに語り尽くされたこれらのことを私が語ってもそれほど意味はないだろう。なので,私は今回この映画を観て自分が今まで気づかなかったことを一つだけ書いてみることにした。

 

私はこの映画の神髄はラストの30分ほどの展開に凝縮されているように思うのである。サーカス団の軽業師のイル・マット(キジルシ)は,自分勝手で粗暴で女好きで強靱な体力以外に取り柄のないザンパノとは違い,ジェルソミーナに寄り添ってくれる若者だ。ジェルソミーナもイル・マットと心を通わせるが,結局,彼と別れ,ザンパノと旅を続けることにする。そして,悲劇が起こる。旅を続けているザンパノとジェルソミーナは,あるとき偶然にもイル・マットと遭遇する。ザンパノはイル・マットのことを憎んでおり,この時とばかりイル・マットを殴り殺してしまうのだ。それにショックを受けたジェルソミーナは日に日に心と体が衰弱していく。そんなジェルソミーナをもてあましたザンパノはある日,眠っているジェルソミーナを捨てて逃げていくのである。眠っているジェルソミーナの傍らにラッパを置いて…。それから数年経って,ザンパノはあるサーカス団に雇われている。自分の出演が終わって休憩時間に散歩に出かけたところ,ジェルソミーナがよくラッパで吹いていたメロディーを口ずさんでいる女と出会う。ザンパノはその女のところに行って「どうしてそのメロディーを知っているのか?」と尋ねる。以下はザンパノと女が交わす会話である。 

女「ずっと前に居た子が唄っていたのです。」

ザンパノ「どれくらい前?」

女「4~5年前かしら。ラッパで吹いていて,それで覚えたの。」

ザンパノ「今はどこに?」

女「死んだわ。かわいそうに。あなた,サーカスの方ね。あの子も旅暮らしだったわ。誰も何も知らなかった。何も話さない。ひどく風変わりで。ある晩,父が海辺で見つけたの。体を壊して,熱があって。家に連れてきても何も話さず,何も食べず,泣くばかり。体調がよければ“ひなたぼっこ”して,“ありがとう”ってラッパを吹いていた。そしてある朝,目を覚まさなかったの。」

 

  映画は映像で語るべきだし,長々とセリフで説明される映画ほどシラケるものはない。しかし,この映画のこのシーンは別だ。女がしゃべるにつれて私たち観客は想像力をかき立てられ,女が語る言葉の一つ一つが観客の脳裏に映像となって浮かんでくるのである。もちろん,それはそれまでの展開の中でジェルソミーナが見せていた喜怒哀楽を表す豊かな表情と動作によるものだが,もはや,それは単なる映画の中の出来事ではなくなり,観客はいつの間にかザンパノと同じ心情を共有してしまうのだ。いや,ザンパノそのものになってしまい,ザンパノとともに失ったものの大きさに気づくのである。ジェルソミーナが「自分」にとってかけがえのないものであったことに。ザンパノに捨てられたあとのジェルソミーナの映像を映さないことによって,フェリーニは観客の想像力に訴えかけ,観客の一人一人をスクリーンの中の登場人物にしてしまったのだ。それまでのさまざまなシーンはこのためにこそあったと言うと言い過ぎかも知れないが,私にはそのようにしか思えないのである。浜辺でザンパノが思いあまって泣くエンディングの姿,あれは一人一人の観客の姿なのである。映像で見せることなく語る。映像の魔術師とでも言うべきフェリーニが仕掛けた策略に私たち観客はまんまとハマってしまうのである。この映画は「すごい!」。

 

 

 

 

 

 

 

監督:鈴木清順

 

キャスト

 原田芳雄(中砂糺)

 大谷直子(中砂園 / 小稲:二役)

 藤田敏八(青地豊二郎)

 大楠道代(青地周子)

 

映画とはスクリーンに映し出される幻影だ。観客である私たちは映画を観ている間その幻影を追いかけている。まるでそれを現実世界の出来事であるかのように錯覚しながら。いや,それは錯覚ではないのだろう。優れた映像はスクリーンの向こうに現実を映しだしているのだから。そうだとすれば,この映画は「あまりにも映画的な」映画なのだ。だって,私たちはいずれ必ず死ぬのだから。

映画監督,鈴木清順の名前を初めて知ったのは20代の初め頃に「けんかえれじい」を観たときだった。この映画が気に入ったので調べてみたら,それまでに清順さんが日活で撮ったプログラムピクチャーを何本か観ていたことがわかったのだ。監督の名前も確認しないで映画を観ていたのか(苦笑) それで,内田百閒 の短編「サラサーテの盤」(未読)などを田中陽造が脚色した本作を清順さんが撮ったというので,当時住んでいた地方都市の劇場で公開された初日に観に行った記憶がある。感想は「なんだかよく分からない」だった。2年ほど前にたまたまDVDが手許にあったというだけの理由でこの映画を観た。そして,その感想は「衝撃的!!」,「初めての映画体験!!」。今回,コロナ禍の中で3度目の鑑賞。やはり衝撃的!!

