監督:コートニー・ハント

キャスト

 キアヌ・リーブス(リチャード・ラムゼイ)

  レニー・ゼルウィガー(ブーン・ラシター)

  ググ・ンバータ=ロー(ジャネル・ブレイディ)

  ガブリエル・バッソ(マイク・ラシター)

 ジム・ベルーシ(ブーン・ラシター)

 

 外国映画,邦画を問わず,法廷のシーンが出てくる映画は数多ある。しかし,全編裁判の様子を描いた映画と言えば,私にはシドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』しか思い浮かばないのだが,今回取り上げる『砂上の法廷』はその「ジャンル」に新たに加わった作品と言えるだろう。『十二人の怒れる男』が陪審員に焦点が当てられているのに対し,こちらは弁護側にフォーカスされている。94分という短い映画だが,騙されてみるのも一興かも。  

 

(ネタバレはありませんが,ストーリー展開には「起承転結」の「転」の中間ぐらいまでは踏み込んでいます。)

 裕福な大物弁護士ブーン・ラシターが自宅で刺殺される。逮捕されたのは息子のマイク・ラシター。マイクは17歳だが,成人として裁かれることになる。マイクの弁護を引き受けるのは,ブーンの後輩のリチャード・ラムゼイなのだが,マイクはなぜか裁判が始まっても黙秘を続けたままなのである。ラムゼイは一人では裁判を乗り切れないと考え,黒人女性のジャネル・ブレイディを補佐として雇う。この女性,「ウソ発見器」と称されるほどウソを見抜く能力に優れており,なかなか有能そうである。裁判が始まり,最初の証人アンジェラ・モーリーの証言が行われる。アンジェラはチャーター航空会社の客室乗務員で,ブーンは顧客の一人なのである。アンジェラはブーンとマイクが最後に乗ったときの様子について,理由は分からないがマイクは不機嫌だったと証言する。次の証言者はタクシーの運転手だが,彼は最後にブーンを乗せたときの様子について,特に変わったことはなかったと証言する。しかし,彼らはブーンの女性関係について本当のことを言っていないようなのである。次の証言者は,ブーン家の隣人で家族ぐるみでつきあいのあったウェスティン(ショーン・ブリッジズ)だ。彼は,両家で野外パーティーをしたときのことについて話す。ブーンは横暴な男で,人前であっても妻のロレッタを罵倒し,ロレッタはそれに耐えていたこと,また,ブーンは自分にも暴言を吐いたのでそれ以降付き合わなくなったことを話す。さらに警察関係者の証言が続くが,彼らはすべて,マイクが父親を殺害したと証言するのである。また,ウェスティンの息子のアレックスは,ブーンが日常的にロレッタを虐待していたと証言する。これらの証言から,陪審員たちの印象は,マイクが母親のロレッタに同情してブーンを殺害したということに傾いていく。ジャネルは証言をした人たちがどこかウソを言っているのではないかと疑うが,ラムゼイはロレッタに検察側の証人として証言して欲しいと申し出るのだ。どうやらこれはラムゼイの戦略らしいのだが,ロレッタは法廷で,涙ながらにマイクが自分をブーンの暴力から守るためにブーンを殺害したと証言するのである。この証言は陪審員たちの心に訴えかけることになる。ところが,ロレッタの証言のあと,それまで沈黙を守り通していたマイクが突然証言すると言い出す。ラムゼイはマイクの弁護を引き受けてからマイクと一言も口を利いていなかったので,マイクが何をしゃべるかの見当がつかず,焦ってマイクに証言台に立つのを思いとどまるよう説得する。しかし,マイクは何も答えない。映画の観客としてはラムゼイの焦燥感はよく理解できるのだが,実はこれは映画の一つの伏線になっているのである。そして,マイクは証言台で衝撃的なことを言い出す。

 

 映画はこのあたりからクライマックスへ突入していくのだが,そこはネタバレになるので,書くのは控えたい。マイクの衝撃的な話をもってすべての証言者の証言が終了し,裁判に判決が下され,映画はラストへと向かっていく。しかし,ラスト,さらなる大どんでん返しが待っているのである。

