先日,自分の書棚を見るともなく見ていたら三島由紀夫『ぼくの映画をみる尺度』というタイトルの書物が目に留まった。奥付を見ると「昭和55年2月25日 発行」となっている。昭和55年と言えば西暦1980年にあたるが,自分ではこの書物を買った記憶は全くないのである。ただ,ページをパラパラと捲ると自分の字で所々に書き込みがあるので自分の所有物であることが確認できたと同時に興味が湧いてきて(再度?)読んでみることにした。

 本の成り立ちは昭和30年代を中心に20年代末から40年代初めにかけて『スクリーン』や『映画芸術』といった映画雑誌や『婦人公論』その他の一般雑誌に掲載された三島の映画評を集めた書物なのだが,昭和31年2月の『スクリーン』に発表された「ぼくの映画をみる尺度 シネマスコープと演劇」という一文が冒頭に掲載されていてなかなか興味深い。

 その一文の書き出しを見ると,三島の映画をみる尺度が次のように述べられている。

「私がいい映画だと思うのは,首尾一貫した映画である。当たり前のことである。しかしこれがなかなかない。各部分が均質で,主題がよく納得され,均整美を持ち,その上,力と風格が加われば申し分がない。」

 これに続いてこの基準に従っていくつかの映画についての簡単な批評が続くのだが,三島の示している評価を○×で示すと以下のようである。

×「足ながおじさん」(構成に難)

×「青銅の基督」(滝沢の演技が均衡を破っている。)

○「エデンの東」,○「マーディ」(この2作品は上の各要請に答えている。)

○「天井桟敷の人々」(特に理由は述べられていない。)

×「埋れた青春」(上の各要請に万遍なく答えているようでありながら,登場人物が皆薄手である。人間が描かれていない。)

×「恐怖の報酬」(均整美が悉く犠牲に供されている。)

○「裏窓」(恐怖の裏側には,人間生活に対する余裕のあるシニシズムが行き渡っている。)

△「重役室」(いい映画になり損ねた。捨てがたい箇所は随所にあるが,クライマックスにおける主人公の描写に伏線が足らず,そこで均衡が破れて,破綻している。)

 

 この書物で私が最も興味を持ったのはヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』に関する三島の批評だ。三島は「久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう。/この荘重にして暗欝,耽美的にして醜怪,形容を絶するような高度の映画作品を見たあとでは,大ていの映画は歯ごたえのないものになってしまうにちがいない」と絶賛している。私もこの映画は過去何度か観ていて素晴らしい作品だと思うが,この映画に対する三島の批評そのものが絶品なのだ。私などがそれをまとめるとうまく伝わらないと思われるので,いくつかの箇所を引用するに止めておく。

 

引用①

「この映画だけを見ても,圧倒的な病的政治学のカの下で,むしろ人間性は性的変質者によって代表されているのであり,幼女姦のマーチンも,男色の突撃隊も,その性的変質においてはじめて真に人間的であるのに反して,どこから見ても変質のカケラもない金髪の人間獣アシェンバッハ(このヘルムート・グリームという俳優はすばらしい)の冷徹な「健全さ」が,もっとも悪魔的な機能を果して,ナチスの悪と美と「健康」を代表しているのである。実に怖ろしいものはこちらにあるのだ。」

 

引用②          

「すべてが人間性の冒瀆に飾られたこの終局で,ヴィスコンティは,序景の,直接的暴力によって瞬時に破壊された悲劇の埋め合せを企らむのだ。それがもう少しで諷刺に堕することなく,あくまで正攻法で堂々と押して,しかも感傷や荘重さや英雄主義を注意ぶかく排除し,いわば「みじめさの気高さ」とでもいうべきものをにじみ出させ,表情一つ動かさぬマーチンの最後のナチス的敬礼をすら,一つの節度を以って造型する,…こういう「良い趣味」は,この映画のスタイルの基本である。参列の娼婦やならずものの描写の抑え方を見よ。そこには野卑すらが一つの静謐に参与している。」

 