 

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「殺しの烙印」(1967),「悲愁物語」(77)の鈴木清順監督が,内田百閒の「サラサーテの盤」などいくつかの短編小説をもとに,夢と幻が交錯するなかで狂気にとりつかれた男女の愛を描いた幻想譚。大学教授の青地と友人の中砂は,旅先の宿で小稲という芸者と出会う。1年後,中砂から結婚の知らせをうけた青地は中砂家を訪れるが,新妻の園は小稲に瓜二つだった80年,東京タワーの下に建造されたドーム型の移動式映画館シネマ・プラセットで上映されたことも話題に。日本アカデミー賞の作品賞ほか,ベルリン国際映画祭の審査員特別賞を受賞するなど国内外で高い評価を受けた一作。2012年,浪漫3部作を成す「陽炎座」(88),「夢二」(91)とあわせてニュープリントでリバイバル上映。(映画.comより)

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 映画のエンディング。中砂はすでに亡くなっているのだが,その娘の豊子(幼女)が青地に言う。

「おじさんのお舟をちょうだい。なぜそんな顔をするの。お父さんは元気よ。おじさんこそ生きているって勘違いしてるんだわ。」

 死んだ人間が生きていて,生きている人間が死んでいる。映画を観ながら自分が感じていたことを言われてしまった。「本当に自分は生きているのか?」

 

 大正ロマンか昭和初期の時代。冒頭で陸軍士官学校の教官の青地と元教官の中砂が,サラサーテ自身が演奏している「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを聞いている。すると途中でかすかに人間の声がレコードから聞こえてくる。しかし,何を言っているのか分からない。仲砂は破天荒な人物で,青地が彼に翻弄されながら展開されるこの映画の「ストーリー」には脈絡がない。若かったころの私はこの脈絡のなさに「なんだかよく分からない」と思ったのだろう。しかし,この映画に脈絡など必要なのか? 幻想と現実,彼岸と此岸。その怪しげで魅惑的な世界の中に青地と同様,私もすっかり引き込まれてしまった。病気になって高熱にうなされながら見る夢のような世界。「なんだ?この不思議な体験は?」

 全編を通じる映像美の中に次々と現れる象徴的なシーン。中砂と青地の家の間にある切通し。映画の中でこの切通しは何度も登場するのだが,まるでそれはこの世とあの世をつなぐ通路のようだ。中砂の家に行くために青地が切通しの入り口まで来ると,向こうから中砂の妻,園がやってくるシーンがある。園は青地に挨拶をすると青地の「どちらへ行かれるのですか?」という質問に答えることもなく,青地と一緒に切通しを引き返すのだ。それはあたかも園が青地をあの世へと誘っているかのようにも見えるのだが,引き返す途中,青地と園が橋の上で花火を見ている人々を見るシーンがある。これも夢なのか現実なのか。彼らは生きているのか,死んでいるのか。橋と言えば,この映画には,切通しだけでなく,離れた二つの場所をつなぐものが随所に出てくる。序盤の川にかかっている長い木の橋,トンネル。幻想と現実,彼岸と此岸。観客はその間を行ったり戻ったりしながら,夢うつつになっていくのだ。

 映画は中砂,青地,小稲(中砂と青地が旅先で出会った芸者),園,周子(青地の妻)が奇妙に絡み合う人間模様を描いているのだが,いろいろな断片的シーンを思い出しながら,未だに夢見心地な気分にさせてくれる作品なのだ。大楠道代が演じる周子が中砂の瞼と眼球を舌で舐めて目に入ったゴミをとってあげるシーン。その後,周子は青地の前で腐りかけの水蜜桃を舌で舐めるのだ。「腐りかけが一番おいしいのよ。」中砂もまた同じことを言いながら梅の花のアレルギーによって赤い斑点が出ている周子の肉体を貪る。しかし,これもまた夢なのか現実なのか。園がすき焼きに入れるこんにゃくを手でちぎるシーン。このシーンは何度か出てくるのだが,まるで肉を引きちぎっているかのようであり,それは中砂が骨にこだわるのと対照的だ。中砂はなぜあれほど骨にこだわるのか。それも桜色の。考えてみれば,なんともつかみ所のないこの映画の中で唯一堅さが感じられるものであり,中砂にとって骨だけが現実だったのだろうか。

 人は死ぬと子供に戻るのだろうか?時折登場する男2人,女1人の盲目の3人組の門付け。彼らは死んで子供に戻ったのか?序盤,死んだ女の股間から出てくる赤いカニ。そして,中砂は死んで豊子になってしまったのか?ウ~ン,そんな解釈はどうでもいいだろう。観客である私は青地とともに幻想と現実の間を行き来しながら摩訶不思議な映画の世界に絡め取られ,そして

 役者陣についても触れなければならない。原田芳雄の芸達者は言うまでもないが,青地を演じた藤田敏八が見事だ。藤田は本来,役者ではなく監督なのだが,鈴木清順が彼を起用したのが十分頷ける演技だった。大谷直子の妖艶な美しさには身震いがするほどだし,大楠道代の怪しげな雰囲気に吸い込まれそうになるのだ。おそらく,この役者陣でなければ,この映画のもつ爛熟美は醸し出されなかったであろう。