 この映画の公式サイトに「94分,あなたは騙され続ける」とあるが,確かに私も騙された。この騙し方を是とするか否とするかは観客の受け止め方次第だろう。わたしの受け止め方は前者だ。したがって,私はミステリー映画としてのプロットや構成はよくできた映画だと思う。サスペンスやミステリーにはどんでん返しはつき物であるが,映画を見終わった後,「あ,あれが伏線だったんだ」と納得できるかどうかが,その映画が成功したかどうかの基準である。その点でもこの映画は水準以上だと言ってもよいだろう。この映画の全編を貫いているのは「ウソの存在」だ。したがって,すべての証言にどこかウソがあるのではないかと疑うジャネルを登場させたことが,この映画を説得力のあるものにしている要因の一つである。あまり強調されてはいないが,ラスト近く,彼女の鋭い直感が向けられる先がちらっと映し出されるのだが,注意深い観客はそのシーンで「?」と思うに違いない。法廷での証言を中心に展開される会話劇だが,94分というスピーディーな進行と相俟ってまったく退屈することはなかった。ただ一点,マイクに対する判決には納得できないところはあったが…。

 

 

監督:バラン・ボー・オダー

キャスト

 トム・シリング(ベンヤミン)

 エリアス・ムバレク(マックス)

 ハンナ・ヘルシュプリン(マリ)

 トリーヌ・ディルホム(ハンネ)

 

 ベンヤミンはハッカー集団CLAYのメンバーで,映画は,冒頭,欧州刑事警察機構の取り調べ室で捜査官ハンネの取り調べを受けているところから始まる。ベンヤミンは自首してきたのだ。物語は,彼の供述にしたがって展開されていく。ベンヤミンは天才的ハッカーなのだが,ひ弱な青年で,好きな女性マリにも相手にしてもらえない。そんなベンヤミンは,ある日マックスと知り合いになり,他の2人を加えてハッカー集団CLAYを結成する。CLAYは政治団体や製薬会社,金融機関などの管理システムを次々とハッキングしていくのだが,それは,何らかの政治的な意図や莫大なカネを得るためというわけではない。ただ,世の中から注目を浴びたいだけであり,特にカリスマハッカーMRXに認めてもらいたいだけである。いわば,愉快犯なのだが,MRXはなかなか彼らのことを認めない。そこで,彼らは,MRXに自分たちの存在を認めさせるため,難易度の高い連邦情報局のハッキングを企て,まんまと成功する。しかし,調子に乗りすぎたベンヤミンが連邦情報局の情報をMRXに送ったことから殺人事件が発生し,MRXの策略によってCLAYがその事件に関与しているかのようになってしまい,さらにベンヤミン以外のCLAYのメンバーが殺害される。命の危険を感じたベンヤミンは自首して証人保護を求めたのである。

 映画はベンヤミンの供述に沿って上のような展開になっていくのだが,ベンヤミンの供述には,いろいろと辻褄の合わないところがある。例えば,ベンヤミンによれば,ハッキングに入った際にマックスの手に釘が刺さり,彼が傷を負ったことになっているのだが,ベンヤミンの手に釘が刺さった傷跡がある。捜査官のハンネはベンヤミンの供述に疑問を抱き,いろいろなことを調べ,ある結論にたどり着く。そして,一件落着…のはずだったのだが…。

 

 映画の予告編によれば,「映画全体を覆すほどのトリックや結末が用意されている映画」をマインドファック・ムービーと言うらしいのだが,この映画は確かにそうだ。天才的ハッカーが巻き込まれた危険な犯罪について,本人が語るシーンを積み重ねながらストーリーが組み立てられていくサイバー・サスペンス映画。映画のプロットを追いながら,私の好きな映画『ユージュアル・サスペクツ』のパターンかと思っていると,そうではなくて,なんだ『アイデンティティー』(この映画はあまり私の好みではない)のパターンか…と思った瞬間,「エ~!!」となってしまったのである。最後の最後,完全にだまされてしまった。

 サスペンス映画につきものの多少の無理な部分はあるものの,ハンネの結論,その後の展開など,かなり面白い映画だった。

 原題はWho Am I?-No System Is Safe.だが,日本語のタイトルにある「お前」って,私のこと?