引用③                                                

「ヴィスコンティがこの映画で狙ったものが,今さらナチス批判やナチスの非人間性の告発である,ということは疑わしい。二十世紀はナチスを持ち,さらに幸いなことには,ナチスの滅亡を持ったことで,ものしづかな教養体験と楽天的な進歩主義の夢からさめて,人間の獣性と悪と直接的暴力に直面する機会を得たのである。これなしには,人間はもう少しのところで人間性を信じすぎるところだった。古代の悲劇があれほど直截に警告していたところのものに,ナチスがなければ,人々はよもや二十世紀になって対面するとは思っていなかったのである。その無慈悲,その冷血,その犯罪の合法化,その悪の体系化,その死のエステティック,…そこからわれわれは,侮蔑というものの劇化の機縁を得たのだった。」

 

 

 

監督:松本優作

キャスト

 東出昌大(金子勇)

 三浦貴大(壇俊光)

 渡辺いっけい(北村文哉)

 吹越満(秋田真志)

 吉岡秀隆(仙波敏郎)

 

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ファイル共有ソフト「Winny」の開発者が逮捕され,著作権法違反ほう助の罪に問われた裁判で無罪を勝ち取った一連の事件を,東出昌大主演,「ぜんぶ,ボクのせい」の松本優作監督のメガホンで映画化。

 

2002年,データのやりとりが簡単にできるファイル共有ソフト「Winny」を開発した金子勇は,その試用版をインターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」に公開する。公開後,瞬く間にシェアを伸ばすが,その裏では大量の映画やゲーム,音楽などが違法アップロードされ,次第に社会問題へ発展していく。違法コピーした者たちが逮捕される中,開発者の金子も著作権法違反ほう助の容疑で2004年に逮捕されてしまう。金子の弁護を引き受けることとなった弁護士・壇俊光は,金子と共に警察の逮捕の不当性を裁判で主張するが,第一審では有罪判決を下されてしまい…。

 

金子役を東出,壇弁護士役を三浦貴大がそれぞれ演じるほか,吉岡秀隆,吹越満らが脇を固める。(「映画.com」より)

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 ファイル共有ソフトWinnyを開発・公開したことで,著作権法違反幇助罪で逮捕・起訴され,7年半に渡る裁判を戦い2011年12月に最高裁で無罪を勝ち取った天才プログラマー金子勇の裁判を描いた映画。つまり,実話に基づく映画である。

 この事件が報じられた当時,私はWinnyの技術がどのようなものであり,P2Pがいかに画期的な技術であるのかということをよく知らなかった。今回少し調べてみて分かったのは,金子が7年半の間プログラミングの作業ができなかったことで我が国のIT 技術の進歩が外国に大きく後れをとったと言われていて,彼がいかに優秀なプログラマーであったかということである。もちろん,それを知らなくても映画の鑑賞には支障はない。したがって,ここではそういったことは脇に置いて映画としての内容についての感想を書くことにする。

 

 映画は金子が逮捕・起訴され一審で有罪になるまでを描いているのだが,裁判で争われたポイントは「他人の著作物を無断でコピーすることは著作権法違反であり罰せられるのは当然だが,そのための技術を開発して公開した者までもが著作権法違反幇助としてその罪を問われるべきなのか」ということである。金子の邪念のない技術開発の精神に共鳴して彼の弁護に全身全霊を傾けるのが弁護士の壇俊光である。この問題についての彼のスタンスは,例えば刃物が凶器として使われたとしても,それを作った職人が罪に問われるわけではないということだ。したがって,裁判はWinnyを製作した金子の製作意図を巡って争われることになる。しかし,この点で弁護側は不利な立場に置かれることになるのだ。それは,金子が警察の取り調べの中で警察官に誘導されて申述書を書くのだが,警察官が作った作文をそのまま写すようにと言われ,なんの疑いもなく「著作権侵害を満えん(金子は「蔓延」という文字を誤って記述している)させるためにWinnyを作りました」と書いてしまっているからである。もっとも,裁判では敏腕弁護士の秋田真志がその点について証人として出廷した警察官のウソを見事に暴き立てるのであるが…。

 映画を通じて描き出される金子勇の人物像は申述書の件でも分かるように,元来まったくのオタク気質でプログラミングについては天才的だが,非常に天真爛漫な人で社会常識にはとても疎い人物というイメージなのだ。その金子勇役を演じた東出昌大だが,体重を18kg増やして臨んだ演技がじつに見事で金子勇が乗り移ったのかと思わせるほどであった。演技という点で言えば,社会的感覚のズレている金子に少しやきもきしながらも必死に彼を支える弁護士の壇俊光役を演じた三浦貴大の演技もその思いを十分に観客に伝えるものがあったし,論理的に検察側の証人を追いつめていく秋田真志役の吹越満の安定した演技も印象に残った。

