
監督:鈴木清順
キャスト
原田芳雄(中砂糺)
大谷直子(中砂園 / 小稲:二役)
藤田敏八(青地豊二郎)
大楠道代(青地周子)
映画とはスクリーンに映し出される幻影だ。観客である私たちは映画を観ている間その幻影を追いかけている。まるでそれを現実世界の出来事であるかのように錯覚しながら…。いや,それは錯覚ではないのだろう。優れた映像はスクリーンの向こうに現実を映しだしているのだから。そうだとすれば,この映画は「あまりにも映画的な」映画なのだ。だって,私たちはいずれ必ず死ぬのだから。
映画監督,鈴木清順の名前を初めて知ったのは20代の初め頃に「けんかえれじい」を観たときだった。この映画が気に入ったので調べてみたら,それまでに清順さんが日活で撮ったプログラムピクチャーを何本か観ていたことがわかったのだ。監督の名前も確認しないで映画を観ていたのか…。(苦笑) それで,内田百閒 の短編「サラサーテの盤」(未読)などを田中陽造が脚色した本作を清順さんが撮ったというので,当時住んでいた地方都市の劇場で公開された初日に観に行った記憶がある。感想は…「なんだかよく分からない」だった。2年ほど前にたまたまDVDが手許にあったというだけの理由でこの映画を観た。そして,その感想は…「衝撃的!!」,「初めての映画体験!!」。今回,コロナ禍の中で3度目の鑑賞。やはり衝撃的!!
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「殺しの烙印」(1967),「悲愁物語」(77)の鈴木清順監督が,内田百閒の「サラサーテの盤」などいくつかの短編小説をもとに,夢と幻が交錯するなかで狂気にとりつかれた男女の愛を描いた幻想譚。大学教授の青地と友人の中砂は,旅先の宿で小稲という芸者と出会う。1年後,中砂から結婚の知らせをうけた青地は中砂家を訪れるが,新妻の園は小稲に瓜二つだった…。80年,東京タワーの下に建造されたドーム型の移動式映画館シネマ・プラセットで上映されたことも話題に。日本アカデミー賞の作品賞ほか,ベルリン国際映画祭の審査員特別賞を受賞するなど国内外で高い評価を受けた一作。2012年,“浪漫3部作”を成す「陽炎座」(88),「夢二」(91)とあわせてニュープリントでリバイバル上映。(映画.comより)
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映画のエンディング。中砂はすでに亡くなっているのだが,その娘の豊子(幼女)が青地に言う。
「おじさんのお舟をちょうだい。なぜそんな顔をするの。お父さんは元気よ。おじさんこそ生きているって勘違いしてるんだわ。」
死んだ人間が生きていて,生きている人間が死んでいる。映画を観ながら自分が感じていたことを言われてしまった。「本当に自分は生きているのか?」
大正ロマンか昭和初期の時代。冒頭で陸軍士官学校の教官の青地と元教官の中砂が,サラサーテ自身が演奏している「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを聞いている。すると途中でかすかに人間の声がレコードから聞こえてくる。しかし,何を言っているのか分からない。仲砂は破天荒な人物で,青地が彼に翻弄されながら展開されるこの映画の「ストーリー」には脈絡がない。若かったころの私はこの脈絡のなさに「なんだかよく分からない」と思ったのだろう。しかし,この映画に脈絡など必要なのか? 幻想と現実,彼岸と此岸…。その怪しげで魅惑的な世界の中に青地と同様,私もすっかり引き込まれてしまった。病気になって高熱にうなされながら見る夢のような世界。「なんだ?この不思議な体験は?」
全編を通じる映像美の中に次々と現れる象徴的なシーン。中砂と青地の家の間にある切通し。映画の中でこの切通しは何度も登場するのだが,まるでそれはこの世とあの世をつなぐ通路のようだ。中砂の家に行くために青地が切通しの入り口まで来ると,向こうから中砂の妻,園がやってくるシーンがある。園は青地に挨拶をすると青地の「どちらへ行かれるのですか?」という質問に答えることもなく,青地と一緒に切通しを引き返すのだ。それはあたかも園が青地をあの世へと誘っているかのようにも見えるのだが,引き返す途中,青地と園が橋の上で花火を見ている人々を見るシーンがある。これも夢なのか現実なのか…。彼らは生きているのか,死んでいるのか…。橋と言えば,この映画には,切通しだけでなく,離れた二つの場所をつなぐものが随所に出てくる。序盤の川にかかっている長い木の橋,トンネル…。幻想と現実,彼岸と此岸…。観客はその間を行ったり戻ったりしながら,夢うつつになっていくのだ。
映画は中砂,青地,小稲(中砂と青地が旅先で出会った芸者),園,周子(青地の妻)が奇妙に絡み合う人間模様を描いているのだが,いろいろな断片的シーンを思い出しながら,未だに夢見心地な気分にさせてくれる作品なのだ。大楠道代が演じる周子が中砂の瞼と眼球を舌で舐めて目に入ったゴミをとってあげるシーン。その後,周子は青地の前で腐りかけの水蜜桃を舌で舐めるのだ。「腐りかけが一番おいしいのよ。」中砂もまた同じことを言いながら梅の花のアレルギーによって赤い斑点が出ている周子の肉体を貪る。しかし,これもまた夢なのか現実なのか…。園がすき焼きに入れるこんにゃくを手でちぎるシーン。このシーンは何度か出てくるのだが,まるで肉を引きちぎっているかのようであり,それは中砂が骨にこだわるのと対照的だ。中砂はなぜあれほど骨にこだわるのか。それも桜色の…。考えてみれば,なんともつかみ所のないこの映画の中で唯一堅さが感じられるものであり,中砂にとって骨だけが現実だったのだろうか。
人は死ぬと子供に戻るのだろうか?時折登場する男2人,女1人の盲目の3人組の門付け。彼らは死んで子供に戻ったのか?序盤,死んだ女の股間から出てくる赤いカニ。そして,中砂は死んで豊子になってしまったのか?ウ~ン,そんな解釈はどうでもいいだろう。観客である私は青地とともに幻想と現実の間を行き来しながら摩訶不思議な映画の世界に絡め取られ,そして…。
役者陣についても触れなければならない。原田芳雄の芸達者は言うまでもないが,青地を演じた藤田敏八が見事だ。藤田は本来,役者ではなく監督なのだが,鈴木清順が彼を起用したのが十分頷ける演技だった。大谷直子の妖艶な美しさには身震いがするほどだし,大楠道代の怪しげな雰囲気に吸い込まれそうになるのだ。おそらく,この役者陣でなければ,この映画のもつ爛熟美は醸し出されなかったであろう。