 

この記事は以前Yahoo!ブログに掲載したものに加筆・修正したものです。

 

監督:フレッド・ジンネマン

キャスト

 エドワード・フォックス(ジャッカル)

 マイケル・ロンズデール(クロード・ルベル警視)

 

 虚実取り混ぜてフランス第18代大統領シャルル・ド・ゴール暗殺計画を描いたフレデリック・フォーサイス原作の『ジャッカルの日』を観た。ド・ゴールは第2次大戦中はロンドンに自由フランスを樹立し,レジステンスと共闘してナチスと戦ったフランスの英雄で,1959年にフランス大統領に就任したが,アルジェリアの独立を承認したことから右翼組織OASの暗殺の対象となった。本作の冒頭では実際に起こったOASによるド・ゴール暗殺未遂事件が描かれる。OASはド・ゴールを乗せた車を銃撃したものの失敗。首謀者ジャン・マリエ・タリー中佐が銃殺刑に処せられる。そして,映画はここからフィクションに入っていく。暗殺計画が失敗したため政府のしめつけが激しくなり,動きが取れなくなったOASは最後の手段として,当局に顔も名前も知られていない殺し屋を雇ってド・ゴール暗殺を企てるのである。そのために選ばれたのがジャッカルという暗号名を持つ男だ。OASはジャッカルとの契約金である50万ドルを用意するためにフランス各地で銀行強盗を決行するが,それがフランス当局を警戒させることとなり,ド・ゴール暗殺計画を未然に防ぐためにフランス当局の命を受けたクロード・ルベル警視とジャッカルの攻防戦が始まるのである。

 

 今から40年ほど前になるが,檜山良昭の『スターリン暗殺計画』という本を読んだことがある。詳細はあまり憶えていないが,日中戦争の最中,日本軍が企てたスターリン暗殺計画の過程を当時の資料や関係者たちへのインタビューに基づいて明らかにしていくというサスペンスだった。虚実取り混ぜながら進行するサスペンスなのだが,あまりにも面白くて興奮しながら読んだ記憶がある。どこまでが本当でどこからが虚構なのかがよく分からないところにその小説の面白さがあったのだ。『ジャッカルの日』を観ながらその小説を思い出したのは,上にも書いたように,この映画が歴史上の事実に接ぎ木をする形で展開されているところにあるからだ。もちろん,スターリンもド・ゴールも日本軍やジャッカルによって殺害されたわけではないことは明白なので結末は分かっているのだが,どちらの作品もその結末に至るまでの過程を難しいことを考えずに楽しむ作品なのだ。この映画に関して言えば,ジャッカルとルベル警視の知恵比べの部分こそがこの映画の神髄なのであり,エンタメ作品としてそれは見事に成功していると言えるだろう。

 さらに,この映画は随所でフィクションの醍醐味である「偶然」の作用をうまく利用しており,特に,ラスト,ジャッカルの銃が狙いを定めたド・ゴールに向けて発射された瞬間に起こった偶然の作用…。未鑑賞の人のためにこのネタはバラしてはいけないので寸止めにしておいたほうがよいだろう。

 ただ,この作品の中で一点だけ気になった箇所がある。ジャッカルは目的遂行のためには手段を選ばない人間として描かれているのだが,そのために2人の人間がジャッカルによって殺害されるのである。しかし,ここは殺害という方法ではなく,別の手段で危機を脱する描き方をしたほうがスマートではなかっただろうか。

 上にも書いたように,ストーリーは完全にフィクションなのだがどこかドキュメンタリータッチで描かれている印象を受ける作品なので,その点をネットで調べてみた。すると,フレッド・ジンネマン監督は若い頃記録映画監督ロバート・フラハティの助手をしていたということがわかった。なるほど,それで納得。

監督:パオロ・ソレンティーノ

キャスト

 マイケル・ケイン(フレッド・バリンジャー)

  ハーヴェイ・カイテル(ミック・ボイル)

  レイチェル・ワイズ(レナ・バリンジャー)

  ジェーン・フォンダ(グレンダ・モレル)

 

 場所は風光明媚なスイスのリゾート地。そこにある高級リゾートホテル。セレブと覚しき宿泊客たち。アルプスの素晴らしい景色を堪能しながら,さて,この宿泊客たちがどのような物語を紡いでくれるのかという期待感。しかし,意外にも映画はホテルに滞在している2人の老人の「老い」にまつわる物語なのだ。

 