 このように,俳優陣の演技は申し分がないのだが,本作は映画としてのインパクトに欠ける面があり,その点が残念ではある。それはおそらくいろいろなものを詰め込みすぎたために,焦点がやや曖昧になってしまったためであろう。つまり,この映画は金子勇という人物を描きたいのか,Winny裁判の裁判劇なのか,警察の捜査のあり方を糾弾しているのか,金子と壇の友情を描いているのか…。おそらくそのどれをも描いているのだろうが,いずれもが中途半端な結果に終わってしまっているのだ。特に,平行して描かれる愛媛県警の裏金問題はWinny裁判と全く無関係ではないにしても,警察の腐敗を描くために挿入されている感があり,映画の焦点を却って曖昧にする結果になっているように思われた。

 

監督:ジェームズ・ヴァンダービルト

キャスト

 ケイト・ブランシェット(メアリー・メイプス)

 ロバート・レッドフォード (ダン・ラザー)

 デニス・クエイド(ロジャー・チャールズ中佐)

 エリザベス・モス(ルーシー・スコット)

 トファー・グレイス(マイク・スミス)

 

映画「ニュースの真相」は2004年のアメリカ大統領選の最中にCBSのスタッフが犯した「ラザーゲート事件」を扱った映画だ。したがって,実話に基づいた話であり,また当事者であったメアリー・メイプスの自伝を元に作成された映画なので,これをどの観点から見るかによって映画に対する評価も大きく変わってくるのではないだろうか。この映画は再鑑賞なのだが,再鑑賞した理由は近年我が国でもいろいろと問題になるメディアの報道の姿勢についてこの映画は一つの重要な視点を提供していると思われるからである。

 

(ほぼ完全なネタバレです。閲覧にはご注意を)

 再選を目指すジョージ・W・ブッシュ(共和党)とジョン・ケリー(民主党)の争いになった2004年のアメリカ大統領選挙。アメリカ最大手放送局CBSの看板番組「60ミニッツ」のスタッフがブッシュ大統領に軍歴詐称があるのではないかという疑いを持つ。具体的には,1968年,ブッシュがベトナム戦争への従軍を逃れるためにコネを利用して不正にテキサス州の空軍州兵に入隊したのではないかということと,その後の勤務実態にも疑わしい点があるということだ。「60ミニッツ」はダン・ラザーがアンカーマンを務める人気番組なのだが,プロデユーサーのメアリー・メイプスを中心として,ベトナム帰還兵のロジャー・チャールズ中佐,大学教授のルーシー・スコット,ウェッブ版ピープル誌の遊軍記者マイク・スミスの4人でチームが組まれ,ブッシュの軍歴詐称の証拠固めを始める。彼らは,リンダ・スターが運営する反ブッシュのサイトから,情報源としてビル・バーケットを探し当て,ブッシュが無許可離隊をしたことやブッシュが飛行停止処分になったことを記した文書のコピーを手に入れる。その文書にはブッシュの評価者として,すでに故人になっている「キリアン」の署名がある。ビルはその文書の入手先は言えないとしながら,結局,それはジョージ・コンであると話す。彼らは4人の文書鑑定専門家に依頼して,その文書が偽造ではないことをほぼ確信する。さらに,彼らは,バーンズがブッシュをコネで入隊させたと話している動画を入手し,バーンズの証言を取り付けるとともに,文書の内容を裏付ける人物として,キリアンの上司であったホッジス将軍に文書の内容を事実だと認めさせるのである。このような経緯を経て「60ミニッツ」はブッシュの軍歴詐称という大スクープを報道する。この報道は全米を震撼させるが,その数時間後,保守派のサイトから,キリアン文書にはタイプライターを使用していた1970年代にはなかった肩文字が使用されており,したがって,それはワードで作成された文書であることを示すものであって,キリアン文書は偽造されたものであるという指摘がなされ,ブッシュの軍歴詐称疑惑報道は思わぬ方向へと展開していくのである。

