先日,自分の書棚を見るともなく見ていたら三島由紀夫『ぼくの映画をみる尺度』というタイトルの書物が目に留まった。奥付を見ると「昭和55年2月25日 発行」となっている。昭和55年と言えば西暦1980年にあたるが,自分ではこの書物を買った記憶は全くないのである。ただ,ページをパラパラと捲ると自分の字で所々に書き込みがあるので自分の所有物であることが確認できたと同時に興味が湧いてきて(再度?)読んでみることにした。
本の成り立ちは昭和30年代を中心に20年代末から40年代初めにかけて『スクリーン』や『映画芸術』といった映画雑誌や『婦人公論』その他の一般雑誌に掲載された三島の映画評を集めた書物なのだが,昭和31年2月の『スクリーン』に発表された「ぼくの映画をみる尺度 シネマスコープと演劇」という一文が冒頭に掲載されていてなかなか興味深い。
その一文の書き出しを見ると,三島の映画をみる尺度が次のように述べられている。
「私がいい映画だと思うのは,首尾一貫した映画である。当たり前のことである。しかしこれがなかなかない。各部分が均質で,主題がよく納得され,均整美を持ち,その上,力と風格が加われば申し分がない。」
これに続いてこの基準に従っていくつかの映画についての簡単な批評が続くのだが,三島の示している評価を○×で示すと以下のようである。
×「足ながおじさん」(構成に難)
×「青銅の基督」(滝沢の演技が均衡を破っている。)
○「エデンの東」,○「マーディ」(この2作品は上の各要請に答えている。)
○「天井桟敷の人々」(特に理由は述べられていない。)
×「埋れた青春」(上の各要請に万遍なく答えているようでありながら,登場人物が皆薄手である。人間が描かれていない。)
×「恐怖の報酬」(均整美が悉く犠牲に供されている。)
○「裏窓」(恐怖の裏側には,人間生活に対する余裕のあるシニシズムが行き渡っている。)
△「重役室」(いい映画になり損ねた。捨てがたい箇所は随所にあるが,クライマックスにおける主人公の描写に伏線が足らず,そこで均衡が破れて,破綻している。)
この書物で私が最も興味を持ったのはヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』に関する三島の批評だ。三島は「久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう。/この荘重にして暗欝,耽美的にして醜怪,形容を絶するような高度の映画作品を見たあとでは,大ていの映画は歯ごたえのないものになってしまうにちがいない」と絶賛している。私もこの映画は過去何度か観ていて素晴らしい作品だと思うが,この映画に対する三島の批評そのものが絶品なのだ。私などがそれをまとめるとうまく伝わらないと思われるので,いくつかの箇所を引用するに止めておく。
引用①
「この映画だけを見ても,圧倒的な病的政治学のカの下で,むしろ人間性は性的変質者によって代表されているのであり,幼女姦のマーチンも,男色の突撃隊も,その性的変質においてはじめて真に人間的であるのに反して,どこから見ても変質のカケラもない金髪の人間獣アシェンバッハ(このヘルムート・グリームという俳優はすばらしい)の冷徹な「健全さ」が,もっとも悪魔的な機能を果して,ナチスの悪と美と「健康」を代表しているのである。実に怖ろしいものはこちらにあるのだ。」
引用②
「すべてが人間性の冒瀆に飾られたこの終局で,ヴィスコンティは,序景の,直接的暴力によって瞬時に破壊された悲劇の埋め合せを企らむのだ。それがもう少しで諷刺に堕することなく,あくまで正攻法で堂々と押して,しかも感傷や荘重さや英雄主義を注意ぶかく排除し,いわば「みじめさの気高さ」とでもいうべきものをにじみ出させ,表情一つ動かさぬマーチンの最後のナチス的敬礼をすら,一つの節度を以って造型する,…こういう「良い趣味」は,この映画のスタイルの基本である。参列の娼婦やならずものの描写の抑え方を見よ。そこには野卑すらが一つの静謐に参与している。」
引用③
「ヴィスコンティがこの映画で狙ったものが,今さらナチス批判やナチスの非人間性の告発である,ということは疑わしい。二十世紀はナチスを持ち,さらに幸いなことには,ナチスの滅亡を持ったことで,ものしづかな教養体験と楽天的な進歩主義の夢からさめて,人間の獣性と悪と直接的暴力に直面する機会を得たのである。これなしには,人間はもう少しのところで人間性を信じすぎるところだった。古代の悲劇があれほど直截に警告していたところのものに,ナチスがなければ,人々はよもや二十世紀になって対面するとは思っていなかったのである。その無慈悲,その冷血,その犯罪の合法化,その悪の体系化,その死のエステティック,…そこからわれわれは,侮蔑というものの劇化の機縁を得たのだった。」