 フレッド・バリンジャーは80歳を迎える引退した作曲家で指揮者であるが,過去,「シンプルソング」という世界的に愛された名曲を作曲した人物として知られている。フレッドの幼なじみで親友であるミック・ボイルも80歳であるが,現役の映画監督で,俳優たちを引き連れて次作のシナリオを書くためにこのホテルに滞在しているのである。映画はフレッドとミックの交流を中心に進んでいく。他の滞在客-ミス・ユニバース,激太りのマラドーナにそっくりの人物,チベットの仏教僧など-も出てくるが,彼らはいわばバックグラウンド・ミュージックであり,フレッドやミックに絡むわけではない。フレッドは退屈しており,ミックはシナリオがうまく進んでいない。フレッドとミックの交流といっても,小便がよく出たとか出なかったとか,若い頃,二人が共通に愛していたギルダという女性と寝たとか寝なかったとかといった話をするだけで,特に物語性があるわけではない。ある日,フレッドのところにエリザベス女王の使いの者が来て,フィリップ殿下の誕生日にBBCオケの演奏会を開くので,「シンプルソング」の指揮をして欲しいというオファーがくる。しかし,フレッドは「個人的な事情」(「シンプルソング」は妻のために作曲したものであり,妻しか歌えないが,その妻はもう歌えない。)があるという理由でそれを断る。この「個人的な事情」が,あとで問題になるのだが,フレッドはその過去を封印したいようである。だからといって,未来に何か希望があるわけでもない。そりゃあ,そうだろう。80歳にもなって,過去の栄光をしのぐほどの輝かしい未来など,ないのが普通だ。ミックはどうか。彼はまだ現役の映画監督で,次回作の制作に燃えている。では,彼には今まで積み上げてきたキャリアをしのぐような未来があるのだろうか。本人はそう思っているが,その思いは映画の後半で一人の女性によって木っ端微塵に打ち砕かれる。グレンダ・モレルだ。モレルはミックが女優として世に出してやった女性で,これまでに11本もの映画で一緒に仕事をしてきた。次回作でもミックはモレルに期待している。そのモレルがわざわざミックを訪ねて来て,映画には出演しないというのである。その理由は,お金のために3年契約のテレビに出演するからだ。そして,モレルはミックの映画をこき下ろす。

 「あなたの映画はクソ。あなたは映画を理解できない。もうろくしたから。世界を見渡せない。見えるのは自分の死。すぐ先で待ってる。あなたは終わり。…バカね,ミック。人生は続くのよ。クソったれの映画がなくても。」「分かった。君なしで撮るよ。」しかし,モレルの出ない映画にメリットを感じない俳優たちは帰ってしまう。映画制作が出来なくなったミックは,おそらく初めて自分に先がないことを自覚したのだろう。ミックはフレッドに尋ねる。

ミック「さてと,バカンスはもうすぐ終わる。お前はどうする?」

フレッド「どうするって?家に帰る。普段どおり。」

ミック「俺は違う。“普段”がない。」

 そして,ミックはホテルの部屋から飛び降りて死ぬ。

 ミックには「現役」か「死」か,その選択肢しかなかった。フレッドはミックの死に触れ,封印していた過去を解き放ち,「シンプルソング」の指揮をする決意をする。グランドフィナーレだ。

 同じ80歳でありながら,フレッドとミックの年齢に対する理解の仕方は対照的ではある。フレッドは人生の下り坂を下りていることを意識しているが,ミックはまだ上り坂だと思っている。だから,そうでないことを知らされたとき,死を選ぶより仕方がなかったのである。登山でもそうだと言われるが,人生も下りが難しい。私のような過去になんの栄光もない人間でもそうなのだから,フレッドやミックのように,過去に素晴らしい栄光に満ちた人生を背負っている人間にとってはなおさらそうであろう。だから,私には,ラスト,フレッドが過去の封印を解いて,「シンプルソング」の指揮をする気持ちになるのが理解できないのだ。その封印を解いたとしても,フレッドにそれほど輝かしい未来が待っているとも思えないのだ。私も高齢者なので,「年寄りはジッとしているべきだ」などと言うつもりはないが,いくら過去を振り返ったからといって,過去と同じような輝かしい未来が待っているはずはないのだ。その疑問を感じたとき,ふと思ったのが,この作品を撮ったとき,監督のパオロ・ソレンティーノが1970年生まれの46歳だということだ。46歳と言えば,普通,人生の下り坂にさし掛かっているわけではない。つまり,これは46歳の人間の世界観や人生観を80歳の人間に当てはめた映画なのだ。決定的に欠けているのは「死の意識」。私自身もとっくに還暦を過ぎているから分かるが,老人にとって「死」は様々な形で日常の中で常に意識に登ってくる事柄だ。よほどおめでたい人間でないかぎり…。しかし,この2人の老人にあるのは「退屈」か「野心」かだけなのだ。だから,「野心」が崩壊したときに簡単に死を選択するのだろう。グランドフィナーレ…?再生とか人間賛歌と言えば聞こえはいいが,私には,安直なアンチエイジングの映画だとしか思えなかった。そんなことを考えながら原題を見るとYouth ...。あぁ,やっぱり…。