 映画はこの後,メアリーたちが必死になって当時の公文書から肩文字のthを見つけ出して反論するが,証言者たちが次々に自分の証言を翻すことによってCBSと「60ミニッツ」が追い詰められていく過程を描き出す。そして,CBSも会社を守るために独立調査委員会に依頼して番組の制作過程を調査する。メアリーに対する調査委員会の査問のシーンは見応えもあるが,結局,ダン・ラザーは「60ミニッツ」のアンカーを降板し,メアリーは解雇され,その他報道に関わった人間は全員CBSを去るのである。

 

 この映画はどのように評価すればよいのだろうか。たしかに,映画の後半は,メアリーやダンがジャーナリストとしての矜恃を失うことなく大バッシングの嵐や保身に走るCBSに立ち向かっていく様子やメアリーを励まし支えてくれる夫の姿,さらにはメアリーの父親との確執などにも触れており,それがケイト・ブランシェットの相変わらず安定した演技と相俟って感動的な仕上がりになってはいる。この作品がメアリー・メイプスの自伝に基づいているということを考えるならば,制作意図はおそらく独立調査委員会におけるメアリーの次のようなセリフにあるのだろう。

「異常なほど騒いで,すべてが終わったときには主旨が何だったかを思い出せない。」つまり,自分たちは過ちを犯したが,それによってブッシュの軍歴詐称疑惑がなくなったわけではないのだということである。たしかにその通りなのかもしれない。実際,独立調査委員会の席上でメアリーが言ったように,これは用意周到に仕組まれたワナだった可能性も捨て去ることはできないだろう。全ては「藪の中」なのだ。しかし,どこかに違和感が残るのだ。それは,映画のテーマが彼らは若干の過ちを犯したが,ジャーナリストとしての奮闘振りは称えられるべきであるという点に流れすぎている点にあるように思われるからである。ダンが「60ミニッツ」の最後の回の終わりに言った言葉 "courage"は,その点でうまい演出で思わずホロッとさせられるシーンではあるが…。

 

 報道に携わる人たちにとってこの映画が「事実上」投げかけている問題は,自分たちが報道する記事は100パーセント裏取りがなされていない限り報道するべきではないということなのか,それとも若干の曖昧な部分はあるにしても報道するべきことは存在するのではないかということである。つまり,報道のあり方を巡る問題である。その観点からこの映画を検証してみたい。

 まず,前半のブッシュの軍歴詐称疑惑を追及するプロセスであるが,やはり,メアリーたちの詰めは甘いと言われても仕方がないであろう。キリアン文書を鑑定した4人の専門家の中でエミリーは肩文字の存在を指摘していたにもかかわらず,メアリーは自分たちにとって有利な鑑定をしたマトリーの指摘をまったく疑うことをしなかったし,放送局の事情によるものであるとは言え,非常に短期間のうちに見切り発車的に(と,私には見えた)ゴーサインを出してしまった。そこには,ブッシュ大統領の軍歴詐称を報道すべきであるというジャーナリストとしての矜恃と同時にスクープをものにしたいというジャーナリストとしての野心も感じられるのである。もちろん,企業の報道姿勢が問われるべきであることは言うまでもないが,あまりにも軽率な姿勢であるということは否めないのである。この事件の結果がその後の報道姿勢に対してある種の萎縮効果を持ったのかどうかは定かではないが,もしそうだとすればその罪は大きいと言わなければならないだろう。

 映画としてはかなり上質な作品であることに変わりはないが,同時に非常に難しい問題を残した作品であることも確かである。もっとも,最近ではジャニーズの性加害問題や統一教会の問題など,海外メディアによる報道や首相が暗殺されるというショッキングな出来事を通じてしか重要な問題が報道されることがない我が国のメディアが「60ミニッツ」のレベルに達していないことは言うまでもないが…。

 

(「Yahoo!ブログ」に掲載したレビューに大幅に加筆修正しました。)

 

監督:入江悠

キャスト

 河合優実(香川杏)

 佐藤二朗(多々羅保)

 稲垣吾郎(桐野達樹)

 河井青葉(香川春海)

 広岡由里子(香川恵美子)

 

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「SR サイタマノラッパー」「AI崩壊」の入江悠が監督・脚本を手がけ,ある少女の人生をつづった2020年6月の新聞記事に着想を得て撮りあげた人間ドラマ。