 

 前回のブログ記事で,映画『九人の翻訳家』についての感想を書いたが,そう言えば,以前Yahoo!ブログに山岡洋一氏の書物に即して翻訳の文体についての記事を書いたことを思い出したので,その記事を再掲載してみた。(映画とはまったく関係のないことだが…)。山岡洋一氏は,私が経済学部の学生であった頃に読んだことのあるアダム・スミスの『国富論』やJ.S.ミルの『自由論』のような社会科学系の古典の翻訳もされているが,それは比較的最近のことで,私がそれらの書物を読んだ若い頃には山岡訳は出版されていなかった。因みに,『自由論』(On Liberty)は当時英語で読んだこともあるが,すごく難しい英文で自分の英語力の未熟さを思い知らされた記憶がある。

 

 

(以下は,以前Yahoo!ブログにアップした記事である。)

 

最近,翻訳である本を読んでいるのだが,話の内容は面白いのに,どうも読みづらい。原文を見ていないのでなんとも言えないが,翻訳の文体が自分の趣味に合っていないのではないかと思ってきた。そんなことを考えていたら,ずいぶん以前に読んだ翻訳に関して書かれた本の一節を思い出した。山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ)である。この本の中で,ポーの『モルグ街の殺人事件』の同じ箇所を訳した3つの翻訳を紹介している箇所があり,原文は同じでもずいぶん異なった印象を受けるものだと思った。(いずれも著名な人物による翻訳なので,興味のある方は比べてみてください。)

 

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 とうとう私がその都会にいる間は二人が一緒に住もうということになった。そして私の暮らし向きの方が彼よりは幾分窮迫していなかったので,どんな迷信か別に我々は尋ねなかったが,とにかく迷信のために永い間住む人のなかった,フォーブル・サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにあって今にも崩れそうになっている,ある古びた奇怪な邸の家賃を出し,また二人に共通な気質であるやや空想的な憂鬱にふさわしいような風に家具を備え付ける費用を,私の方が受け持つことになった。

 

 そこで最後に,僕たちは,僕のパリ滞在中,いっそ同居しようということになり,幸い,経済状態の点では,僕の方が,いくらか彼よりもましだというところから,ちょうどフォーブル・サン・ジェルマンの一郭,奥まって,ひどくうらさびれた界隈に,なんでも迷信のため,すっかり長く住み棄てられ,今ではもう危うく倒れそうになっている,古ぼけた異様な邸が,一軒見つかったのを,もとより迷信などは僕たちは問うところではない,早速,彼の了解をえて,僕が借り,さらにわれわれ二人に共通な,あのむしろ奇怪ともいうべき沈鬱さ,それにふさわしいように,家具調度類などを,買い整えることにした。

 

 そこでとうとうおれがパリイに滞留している間,この男が一しょに住ってくれることになった。二人の中ではおれの方が比較的融通が利くので,家賃はおれが払うことにして妙な家を借りた。それはフォオブル・サン・ジェルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなって,次第に荒れていくばかりの家である。なんでもこの家については,ある迷信が伝えられているのだそうだったが,我々は別にそれを穿鑿もしなかった。二人はこの家を借りて,ちょうどそのころの陰気な二人の心持に適するように内部の装飾を施した。

                                                                  (以上,pp.40-41より)

 

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訳者は下に書いておきました。

 

は佐々木直次郎訳。山岡によると,これは昭和の初め頃に翻訳されたとのこと。佐々木直次郎は翻訳家で,『エドガー・アラン・ポー小説全集』などを翻訳。

 

は中野好夫訳。山岡によると,これは戦後すぐの頃に翻訳されたとのこと。中野好夫は英文学者で,『ロミオとジュリエット』,『月と六ペンス』などを翻訳。

 

は森鴎外訳。山岡によると,これは明治の終わりから大正の初めにかけて翻訳されたとのこと。森鴎外は言わずと知れた,明示~大正の文豪。

 

 因みに,私はが一番読みやすいと思いました。