 

「少女は卒業しない」の河合優実が杏役で主演を務め,杏を救おうとする型破りな刑事・多々羅を佐藤二朗,正義感と友情に揺れるジャーナリスト・桐野を稲垣吾郎が演じた。(「映画.com」より)

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 以前から気になっていた『あんのこと』を観た。映画の公式ホームページのキャッチフレーズには「『少女の壮絶な人生を綴った新聞記事』を基に描く衝撃の人間ドラマ」とあるが,ほぼ想像していたとおりの作品だった。私は映画を観ながら2014年に刊行された鈴木大介の渾身のルポ『最貧困女子』(幻冬舎新書)の内容を思い出していた。同書で鈴木は年越し派遣村などを率いた湯浅誠の「貧困と貧乏は違う」という発言に即して次のように述べている。

「貧乏とは,単に低所得であること。低所得であっても,家族や地域との関係性が良好で,助け合いつつワイワイやっていれば,決して不幸ではない。一方で貧困とは,低所得は当然のこととして,家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い,もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても,貧困で幸せな人はいない。」(p.49)

 そして,鈴木は貧困女子の中でもセックスワークに吸収されていく最貧困女子にルポライターとして関わっていく中で,彼女たちに共通していることとして「三つの無縁」ということを挙げる。「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」ということだ。「家族の無縁」とは困ったときに支援してくれる親や親族の不在であるが,支援どころか親からの虐待を受けているケースも多いのだ。「地域の無縁」とは友だちの不在だが,要するに苦しいときに相談したり助力を求めることができる人間の不在である。「制度の無縁」とは社会保障制度の不整備であるが,最貧困女子の場合,たとえそのような制度があったとしても自力で行政手続きができないということもあるように思われる。

 

 

 「お金がなかったから毎日スーパーを順番に回って万引きをしていました。それが学校にバレて噂が広がって小学校には行かなくなりました。売り(売春)をやったのは12の時で,相手は母親の紹介でした。…覚醒剤は16の時にヤクザみたいな男からススメられて,警察には捕まらなくて止めるきっかけもなかったしそのままズルズル使って…」

21歳のとき覚醒剤使用で逮捕され,自分を逮捕した多々羅刑事の計らいで更生施設に入った香川杏(あん)が自分の半生を語るシーンのセリフである。

 

 杏の母親は杏が幼いときから彼女を暴力で支配し,売春までさせるような女であり,杏は小学校も卒業せずに売春で生活費を稼ぎ,覚醒剤を常用するようになり,21歳で逮捕されるのである。鈴木大介の言う「三つの無縁」の中で成人した女性だ。

映画は杏を逮捕した多々羅刑事の計らいで覚醒剤の更生施設に入り,多々羅の友人のジャーナリスト・桐野の助けを借りて新たな仕事や住まいを見つけ,更生の道を歩む杏の姿を追う。杏にとって必要なこと,それは母親によって閉ざされた世界の扉を開けてその中に入っていくことであり,鈴木大介の言う「地域の無縁」から脱することである。多々羅は杏の人生にとって初めて出会った信頼できる人間だったのだろう。自分を庇護してくれる他者とのつながり,そこに杏は人生で初めて希望を見いだすことができたようであった。漢字のドリルで漢字の練習をし,簡単な数字の計算を覚え,ボランティアで勉強を教えてくれる教室に通うようになる。しかし,多々羅の裏切り…。

 私が監督の意図を特に感じたのは杏と同じシェルターで暮らしている女性に訳も分からず無理やり押しつけられた幼い男の子を母親のように甲斐甲斐しく世話をするシーンである。ここでは杏は男の子の庇護者の立場になるのであるが,おそらくそこにあるのは杏がそれまでの人生で持つことのなかった感情…,他者への愛情の芽生えであった。このエピソードが実話に基づいているのかフィクションなのかは知る由もないが,監督のメッセージは強烈に伝わってきた。それはやはり「つながり」ということである。そして,その「つながり」が強制的に奪われたとき杏にはこの世界で生きていくことがあまりにも過酷なものでしかなくなったのだ。杏がベランダから飛び降りることを示唆するドアのカチャンという金属音に続いて映る机の上の漢字ドリルがあまりにも悲しい。

 

 この映画はたしかに格差社会の現実を扱ってはいるが,入江悠監督の視線は格差社会の歪みを声高に訴えることにはない。入江監督は徹底して杏に寄り添い,杏の目を通して現実を見つめる。その想いは十分に伝わってきた。それは人が生きるのに本当に必要なことは他者とのつながりの中にあるということだ。鈴木大介の言う「三つの無縁」。それはとりもなおさず「孤立」ということだ。「孤立」と「孤独」は違う。私は自分の人生を振り返ったとき,孤独だと思ったことはよくあるし現在でもそういう想いは持っているが,孤立していると思ったことは一度もない。だから本当の孤立感というものがどういうものかという実感はないが,この映画には孤立の扉を開け,そこから抜け出ようとする女性の努力とそれが踏みにじられてしまう現実を伝えるだけの迫力があった。その点でこの作品は成功と言ってよいだろう。

 

 映画作りという観点からこの作品について述べておきたい。まず杏を演じた河合優実の演技に圧倒された。役作りに対する彼女の並々ならぬ決意を感じる。また,杏の母親役の河井青葉の毒親ぶりにも目を見張らされた。一方,ストーリー展開上で荒削りな部分が目に付いたのも事実である。特に多々羅の裏切りについて,これが杏の目にどのように映っているのかという点に関してイマイチ描き切れていないように思われたのだが,その原因は多々羅の人物造形の浅さにあるように思われる。この点はとても大切な箇所なのでもっと丁寧な描き方が求められるところである。また,杏が亡くなったあとの多々羅と桐野の拘置所での会話とか,杏に子供を押しつけた母親がエンディングで話すセリフなどは全くの蛇足でしかないだろう。この辺りはストーリー展開になんとか落し所をつけなければということから来ているのだろうが,昨今の邦画のセンスの悪さを引きずっているとしか思えなかった。しかし,この作品に関してはそれらの点を過度にあげつらうことは控えることにしたい。とにかく,私たち普通の市民にとっては不可視の問題を可視化したことの意味のほうがはるかに大きいのだから。

監督:内田けんじ

キャスト

 中村靖日(宮田武)

 霧島れいか(桑田真紀)

 山中聡(神田勇介)

 山下規介(浅井志信)

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典型的なお人好しの冴えないサラリーマン宮田武は,結婚を前提にマンションを購入した矢先,肝心の恋人あゆみに突然去られてしまう。ある晩彼は,親友で私立探偵の神田に呼び出され,とあるレストランへと向かう。神田はいつまでも前の彼女を忘れられない宮田を叱咤すると,その場で宮田のためにと女の子をナンパしてみせる。一人で食事していたその女,真紀はちょうど婚約者と別れ今夜の泊まる家もなく途方に暮れているところだった。そこで宮田は自分の家に泊まるようすすめ,2人で帰宅する。ところがそこへ,置きっぱなしの荷物を取りに来た,とあゆみが突然現われた…。(「Filmarks」より)

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 昨日,ネットを見ていたら少し古い記事になるが,今年の7月10日に俳優の中村靖日さんが急性心不全で死去されたというニュースが目についた。中村靖日さんと言えば以前内田けんじ監督の『運命じゃない人』を見て地味だけれどいい役者だなと思った記憶があり,この映画も細部は忘れているがなかなか面白かったので,追悼の意味をかねて再鑑賞した。

 

 ブログを始める以前は観た映画についての一口メモをEXCELに残していたので,そのファイルを検索すると,この映画は2014年9月16日に鑑賞していた。偶然にもちょうど10年前のことである。一口メモの欄を見ると,「ジグソーパズルのピースを当てはめていくどんでん返しは,なかなか面白い。同じ時間軸をいろいろな人物の視点から回収していく脚本は見事」という感想を残していたが,今回再鑑賞しても全く同じ感想である。今回の鑑賞で意外だったのは,真紀という名のちょっとダサい女性の役で出演していたのが若い頃の霧島れいかだったことで,『ドライブ・マイ・カー』の大人の女性の雰囲気とは全く印象が違っていて,映画が終わるまで霧島れいかとはまったく気がつかなかった。この作品はストーリーが実に緻密に計算されていて,ごく小さなエピソードについてもその理由などがきちんと回収されており,脚本の手堅さには感心するところが多々あった。